No.259 言の葉_Words
本日の言葉
From possession need is born. From non-attachment, satisfaction. Kalu Rinpoche
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本日生まれた14曲
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タイトル一覧
5793. 昨日を振り返って
5794. 今朝方の夢
5795. 悪を見極め、悪を保持すること
5793. 昨日を振り返って
今朝の起床はゆったりと午前4時半だった。起床してみると、小鳥たちはもう鳴き声を上げていて、美しい鳴き声で私を迎えてくれた。
創作活動に打ち込む新たな1日が始まったことを嬉しく思う。起床と同時に、その日の創作活動への期待感が生まれ、起床直後の瞑想実践やヨガの実践の最中には、その期待感で包まれている自分がいる。実際にどのような曲を作ろうかということや、どのような絵を描こうかということについて考えている自分がそこにいるのである。
時刻は午前5時半を迎えようとしており、この時間帯になると、空はダークブルーに変わり始め、小鳥たちの鳴き声もより力が入っている。
天気予報を確認すると、今日から1週間は晴れの日が続くようで何よりだ。もちろん、気温は依然として低く、ひょっとするとヒーターをつけなければならない日や湯たんぽを使って寝なければならない日もあるかもしれない。そのような気温がまだ続くが、晴れの日が多くなってきたことはとても喜ばしい。
昨日も雑多なことを考え、印象に残る内的体験があった。それらの考えにせよ体験にせよ、それは自分のもとにやって来た贈り物なのだ。
それを書き留めることにより、世界との繋がりの感覚がより一層増すように思える。また、それを共有することそのものが社会参画を意味しているように思える。
曲を作ってみて初めてわかることがある。絵を描いて初めてわかることがある。そのようなことを昨日思った。
音楽や絵画の単なる鑑賞者ではなく、実際に作り手になって初めて見えてくるもの、聞こえてくるものがある。ある作曲家のある曲の凄さや、ある画家のある絵の凄さなどは、作り手に回ってみればみるだけ体験を通じてそれが理解できる。
作るという内的経験を経ているか否かは観賞の質にも影響するのではないかと思う。今後も曲と絵を作り続け、それが自分の鑑賞体験にどのような影響を及ぼすのか観察していこう。
作曲に関していえば、昨日ふと、インド音楽に改めて関心を持った。以前よりインド音楽には注目しており、長い歴史を持ったインド音楽から得られるものは非常に多いように思う。とりわけ、霊性に関する重要な何かがそこにありそうなのだ。
インドの独特な風土で生まれたインド音楽には何かがある。その何かは霊性に関するものでありそうだということを昨日考えており、来月か再来月に書籍を注文する際には、インド音楽のリズムに関する書籍を購入しようと思った。
偶然にも大変興味深い一冊を見つけ、先日書籍を注文しようとした際に、コロナの影響でアメリカの書店に注文できなかった書籍と合わせてその書籍を購入したい。
昨日の夕方の内的感覚として、夕方、小学校の時の給食の時間に流れていたジブリのピアノ曲が聴こえてきて、思わず懐かしくてその場で聴き入った。それは『魔女の宅急便』の映画で流れていた『海の見える街』という曲だ。
そのピアノ曲を聞いた時、背筋に懐かしさと共に感動のエネルギーが流れた。窓の外をぼんやりと眺めながら、しばらくその感覚を味わっていた。
最後に、昨日は胃腸が休息を欲しているように感じれ、近々また断食をしようと思った。これまでは旅行に出かけ、旅行から戻ってくる都度断食をしていたが、コロナの影響で旅行が随分と延期されてしまい、ここ最近は断食ができていなかった。
もちろん、朝食を食べないという都合上、毎日半日程度の断食を行なっており、それでいて昼も夜も粗食を心がけているから、それほど胃腸への負担はないのだが、それでも毎日食べ物を体に取り入れることによって胃腸が日々働いていることに変わりない。
私たちに休日があるのと同じように、胃腸にも休日が必要なのだ。近々数日程度でいいので短い断食をしよう。フローニンゲン:2020/5/3(日)05:43
5794. 今朝方の夢
時刻は午前5時半を迎えた。少しずつ辺りが明るくなってきている。この時間帯は、空にうっすらとした雲がかかっているが、昨日のような雨雲ではない。これからゆっくりと雲が晴れていき、今日は太陽の姿を拝む時間が長くなりそうだ。
いつものように今朝方の夢を振り返り、そこから創作活動に取り掛かっていきたい。夢の中で私は、見知らぬ学校の校庭の上にいた。そこは砂利のグラウンドで、大学時代の友人や先輩たちと一緒にサッカーをしていた。
ひょんなことから見知らぬ人たちとサッカーの試合をすることになった。相手もこちらも、楽しく試合をするような雰囲気があり、また全員が全員サッカーの経験者というわけではなかったので、比較的和やかな雰囲気で試合が進んでいった。
試合終盤にコーナーキックのチャンスを得る機会がこちらにあった。キッカーは私を目掛けてキックをしてくれたのだが、自分の身長では届かないほどの高さのボールであることがすぐにわかり、私は自分をおとりにして、相手をうまく引き付ける形で、サッカーの上手い先輩をフリーにした。
その方はサークルは違ったのだが、サッカーの経験者であり、社会人になってから知り合うことになったサッカーの上手い先輩である。その先輩は190cmほどの大柄なのだが、足下の技術も高く、その先輩をフリーにすることによって得点が奪えると思った。
すると、ボールはその先輩の足元に行き、ゴール前の混戦で相手を2人ほどかわしてシュートを放ち、見事にゴールが決まった。先輩と私は喜び合い、そこで夢の場面が変わった。
次の夢の場面では、私はその先輩と一緒に学校の教室の中にいた。そこには見知らぬ外国人が何人かいて、彼らは日本国籍ではないのだが、日本の中高一貫校に通っていたようだ。
その先輩は神奈川の名門校に通っていて、中高一貫校には詳しかった。先輩がその場にいた外国人の1人に話しかけると、その外国人は私が知らないような高校名を述べたのだが、その先輩はその学校は西の名門校であることを述べた。
私も一通りの中高一貫校を知っているのだが、その外国人が述べたカタカナの高校名は自分の頭の中の引き出しになかった。そのようなやり取りをした後に、教室に見知らぬ先生が入ってきて、授業が始まった。
私は一番前の席で授業を受けていたが、後ろの人が自分の頭で黒板が見えにくくないかを確認し、見えづらそうだったので、私は一番右の列の前から2番目の席に腰掛けた。
その列には誰も座っておらず、私はその列の2番目に座るのがいいだろうと思ったのである。そこで夢の場面が変わった。
最後の夢の場面では、私は再びグラウンドの上にいた。先ほどと同じ学校の砂利のグラウンドの上にいた。そこで私は、一昔前の日本代表の選手たちとサッカーの練習をしていた。
今でも現役で活躍しているある有名な選手が私に話しかけてくれ、足元の技術と視野の広さに見込みがあると褒めてもらい、その調子で練習を続けていけば、世界でもやっていけそうだと言われた。世界でやっていくために、英語かオランダ語を学ぶと良いと言われ、すでに英語なら話せると伝えると、そこからはその選手と英語で会話をすることになった。
するとその選手が発した、「英国のクイーンはクールか?」という質問が、「英国のクリはクールか?」に聞こえ、一瞬困惑しながらも、思わず笑ってしまった。私は笑いながら、どちらの質問に対しても十分な回答ができることをその選手に英語で伝えた。そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2020/5/3(日)06:00
5795. 悪を見極め、悪を保持すること
優しげな夕日がフローニンゲンの街に降り注いでいる。そよ風が新緑の葉を揺らし、時がゆっくりと流れている。日曜日もゆっくりと終わりに近づき、明日からはまた新たな週を迎える。
今日も雑多なことを考えていたような気がする。「発達の商品化」の問題や人間存在に内在する善悪について考えていた。
その折、人間の腸は、善玉菌だけではなく、悪玉菌と日和見菌によって調和の取れた生態系が維持されているように、自分の心的世界の中でも悪玉菌を排除してはならないのではないかという考えが芽生えた。
もちろん、悪に飲まれるのではなく、必要な悪を見極め、それを自分の内側に保持し続けておくのである。その見極めは難しく、またその保持も難しいことは百も承知であるが、内側に悪があってこそ心的世界が調和の取れたものになるのではないかという気がしている。
自分の内側から悪を抜き去ってしまったらどうなるのであろうか。腸と同様に、心の生態系が崩れてしまうのではないかと思われる。
現代社会は、悪を見極める慧眼を持ち合わせておらず、それでいて悪を排除しようとする。結果、必要な悪は死滅し、逆に不必要な悪が蔓延るような本末転倒の形になっているように思えてくる。
悪を忌み嫌い、悪を排除しようとする精神的潔癖主義の進行は、この現代社会の特徴の一つかと思われる。そのようなことをふと考えていた。
今日は正午過ぎにオンラインミーティングを行い、その後仮眠を取った。仮眠の最中、不思議なビジョンを知覚していた。
自分の存在が地図上にマップされ、そこが光るというものだった。私は自分の存在が目立つことを避けようとしており、地図上に表示されることを嫌がっているようだった。
誰かが自分のそばにいて、私はその人に冗談を交えて、地図上の世界から逃れたいということを伝えた。そのようなビジョンを見ていた。それを今でも覚えている。
早朝、書斎の窓辺にたたずみ、庭の木で休んでいた可愛らしいスズメの様子を観察していた。彼らの動く様子を観察し、彼らが何を考えているのかを理解したいと思いながら眺めていた。
彼らの生きる物語の中に入り、彼らの生きる物語を内側から理解したかった。そのような形で小鳥たちを眺めていると、昨年の夏、旅行から戻ってきた帰りの列車に乗っている途中で、暑さのためにそこからの線路が脱線し、列車が途中駅で止まるという事態に遭遇したことを思い出した。
駅で立ち往生している際に、乗客たちと話をしていると、その中に偶然ながらフローニンゲン大学の教授がいて、彼と少し話をしていた。彼はチュニジアにバードウォッチングに行っていたらしく、書斎の外の小鳥たちを眺めながら、その教授の話を懐かしく思い出した。
目の前の現実世界と記憶の世界が行き交い、新たな考えや感覚が生まれてくる。そしてそれはまた新たな記憶となっていく。日々は過去の記憶の連続過程の中にあり、同時に新たな記憶の生成過程の中にあるとも言える。
その他に今日はどのようなことを考えていただろうか。それらを挙げればキリが無い。
そういえば、今日の作曲実践の中で、シューベルトの曲を参考にしていた時、面白いリズムの曲を見つけた。ちょうど昨日、インド音楽のリズムに関する専門書をチェックしていて、それを書籍購入リストの中に入れていた。
やはりその書籍を購入し、リズムに対する感性をより育んでいこうと思った。自分の内側の音楽的身体感覚を養いながら、それと同時に、面白いリズムの曲を詳細に分析していこうと思う。そのようなことも考えていた。フローニンゲン:2020/5/3(日)19:29