top of page

5761-5763: アートの国オランダからの便り 2020年4月22日(水)


No.140 どこかのアベニュー_An Avenue

本日の言葉

Your own mind is the cause of happiness; your own mind is the cause of suffering. Lama Zopa Rinpoche

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(9点:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた15曲

本日生まれた曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

本日生まれた曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

5761. 毎日毎瞬の記念撮影としての創作活動

5762. 今朝方の夢

5763. 内的感覚を通じた自他理解

5761. 毎日毎瞬の記念撮影としての創作活動

時刻はもう間も無く午前5時半を迎えようとしている。今朝は夢の終わりに小鳥たちの鳴き声が聞こえてきて、彼らの鳴き声を聞く形で目覚めた。

フローニンゲンの朝に響く小鳥たちの鳴き声は、いつもとても優しく、心が洗われる。そうした彼らの鳴き声を聞きながら目覚めたのは、午前4時半過ぎであった。

いつものように目覚めはすこぶる良く、今日もまた創作活動に打ち込めることが意識に上ると、嬉しさの感情が込み上げきた。それと同時に、感謝の気持ちも湧き上がってきた。今日もまた創作活動に大いに励んでいこう。

今日もまた絵を描き、曲を作る。絵に関して言えば、何か具体的なものを描くというよりも、心に浮かんだ心的模様を絵に表現していく。内側の世界には、自分でも驚いてしまうぐらいに多様な色や形が存在していて、私はそれらを絵として表現したいと思う。

自分の内側にそうした色や形が姿を見せていたということ。それらとの出会いを記録するかのように絵にしていく。

そう考えてみると、1つ1つの絵は、自分の内側に立ち現れた色や形の記念撮影と言えるかもしれない。これは音に関しても同じなのだと思う。

1つ1つの曲は、心的空間に立ち現れる音の流れを記念撮影したものなのだ。そしてもちろん、今このようにして綴っている日記も、まさにそれは言葉を通じた記念撮影に他ならない。

なるほど、言葉·音·絵を通じた日記を書いていくだけではなく、それらを通じた記念撮影を毎日毎瞬行っていこう。そのようなことを改めて思う。

自分の内的感覚が赴くままに曲を作り、筆の赴くままに描きたいものを描く。心の中に湧き上がってくる目には見えないものを音にし、絵にしていく。心的世界さらには魂的世界の色模様·音模様を表現していこう。

日々作曲や絵の創作を行っていると、「心模様(こころもよう)」と「魂模様(こんもよう)」と呼べるようなものが紛れもなく存在していることに気づく。今日もまた、そうした内的模様を形にしていこう。

音日記を綴るということで、随分とご無沙汰していたが、作った曲の楽譜に何か一言二言コメントを残そうかと思い、数日前から簡単なコメントを残すようになった。それはいずれもたわいのないものだが、一言でもいいので何かコメントを残しておくと、後々思わぬ形で自己発見につながるかもしれないと思った。

絵に関しては最初からコメントを付しており、それが将来何かにつながってくるのではないかという感覚がある。音や絵に対して言葉を添えるような感覚でコメントを付していこう。

フローニンゲンの夜がゆっくりと明けようとしている。空はダークブルーに変わり始めている。

昨日と同様に、朝方は肌寒く、風も少々ある。今日明日の日中は、20度に到達するようなので、随分と暖かくなるだろう。

昨日購入した椎茸を天日干しするにはもってこいの天気のようであり、今日も午後に日光浴を少し楽しもうかと思う。

1日が期待と楽しみの感情によって始まる。私は毎朝そのような形で1日を始めている。明日も、そのまた次の明日もそのように1日を始めるだろう。フローニンゲン:2020/4/22(水)05:44

5762. 今朝方の夢

時刻は午前6時に近づきつつある。今、ゆっくりと夜が明けようとしている。朝日が拝めるのはもう少し後になるだろう。

今日もまた、神々しい朝日が天から降り注いできて、それが赤レンガの家々に幻想反射するのを楽しみにしている。赤と黄色は相性が良いのか、朝日に照らされた赤レンガの家々は、幾分幻想的であり、それを眺めていると、恍惚的な感情が芽生える。

今日は昼前に1件ほど協働プロジェクト関係のオンラインミーティングがある。そこでは、今年の秋に一時帰国した際の計画などについて話し合うことになるだろう。

今年は福井県や石川県に足を運ぶ予定であり、協働者の方々と一緒に高野山に宿泊することも計画としてある。今年は東京に足を運ぶことは計画になかったが、他の協働者の方と少し話をしており、もしかしたら数日間東京にひっそりと滞在するかもしれない。

それでは、今日もまた今朝方の夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、日本ではないどこかの国、おそらくは地中海あたりの国の砂浜にいた。

そこで私は、2羽のワシがコミュニケーションを取りながら餌を獲っている姿を眺めていた。1羽のワシはとてもずる賢く、もう1羽のワシを欺くような言葉を述べており、餌をまんまと自分のものにした。

その砂浜のそばには断崖があり、断崖の上空から巨大な網が落ちてきて、2羽のワシだけではなく、私も網の中に入った。すると2羽のワシはすっと消え、網の中には数人の人がいた。大抵は見知らぬ外国人だったが、私の両親もそこにいた。

降ってきたのは網だけではなく、同時に太いロープも降ってきた。どうやらそのロープを辿って上に登っていく必要があるようだった。

どういうわけか、その場にいた全員は、誰が一番早く断崖の上にロープで登って行けるかを競う形で一斉にロープを使って上に登り始めた。私の数メートルほど前に父が登っている姿が見えており、父の位置を確認しながら私もできるだけ早く上に登った。

父も随分と早く登っていたが、結果として私の方が3秒ほど早く上に登りきった。そこで私は、運動に関して言えば、負けるものはもう何もないと父に述べた。すると父は悔しそうな表情を浮かべながらも笑っていた。

そのような夢の場面の前に実はもう1つ別の夢があったことを今思い出した。それは、私がプロの棋士になり、一流の騎士たちと対局をしている場面であった。プロの棋士になったことはなったのだが、それはこれまでの棋士とは全く異なり、私はAIを活用し、対局中にAIを操作しながら将棋をしていた。

タブレット、あるいはスマートフォンのようなものが私のそばにあり、私はそれを用いてAIを操作し、一手一手を選んでいた。以前から棋士として活動している人たちは、私のことを将棋指しだとはみなしておらず、私も自分のことをそのように思っていなかった。というのも、駒の動きぐらいはなんとなく理解しているが、将棋などほとんど指したことがなく、実際に行っているのは対局場でAIを操作しているだけだったからだ。

将棋専用の独自のAIを開発し、それを操作して対局をするという特殊なポジションを日本の将棋界から与えられていたのが夢の中の私だった。するともう1人、同じような役割を担っている人がいた。

風貌からするに、その人のことを私は最初男性だと思っていたが、どうやら若い女性のようだった。その女性は、日本のある有名大学でAIの研究開発をしており、そこでの成果が買われて、私と同じような立場にいるようだった。

彼女がある対局を終え、将棋会館を後にしようとしている姿を見かけ、声をかけてみたところ、彼女は将棋会館にいることが苦痛だと述べた。それだけではなく、AIで将棋を指すことやAIの研究開発そのものも苦痛であると述べていた。

彼女曰く、もっと若い女性がやるようなことをしながら生きたいとのことだった。それを聞いた時、彼女の気持ちがわからないでもなかったが、将棋会館に通っているもっと若い女性、いや女の子はたくさんいるだろうし、AIの研究開発に携わっている若い女性もたくさんいるのになと思った。

彼女は目に涙を浮かべ、少し物寂しげな背中を見せながら私の前から去っていった。最後の夢の場面としては、私はスイスの湖近くの避暑地にいた。そこはここ最近訪れようと思っているアスコナのように思われた。

その街の別荘を知人のアメリカ人が所有しており、私はそこに招かれた。別荘のリビングルームのテーブルを囲む形で10人ほどが談笑を始めた。10人のほとんどが第一線級の学者であり、その中には私が敬愛する若い哲学者もいた。

どういうわけか、そこで資産運用の話になり、私が彼らにどのように資産を築き上げたのかについてレクチャーすることになった。そこではカネの虚構性の論点に触れ、その後、自分はニンテンドーキッズ世代であるから、資産を増やすというゲームはテレビゲームのように容易いことであるという話をし、一応その方法について話をした。だが、仮に資産を増やしたいのであれば、一番重要なことは心の有り様と心の使い方であることを伝えた。

別荘の周りは静かであり、私が最後の一言を述べた後は、少し静寂の時間が漂った。すると、小鳥たちの鳴き声が聞こえてきて目を覚ました。目を覚ますと、寝室の外の世界には、本当に小鳥たちが鳴き声を優しく上げていた。フローニンゲン:2020/4/22(水)06:14

5763. 内的感覚を通じた自他理解

時刻は午後7時を迎えた。今日もまた晴天であり、爽やかな1日だった。

今日は昼前に協働プロジェクト関係のオンラインミーティングがあった。その際に、今年の秋の一時帰国の際の計画について話し合い、今年もまた関西でセミナーを開催することになった。また、協働者の方のご厚意により、協働後、高野山に一緒に滞在させてもらうことになった。

これまで私は一度も高野山に足を運んだことがないため、今からとても楽しみだ。秋の高野山はきっと美しいに違いない。

本日、ギリシャの航空会社からメールがあった。どうやらまたしてもフライトがキャンセルになったようである。

当初予定していたアテネ旅行は3月末であり、そこから5月末に変更したのだが、どうやらまだコロナウイルスの猛威が影響しているようであり、フライトがキャンセルになってしまった。

明日にでも時間を作って航空会社に連絡をし、フライトをまた変更しようと思う。そしてホテルにも連絡をしておこう。

コロナウイルスがいつ収束するのか予想がつかないが、フライトもホテルも1年間ほど延長できるようなので、とりあえずは1ヶ月伸ばし、6月末にアテネに訪れる計画にしようかと思う。

先日、バッハを参考に作曲をしていると、「あぁ、バッハはこういう感覚を持っていたのか」ということに気づいた。ここ最近は、同様のことが他の作曲家を参考にしている時にも起こる。

端的には、作曲家の内的感覚が理解でき始めてきたのである。そして興味深いのは、バッハの曲を通じて自分に固有の感覚を見出しつつあることである。

ひょっとすると、これが他者理解からの自己理解の本質なのかもしれない。他者の内側の感覚を深く理解し始めることが自分に固有の内的感覚の理解につながるということ。これはとても面白い現象である。

バッハの中に自分に響くバッハの感覚があることがわかってくると、それは自分の中に他者を見出したことを意味し、他者の中に自分を見出すこととにつながってくる。様々な作曲家を参考にしながら作曲実践を通じて行っているのはまさにそれなのだ。

他者の中に自己を見出し、自己の中に他者を見出すこと。これが自他理解及び人間理解の本質の一端である。そのようなことを思う。

今日もまた理論書を片手に、自分に響く語彙やフレーズを発見していき、それを使えるように鍛錬していった。自分の感性に合う言い回しを見つけ、それを実際に使ってみるという実践を毎日行うこと。これを絶えず意識的に行い、継続的に行っていくこと。その実践がいつか自分の作曲言語を構築し、自分の言葉の発見ひいては自由自在に自分の言葉を用いて音楽を生み出していくことにつながっていくだろう。

明日の作曲実践もまたとても楽しみだ。そうした楽しみの感覚を胸に抱きながら今日も就寝する。フローニンゲン:2020/4/22(水)19:23

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page