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5724-5728: アートの国オランダからの便り 2020年4月12日(日)


No.27 心花の精霊_A Sprit of Heart Flowers_0412_2020

本日の言葉

Every day when we wake up, we try to steer our good intentions, thinking I will live this day in a more positive manner. I must not waste it. Tenzin Gyatso

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本日生まれた11曲

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タイトル一覧

5724. この1年間の食実践を振り返って:神通力と活力の獲得

5725. デジタル空間内の無限大の美術館·音楽館の創出に向けて

5726. 作曲と絵画の相思相愛関係

5727. これからの旅の楽しみ:今朝方の夢

5728. 危機察知能力

5724. この1年間の食実践を振り返って:神通力と活力の獲得

今朝は午前4時半前に起床し、今、時刻は5時を迎えた。朝、小鳥たちに「おはよう」の一言を述べようと思ったが、小鳥たちはまだ鳴き声を上げていなかった。今もまだ彼らは眠っているようだ。

おはようの挨拶を誰にもすることなく、今日もまた新たな創作の1日が始まった。創作で終わり、創作で始まる毎日。こうした日々を過ごせていることの幸福を思う。

今日もまたフローニンゲンは天気が良いようだ。しかし明日からは気温が下がり、曇りとなるらしい。

明日と明後日は、最高気温が2分の1ほどになり、10度を下回るという予報が出ている。そこからまた最高気温が15度前後、最低気温が5度前後となり、このくらいの気温の日々が長く続くだろうと予想される。

食実践を大きく変えてから1年がいつの間にか過ぎていた。食実践を大きく変えるきっかけになった昨年3月のパリ旅行からすでに1年以上が経過していたのである。

とりわけ、この10ヶ月においては、魚はおろか、肉類は一切口にしていない。毎日固形物としては、リンゴ1個、バナナ1本、バイオダイナミクス農法で作られた4種類の麦のフレークを少々、ジャガイモ(中)2個、サツマイモ (小)1本、玉ねぎ(小)1個、椎茸(中)2個しか食べてない。

これらの食材で実は大抵の栄養素をカバーしているのだが、それらでまかないきれないもの(例えばプロテインなど)はヘンプパウダーやカカオパウダーなどで補っているように思う。固形物ではないが、油や味噌にもこだわっており、油に関してはオーガニックのヘンプオイルとココナッツオイルを摂っており、味噌も有機味噌を摂っている。

朝にベジブロスを用いた具なしの味噌汁を飲んでいるのだが、その時には八丁味噌を使い、夜にモリンガパウダーと和えた形で味噌汁を作る際には、玄米味噌を用いている。夜の味噌汁に関しては、液体性を抑え、茹でたジャガイモと混ぜることによって半液体·半個体の食べ物として味わっている。

そのような食実践をこの10ヶ月ほど続けてみると、嘘のように心身の調子がいい。心身に新しい羽が生えているような感覚であり、心も体も軽い。

そして何より、知覚が研ぎ澄まされ、神通力のようなものが獲得されつつあることにも気づく。まさに、「臼井靈氣療法」の創始者である臼井甕男がかつて、京都の鞍馬山にこもって断食をし、そこで治癒的霊力を得たのと似ている。

自分の身体エネルギーの活力の観点からすると、17歳ぐらいの身体年齢だと今まで思っていたが、自分の発想が貧困であり、よくよく観察をしていると、そんなに歳をとっていないことに昨夜気づいた。自分の身体エネルギーの活力は、おそらく6~7歳ぐらいの爆発力を持っているように思う。

昨日の夕方に、自分の身体エネルギーはまだまだこんなものではないはずなのにと疑問に思っていたところ、これまでの自分が17歳と思い込んでいたことが原因だったことに昨夜気づいたのである。そうした気づきを得て、昨夜から自分の身体エネルギーの若さ及び活力は、6~7歳の時の自分のそれであると認識するようになった。

今日からはそうした若さと力強さを持ったエネルギーを携えて生きていく。そうしたエネルギーをもとに日々の創作活動に従事していく。フローニンゲン:2020/4/12(日)05:30

5725. デジタル空間内の無限大の美術館·音楽館の創出に向けて

時刻は午前5時半を迎えた。この時間帯になってようやく小鳥たちが鳴き声を上げ始めた。

外はまだ闇に包まれていて、彼らの姿は見えない。これからもうしばらくすると、空がダークブルーに変わり始め、正式に夜が明ける。

数日前に、この四半期の会計報告をかかりつけの会計士に行った。ハーグに住む日本人の友人からその会計士を紹介してもらった。

彼の名前はロブという。ロブに会計報告をする際に、コロナウイルスに罹っていないかを含めた安否を確認したところ、彼を含め、家族全員無事とのことであった。

それを聞いて一安心し、ロブがこの四半期の会計報告をすぐさまレビューしてくれた。ロブの仕事の早さに感謝をしたのは数日前のことだった。

狂気さに至り、狂気さを超えていくこと。そのことについて昨日も考えていた。

狂気さもまた段階的なプロセスを辿るのだろうか。ひとっ飛びに狂気さを超えていく道もあるような気がしている自分がそこにいた。すなわち、狂気さを介在させることなく、それでいて狂気さに至ったのと同じ感覚を獲得しながらにして狂気を超えた世界に参入していく道である。

狂気超越的な世界に向けてすでに歩みを始めている自分がいるように思える。その歩みは止まることがなく、また止めるつもりもない。

無生物の中にも輝きと命を見出すこと。それを曲や絵の形にしていくこと。その点をまた大切にしたいと昨日思った。

現実世界及び想像世界の中の生き物だけではなく、生き物以外の存在者にも固有の輝きと生命的な何かが必ずあるはずであるから、それらを曲や絵の形にしていくのである。その思いを忘れないようにしよう。

その思いをもとにして作った作品をもとに、自分の美術館·音楽館をデジタル空間内に構築していこう。デジタル空間上であれば土地代はいらない。所蔵スペースも関係ない。

そこでは無限大を実現させることができる。無限なるものと永遠なるものへの憧憬の念は、肉体的生命の有限性に対する影か。いやそれとも光か。

デジタル空間上で曲や絵画を作ることは、比較的現代に生まれた特殊な知性領域および能力領域なのだということを昨日の午前中に考えていた。当該領域の課題は、物質次元で曲や絵を作るのとはまた違った課題性を秘めており、デジタル空間上での創作に固有の課題の性質が何かを見極めていく。また、そうした課題に紐づいた特殊な技術を特定し、それを涵養していく。

デジタル空間上での創作活動に固有の課題と技術さらには知性が明らかになり、実際の創作活動を通してそれらの課題に取り組み、技術と知性を涵養していけば、自分なりの創作方法が自ずから生まれてくるだろう。その発見に向けて、今日もまた愚直に創作活動に取り組もう。

小鳥たちが朝の挨拶をしている。彼らの鳴き声を聞きながら、創作に没頭する1日がまた新たに始まったのだと知る。フローニンゲン:2020/4/12(日)05:47

5726. 作曲と絵画の相思相愛関係

時刻は午前6時を迎え、空がダークブルーに変わり始めた。早朝オイルプリングをした後に飲む白湯を飲み干し、その後に飲むチアシード入りの小麦若葉のドリンクも先ほど飲み終えた。今からゆっくりと大麦若葉のパウダーを白湯に溶かしたものを飲む。

毎日どの時間帯に何をどれだけ飲み食いするのかがシステム化されており、今の自分はそのシステムに沿って飲み食いをしている。そのシステムから外れたものは一切口にしていない。今日もそうした1日になるだろう。

先ほど、2枚ほど絵を描いた。描きながらふと気づいたのだが、自分はどうやら円の図形を好んでいるようなのだ。無意識的に円をサッと描く癖がある。そのようなことに気づいた。

ピタゴラスが取り憑かれたかのように三角形を描き、かの有名な定理を発見したのと同じように、自分も円を描き続けていけば何か発見があるだろうか。もちろん、期待しているのは数学上の発見ではない。自分に関する発見だ。

自分の内面宇宙に関する新たな発見があればと思う。それは人間の内面宇宙に関する立派な発見なのだから。

今日もまた作曲実践を行う無上の喜びがある。作曲実践の合間合間に休憩として絵を描いていく習慣を持ちたい。

もちろん、休憩として脳を休めるかのように瞑想実践的なことをするのは大切だろうが、自分にとっては絵を描くことが良い瞑想実践のように思える。この点は不思議であり、作曲中は絵画の創作のための瞑想実践に作曲がなり、絵画の創作中は作曲のための瞑想実践に絵画の創作がなる。

このあたり、作曲と絵画の創作の相性はすこぶる良く、相思相愛関係が育まれつつあるように思う。この関係性を大切にし、より太く大きく育んでいこう。

自分の内側にどのような音が眠っているのかを探るために毎日曲を作っているのと同様に、自分の内側にどのようなイメージが眠っているのかを探るために、絵を描いていく。内的イメージをくまなく探索し、それを絵の形にしていく。

絵日記を描くかのように、日々の何気ない事柄に喚起されたことを絵にしていく。絵日記と音日記の創作。

絵日記と音日記の創作を通じて、デジタル空間内に無限大の絵と音の大伽藍を建築していく。その点において言えば、建築家的な側面も持ち合わせておきたい。

昨日の作曲実践を振り返っての気づきを書き留めておく。昨日も、作曲家と対話をするように原型モデルや譜例を参考にして曲を作っていた。作曲家との対話の精神を忘れることなく、それを今日も行っていく。

原型モデルを作る過程においては、作曲家が体現していた身体感覚に沿って音を作曲ソフト上に置いていく。それが彼らの身体感覚のトレースにつながり、そしてそれは作曲という固有の実践領域における身体感覚の開発に結びついていく。

譜例を参考にする際には、そこで感動体験を忘れないようにする。プロ棋士が棋譜並べの中で、ある一手に美しさを見出し、感動の心を持つように、譜例を参考にする際には一音に美しさを見出し、感動の心を絶えず持っておく。

メロディーやハーモニーの美しさのみならず、楽譜の中に視覚的、つまり絵画的美しさを見出したり、それらを超えて、音の背後にある作曲家の実存的美しさにも注目していく。今日のこれからの作曲実践が実に楽しみである。フローニンゲン:2020/4/12(日)06:20

5727. これからの旅の楽しみ:今朝方の夢

今度のアテネ旅行から絵画の創作ができることを本当に嬉しく思う。まだiPad Proのカバーケースが届けられていないが、それはアテネ旅行の出発には十分に間に合う。

アテネ旅行の最中は、きっと何度も心が動かされるはずである。それを逐一絵にしていく。もちろん、それは作曲の源泉にもなる。

旅行中の移動の際にも作曲は比較的容易に行えるが、絵画の創作はiPad Proのおかげでもっと楽だ。本当にいつでもどこでも絵を描けてしまう。

アテネの空港やアテネ市内のカフェ、美術館の前や中など、どこでも絵を描くことが可能だ。iPad Proを購入したこと、及び絵を描き始めたことによって、これからの旅の充実感はより一層深まるだろう。今から今後の旅が楽しみである。

穏やかな潮騒と小鳥たちの鳴き声。パソコンから波音の音楽が聞こえてきて、書斎の開け放たれた窓からは小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。それらの音は、絶えず自分を観想的な意識にしてくれる。そうした意識状態の中で創作活動に励んでいく。

そう言えば、今朝方の夢についてまだ振り返りをしていなかった。その振り返りをし、その後、早朝の作曲実践に入りたい。

夢の中で私は、実際に通っていた高校にいた。どうやらこれから体育の授業があるらしかった。

教室にいる生徒の数は少なく、ちょうど私の近くに、小中高時代の女性友達(NI)がいて、彼女と少し話をしていた。彼女は地元生まれで地元育ちのはずなのだが、ちょっと違う場所の方言が混じっているように思えた。彼女が発した「体育」という言葉のニュアンスからそれを察したのである。

体育の授業に参加するために、体育館に向かおうとしたところ、見慣れない先生が私に声をかけてきた。どうやら国語の教師らしい。

その女性教師から、1枚の答案を渡された。見ると、それは先日受けた模擬試験の答案だった。

どうやらこの学校には国語教師が複数人いるらしく、そのうちの男性の先生がその模擬試験を作問したらしかった。その男性の先生は、私に期待していたらしく、てっきり自分が1番を取るものだと思っていたらしい。

私は国語に関して1番を取る気は全くなく、ましてや学内試験の成績など正直どうでもよかった。そうした思いは口にせず、答案用紙を受け取ったところ、思っていた以上に点数が悪かった。それでも国語の成績は学年で3番ぐらいのようだった。

模擬試験の最中を思い出すと、問題を解きながら悪問ばかりで楽しくないなと思っていたのだが、それもそのはずで、あの先生が作問したからだったのだと思った。その先生に対して言いたいことはあったが、目の前にいる女性の先生にそれを述べても意味がないだろうと思い、私は受け取った答案用紙を机にしまい、体育館に向かった。

体育館に向かう最中も、国語の先生についてあれこれと考えていた。そうこうしているうちに体育館に到着した。

体育館に到着するや否や、体育教師が何やら高圧的な態度で生徒たちに指示をしていた。本当に呆れてしまう。体育教師の無能さには本当に呆れる。そのようなことを思いながら、無能なのは体育教師だけではなくあの国語教師も同じであると思った。

体育館の入り口で、この学校の教師は馬鹿ばかりであることを改めて思い、高校なんて行くもんじゃないと思ったところで夢から覚めた。夢から目覚めると、自分の身体の内側に少しばかり攻撃的なエネルギーが流れていた。

天井を見つめながら、そのエネルギーが静かになることを待った。エネルギーが落ち着いた後にベッドから体を起こし、寝室から出た。

寝室から出た後も、教師の無能さについてぶつぶつ独り言を述べている自分がいて、高校そのものの存在意義を改めて問うている自分がいた。現代社会の特性などを踏まえると、自分の場合は、中学校を卒業するまでで十分、もしくは小学校に通うまでで十分だったのではないかと思った。

学校は、ある一定程度の能力水準·知性水準を持った人間を製造することには適しているが、それ以上の人間を育むことにはあまり適していないように思えるのは自分だけだろうか。

現在作曲において参考にしている巨匠において、時代背景もあるだろうが、モーツァルトなど小学校にすら通っていない。学校に通うことによって矮小化される道を進むのか、学校に通わずにして巨人になる道を進むのか。

今後の教育はどのようになっていくのだろうか。現代人がひどく小粒になってしまった1つの要因には、間違いなく学校の存在が挙げられるような気がしている。

学校不審の観点から学校教育を考えていくことにも何かしらの有用性があるだろう。むしろ、学校の存在が当たり前だと思っている現代社会においては、なおそうした観点が重要なのかもしれない。フローニンゲン:2020/4/12(日)06:46

5728. 危機察知能力

時刻は午後7時半を迎えようとしている。今、穏やかな夕日がゆっくりと西の空に沈んでいこうとしている。

昨夜に気づいたことだが、すっかり日は伸びて、就寝準備を始める午後9時半においてもまだ完全に真っ暗になっているわけではなかった。これからあと2時間ほどは明るさがある。

今日は夕方に、協働プロジェクトの一環として、依頼を受けていたアセスメントのレビューを行った。今日は少しばかり創作活動に関して休息が必要かと思う瞬間があり、アセスメントのレビューの仕事は、大変良い気分転換になった。このように複数の領域に実践があることは救いであるとさえ思えた。

救いに関して言えば、絵画を描くことを通じて同じような救いが得られている。それは作曲とは異なる治癒だと言えるかもしれない。

作曲実践と絵画の創作ではどうやら活用する脳の部位が異なるらしく、知性の発揮のさせ方も異なる。そうしたことから、両者の領域を行き来することはとても良い調和を自分の心身にもたらしてくれる。今夜も心身を寛がせるためにまた絵を描くかもしれない。

午前中に書斎の窓辺に近寄って外を眺めた時、隣の家のニコさんの庭に目がいった。特に、鳥の餌箱に目がいった。

というのも、そこで面白い光景を目にしたからである。端的には、スズメとハトが仲良く餌を食べていたのである。

微笑ましい光景としては、その餌箱は小さいため、スズメが餌箱をつつき、溢れた餌をハトが食べていた。地面にこぼれた餌に関しては、他のスズメとハトが近づきあいながらも決して餌を奪い合うことなく、仲良く食べていた。厳密には、仲良くというよりも、彼らはお互いをあまり気にしていないようだった。

スズメとハトが共存できることが非常に面白かった。スズメからしてみれば、自分の体の5~6倍ほどの大きさのハトが近くにいても逃げることなく、何食わぬ顔で餌を食べていることはすごいことではないだろうか。

私たちが自分の身長よりも5~6倍ほど大きい動物に出くわしたら、少し身構えてしまうように思う。もちろん、人間のように知性があれば、仮にそうした大きさの生き物が草食動物だとわかれば問題ないだろうが、果たしてスズメたちにそのような認識力があるのかを考えた。

観察を続けていると、ひょっとすると体の大きさ云々というよりも、その個体が発するエネルギーの質感をスズメたちは察知しているのではないかと思った。ハトのエネルギーはスズメにとっては無色のようなものであり、猫や人間などはちょっと違う色が付いているのかもしれない。

そうしたエネルギーの質感の違いによって、近づく対象が危険な存在なのかどうかを把握しているように思える。そうした危機察知能力がスズメにはありそうなのだが、果たして私たち人間はどうだろうか。そうした動物的な危機察知能力を弱体化させ過ぎてはないだろうか。

こうしたご時世において、自分の身は自分で守るという意識とそうした危機察知能力は大切なように思える。そうしたことをスズメから教えてもらった。フローニンゲン:2020/4/12(日)19:31

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