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5712-5715: アートの国オランダからの便り 2020年4月9日(木)


No.15 指名手配犯っぽい自画像_Self-Portrait Like a Wanted Person_0410_2020

(本作品に関するコメントはこちらからご覧になれます)

本日の言葉

One should not be so quick to approve or condemn the minor vices and insignificant virtues of others. Gendun Drup

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本日生まれた14曲

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タイトル一覧

5712. 今朝方の夢

5713. 父の創作活動への期待と家系内の発達現象及び絵画創作に関する幼少期の思い出

5714. 愛と創造

5715. 命あるものたちへ

5712. 今朝方の夢

時刻は午前6時を迎えた。今朝も満月が見事である。あっぱれな美しさ。ダークブルーの空に満月が輝いていて、月光を浴びた小鳥たちが歓喜の歌を奏でている。

満月を眺め、小鳥たちの合唱を聴きながら夜明けを待つ。

「ゴッホ、ゴッホ、ゴッホ」昨夜就寝前にそのような言葉が漏れた。

ゴッホは弟のテオとの絶え間ない交流の中で絵画道を求道者の如く歩んでいった。ゴッホの手紙が全て収められた図鑑的全集が手元にあるのだが、それを読み進めていくと、弟テオとの手紙でのやり取りには心揺さぶられるものがある。

テオの献身的な励ましと支援。ゴッホにはそれがあった。

「テオ。君と僕は二人三脚で絵を描いているんだ。これらの作品は全て僕たちが一緒になって描いたんだ」翻訳するとそのような言葉をゴッホはテオに宛てた手紙にしたためていた。

作曲にせよ、絵画の創作にせよ、私は誰からも教えを乞うことをせず、誰からも支援を受けていない。自分は独りで己れの道を歩んでいるように思えたが、自分は森羅万象から励ましと支援を受けているのだと悟った。

すると、すぐに眠りの世界にたどり着いた。今朝方は印象に残る夢を見ていた。

夢の中で私は、イタリアにいた。どこの街かまではわからなかったが、イタリアであることに間違いはなく、元日本代表のサッカー選手がどこかの街で参加型のアートイベントを開催するとのことだった。

ひょんなきっかけで、私もそのイベントに参加することになった。イベント会場に到着すると、そこには和を感じさせる庭園があり、庭園の周りに様々なアート作品が展示されていた。

モダンアートをそれほど好まない私からすると、そこで展示されている作品にはそれほど心が打たれなかったものの、その場の雰囲気は良かったように思う。イベント会場を後にしようとした時、私の横にいた女性が、今回のイベントは思ったほど人が集まっていないということを聞いた。特に日本人の来場者が少ないとのことであった。

そこで私は、どのような企業がスポンサーになっているのか尋ねたところ、教えてもらったスポンサーでは集客はそれほど見込めないと納得した。しかし私は、果たして広告宣伝の問題なのかと疑問を持った。問題は別にあると思ったのである。

その後、今回のイベントを開催した元サッカー選手が蔵書を寄付したと言われている小学校に足を運んだ。いや、気づけばそこの図書室にいたのである。

図書室の左の隅のコーナーにその方が寄付した蔵書がずらりと置かれていた。奥側は全て和書であったが、手前側は英語の書籍が多く、最も手前にはイタリア語の書籍があった。

その中でも私は、画家のクリムトが書いた小説に目が止まった。現実世界においてはクリムトは小説など書いていないと思われるのだが、そこには確かに彼の小説作品があったのだ。そして、私もその作品を自宅の本棚に置いていると夢の中の私は思った。

小説の背表紙を少しばかり眺めてから、さらに奥側の書籍を見に行こうと思ったところ、幾分はしゃいだ中年の外国人女性が本棚にやってきて、棚に置かれていた香水の香りを嗅ぎ、それを巧みな日本語表現で言い表した。

私はそれを聞いた時、思わず笑いで吹き出してしまった。それぐらいに見事な日本語であり、尚且つ生粋の日本人ではあまり思いつかないような表現だったのである。私はその女性に挨拶をし、そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、私は見知らぬ高校の教室にいて、姿は見えないながらも教室の背後から授業を観察していた。その学校はおそらく海外の日本語学校ではないかと思う。

ちょうど私は、高校1年生の教室にいて、彼らはドイツ語を学んでいた。高校生でも第二外国語を勉強するのかと感心したが、彼らはドイツ語の学習になかなか苦戦しているようだった。

その後、数学の授業となり、先生が宿題の答え合わせを始めた。列の順序に関する論理パズルのような問題が宿題になっていたようであり、それは問題文をきちんと理解すればとても簡単なものなのだが、如何せん生徒たちは海外で暮らしているため、日本語が少し弱いのかもしれないと思われた。

すると突然、私はその学校のグラウンドにいて、今からサッカー部の練習が始まるようであり、その練習を見守ることにした。期待の新人として入学したある高校1年生の男子生徒は、上の学年たちの屈強な身体と渡り合っていくことに苦戦しているようであり、ひどくもどかしさを感じているように思えたことが印象に残っている。フローニンゲン:2020/4/9(木)06:36

5713. 父の創作活動への期待と家系内の発達現象及び絵画創作に関する幼少期の思い出

闇は晴れ、辺りは明るくなった。明るくなったにもかかわらず、まだ満月が空に浮かんでいて、朝空と見事な調和をなしていてとても美しい。

写真に収め、後から絵に描きたいぐらいだ。そして実際に写真を撮りに窓辺に近寄り、iPad Proのカメラモードを立ち上げてみたところ、どうもその美しさが画面に現れてこないと思った。

写真にしてしまうと消滅してしまう美というものがあるらしい。今目の前に顕現している美は、この肉眼で十分に味わい、その背後にある美は心眼で味わっていく。審美眼というのはひょっとすると、肉眼を超えて、心眼や魂眼のことを述べているのではないかとふと思った。

その他にもふと、この秋に一時帰国した際には父に絵画のことについてあれこれ聞いてみようと思った。昨年の秋以降、父がどのような活動をしているのか不明であり、そこには何かしらの創作活動があるのではないかと思われる。

私はいつも父の創作活動に期待をしているのだが、その期待を伝え過ぎることを父は嫌がっているようなので、そうしたプレッシャーはあまりかけないようにする。

3歳ぐらいの時に、「お父さん、絵本を描いてよ」という言葉を父に述べたらしく、その言葉がきっかけで父は絵本を描き始めたというエピソードを、ある新聞の誌面上で掲載された父のインタビューを読んで知った。それを知ったのは、アメリカから引き上げた年に父方の祖母の家に訪れたときのことだった。

今私が父の創作に期待しているのは、あの頃の気持ちと同じである。父が創り出す作品を純粋に見たいだけなのだ。

1羽の鳥がほのかなラベンダー色の空を舞っていく。

そういえば、家族の構成員単位で発達度合いを見ていくと、うちの家系の場合、確かに次の世代はより質的に進化を遂げた価値体系を持っているように思われる。前の世代の価値体系を乗り越え、そこに質的に一段深い価値体系を築き上げている次の世代たちの姿を思った。

もちろん他の家系においては、発達が停滞したり、逆に退行してしまっているような例も多々あるだろう。しかし少なくともうちの家系に関して言えば、漸次的な発達の歩みを進めてきたことがわかる。そのようなことを考えながら大麦若葉のドリンクを作った。

今朝方いつものようにパソコンを立ち上げると、ソフトウェアのアップデートの通知が現れ、すぐにアップデートをした。それに時間がかかることが見込まれたので、日記を書くよりも前に絵を描き始めた。

結果として、2枚ほどの絵を仕上げることになった。そう言えば、小さい頃に私は意外と絵を描いていたことを思い出した。特に小学校の低学年の時である。

自由帳に絵と呼べないような絵を熱心に描いており、母にはそれらの絵を「ぐちゃぐちゃがき」と呼ばれていたことを懐かしく覚えている。

自由帳の白紙のページは1つの創造空間に変わり、そこで私はぶつぶつ独り言を述べながら自分が思い描くものを描いていたように思う。描いた怪獣や動物などを動かしたり、戦わせたりしていたのである。

そのような思い出が蘇り、実は今でも手が動くままにぐちゃぐちゃ描くことが好きであることに気づいた。今朝方の2枚も思うがままに描いたものだ。

そしてそれは作曲においても同じである。思うがままに音を生み出している自分がいるのだ。

確かに音を生み出す背後には理論的なものがあることが多く、参考にしている楽譜や譜例には、本当に驚くほどに精緻に作られた音楽世界があることによく気づくのだが、そうしたものを参考にしていると、内側の感覚に任せて音を生み出したいという衝動が姿を表してくることがある。

こうした衝動を大切にしていこう。おそらくそれこそが、自分なりの創作語法の大切な拠り所なのだ。フローニンゲン:2020/4/9(木)07:02

5714. 愛と創造

言葉·音·イメージが溢れ出す。溢れ出した言葉·音·イメージに向き合うと、再びそこから言葉·音·イメージが溢れ出す。

世界は言葉·音·イメージで満ち溢れている。内面世界はそれらの産物であり、それは絶え間ない創造を繰り返している。

今朝も早速2枚ほどの絵を描いたのだが、やはり今の私は油絵に惹かれているようだ。先日試しに、水彩画の筆やエアブラシなどを使ってみたところ、それらもまた興味深い道具なのだが、複数の種類のブラシを使って絵を描くと、どうやらファイルの容量が重たくなってしまうようであり、当面は油絵専用の筆に絞って活用することにしたい。

昨夜も就寝前に歯を磨きながら、筆といかに親しくなっていくか、いかに筆と一体化するかが肝要であることを考えていた。昨日絵を描いている時には、ベタ塗りを多用していたのだが、点を打つような形の筆使いを覚えた方がいいのかもしれないと思わされた。

筆をいかに活用するかに関しては、自分の好きな画家たちの筆致を画集で確認してみよう。そして今後は、画集からだけではなく、実際の美術館で実物の作品を見る中でリアルに筆致をこの目で確認したい。

その際には、単純に筆致の外形だけを見ていてはならない。筆致の背後にある画家の身体感覚と身体運動そのものを見ていくようにするのだ。

これと似たようなことを作曲実践においても行っている。楽譜や譜例を参考にする際には、作曲家の身体感覚と音を生み出す身体運動そのものを知覚するようにしている。

音を生み出す息遣いまで感じられるようにしているのと同様に、画家の息遣いまで知覚できるように観察をしていこう。こうした観察と学習の大切さを書き留めておくことは自分にとって大切だ。

なぜなら私は人や書物から学びを得ようとするよりも、何でもかんでも実践を通じて遠回りしながら学び取っていこうとする傾向があるからである。それはそれでいいのだが、他者が積み上げてきたことで参考になることは全て取り入れていこう。

一昨日、この秋に一時帰国する際に実家に滞在させてもらう旨を母にメールした。そのメールの返信の中で愛犬について言及があり、彼はもう14歳になったとのことである。

食事の量が少なく、いつも決められた量のものを食べているおかげか、愛犬はいつまでも見た目が若い。無駄に食べないことが若さを保つ1つの秘訣であることを愛犬は教えてくれた。

そんな愛犬の写真を父に過去に送ってもらったことがあった。私がアメリカにいた時にそのようなお願いをした。

その時私は、1~2枚ほど写真をもらえれば十分だったのだが、30回に分けたメールに100枚ほどの写真が送られてきたのを懐かしく覚えている。

その中でもお気に入りの写真を昨日見つけたので、近々それらの写真をもとに愛犬を描いてみようと思う。愛の力と創造の力について昨夜考えており、愛すべき対象を作品にしたり、愛すべきものを思いながら作品を作ると、何か特別な創造的力が宿るのではないかと思われたのである。

それを実証する意味でも、愛犬を含め、愛すべきものたちを対象にして曲や絵を創作していこう。愛と創造は密接に関係しているはずだ。

木々にとまって鳴き声を上げる小鳥たちや、遮るものが一切ない青空を舞う鳥たちの気持ちがわかる。今の私は彼らと同じような気持ちで毎日を生きている。

この現代社会において、いかような内面世界を形作ることができるのか、そしていかように外側の世界へ関与できるのか。それを自らの人生をかけて探求·実践していく。自分にできるのはそれくらいしかないのだから。

人間はいかようにこの社会的リアリティの中で生きられるのか。いや、そうした虚構的構築物を超越しながらにして地に足をつけていかに生きることができるのか。そのことを日々の生活を通して実証していこうと思う。

こうした社会の中で1人の人間としていかに生きることができるのかの実証。私が毎日行っていることを突き詰めれば実はそれなのだろう。フローニンゲン:2020/4/9(木)07:24

5715. 命あるものたちへ

時刻は午後7時を迎えた。今日も大いなる充実感と共に時間が過ぎ、そして現在に至る。

今、夕日が燦々と輝いている。今日もとても素晴らしい天気だった。

明日も晴れるようであり、ちょうど街の中心部のオーガニックスーパーに立ち寄る必要があるので、明日はiPad Proを持っていき、フローニンゲンのシンボルであるマルティニ塔を写真に収めたり、その他の教会の写真を収めたい。

さらには、中心部の市場の写真や、道中に出会うであろうアヒルや小鳥たち、さらには美しい草花などの写真を撮ろう。それらの写真をもとに、また絵を描いていきたいと思う。

肉眼で見える対象物と、その背後にある命を描いていこう。マルティニ塔のような無生物にも命はあるのだ。それはいつも力強く躍動している。

作曲実践を始めた当初において、まずは理論など一切学習せずに思うがままに音を並べてみて、何がうまくいかないのかという体験をいくらか積んだ後に理論の学習を始めたのと同じように、まずは思うがままに絵を描いていき、ある程度うまくいかない体験を積んだ後に理論の学習をしていこう。

理論が先ではなく、実践が先であり、苦戦する体験を数多く積むことが大切になる。油絵を描くコツのようなものが必ずあるはずであり、まずはある意味失敗体験を豊富に積んだ後に理論学習に入っていく。

おそらくネット上に油絵の描き方に関する動画がたくさんあるであろうから、それらをいずれ視聴したい。今はまだとにかく思うがままに絵を描いていく時期だ。

試行錯誤はいつまでも続くが、何か新しい試みを始めた時に、大抵の人はうまくいかないことにもどかしさを感じ、いつの間にかその実践から離れてしまう。言い換えると、多くの人たちは、うまくいかない体験に対する意味付けを誤り、その体験の中に面白さを見出せないがゆえに、気づいた時にはもうその実践領域にいないのである。

それを考えると、意味付けの重要性は大きい。また、一見するとうまくいかないことの中にうまくいったことを見出したり、うまくいかなかったことから次につながる発見をし、その発見を喜べるようなマインドセットのようなものが大切なのかもしれない。

早朝にふと、自分の内面世界を訪れてくれた音と絵画的イメージを無視するわけにはいかないということを思った。それらにも固有の命が宿っていて、彼らからの問いかけに耳を傾け、それを曲や絵の形にしていく。それが彼らの命と存在に対して敬意を表す行為である。

命あるものの命を描いていくこと。絵おいても曲においてもそれを大切にしたいと思う。

作曲理論書の譜例を参考にすることは、作曲家の感性を取り入れていくこととパターン認識を養うためであり、原型モデルを用いた作曲でそうした感性やパターン認識を自分なりの曲の形にしていく実践が続く。ここ最近は譜例を参考にすることの中に大きな楽しみと喜びを見出しており、今日もまた譜例の再現を楽しんだ。

そうした地道な実践のおかげもあり、ここ最近参考にしているシューマン、バッハ、ブラームス、シューベルトたちが体現していた固有の身体感覚が分かり始めてきた。彼らの身体感覚及び音楽世界をより深く理解するために、明日もまた譜例の再現とそこからの作曲実践を愚直に続けていこうと思う。フローニンゲン:2020/4/9(木)19:14

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