No.13 リンゴとその魂の歩む道_An Apple and Its Soul’s Path_0409_2020
本日の言葉
When you understand one thing through and through, you understand everything. Shunryu Suzuki
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本日生まれた7曲
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タイトル一覧
5708. 肉眼·心眼·魂眼と肉耳·心耳·魂耳の開発の重要性
5709. 創作セラピーとその治癒的·変容的作用について
5710. 美と創造の流れ:今朝方の夢
5711. 意味世界の治癒と変容:筆との同一化に向けて
5708. 肉眼·心眼·魂眼と肉耳·心耳·魂耳の開発の重要性
時刻は午前5時半を迎えた。今朝もまた満月が見える。月光がフローニンゲンの街に降り注いでおり、夜明け前の闇とその光は溶け合っている。そうした世界の中で、小鳥たちが美しい鳴き声を上げている。
今日も幸福感に満ちた1日が始まった。そのように実感する。
今見える満月を絵に描きたいが、満月だけ描いても幾分味気ないかもしれない。肉眼に見える満月と、心眼さらには魂眼で知覚されるものの双方を描ければと思う。
人はそもそも描きたいと思う対象を見つけた時、それはその対象の外見に単純に惹かれたからではなく、対象に内在する何かに惹かれたからなのではないだろうか。そして、そうした内在的なものを感知する眼がまさに心眼や魂眼なのである。
意識の状態の観点から言えば、肉眼·心眼·魂眼は、グロス·サトル·コーザルの意識状態と対応すると言えるだろう。昨夜の就寝前にその点について考えていた。
そこからさらに、それは眼だけではなく、耳にも当てはまるのではないかと思った。つまり、肉耳·心耳·魂耳なるものが存在するのではなかろうかということだ。
これらは別に目新しい概念現象でもなく、意識状態の観点からすれば、当たり前のように推測·想定されることである。実際に作曲実践をする過程の中で、それらの次元の異なる耳の存在に気づくことがある。
そして、それらが意識状態の変化によって立ち現れたり消えたりするという現象を何度も経験し、様々な意識状態を行き来しながら作曲実践に従事することによって、それらの耳が開発されてきていることも実感する。
これからは、より一層自分の眼と耳を涵養していこう。理想を言えば、その他の感覚器官についてもより開発が必要かもしれないが、今の自分の取り組みに最も関係するそれらの感覚器官を優先的に鍛錬していく。
昨夜ベッドに入った瞬間に、あることに気づいた。それは昨日椎茸を描いているときに、対象物、しかもそれが自然物であればあるほどに、それを形作った形象エネルギーないしは創造エネルギーというものが色濃く存在しており、その流れに沿って絵を描いていくことがポイントなのではないかということだ。
わかりやすい例で言えば、木を描く時である。木は種から芽を出し、上に伸びていく。すなわち、木の形象エネルギーは上方向のベクトルを持っているのだ。
そうした木を描く時に、上から下に向かって筆を動かすと、思ったように描けないのではないかと思った。仮にうまく描けたように思えたとしても、そこには木本来が持つ形象化エネルギーが顕現しておらず、正気の抜けた絵になってしまう。端的には、生命力に欠けた絵になってしまうのである。
ここから私は、とりわけ自然物においては——おそらく無生物に対しても当てはまるだろうが——、それを形象化したエネルギーに沿って筆を動かすことが、生命力を持った絵を描く要諦なのではないかと思ったのである。これはぜひ今日から意識してみよう。
なるほど、これと似たようなことをルドルフ·シュタイナーも述べていたような気がする。シュタイナーは直接的に絵画の描き方について示唆をしていたわけではなく、万物に宿る生命力ないしは創造エネルギーの存在について述べていたのである。
シュタイナーの思想をまた参照してみよう。シュタイナー自身が彫刻家でもあったように、彼の形を捉える眼、そして対象を彫刻の形にしていく能力からは学ぶべきことが多いだろう。
上記の事柄は、何も絵画の創作だけに当てはまるわけではなく、作曲においても当てはまるであろうことを考えていた。つまり、生命力のある曲を作るためには、その曲の題材となる事物さらには内的感覚の生命エネルギーの流れの方向性を見極めていくことが大切なのではないかということである。
ここからは、絵を描く時にせよ、作曲をする時にせよ、万物の生成エネルギーの所在とその方向性に意識を向けていく。そうしたエネルギーの質を見極め、エネルギーが働くベクトル方向を見定めていくのである。それを行うために必要なのが、まさしく肉眼·心眼·魂眼と肉耳·心耳·魂耳の開発である。フローニンゲン:2020/4/8(水)05:55
5709. 創作セラピーとその治癒的·変容的作用について
美しい満月を眺めながら、そして小鳥たちの早朝のさえずりを聞きながらこの日記を書いている。創造活動の新たな幕が開けた。絵画を描き始めてからまだ2日しか経っていないが、そのようなことを感じる。
これからはより一層、言葉·音·イメージに焦点を当てた創作をしていく。それ以外のことに時間やエネルギーを使うのではなく、創造にエネルギーを使いたい。ひょっとすると、それはエネルギーを使うというよりも、創造エネルギーとより親密になり、合一化することだと言えるかもしれない。
この1年間の自分を見てみよう。大学で行なう純粋な科学研究から離れ、作曲実践を核にした日々を送ることによって、毎日がこれほどまでに充実したものになっていたのだ。それを思うと、これから絵画の創作を加えた人生はより充実したものになるに違いない。
言葉·音·イメージの創造。自分の言葉·音·イメージを形にしていくこと。形を生み出すことそのものが大切なのであって、そこに付随する諸々のことは、二の次、三の次、四の次だ。
自らの形を生み出すことは、自らのリアリティを生み出すことであり、自らの人生を生み出すことだ。自分固有の内面世界を育むこと、及び自分の人生を生きることを放棄した人たちで溢れかえるこの現代社会にあって、そうした流れに対抗していく。
自分が生きているのは、まだその程度の人間社会である。ひどく歪みのあり、ひどく抑圧的なこの時代の中で、そうした時代と向き合いながら日々の創作活動に取り組んでいく。
言葉·音·イメージの創作。創作、創作、創作、創作、創作、創作、創作。そして創作。
創作活動にのめり込んだ過去の芸術家たちの中で、創作のためには手段を選ばなかった人たちがいたことを思い出し、今このようにして創作にのめり込んでいる自分からすると、彼らの気持ちがわからないではない。創作のために魂を明け渡すことも命を差し出すことも厭わなかった人間がいたことも、今なら理解できるような気がするのだ。
今このようにして言葉を紡ぎ出しながら日記を執筆していることは、どこかライティングセラピー的であり、作曲はサウンドセラピー、そして絵画を描くのはカラーセラピー的な側面があることに昨日改めて気づいた。
作曲と絵画はひとまとめにしてアートセラピーと表現してもいいのかもしれないが、自らの言葉·音·イメージを生み出すことによってもたらされる治癒を総称して創作セラピーと表現してもいいかもしれない。創作にはやはり私たちを治癒してくれる働きがあるのだ。それを強く実感する。
そしてそれは治癒だけではなく、私たち自身をさらに育んでくれる変容作用もある。誰しもの内側には、言葉·音·イメージがあり、それは形象化のエネルギーを持っていて、固有の流れがあるのだから、その流れに注目して言葉·音·イメージを形にしていく行為が治癒と変容をもたらすというのはとても当たり前の話である。
今日もまた、治癒的·変容的作用が内包された創作活動に取り組む。今日は昼前に1件ほど協働プロジェクト関係のオンラインミーティングがある。それ以外の時間は全て創作活動に振り向けよう。
夜が明け始めた。ダークブルーに変わり始めた空に満月が浮かんでいる。その黄金の輝きに目を奪われる。
心眼や魂眼を通じてあの満月をもっと眺めてみよう。そうすれば、きっと何かもっと大切なことが見えてくるはずだ。
この世界の全てのものを心眼や魂眼を通じて眺めること。さらには、万物の中に内在する固有の音ないしは振動を、心耳や魂耳を通じて掴んでいくこと。それを大切にして毎日を生きていこう。フローニンゲン:2020/4/8(水)06:14
5710. 美と創造の流れ:今朝方の夢
輝きを増す満月。不思議なことに、空がダークブルーに変わり始めた今頃の方が月の輝きが際立つ。
輝きが増し、月の存在と月光の美しさが増している。存在そのものの持つ美しさと、その存在が置かれたコンテクストによって輝きだす美しさの双方があることに気づく。
存在固有の内在美と、それがある特定のコンテクストに置かれた際に発現する美の双方があることをあの満月は語ってくれている。後者についてはその命名をまた考えてみよう。
作りたい曲がたくさんあり、描きたい絵がたくさんある日々を毎日過ごしている。創作したい対象は本当に無限である。
その数は尽きることがなく、逆に人生を一歩前に進めていけば進めていくほどにその数は増していくかのようである。
創作活動を始めたことによって、本当にこの世界は創造に満ちていることに気づかされる。無数の創造物と絶え間ない創造の流れ。前者に関しては目に見えるものが多いが、後者については目には見えない。
だが、本当にそうした創造の流れがこの世界に存在しているのである。ありとあらゆる領域において、そうした創造の流れがあり、それは微視的にも巨視的にも眺めることができる。
昨日改めて、発達科学や学習科学を学んできたことは、作曲や絵画に伴う知性と技術を磨くためだったのではないかとふと思った。そうした繋がりと導きが見えたのである。
アートの国オランダにやってきたこともその一環だろう。なぜ自分は縁もゆかりも無いオランダにやってきたのか。
答えは簡単であり、そこに縁もゆかりもあったからである。それが創作活動であった。創作に導くものが私をオランダに導いたのである。
以前言及したように、私はアメリカに再度戻って研究を続ける予定だった。その話はことごとく毎回取りやめになり、私はオランダに留まることになった。
おそらくそれをもたらしたのは、この国に残って創作活動に打ち込むように仕向けた何らかの力と導きだったのではないかと思う。オランダを永住先の1つに選んだのもそうしたことがきっかけにあったのだ。
フィンランドをもう1つの永住先にしようと思っている背後にもそうした力と導きがあるかもしれない。フィンランドではより自然の中に入り、自然をより強く感じながら創作活動に励みたい。
オランダとフィンランドの2拠点で生活及び活動をする日はいずれやってくるだろう。
今朝方はあまり印象に残る夢を見ていなかったが、夢から喚起される感覚をこの後絵にしておきたい。夢について覚えていることとしては、夢の中で私は会社のオフィスにいて、そこで編集者の方と話をしていたことだ。
その編集者の方に、私は小説家の辻邦生先生の作品を勧めた。最初その方はあまり読む気がなさそうだったが、ひとたび辻先生の作品世界の中に入ると、その世界の虜になってしまったようであり、仕事そっちのけでデスクの上で小説を読んでいた。
私は自分のデスクの上に書見台を置き、そこに楽譜を立てかけて、作曲をしていた。私の右横には若い男性がいて、彼と一緒に曲を作っていた。
楽譜とにらめっこして曲を作っている自分の後ろ姿を眺めている自分がそこにいて、自分はあのような表情や姿勢で曲を作っているのだという発見があった。そのような夢を見た後に、まだ3歳児ぐらいのませた男の子が現れる夢を見た。
その男の子は、同い年の女の子を歳不相応な言葉を用いて朝からくどいていた。それは微笑ましい光景だったが、女の子が嫌がっているように思えたので、見るに見かねてその男の子を呼び止め、彼と遊ぶことにした。
そのような夢も見ていた。2つの夢から喚起される内的イメージ及び内的感覚を早速今から絵にし、それから作曲実践を始めたい。フローニンゲン:2020/4/8(水)06:37
5711. 意味世界の治癒と変容:筆との同一化に向けて
時刻は午後7時を迎えた。今、フローニンゲンの上空に夕日が輝いている。
今日もとても暖かく、初夏を思わせるような気温であった。明日の最高気温は今日のそれよりも7度低いが、それでも16度まで達するようであるから、明日もまた引き続き暖かさを感じられるだろう。
長い冬が今ようやく終わりに差し掛かっている。ここから再度気温が下がる日が続き、それが終われば初夏がやってくる。
フローニンゲンの清々しいあの初夏がやってくるのだ。生命が踊り、人々も活気づくあの初夏がやってくる。
今朝は満月を眺めていたように思う。今朝の起床は5時前とそれほど早くなかったが、今日はここまでとても充実していたように思う。
本日から新たな協働プロジェクトが始まり、多くの協働者の方と共に仕事ができるようになったことは喜ばしい。今回の協働の自分なりの意味付けは、このリアリティの意味世界の治癒と変容に尽きるような気がする。
社会を構築している意味世界の協働編集をしていくこと。それが今日から始まる協働プロジェクトに対する自分なりの意義だ。
意味世界の協働編集を通じて、新たな意味世界が少しずつ構築されていき、意味世界に治癒と変容がもたらされるように微力ながら関与をしていこう。そのように思わせてくれる本日のオンラインミーティングだった。
今日は、昨日の夕方に撮影した夕日をもとに油絵を描いてみた。もちろん今わかったら怖いぐらいだが、油絵を描くときの筆の使い方がいまいちよくわからない。
現在使っている絵画創作ソフトには多くの種類の筆があり、いまいちそれらの特性が掴めていないのだ。筆が使いこなせていない自分がいる。
作曲家が音符と自己を同一化させ、一心同体の中で音を生み出すのと同様に、画家も自己が筆と同一化し、筆と一心同体となって絵を描けるはずである。今の自分は二元論的に、自分と筆が分離している状態だ。まだ筆が自分の一部になっていないのである。
ここからはそうした二元論的な状態から少しずつ脱却していくことが目標になるだろうか。焦らないこと。作曲を主軸にしながら、それと並行して少しずつ絵画の創作技術を高めていけばいい。
日々の作曲実践と同様に、毎日新しいことを試し、その都度新たな発見を得ていけばいいのである。新たな発見をもたらす実験的な実践を愚直に続けていくこと。それが最良の道である。
絵を描き終えて再び作曲実践に戻ってみると、興味深い知覚体験があった。いつもより鮮明に音符に色が付き始め、音に色がちらつき始めたのである。
いつも私は、曲を作り終えた後に色彩辞典を眺め、その曲が喚起する色に近しいものを選んで曲に付している。だが、その時の作曲実践においては、曲を作っている最中から色彩感覚が強く働いていたのである。
これは絵画の創作を始めた思わぬ副産物であった。今後もなお一層のこと、音から喚起される色に意識を向け、音の色彩感覚を涵養していきたい。
作曲と同様に、絵を描き始める前には一呼吸置き、瞑想状態に入ることを本日も意識していた。意識状態を整え、そこから創作に入っていく。
作品の巧拙を脇に置くと、いかような意識状態で作品を作ったかによって、その作品が観賞者の意識に及ぼす影響が変わってくるように思える。創り手の意識状態はやはり作品に強く影響を及ぼす。作品から発せられるエネルギーは、創り手の意識状態及びエネルギーに左右されるのだ。
その他にもふと、創った曲や絵をもとに、自分の精神分析ができてしまうことにも改めて気づいた。だが、それをあえて真剣にやる必要はない。創造活動そのものが良いシャドーワークになっている感じがするのである。
内側のものを外側に形にすること。それはシャドーワークの根幹的な原理と同一であろう。創作活動を通じた自他の治癒と変容。それを明日からもまた続けていく。フローニンゲン:2020/4/8(水)19:32