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5703-5707: アートの国オランダからの便り 2020年4月7日(火)


No.9 フローニンゲンの夕日_The Setting Sun in Groningen_0408_2020

本日の言葉

Even though flowers fall, don’t regret it. Even though weeds grow, don’t hate them. Don’t arouse the passions of attraction and repulsion, hating and loving. Hakuun Yasutani

本日のその他の絵画は下記のアート・ギャラリーからご自由に閲覧できます。

本日生まれた10曲

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本日生まれた曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

5703. デジタルアート創作の開始から一夜が明けて

5704. 新たな挑戦に向けた応援者たち

5705. 絵画の創作と密教的ビジュアリゼーションの鍛錬方法

5706. 早朝の驚きと今朝方の夢

5707. 親愛なる椎茸を描いて:対象を見る眼と絶対色感について

5703. デジタルアート創作の開始から一夜が明けて

時刻は午前6時を迎えた。今、辺りには霧が立ち込めており、外の世界は白色に覆われている。久しぶりに霧に覆われたフローニンゲンを見たような気がする。

小鳥たちがいつも以上に美しく鳴き声を上げている。いつもより数が多く、それはさながら大合唱である。

彼らの泣き声は独立しているように思えるのだが、それでいてハーモニーを生み出しているような気もする。1羽の鳴き声が、他の鳴き声の背景に移動し、それによってハーモニーを作り出しているのだ。

私たち1人1人の仕事というのもそのようなものなのかもしれない。自らの仕事が他者にとっての背景となり、それが調和を生み出す。本来、1人の人間の仕事とはそうしたもののことを言うのかもしれない。

私たちがなすことは、必ず何らかの形で他者に影響を与える。自らの行為や活動が、他者にとって有益な背景になり、それが調和を生み出すように努めていこう。

昨夜、しばらく飯を食べるのをやめにしようかと思った。それぐらいに絵を描くことが楽しいのである。

夕食後の日記で宣言していたように、夜にはiPad Proをあまりいじりすぎないように注意をした。注意をしていながらも、一旦絵を描き始めると、もうその虜になってしまって、気がつけば就寝に向けた準備の時間になっていた。

いつもより10分ほど遅く就寝準備を始めることになったが、なんとか午後10時前後に床に入ることができた。今夜からもその点には注意したい。

就寝前の時間は寛ぐ時間である。創作活動がいかに楽しくても、早く就寝し、翌日により一層活動に打ち込めばいい。

昨日の起床は午前3時半だったが、10分就寝が遅れるだけで、そして寝る直前まで絵を描いていたこともあってか、今朝起床したのは5時半になろうかという頃だった。就寝の時間と就寝の準備がいかに大切かを物語る体験である。

昨日は、まず“Art Set 4”というアプリをダウンロードした。事前の評判通り、本物の油絵を描いているような質感があった。

しばらく無料版を使ってみたところ、これは買い切りの有料版に切り替えたほうがいいと思い、1220円でそれを購入した。それによって、使えるブラシの数が一気に増え、色に関しても自分で好みの色を作れるようになった。

夕方にiPad Proを用いて書斎からの眺めを写真に収めた。その写真をもとに、油絵を描いてみようと思った。

その時の自分は、モネのような絵を描くという意志に満ちていた。描き始めてしばらくすると、いや一筆入れた瞬間に、その意志はいとも簡単に打ち砕かれた。

「難しい···」そんな一言が自然と漏れた。モネのような風景画を描こうとしたのだが、あえなく撃沈してしまったのである。これは相当な修練が必要そうだと、その時に確信した。

作曲同様に、私は絵画の教育を一切受けておらず、絵を描く知識も皆無に等しい。あるとすれば、これまで世界の様々な美術館で数多くの絵画を見てきたという経験ぐらいだろうか。そして、自分の絵を描きたいという強い思いだけだろうか。

おそらくそれがあれば十分だ。学術機関での教育などいらないのである。

ここからは少しずつ修練を積んでいきたい。いきなり風景画を描くのはハードルが高すぎたので、具体物を描くのであれば、あまり複雑ではないシンプルな対象を1つ選んでそれを描くようにしたい。

直感的に、毎日食べている椎茸や、書斎の机の上にあるHappy Buddhaの人形を描いてみるのが良さそうだと思った。それらを描いてみたいという思いが湧いてきたのである。

描きたいという思いを常に大切にしよう。それが絵を描く上で一番重要なことである。作曲に関しても同様だ。作りたい曲を作ること。それを今後も大切にしていこう。フローニンゲン:2020/4/7(火)06:30

5704. 新たな挑戦に向けた応援者たち

デジタルアートの創作開始を祝福してくれているかのような天気が続くフローニンゲン。天も私に味方をし、私を応援してくれている。そのようなことを思うぐらいに、ここ数日間は天気がいい。

昨日からデジタルアートの創作に取り掛かり始めた。iPad Proが到着してすぐに絵画製作用のアプリをダウンロードし、早速絵を描き始めた。

「幼児のような絵から始めること」それが出発点である。いかなる知性領域·能力領域においても、初期の段階は極めて低いものであり、それは絵画創作の領域においても当てはまる。

絵画を創作するのに必要な自分の知性と能力は極めて低いが、それが出発点だ。そこから生み出される作品がいかようなものであっても関係はない。どんなに稚拙なものであっても関係ないのだ。それを稚拙だとみなす自我及び超自我の声になど耳を傾けてはならないのだ。

それらの声を振り払い、愚直に描き続けていくこと。それが最も大切なことであり、作曲に関してもそうしてきたのである。

幼児の鳴き声のような、あるいは子供鼻歌のような曲からスタートしたことを思い出そう。それでいいのだ。

生み出される作品に対する巧拙の判断や評価などどうでもいい。自分は単に創り出すこと、創り続けることだけに関心があるのだ。

白い霧が深くなってきた。街灯の光が霧を照らしている光景は美しい。そうした風景を描きたいという思いと、そうした風景によって喚起された目には見えない自分の内側の感覚を絵にしたい。

あっ、今、街灯の光が消えた。時刻は6時半を迎え、辺りが明るくなってきたから自動で消えたのだろうか。それとも、街灯の光を描くのではなく、心の中の光に照らし出された景色を描けというメッセージなのだろうか。

小鳥たちも祝福してくれている。いつも以上に彼らが鳴き声を上げているのは、自分への励ましだろうか。

新たな挑戦に乗り出したことに対する祝福と励まし。フローニンゲンの気候にせよ、街灯にせよ、小鳥たちにせよ、自分を取り巻く全ての存在者が自分の味方となって応援してくれている。そんな有り難いことは他にない。

今日と明日までは気温が高く、そこからは再び気温が下がっていく。来週の月曜日からは、また冬に戻ったかのように、最低気温は0度近くになる。救いとしては、最高気温が10度を超えていることだろうか。

もう少し暖かくなってきたら、写真撮影のためだけに近くの公園や街へ散歩に繰り出したい。そこで写真を収め、その写真をもとに絵を描いていく。そして、その絵から喚起されたものを絵にしていく。

方向性としては、まずは描きやすい具体的なものを描く修練を積み、慣れてきたら毎日表情を変える書斎からの眺めを大まかに描いていく。それに加えて、夢を対象にしたり、その瞬間の自分の内的感覚を絵にすることは日々行っていく。

後者であれば行いやすい。問題は目に見えるものを描くことである。

心眼や魂眼で現象を捉え、それを絵にすることなら比較的容易であるが——技術は未熟だが——、肉眼で捉えたものを忠実に絵として形にしていくことが難しい。もちろん、それを無理に行う必要はない。

自分の心を動かしてくれた対象物に対して、しかもそれを描きたいという思いを喚起してくれるものだけ絵を描けばいいのである。今朝も夢の振り返りをしたら、それを絵として表現してみようかと思う。フローニンゲン:2020/4/7(火)06:46

5705. 絵画の創作と密教的ビジュアリゼーションの鍛錬方法

深さを増していく霧。フローニンゲンの街を覆う霧が濃くなっていく。

雪が降っているのかと見間違えてしまうぐらいの白銀世界が外に広がっている。この霧によって、コロナウイルスが弱体化してくれることを願うが、それはどうなのだろうか。

昨夜、少しばかり絵を描いてみた。内面世界に立ち現れた自画像と龍の翼のようなものを絵に描いてみた。もっと絵を描きたかったが、就寝時間に近づいてきていたので、その楽しみは翌日に持ち越すことにし、寝室に向かった。

床につき、目を閉じてみると、不思議な体験をした。なんと脳内で絵の続きを描いており、絵の具を混ぜて色が変わっていく様子が鮮明にイメージされたのである。その鮮明な脳内ビジョンは、仮眠中のそれに似た体験であり、仮眠中のそれよりも色彩に溢れていた。

密教的な鍛錬方法においても、このように内的ビジョンを鮮明かつ煌びやかなものにしていくものがあるが、まさにそうした鍛錬方法を想起させる。絵画を描くことによって、間違いなくそうしたイメージ想起力が高まり、心的色彩世界が色鮮やかなものになっていくという確信があった。

絵を描いている状態は瞑想状態であり、しかもそこには色彩が伴うという点において、これは密教のビジュアライゼーションの鍛錬方法と酷似しているように思われる。ベッドの上で目を閉じながら、脳内に浮かぶ色彩豊かなイメージを眺めていると、絵を描くことによって、脳の働きが変わるという確信もあった。その効果をすぐに実感したのである。

絵を描いた後に、文章を描こうとすると、言葉の出方がいつもと違った。感覚的にそれは大きな違いであった。

今後絵を描き続けることによって、言葉の質感と色感が変化していくのではないかと思われる。まさに作曲を始めてから自分の言葉に変化があったように、そうした変化が起こるに違いない。

ここからの興味としては、自分の脳内の構造をいかように変化させるかという点である。また、それによっていかに内的感覚が変化し、意識そのものにいかような変化をもたらすかということである。探求する事柄が増え、探求の楽しみが増した。

2つほど絵を描き、それを保存した際に、その容量を確認すると、意外と重たいことに気づいた。様々な筆で絵を描いたことが重さの原因なのだろうか。それともファイル形式なのか、そのあたりについては再度確認をしておきたい。絵を保存するならJPEGの形式が容量を食わずに一番良いだろうか。

記念すべき最初の作品であった自画像は、様々な筆を試しながら描いた。基本は油絵の筆を使ったのだが、少しばかり水彩画の筆を使ったり、エアブラシも使った。

エアブラシは昔父が使っており、私も幼少時代に少しばかりエアブラシを触らせてもらったことがある——絵を描くことにあまり関心がなかったので、エアブラシを触ったのは1回ぐらいかもしれないが——。描く作品に署名を入れようと思い、万年筆を選択し、それで署名を入れた。このように、様々な筆を使うことができる点も魅力的である。

今私が使っているのは、“Art Set 4”というアプリだが、その他のアプリでもそうした筆が使える。ただし、このアプリの特徴はなんと言っても油絵の質感であり、そこに魅力を感じて使うことにしたのである。

今後は、描いた絵をどのようの保存·共有していくかを考えたい。今日記を公開しているウェブサイト上でギャラリー機能のようなものがあれば、新たにページを作ってもいいだろう。あるいは、私は普段SNSは使わないが、デジタルイラストの共有を目的としたピクシブというSNSがあるようなので、そちらに絵を共有·保存するのもいいかもしれない。

この点についてはまた調査をしてみよう。自分が望む形で保存·共有をしていこう。フローニンゲン:2020/4/7(火)07:06

5706. 早朝の驚きと今朝方の夢

霧が刻一刻と深まっていく。時刻は午前7時を迎え、そろそろ霧が晴れてくるかと思っていたのだが、依然として霧が深い。

早朝起床したときに霧の出現に驚いただけではなく、もう1つ驚いたことがあった。食卓を見ると、そこに天日干ししていた椎茸が置かれていたのである。

いつもは天日干しをした後にキッチンペーパーに包み、ジップロックに入れて冷蔵庫で保存しているのだが、昨夜はそれを忘れてしまった。それを忘れてしまっていたのは、昨夜は絵画の創作に没頭していたからである。

椎茸たちには申し訳ないことをしてしまったと思った。もちろん、すでに天日干しをしている椎茸はそれぐらいでは傷むことなく、元気な表情を見せていたが、彼らにホコリがかかってしまったり、虫が寄ってきたりしたのであれば、それは申し訳ない。

昨日に数時間ほど天日干しをしたが、それはまだ完成ではないため、今日も午後に2度目の天日干しをし、それを完成させたい。

それでは今朝方の夢について振り返り、それを簡単に絵に描いてから早朝の作曲実践に取り掛かりたい。朝の新たな習慣の流れはそのようにする。

夢を見て、それを覚えていた時には、まずそれを夢日記に記し、その後それを絵に描く。そしてその後に作曲実践に取り掛かっていく。夢を言葉にし、絵にし、音にしていくことによって、無意識の世界の探求が進み、さらに無意識の世界が豊かになっていくであろう。

夢の中で私は、日本のどこかの大きな都市と欧米の国のどこかの大きな都市が混ざり合ったような街にいた。目の前にはホテルがあり、今日からそこに宿泊することになっていた。

ホテルの1階の受付に向かおうとしたときに、ホテルの前で、小中学校時代の親友4人(NK & SI & SS & YU)がチラシを配っていた。彼らに声をかけ、何のチラシを配っているのか尋ねてみたところ、彼らはオーガニック野菜やオーガニックな素材で作られたおもちゃを郊外の小屋で販売しているとのことだった。それは面白い取り組みだと思った私は、今度そこに案内してもらうことにし、早々と彼らと別れた。

1階ロビーの受付に到着すると、対応してくれたのは若い男性の方だった。その方が予約状況を再度確認してくれ、幸運なことに、一番高い価格帯の部屋が空いており、追加料金なしでそこにアップグレードできるとのことだった。私はその申し出を有り難く受けた。

チェックインを済ませ、目的階の5階に向かおうとしたところ、下に行くエレベーターに乗ってしまい、一度地下1階にたどり着いた。そこで数名の中年男性がエレベーターに乗ってきて、1人の男性が、「3階お願いします」と私に述べた。

私はうなづき、3階のボタンを押そうとしたのだが、奇妙なことに、ボタン表示は5階しかなかった。すると、男性はやれやれといった表情を浮かべながら、押しボタンの横にある何の表示もない緑のボタンを押した。

どうやらそれは3階に止まるためのもののようだった。気がつけばいつの間にか5階に到着しており、エレベーターの扉の外に出ると、そこはすでに高級感が漂っていた。廊下の雰囲気が違ったのである。

廊下を歩いて部屋に向かおうとすると、まだ掃除中をしている最中のようであり、清掃員らしき中年女性とすれ違い、その女性に挨拶をした。その方は親切そうな笑顔を浮かべ、「掃除が終わるまではリフレッシュルームでくつろいでください」と述べた。

そのようなスペースがあるらしく、私はそこに向かった。廊下をぐるりと一周している時に不審に思っていたのだが、なぜかベッドが全て廊下に出されており、それらのベッドの質は一級品のようだが、どうやら宿泊客たちは廊下に出されたベッドで寝るらしいことがわかった。プライバシーがあまりないように思われたが、それはそれで悪くないかと思った。

リフレッシュルームに到着すると、そこでは飲み物や軽食を摂ることができた。私はオレンジの入ったフレッシュウォーターを飲むことにし、喉の渇きを潤した。

するとそこで、大学時代にお世話になっていた経済学部の先生と出会った。そこで先生と立ち話をし、どうやらこれから2階のセミナールームで、大学の卒業生や関係者たちが集まる会があると教えてもらい、私もそれに参加することにした。

先生と一緒に2階に降りると、セミナールームはまだ準備中であり、部屋の前の談話スペースで先生と話をすることにした。テーブルに腰掛け、先生と話をしていると、先生のゼミの卒業生であると思われる男性が私たちに声をかけてきた。その方は私よりも幾分年上のようであった。そこからはその先輩を交えて3人で話をした。

その先輩はすでにビールか何かを飲んでおり、少々酔っ払っていた。そのせいか、とても饒舌であり、先輩が内密な話をしてくれた。

その先輩曰く、省庁の優秀な人たちの一部は南米由来のシャーマンの儀式に参加し、その研究をしているとのことだった。それは噂話とのことであったが、確かにそのような可能性はあるなと私は思った。

だが先生は、それは根も葉もない噂だと述べ、そこからは黙り込んだ。そして先生は席を立ち、遠くの方の席に座っていた他の卒業生たちと会話を始めた。

私の目の前には依然として少々酒に酔った先輩がいて、私は話の続きを聴くことにした。具体的に、官僚たちがどのような儀式に参加しているのかを知りたかったのである。するとその先輩は、大きな声で話始め、席を移動していた先生がその先輩に遠くから注意をした。

先生:「おい、XX(先輩の名前)、もう少し静かな声で話さんか。みんな真面目な話をしているぞ」

「真面目な話」という言葉を聞いたその場の人たちは、どういうわけかどっと笑い出した。

私の目の前に座っていた先輩は、先生の注意をそれほど気にしていないようであり、相変わらず酔った感じで席を立ち、フラフラと別の席に移動して行った。その後、先生がまた私のところに戻ってきて、再度先生と話をした。

先ほどの先輩の話を先生はどう思うかについて尋ねてみたところ、先生は小さな声で呟くように話し始めた。先生との会話の中で私は、「神の化身」という言葉を使った。シャーマンの儀式においては、そうした化身を召喚するという点を先生に述べたのである。

すると先生は、それは神は存在するという前提に基づいた考えであり、無神論者にとってはその前提は受け入れられないのではないかと指摘された。そのような鋭い指摘をされるのは初めてであったため、私は「神の化身」という言葉について再考を余儀なくされた。フローニンゲン:2020/4/7(火)07:46

5707. 親愛なる椎茸を描いて:対象を見る眼と絶対色感について

時刻は午後7時半を迎えようとしている。つい今し方夕食を摂り終え、今は夕日を眺めながらこの日記を書いている。

今日も気温が高く、1日を通してとても暖かかった。昼前には室内で半袖になることができた。さらには、夕方に買い物に出掛けた時には半袖半パンで出かけることができた。

明日もまた気温が高くなるようであり、最高気温は22度に達するとのことである。おそらく正式に春がやってくる前のご褒美のような形でこのような暖かさがあるのかもしれない。今はその褒美を全身で享受しよう。

今日は朝からいくつか絵を描いていた。夢をモチーフに絵を描いたり、咄嗟の思いつきで内的感覚を絵の形にした。作曲と同様に、これからは楽しみながら絵画の創作を続けていきたい。

夕方に買い物から帰ってきてからは、天日干ししていた椎茸を描いた。具体的なものを描きながら絵画の技術を鍛錬する際には、椎茸を繰り返し描いてみるのもいいかもしれない。

しかし、椎茸ばかりを描いていると、偏執者——あるいは変質者——に思われやしないだろうか?そのようなことを考えると、思わずクスッと笑みがこぼれてしまう。

「油絵を描き始めました」と述べるよりも、仮に椎茸をしばらく集中的に描くのならば、「椎茸描き始めました」と述べる方が正確かもしれない。いずれにせよ、他者がどう思おうと、自分は描きたいものを描いていく。それは作曲と変わりない。

椎茸を注意深く観察しながら絵を描いていると、対象を注意深く観察する力が付きそうだと思った。作曲においては、注意深く音を聴く力が養われていったのと同じように、今度は眼の鍛錬をしていこう。

もちろんそれは、肉眼だけではなく、心眼や魂眼を含む。具体的なもののみならず、目には見えないものを心眼や魂眼を用いて注意深く見ることをこれから意識してみよう。

もう一つ、絶対音感ならぬ絶対色感のようなものがありそうだということに気づいた。それは椎茸を描いている最中に、光の当たり具合によって色が微妙に変化していることを見て取り、それを表現するための色を作っていた時に気づいた。

対象物の色に似た色を作ることは難しかったが、色を作ることもまた創造の1つであり、そのプロセスは楽しいものであった。

絶対音感は多分に生得的なものがあるが、それは後天的に訓練することもできる。その点は絶対色感も同じであろう。

対象を注意深く観察し、絵を描いていく実践を続けていけば、その感覚は涵養されていくように思う。実際にそうかどうかは自分で試してみる。

今日は椎茸を描いたので、明日はリンゴを描いてみようかと思う。もちろん、同じモチーフを続けて採用することも訓練になるだろうが、明日はリンゴを描きたい気分だ。

アイデアとしては、肉眼で捉えられたリンゴを描き、そのリンゴの魂を心眼ないしは魂眼で捉え、それも合わせて描く。グロス次元のリンゴの背後に、コーザル次元、あるいはさらにより高次元にあるリンゴの魂を描いていくようなイメージを持っている。

そのイメージ通りに描くかはまだわからないが、とりあえずそのようなアイデアを持って明日を迎える。それは今日はこれから、曲の原型モデルをいくつか作り、返信の必要なメールに返信して就寝を迎えたい。

明日もまた曲を作る楽しみと絵を描く楽しみがある。フローニンゲン:2020/4/7(火)19:36

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