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5689-5692: アートの国オランダからの便り 2020年4月3日(金)


本日の言葉

The mind can encompass the universe. One compassionate thought can cure the world. Hsing Yun

本日生まれた14曲

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タイトル一覧

5689. 今朝方の夢

5690. 認識世界の拡張を促す3つの実践:内的感覚を純粋に映し出す音

5691. 人生の羅針盤としての日記:今朝方の夢の続き

5692. 無限かつ永遠に創作活動を続ける道の発見とその喜び

5689. 今朝方の夢

時刻は午前5時を迎えた。今朝は一度3時前に目を覚ましたが、そこで起床することなく、4時過ぎまで寝ることにした。

午前3時に目を覚ましたのは、ちょうどある夢が終わりを迎えた時であり、そこからまた夢の続きを見ることができるのではないかと期待して再度眠りについたのである。そうすると、夢の続きではなかったが、新たにまた夢を見ることができた。

最初に見ていた夢から思い出してみよう。夢の中で私は、おそらく日本であろう国のリトリートセンターにいた。周りの環境は申し分なく、とても静かな環境であった。

都会の喧騒から離れ、ゆっくりとした時間が流れている。そうした緩やかな時間の流れの中で、私はゆったりとした一時を送っていた。

ある時間になると、今から研修ルームで古文の輪読会があるとのことだったので、会場に向かった。研修ルームに到着すると、机が取り除かれていて、複数の椅子が円の形で置かれていた。

私は椅子の1つに腰掛け、時間になるのを待っていた。しばらくすると、参加者がゾロゾロと部屋に入ってきて、古文の輪読会が始まった。

参加者の中には大学時代の親友(YN)がいて、彼は私の対角線上に座っていた。輪読会の講師もまたリトリートの参加者であり、その方が場をファシリテーションしていった。

テキストを開き、古文の物語を読み始めたときに、大学時代の親友が私に質問をしてきた。私は古文を読むことをそれほど得意にしておらず、また彼の質問は非常に核心をついており、回答に窮した。

一応彼の質問に回答すると、今度はそこから続けてもう1つ彼は私に質問をした。質問の内容は、「3人称の単語が文中のどこにあるのか?」というものであり、それに対して私は、「なぜ3人称の単語に着目する必要があるのか?」を彼に尋ね返した。3人称の単語に着目することによって主語が誰かが特定しやすくなるとのことであり、なるほどなと思った。

すると突然、私の左横に、フローニンゲンに住んでいる日本人の知人の方が座っていることに気づいた。その方が私に微笑みながら挨拶をし、私に話しかけてきたのである。私はその方に挨拶をすると、その方は冗談を述べた。

知人:「ヨウヘイさんが私に挨拶するというのは珍しいですね(笑)」

:「いつもしてるじゃないですか!(笑)」

知人:「そうでしたか?(笑)」

:「ええ、ですがいつも遠くにいらっしゃるんですよ。遠くにいらっしゃるときに大声で挨拶をするわけにもいかないので、そういう場合には挨拶はしませんけど」

そのようなやりとりをした後、輪読中の文章の訳を私が担当することになり、「ららしけり」という単語を目にした瞬間に、その意味が一瞬でわからなかった。語尾の形から察するに、それが形容動詞であることはすぐに分かったが、単語の意味が全くわからなかった。そのため私は、その単語の意味を誤魔化しながら訳すことにして、その場を乗り切ろうとした。

だが、その単語の意味を知りたいと思っていたため、正直にその単語の意味が分からないことをその場で表明した。そこで一度夢から覚めた。

今改めて、「ららしけり」という言葉の意味を調べてみたが、そのような単語は見つからなかった。夢の中で読んでいた文章の文脈が分からないため、それがどのような文脈で用いられていたのかは不明である。その単語の前にもう少し修飾語か何かがあったような気がするが···。

夢の中で登場した知人は、ちょうど昨日近所のスーパーに立ち寄った際に遭遇した方である。スーパーの前の特設の手洗い場で殺菌をしてる時にその方に出会い、立ち話を少しした。コロナウイルスのせいもあって、お互いに距離を取る必要があり、あまり長く話すことはせずにその場で別れたことを覚えている。フローニンゲン:2020/4/3(金)05:32

5690. 認識世界の拡張を促す3つの実践:内的感覚を純粋に映し出す音

時刻は午前5時半を迎えた。辺りは依然として暗く、小鳥たちの鳴き声はまだ聞こえてこない。サマータイムを迎えて早いもので1週間を迎えようとしている。

先週末から今週末にかけてあっという間に時が過ぎた感じた。そう感じさせてくれるほどに、日々の活動に没頭邁進しているのだろう。

今夜から明日にかけては気温が下がり、マイナス1度になるとのことだが、今日は1日を通して晴れのようであるから、午後に日光浴を楽しむことができるだろう。明日までまだ気温は低いが、明後日の日曜日からは気温が上がる。

今朝方起床して白湯を飲んでいる時に、今認識している外側の世界の存在に気づき、認識世界を絶えず検証し、絶えず拡張していくことの重要さについて考えていた。人は誰しも固有の認識世界を生きており、絶えずその外側には別の認識世界が広がっている。

そうしたことに気づけない時、私たちは自分の狭い認識世界に閉じ込められ、より豊かな認識世界の中で生きることができなくなってしまう。自戒の意味も込めて、絶えず現在の自分の認識の枠組みを確認し、その外側の認識世界にアクセスできるようにしていく。

そうしたことを可能にしてくれる手段の1つが、今まさに書いている日記である。そしてその他にも、作曲や絵画の創作は、認識世界の客体化と拡張をもたらしてくれるだろう。

自分の言葉·音·絵は、現在の自分の認識世界を如実に映し出す。そうしたことから、形象化された言葉·音·絵を観察していくことによって、現在の自分の認識世界がいかようなものであるかを理解していく。

そうした理解が生まれた瞬間に、既存の認識世界から一歩外に出ることができる。まさにそれは、ロバート·キーガンの主体客体理論の原理であり、私たちはこれまで主体であった内面現象を客体化できた瞬間に、その現象から一歩距離を置くことができ、これまで主体として埋め込まれていたものが客体になり、認識世界が拡張される。

日記の執筆、作曲、絵画の創作は、それぞれ違った領域から認識世界の拡張を促してくれるだろう。

昨日ふと、作曲を始めたことによって脳が今までとは違った形で働き始めたのと同じように、絵画を本格的に描き出すことによって脳がまた違った形で働き始めるであろうことが想像できた。絵画の創作を始めることによって、色や形に対する認識が変化し、それによって脳が特殊な形で発達していくだろう。そしてそれは意識の発達にも影響を及ぼすだろう。

今後はより一層、言葉·音·イメージの鍛錬をしていこう。自分の中にあるそれらを育むことによって、認識世界がより豊かなものになっていき、日々がより充実感と幸福感を伴ったものになるはずだ。

今日もまた作曲実践に明け暮れたい。昨日注文したiPad Proが到着するまでまだ時間があるので、絵画の創作はお預けである。もちろんこれまで毎日行っていたように、作曲ノートに水筆色鉛筆で1つばかり絵を描くことは行う。

作曲理論に掲載されている譜例や楽譜を通じて獲得されたパターンから、無尽蔵に新たなパターンを創出していくこと。これまでにないパターンを無尽蔵に生み出していくこと。それを行いたいと昨日も考えていた。

現在作曲実践の虜になっている要因の1つとして、曲を作る過程の中で、自分の内的感覚が即座に音の形になり、それからフィードバックを受けることにあるだろうかと考えた。音がその瞬間の自分の感覚をありありと映し出すことが非常に面白く、その面白さに嬉々としている自分がいる。

一方で、音が自分の内的感覚を映し出すことはとても正確であり、それは騙しようのないものでもある。内的感覚が純粋に音として現れてしまうのだ。

その時の心身の状態が如実に音に反映される。それによって心身の状態の波がわかる。

今日もどのような曲が形作られるのか楽しみだ。1つ1つ自分で納得のいく小さな作品を作っていきたい。それらの1つ1つに自分の内的感覚が純粋に反映されるのだから、絶えず心身の状態を整え、そして内的感覚そのものをより涵養していきたいと思う。フローニンゲン:2020/4/3(金)05:50

5691. 人生の羅針盤としての日記:今朝方の夢の続き

時刻は午前6時を迎えようとしている。今日もゆっくりと1日の活動を始めていこう。

早朝に、このようにして日記を書くことが習慣になっていて本当に有り難く思う。日記を書くことがその日の活動のペースメーカーとなり、人生の羅針盤になっている。

ペースメーカー及び羅針盤としての日記がなければ、私は毎日どこに向かい、人生がどこに向かっているのかが分からず途方に暮れていたであろう。そうしたことから救ってくれたのが日記の執筆であり、日々と人生をより良き方向に導いてくれているのが日記である。

少なくとも朝と夜に日記を書くことが完全なる習慣になっていることは本当に喜ばしい。朝は夢について振り返ったり、その日にどのようなことを意識して活動していくかなどを書き留めている。

もちろん、昨日に考えていた雑多な事柄を一晩寝かせることによって、言葉の結晶になったものを拾い上げるということも朝に行っている。一方で、夜の日記に関しては、その日を簡単に振り返ることはもちろんのこと、明日につなげるという意味も込めた文章を書くことが自然と行われているようだ。

その日1日を完全に満足した状態で締め括り、翌日にさらなる希望を持って就寝すること。それを実現させてくれているのが夜の日記である。

今夜からは、午後9時を過ぎたら音楽に合わせてゆっくり長く踊りを踊ったり、瞑想をすることを習慣にしたい。これまでも夜に音楽に合わせて踊りを踊ったりしていたが、就寝の直前の10分ほどしか時間を取っていなかった。

今夜からは午後9時を過ぎたら、心身をくつろがせる時間とする。それ以降の時間に言語脳を働かせようと思ってもうまく働かない。

1日の終わりの時間かつ夕食後に頭が働くはずはないのだ。そのような時間帯に言語脳を活性化させるのは非効率的であるばかりか、脳に対する負担が大き過ぎる。

午後9時以降は、その日1日大いに活動してくれた脳を労るような気持ちを持って、言語を媒介させない形で時間を過ごす。それが音楽を聴くことであったり、画集の絵の部分だけをぼんやりと眺めることであったり、踊りを踊ることである。

ヨガのアーサナの後に瞑想実践に入りやすいのと同様に、踊りを踊った後も瞑想実践に入りやすい。そうしたことから、音楽に合わせて踊りを踊り、心身を寛がせた後に瞑想実践をすることを新たな習慣にしてみるのもいいかと思う。

いずれにせよ、就寝前の時間をどのように過ごすかによって、睡眠の質が異なることは明らかであり、それが次の日の活動に影響を及ぼす。長い目で見れば、そうした蓄積が大きな差となって現れてくる。

午後9時以降は寛ぐ時間とし、その時間帯にパソコンで何か調べ物をしたりしないようにする。とにかく言語情報から離れ、言語脳を休息させることを意識する。

そういえば、まだ今朝方の夢の続きについて振り返っていなかった。それについて振り返りを行ってから早朝の作曲実践に取り掛かりたい。今日も少なくとも10時間ほどは作曲の学習と実践に時間を充てようと思う。

夢の中で私は、海の見える長閑な街にいた。そこは都心のように高い建物は一切なく、一軒家がぽつりぽつりと建っているような場所だった。

住宅地は丘の上にあり、住宅地の中の道は傾斜があった。私は住宅地の坂道を下りながら、遠くに見える輝く海を眺めていた。

すると、前方から等間隔で坂道を上ってくる人たちの姿を見つけた。私はその人たちとすれ違う都度、“Hello”と英語で挨拶をした。

彼らの中にはアジア人もいたが、顔と雰囲気から日本人ではないと思っていたので、英語で挨拶をしていたのだ。私の予想通り、彼らのほとんどは日本人ではなく、彼らもまた英語で私に挨拶をした。

引き続き坂道を下っていると、今度は前方から日本人と思われる2人の女性がやってきた。彼女たちは友達同士のようであり、犬の散歩を一緒にしていた。

彼女たちが日本人だと分かっていたが、それでも私は2人に英語で挨拶をし、彼女たちも英語で挨拶を返してきた。その後、中国人と思われる女性とすれ違い、挨拶をしたのだが、私の声が聞こえなかったのか、それとも文化の違いなのか、挨拶に対する反応はなかった。

坂道を下ったところには踏み切りがあり、そこで奇妙な光景を目にした。線路の上を歩く男性がいたのである。

その男性は白人のアメリカ人であり、鼻歌を歌いながら線路の上を歩いていた。どうやらその男性は精神の病を抱えているようであり、少しばかり心配になった。そのため、私は彼の後をつける形で線路の上を歩き始めた。

するとその男性はいつの間にか線路の上から消えていた。私も線路から離れ、再び道を歩くことにした。

線路沿いにも家がたくさん並んでいて、なぜかどの家も大きな猫を飼っていた。猫に水を与えるための容器が外に置かれていて、猫たちは美味しそうに水を飲んでいた。

ある家の前を通り過ぎようとしていた時、私の足はピタリと止まった。その家が誰のものかわからなかったが、自分はその家に用事があると思い、車庫の中に入って行った。

すると、車庫の中には黒板があり、予備校時代の友人が板書をしていた。どうやら英語の問題を解いているようであり、英作文のようなものを板書しようとしていた。だが、彼らはあまり真剣に板書をしておらず、中にはいたずら書きをしている者もいた。

すると、車庫の奥から予備校時代にお世話になっていた英語の先生がやってきた。その先生は普段は気さくで優しいのだが、190cmほどの身長があり、怒ると大変怖いことで有名だった。

先生がやってくると、その場に緊張が走り、いたずら書きをしていた友人はすぐにそれを消そうとした。すると先生は怒ることなく、友人の代わりに黒板を綺麗にし始めた。

私たちはその場で先生が黒板を消す姿を静かに眺めていた。みんな一様に恐縮していたように思う。今朝方はそのような夢を見ていた。

いやその夢の前に、小中高時代の友人(YU)と70歳のオランダ人の友人と一緒に、マジック:ザ·ギャザリングのようなカードゲームをしていたのを覚えている。最初私は、日本人の友人とゲームを楽しんでいた。

だが、ゲームの進行が遅かったので、デッキから一気に10枚以上引くことにし、進行を早めた。最初に私がデッキから大量にカードを引き、目分量で大体同じぐらいのカードを友人に引いてもらった。

そこからはお互いにモンスターを大量に召喚したり、数々の魔法をかけるなど、面白い展開になった。そのような形でゲームを進めていると、オランダ人の友人がやってきて、彼もゲームに加わった。

力関係から、彼は日本人の友人側についてもらうことにし、そこから1対2のゲームとなった。会話をしながらゲームを楽しんでいると、オランダ人の友人がにこやかな笑みを浮かべて、手紙のようなものを見せてくれた。それは大量にあり、思い出の品とのことである。

中には旅の最中に書かれたと思われる絵葉書もあり、それを大事にしている様子が伝わってきた。どういうわけかその友人は、大切な品であるはずの手紙類を、Amazonか何かの小さなダンボール箱にしまっていた。

その箱の中には透明のビニールがついたままだった。そのような夢の場面があったことを覚えている。フローニンゲン:2020/4/3(金)06:29

5692. 無限かつ永遠に創作活動を続ける道の発見とその喜び

時刻は午後7時半を迎えた。今、空は晴れていて、西の空に輝く夕日が見える。

振り返ってみると、今日は昼前に突然ひょうが降ってきた。パチパチとした音を上げながら窓ガラスにぶつかっているひょうを眺めながら、外の気温の低さを思った。

今夜から明日の朝にかけて気温はマイナス1度になるとのことだが、明日を乗り切れば、明後日からは気温がうんと上がる。

夕方にふと、曲を作り、絵を描くことで精神が救われていることを思った。曲と絵の創作過程の中で、自分の精神が癒され、救いを得ているようなのだ。創作にはそうした力があるらしい。

人間は本当に創造する生き物だと実感する。個人の精神の救済が、集合の精神の救済に繋がりはしないだろうか。そうであれば、徹底的な創作を続け、自らの精神を救済することを通じて、集合の精神の救済に関与していこう。

夕食の準備をしている最中に、飛び上がるほどに嬉しいことがあった。ある閃きが降ってきたのである。

これまで私はふとした時に、例えば街中を歩いている最中や就寝前のベッドの中で、どうして自分は有限な数の日記や曲しか書けないのかを考えていた。端的にいえば、生涯で執筆できる日記の数や生み出せる曲の少なさに絶望感を感じることがあったのである。

1日に最低でも2つか3つほど日記を書き、多い時には4つ以上日記を書くこともあるが、仮に120歳まで日記を書き続けたとしてもその数はたかが知れている。作況についても同様であり、今日は14曲ほど作ったが、仮に毎日10曲作ることを120歳まで続けても、その数はたかが知れている。

日記の想定総数はおよそ90,000、曲に関しては300,000曲ほどだ。その数の少なさを思うとやりきれない気持ちになり、少しばかり静かになってしまう自分がいた。

だが先ほど夕食の準備をしている最中に、無限に創作活動を行うことが可能であると思ったのである。日記に関しては少し難しいかも知れないが、端的にはAIを活用すれば、自分の肉体が朽ちた後も、自分の創作遺伝子を持ったAIが曲を無限に創造していくことが可能だと思ったのである。

もちろん、小説を書くAIが生まれているほどだから、日記に関しても実現が不可能なわけではないが、あたかも自分が書いたような日記を無限に書き続けるAIの姿はまだ想像できない。しかし、作曲に関して言えば、それは可能だろう。

間違いなく、今の自分でさえも、何かしらの作曲アルゴリズムに沿って音を生み出している。時々意識化するのだが、「この音をここに配置したらここに飛びたいな」「この和音の次はこの和音」というように、自分がある特定のルールに沿って音を生み出していることに気づくことがある。

そうしたルールは、音楽理論の規則や自分なりの規則である。そうした規則に基づいて曲を作っているのだから、それをアルゴリズムとしてAIに実装すれば、まるで自分が本当に曲を作っているかのように曲を作ることができるだろう。

いやそのアルゴリズムはそもそも自分から生まれたものなのだから、仮にAIであったとしても自分がその曲を生み出したと言っても過言ではないだろう。そうしたアイデアが閃き、数万曲作ったあたりでそのデータをAIに取り入れ、そこからAIが独自に作曲をし、そこで作られた曲をもとに機械学習を続け、アルゴリズムを絶えず進化させていくことが可能なのではないかと思った。

AIに造詣の深い友人に今度話を聞こうと思うが、自分の作曲アルゴリズムをプログラミングコードで表現し、それをAIに導入することぐらいなら自分にもできるのではないかと思う。AIの創作とそれに必要なプログラミング言語については、絵画の創作に慣れたあたりで始めてみてもいいかもしれない。MOOCを使えば、世界の最先端の大学院の授業を受講することができ、そのテーマについての学習は独学できてしまう。

AIを活用した創作は作曲のみならず、絵画の創作においても可能かもしれない。日記と同様に、AIによる絵画の作成も少しハードルが高そうだが、日記の執筆にせよ絵画の創作にせよ、創り手は固有のアルゴリズムを活用して文章を執筆したり絵画を創作していることには変わりないので、そのあたりのアルゴリズムを上手く抽出できれば、日記の執筆も絵画の創作も、まるで自分がそれを生み出したかのようにAIが創造することも実現可能なはずである。

AIと二人三脚で創作することができたらどれだけ楽しいだろうか。私は私で作品を作り続け、それをAIに絶えずフィードバックしながら、AIはAIで機械学習と創造を続けていく。

私が生み出したものはもちろん私の創作物だが、私の創作遺伝子が組み込まれたAIが作った創作物も私の創作物に他ならない。こうしたことを実現させている人はまだいないかもしれないが、私はぜひこれを実現させたい。

自分の肉体が朽ちた後も創作を続けることができることの爆発的な喜びと幸せ。月に到達するほどの曲や絵画を生み出せないことに愕然としていたことが嘘のように、自分の分身であるAIを創造すれば、私は宇宙の果てまで曲と絵画を作ることができる。永遠に創作活動に打ち込むことができるのだ。

その実現可能性を見出せたこと。それは本当に大きな喜びだった。フローニンゲン:2020/4/3(金)20:00

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