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5664-5669: アートの国オランダからの便り 2020年3月28日(土)

March 30, 2020

本日の言葉

Do not complain or haggle over adversity. Sufferings will never end if one keeps creating bad causes this way. Cheng-Yen

 

本日生まれた11曲

 

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タイトル一覧

5664. 発狂した作曲家と画家への関心

5665. 建築物に音楽を見出すこと

5666. デジタルアートの創作に向けて

5667. 才能も関心も全くなかったこと

5668. 今朝方の夢

5669. 自我の特性:日本へのフライトを予約して

 

5664. 発狂した作曲家と画家への関心

 

時刻は午前5時を迎えた。今朝の起床は4時半前であり、目覚めて寝室の窓を開けると、小鳥たちの鳴き声が聞こえてきた。

 

先日言及したように、オスの小鳥たちは朝に鳴き声を上げることで、メスに健康状態をアピールしているとのことだが、ふとメスも同じように鳴いているのだろうかと気になった。朝に聞こえてくる鳴き声はオスのものだけなのだろうか。オスの鳴き声に応えるようにメスも鳴き声を上げているのだろうか。そのあたりが気になる。

 

オスとメスとで声帯が異なれば、声の高低も変わるはずであり、そのあたりをまだ聞き分けることができない。もう少し注意深く彼らの鳴き声を聞いてみよう。

 

日常のありとあらゆることを音楽的に捉えようとすること。それを意識してみようと昨日思った。上記の小鳥の鳴き声に関してもその一環である。

 

数学者が身の回りのありとあらゆる事柄に数学的な何かを見出そうとするように、身の回りのありとあらゆる事柄に音楽的な何かを見出すようにしてみる。それは物理的な現象のみならず、社会的な現象においてもだ。

 

物理的な現象や社会的な現象の背後に数学的な何かがあるのと同じように、それらの背後には音楽的な何かも常にある。なぜなら、全ての現象の根幹にはリズムがあるからである。

 

世界は音の海であり、音の宇宙である。そうした世界から絶えず音楽的なものを汲み取っていく。

 

幻聴を聴き、精神が狂った末に自殺を遂げたロベルト·シューマンの音楽に関心を持っている。シューマンの楽譜を参考にしている際に、ふとした箇所で半音階を時折使用していることが気になっていた。その響きが独特であり、それは一聴すると甘美な響きなのだが、その背後には死の香りがあると述べてもいいかもしれない。

 

その甘美さは、死の甘美さなのだろうか。精神的狂気の香りも背後に隠れているように思える。それらの香りを嗅ぎながら、シューマンの音楽も参考にしていこう。

 

シューマンと同様に、スメタナも幻聴を聴き、その後発狂してしまったそうだ。作曲家だけではなく、例えばゴッホも発狂したことで有名だが、どうやら私は発狂した人間に関心を持つ傾向があるようだ。発狂した作曲家の音楽から精神的狂気を聴き取り、発狂した画家から精神的狂気を心眼で捉えたいと思う。

 

シューマンやスメタナは幻聴に悩まされたということだが、脳の特性上、幻聴を聞くということがそれほどおかしなことではないということが理解されていれば、発狂せずに済むのではないかと思ってしまう。

 

私たちは誰しも幻聴を聴くことが可能であり、しかもそれは容易である。例えば、懐かしの曲を今この瞬間に思い浮かべてみると、その音楽が脳内に聞こえて気やしないだろうか。端的には、それは幻聴であり、それは容易に聞こえてきたのではないかと思う。

 

おそらくシューマンやスメタナは、音を聴き取る脳の部位が特殊に発達したか機能障害を起こすかによって、四六時中音楽が頭の中に鳴っていたのだと思う。音を司る感覚を開き、脳が特殊に発達すれば、四六時中世界から音を汲み取るということはそれほどおかしなことではないように思う。

 

そうした感覚の解放と脳の発達に向けて歩みを進めようとしている自分がいる。その一歩一歩は慎重だが、それは着実な歩みである。狂気に近づき、正気に至ろうとする自己がここにいる。フローニンゲン:2020/3/28(土)05:42

 

5665. 建築物に音楽を見出すこと

 

スイスの建築家ル· コルビュジエはかつて、「音楽は動く建築である」という言葉を残した。以前より、音を通じて自分の内側に無限大の大伽藍を作ろうとしている自分がいることに気付いており、それは作曲をする一つの動機として大きなものであることに気付いていた。

 

ル· コルビュジエの言葉を受けて、建築というものにも関心を広げてみようと思う。幸いにも現在住んでいるヨーロッパには、興味深い建築がたくさんあり、建築的な発想と感性を養う上では申し分ない。

 

今生活をしているフローニンゲンの街を歩く際にも、そしてヨーロッパの旅の最中において様々な街を訪れる際には、建築に着目してみようと思う。そうした観察が作曲上の何らかのヒントになるはずである。

 

建築における設計と造形美から汲み取れることがたくさんあるはずだ。以前より、幾何学に関心を持ち、幾何学的な観点から作曲をしてみようと試みている自分がいる。

 

幾何学というのはまさに建築において不可欠の領域のはずであり、幾何学的な叡智が活用された建築にはやはり学ぶべきものが多いだろう。建築を見ることに関しても、まずは直接体験を積むことを大切にしながらも、建築を見る際の観点が必要であるため、建築の理論書を購入することも検討する。

 

ふと、昨年の春にバルセロナを訪れた際に、ガウディの建築を見て回ったことが思い出された。あの独特な建築に大いに刺激を受けたことを覚えている。

 

これまでも絵画からインスピレーションを得て、そこから曲を作っていったことがあるように、今後は建築から曲を作っていく道も模索していこう。当面は、絵画と建築から喚起されるものから曲を作ることを意識していく。

 

そうした実践が積み重なってくれば、この世界のありとあらゆることを題材にして曲が作れるようになってくるだろう。それは今朝最初の日記で書き留めたことと関係している。

 

この世界は絶えず音楽的な何かで溢れており、全ての現象の背後には音楽的な何かがある。そうした音楽的なものを知覚し、それを実際の音の形にしていきたい。

 

ステップは2つあり、最初は全ての現象の背後に潜む音楽的なものを知覚できるようになることであり、次のステップはそれを実際の曲の形にしていくことである。前者に関して言えば、絵画と建築という音が滲み出している領域を起点にし、まずはそれらの領域を通じて、絵画や建築を鑑賞することを通じて知覚力と作曲力を高めていく。

 

こうした実践を継続させていけば、絵画や建築だけではなく、それこそ本棚やコップ、小鳥たちの鳴き声、朝日などを対象にしても音楽的なものを聴き取ることができるだろうし、それを実際の曲にすることも可能なはずだ。

 

それを実現させていくために、弛まぬ学習と実践を続けていく。狂気さを飲み干し、狂気さを超えていく。

 

今、ゆっくりと時刻は午前6時に向かっている。辺りが少しずつ明るくなってきた。今日もまた晴れのようだ。

 

午後には少々日光浴を楽しみ、昨日述べていたように、今日からは仮眠前にも一曲ほど短い曲を作る。いつもバナナ2本とバイオダイナミクス農法で作られた4種類の麦のフレークを昼食として食べているのだが、昼食後に過去の日記を編集する際には、音楽理論のポッドキャストを流そうと思う。

 

これは以前から夕食の準備の際に聴いていたものだが、ここ最近は聴いていなかったので再び聴き始めようと思う。その他にも幾つか面白いポッドキャストをSpotifyを通じて見つけており、今後は過去の日記の編集の際や、夕食後に曲の原型モデルを作成する際にもポッドキャストを聴きたいと思う。フローニンゲン:2020/3/28(土)06:03

 

5666. デジタルアートの創作に向けて

 

目の前の静かな世界から、小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。小鳥たちの睡眠を妨害する気は甚だないが、彼が夜どこで寝ているのか気になる。昨夜も満天の星空を眺めながら、小鳥たちはどこで寝ているのかを考えていた。

 

今日は午後に時間を作って、この秋の一時帰国のためのフライトを予約したい。一時帰国するまでまだ半年以上もあるが、早めにフライトを確保したいと思う。

 

一時帰国のラフなスケッチを数分ほどで済ませることができたので、そのスケッチをもとに、フライトを確保する。頭とお尻については柔軟に変更が可能なので、望むようなフライトを確保することを優先させたい。

 

今朝方起床した時に、今後は作曲のみならず、絵画の創作にも着手してみようかと思った。これまでも水筆の色鉛筆を用いて毎日絵を描いており、描いた絵に水筆ペンで水を染み込ませ、シュタイナー教育で活用されてる滲み絵のようなものを描いてきた。それを描き始めてもう2年弱になるだろうか。

 

最初は色を用いず、心的空間に浮かび上がる幾何学模様をシャーペンで描いていた。そこから色鉛筆を用いるようになった。

 

ここから絵画の創作に着手すると言っても、それは物理次元で絵を描くのではなく、デジタル空間上でそれを行いたいと思っている。絵具を購入することや描いた絵の保管が面倒であり、そうしたコストを削減する上でもデジタル上で絵画を描いていくのが自分に合っているように思える。また、いつでもどこでも絵を描きたいという思いからすると、デジタル空間上で絵を描く方が都合がいい。

 

最近はテクノロジーの進歩のおかげか、デジタルで描かれたものでも随分と肉感があっていい。現在2枚ほど原画を所有している身からすると、近くで原画を見る時に得られるエネルギーは、原画の特権かもしれないが、工夫次第ではそうしたエネルギーすらもデジタルアート上で得られるかもしれない。

 

以前言及したように、人類は脳や意識が大して発達していないだけではなく、身体の機能も大して発達していない。未だ人類は飯を食べなければならないし、飯の消化にあれだけのエネルギーを費やす程度の身体しか持っていないのだ。

 

聞くところによると、人間の消化器官は牛や豚とほとんど変わらないそうであり、それらの動物の臓器も移植できるということを聞いたことがある——前者については確かに聞き、後者はうる覚えだが——。だが今後、人間の脳と意識、そして身体について研究が進み、テクノロジーがさらに発展を遂げれば、人間はもはや物理的な次元で生活をしなくなるかもしれないというSF的なことを考えていたのは昨日のことだった。

 

最初は脳だけが取り出され、身体はないが脳だけがその人の身体器官であり、バーチャル空間上に身体と意識があるような世界が誕生し始めても不思議ではない。そこからはさらに脳すらもが物理的次元で必要にならず、脳もバーチャル空間に移行する可能性がある。

 

人間が脳も意識も身体も、全てバーチャル空間に移行し、そこでデジタル人間のような新たな種が生み出される可能性もあるのではないか。そのようなことをふと考えていた。

 

そうした未来を見越してのことではないが、今行っている作曲も、全てデジタル空間上で行っている。絵画に関してもデジタル空間上で行いたいと思っているのはそれが理由でもある。

 

物理的な次元で楽譜を書いたり、絵を描いたりすると、それを保管することが手間なだけではなく、他者に共有することも難しい。だがデジタル空間上であれば、保管も共有も問題ない。

 

デジタルアートの制作に向けて、何か良い絵画創作ソフトがないかを調べてみよう。この秋に実家に帰省した時には、デジタルアートに関心を持っている父にも尋ねてみようと思う。

 

父も昔はエアブラシなどを使って物理的次元で絵を描いていたが、今は私と同様に、デジタル空間上での絵画創作に関心を持っているようであり、父の部屋にデジタルアートに関する書籍があったように思うので、それを見せてもらうことや父に話を聞いてみよう。

 

毎年実家に帰省するたびに、家の中に新しいものが増えていて驚かされる。昨年は、ギャッペの絨毯がリビングに敷かれていて、そこで初めてギャッペについて知った。その後、フローニンゲンに戻ってきてから、街の中心部にある絨毯屋の存在を知り、これまでもその店の前を通っていたのだが、これまでは絨毯に関心がなかったために、自分の認識空間においてはその店が存在していないも同然であった。

 

人間の関心と知識というのは恐ろしいものである。関心がなく、知識がなければ、ある対象は存在していないも同然なのだ。

 

今年実家に帰った際には、何か新しいものがあるか楽しみである。そう言えば、昨年は絨毯だけではなく、母がピアノを購入した。以前から電子ピアノはあったが、本物のピアノを購入したことに驚いたのを覚えている。

 

今年はひょっとすると、父がボートを買い替え、新しいボートが実家の目の前の砂浜に置かれているかもしれない。新しいボートであれば父と一緒に釣りに出かけてみたいし、釣りだけではなく、海から見える景色を絵で描きたいと思う。その際もデジタルで。フローニンゲン:2020/3/28(土)06:37

 

5667. 才能も関心も全くなかったこと

 

「お前は勉強と運動しかできないな」という言葉を中学校の時にある先生から言われたことをふと思い出す。時刻は午前6時半を迎え、空は薄ピンク色と水色が重なり合い、美色な世界を顕現している。

 

小鳥たちは相変わらず美しい合唱を奏でている。それが仮にオスたちのメスへのアピールだと分かっていても、むしろそれが微笑ましく、彼らの鳴き声から癒しと励ましを得ている。

 

中学生だった頃、ある先生から冒頭のような言葉を言われたのだが、それ以降も確かに自分は勉強と運動しかできないと思って長く人生を過ごしてきた。端的には、音楽や絵画などの芸術とは無縁の生活を送っていたように思う。

 

実際のところは音楽も絵画も身近なところにあり、一度も触ったことはないが、家には母が昔使っていたピアノがあったし、父は会社での仕事と並行して趣味で長らく絵を描いていた。

 

そう考えてみると、音楽と絵画は身近なところにあったのである。しかし、私には音楽と絵画の才能は微塵もなく、また関心もなかった。

 

小中学校の頃に美術の時間に絵を描く際には、物理的に存在するものを模写したりするのが本当に苦手であった。ある時、風景画を描きに学年全員で海辺に出かけることがあり、その時も風景という具象物を描くことが苦手な私は、風景を見ることなくして、心象風景を描くことにした。

 

そう言えば、成人になってからも、例えば3年前にノルウェーのオスロの美術館に足を運んだとき、そこでデッサンの体験ができる部屋があり、デッサンをしてみようと思い立ったのだが、親子の石像を見ながら、私だけが数学記号の「Σ」と「φ」か何かの記号を画用紙に描いてそれらの石像を表現しようとしていたことを思い出す。

 

才能も関心も全くなかったものが、今の自分を虜にしているというのはどういうことなのだろうか。才能も関心も全くなかったものが、自分の人生の全てを捧げてもいいものになっているというのはどういうことなのだろうか。人生というのは本当に不思議である。

 

天職というのはひょっとすると、才能も関心も全くなかったものが、ある日を境目に突然変貌を遂げ、自分を捉えて離さないものに変わることによって見出されるものなのかもしれない。

 

振り返れば、音楽も絵画も幼少期から身近なところにあったが、両親はそれらに自分の関心を向けるような強制を一切してこなかった。そのことに本当に感謝したい。

 

今このようにして、音楽と絵画に爆発的な関心を示し、それらに熱狂し、自己が創作行為と一体化している状態に辿り着けたのも、一切の強制がなかったことに起因しているように思える。

 

今日もまた音楽と絵画の探究に専心しよう。絵画に関しては、今は作曲ノートに水筆色鉛筆で絵を描く程度であり、もっぱら鑑賞のみだが、今後はデジタルアートの創作にも着手したい。

 

ヨーロッパで生活を始めてから、ヨーロッパ中を旅する際には常に美術館に足を運び、これまで数多くの美術館を巡ってきたことにも何かの意味があるだろう。おそらくそれは、鑑賞のみに自己を留めるのではなく、絵画の創り手になることを導くものだったのではないかと思う。

 

今年も引き続き、世界の様々な美術館を巡ろうと思う。直近で言えば、4月にはオランダのピエト·モンドリアンの美術館に足を運び、5月にはアテネの美術館を巡る。夏にはスイスのベルン、アスコナ、ドルナッハの美術館を巡り、秋には日本の美術館を巡る。

 

日々の活動の全てを創作につなげていく。逆に言えば、大して創作につながらないようなことには一切従事しない。

 

創作に対する霊感と刺激をもたらしてくれるものとそうでないものが存在するのは確かであり、そうでないものに関して時間を割くような愚行は決して犯さないようにする。

 

創ること、創ること、創ること。創ることだけがあり、創りながらにして自己と日々が新たに創られていく。フローニンゲン:2020/3/28(土)07:03

 

5668. 今朝方の夢

 

気がつくと、時刻は午後7時を迎えていた。午前4時半に起床してから今に至るまで、早朝の日課的実践を除いては、まだ日記しか執筆していない。そして今また日記を綴ろうとしている自分がいる。

 

いつも日記の分量については何もノルマを課していない。ただ朝と夜に書くことだけを決めており、それはもはや習慣と化しており、欧州でのこの4年間は少なくとも朝と夜には日記を執筆していた。

 

今はもっぱら作曲の学習と実践をしたいために、日中は極力日記を書かないようにしているぐらいだが、時に書きたいことが生まれたら、その衝動に任せて筆を取るようにしている。朝と夜の日記に関しても、基本的には全て衝動的に書いている。

 

その瞬間に湧き上がってくるものを言葉の形にしているだけだ。今朝もそのような形で言葉の形象化実践をしていたわけであるが、そうこうしているうちに午前7時を迎えていた。

 

日々の生活を眺めてみた時に、適度な休息を取りながらも、その休息が無駄な活動を招いてしまうことには注意しなければならない。とりわけインターネットを使っていると、無駄な情報や動画などの閲覧に向かってしまいがちなので、そのあたりは本当に注意が必要だ。

 

休息においては、窓の外をぼんやりと眺めたり、音楽に合わせて踊ったり、短い瞑想実践をしたりするといったような事柄に従事しようと思う。

 

それでは今朝方の夢を振り返り、その後、早朝の作曲実践に取り掛かりたい。夢の中で私は、実際に通っていた中学校にいた。

 

どうやらこれから掃除の時間らしく、生徒たちは皆教室の机を後ろに動かし、掃除の準備を始めていた。生徒全員が教室で掃除をするのではなく、各生徒は自分の持ち場に移動し始めた。

 

私は教室で、小中高時代の友人(YK)と話をしていた。彼と話をしていると、2人の女性友達(MS & MH)が喋くっている私たちを注意し、早く掃除に取り掛かれと述べてきた。

 

そこで私は友人と話をするのをやめ、渋々掃除に取り掛かろうとしたが、私は掃除をサボってどこかに行こうと思った。教室を後にし、1階に降りると、靴箱の向こう側の冷水機の周りに後輩たちがたむろしていた。

 

大半はバスケ部の後輩たちであり、彼らもまた掃除をサボってその場にしゃがみ込んで何か話をしていた。私は彼らに声を掛けた。

 

冷水機で水を飲もうとすると、いつもより水の出が悪く、故障か何かかと後輩たちに尋ねたが、それは故障ではなく水質には別に問題ないとのことだった。水を少々飲んだ後、靴箱で靴に履き替え、体育館の前を通ってグラウンドに出て行こうとした。

 

すると、そこで先生か誰かに呼び止められ、教室の掃除をしろと言われ、強制された掃除をするぐらいなら学校を辞めると私は述べた。私は強制された掃除ではなく、グラウンドに出て、太陽の光を浴びながら、グラウンドの雑草を自分のペースで抜きたかったのである。

 

体育館の前を通ってグラウンドに出てみると、グラウンドの脇の木陰で休んでいる2人の金髪女性の姿が目に入った。彼女たちはアメリカから転校してきたらしく、アメリカの学校には掃除の時間などないため、彼女たちは掃除の時間に何をしたらいいのか当惑しているようだった。

 

彼女たちの悩みを聞こうと思って彼女たちの方に歩み寄ろうとした時に夢の場面が変わった。次の夢の場面でも、私は引き続き学校のグラウンドにいた。

 

だが時間帯も状況も先ほどの夢とは違っていた。どこか秋に向かっていく日の朝の清々しさがそこにあった。

 

グラウンドで私は、青年時代に流行していたあるJ-POPの曲を替え歌にしながら気持ちよく歌っていた。その歌を聞いている人たちが周りにいて、彼らは友人だけではなく、見知らぬ人もいた。

 

私が原曲の歌詞をその場で見事に替え歌にしていく様子を周りの人たちは驚いていて、同時に彼らはそれを大いに楽しんでいるように思えた。フローニンゲン:2020/3/28(土)07:25

 

5669. 自我の特性:日本へのフライトを予約して

 

時刻は午後8時を迎えた。今宵も空には星が見え、三日月も見える。

 

夕食を摂っている最中にふと、自我の特性について考えを巡らせていた。私たちの自我は、この世界のごくわずかな一部に私たちを固着させる。

 

自我には狭い認識の枠組みが備わっており、自我はそれを通して世界を捉え、狭い景色に私たちを貼り付ける。自我はそれによって自身の生存を維持させているのだ。

 

このリアリティは、自我が私たちを固着させた点よりも遥かに大きな広さを持つ。私たちは絶えず自我を通して見えた点の世界の中を生きているということを忘れてはならず、その点の外側には無限の広さを持つリアリティが広がっていることを忘れてはならない。

 

本日の午後、無事にこの秋の一時帰国のフライトを確保することができた。毎年のことだが、なぜかベネルクス三国の地域から日本に帰るときのフライトの値段は安い。ビジネスクラスが往復25万円という破格の値段で予約できてしまうほどなのだ。

 

他の地域と比較して航空券の価格が安いのがなぜなのかよくわからない——イタリアからだとベネルクス三国と同じぐらいの価格だが、英国、フランス、ドイツからだと35万円ほどだ——。ベネルクス三国の次に安い地域はフィンランドだが、試しに地域設定をフィンランドにしてみて予約をしてみると、オランダからの方が安かった。

 

オランダからフィンランドを経由して日本にいく便よりも、フィンランドからは日本に直通で行ける便の方が安いのはなぜなのかいまだに謎である。前者は2回飛行機に乗り、そのうちの1つは全く同じ航空会社のフライトなのに。

 

これまで数年間はJALにお世話になっていたが、今回は世界の様々な航空会社のビジネスクラスを比較してみたく、行きはブリティシュ·エアウェイズ 、帰りはフィンエアーを利用することにした。

 

ビジネスクラスの比較に関する情報は巷に溢れており、それらの2社も例外ではなく、巷の情報ではフィンエアーの方が質の高いサービスを提供しているようだ。だがこれも自分で直接体験してみないとわからないため、行きと帰りで航空会社を変えた。

 

最初は今年もJALにお世話になろうと思っていたが、JALの場合、東京行きの便(フィンランドから日本に帰る場合、4月からは成田ではなく羽田に到着するそうだ)しかなく、今回は関空をどうしても利用したいと思っていたことも航空会社を変えた理由である。

 

東京に特に用事がないのと、できるだけ東京に近づきたくないという理由から関空を利用することにした。また、今回は福井県と石川県に行く旅を計画しており、両県に対しては関空からの方が圧倒的にアクセスがいい。

 

さらには、帰りに関しても山口県の実家から成田まで行くのが面倒であり、毎年成田空港近くのホテル日光成田に宿泊していたが、今回かはら関空近くのホテルに宿泊することにする。結局今回はフィンランドに前泊することなく、行きは直接関空に向かおうと思う。

 

アムステルダムを出発し、フィンランドに向かう便は昼前のものであり、それであれば前泊は必要ない。いつも行きに関してはほとんど疲れを感じない。問題は帰りである。

 

日本からフィンランドを経由してアムステルダムに到着するのは、大抵夜の6時半ぐらいであり、そこからフローニンゲンに向けて3時間弱列車に揺られるのが辛い。そうしたことから、今回は帰りに関してはスキポール空港内のホテルに2泊し、翌日に丸一日アムステルダムの美術館を巡ることにした。

 

4年ぶりに、レンブラント美術館とアムステルダム国立美術館に立ち寄ろうと思う。日本からの帰りはスキポール空港内のホテルに直行し、すぐに休んで、次の日を全て観光に充てる。そこでまた一泊し、万全の体調でフローニンゲンに戻る。

 

こうした体調管理をもう始めていこうと思う。体脂肪を含めて身体年齢は相変わらず17歳のままだが、それでも疲れを身体に溜めないようにする。

 

今回の一時帰国は合計で3週間ほどであり、ホテルに関してはまた後日予約をしようと思う。その際には、溜まったマイレージを活用しようと思う。とりあえずフライトを抑えることができて一安心である。フローニンゲン:2020/3/28(土)20:33

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