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5543-5546:フローニンゲンからの便り 2020年2月15日(土)

February 17, 2020

本日の言葉

Forgiveness is giving up all hope of a better past. Jack Kornfield

 

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5543. 共感と全体眺望認識

5544. 今朝方の夢

5545. 無数の可能世界・無限の可能性

5546. 外界と触れ合うことの大切さ

 

5543. 共感と全体眺望認識

 

今朝はゆったりと午前5時半過ぎに起床した。起床してすぐに書斎に行き、書斎の窓を開けると、小鳥たちの鳴き声が闇の方から聞こえて来た。

 

どうやら小鳥たちは早起きをしていたらしく、静かで落ち着いた鳴き声で自分を出迎えてくれた。窓辺に佇んで、少しばかり小鳥たちの鳴き声に耳を傾けていた。

 

毎日のことだが、昨日も雑多なことを考えていた。そして、少しずつ自分の認識世界が広がっている感覚を得ていた。

 

昨日はぼんやりと、共感というものについて考えていた。異なる内的世界を持つ人たちが共感するというその現象について、いくつかの観点から考えを巡らし、共感が持つ力について考えていた。

 

そう言えば、フローニンゲン大学での1年目の研究における1つのテーマは「シンクロナイゼーション(同調現象)」であり、それは共感と多分につながっている。2つの動的なシステムないしは生命体が共振する現象は大変興味深い。

 

昨日もまた自己及び社会を俯瞰的に眺めるような意識状態に参入する時間があった。そこから私は、全体を眺望しているようなこの感覚を意識的に生み出す訓練、ないしはそれを強化する訓練をしてみようと思った。

 

その訓練方法としてシンプルなものを作り、それを用いる形で特殊な意識状態を作り、全体を眺望する感覚を維持·強化していく。この実践は、今日の読書や作曲実践においても活用していく。それによって、知識空間や音楽空間内で新しい全体構造(ゲシュタルト)がより構築されていくだろう。

 

昨夜は、自然の深い場所に居を構え、そこで作曲実践や研究活動に従事していくことについて言及していたように思う。空気の澄んだ自然の中での生活。そうした生活を近い将来に実現させたい。今はその候補地を探索し、吟味する時期だ。

 

無なのだが有でもある空(くう)なる存在空間から音を形にする楽しさと喜びを昨日も味わっていた。今日もそうした楽しさと喜びを感じたい。いや、感じようとしなくてもそれを感じられるだろう。創造こそが生きることなのだから。

 

曲を形にすることに際して芽生える自己生誕の喜び。1つの曲を作るたびにそれが湧き上がって来て、自分はまた新しく誕生したのだと知る。

 

そこには誕生の喜びに加えて、確かに自分が今というその瞬間に生きていたのだという生存実感及び存在実感のようなものも芽生える。そうした感覚に今日も浸り切ろう。フローニンゲン:2020/2/15(土)06:42

 

5544. 今朝方の夢

 

今朝方もいくつか印象に残る夢を見ていた。小鳥たちの美しいさえずりに耳を傾けながら、少しばかり時計の針を巻き戻し、夢の世界に戻ってみよう。

 

夢の中で私は、ホテルの一室にいた。そこはどうやら日本のホテルのようである。その部屋はとても広く、周りを見ると、大学時代のゼミのメンバーとゼミでお世話になっていた先生がいた。

 

今からその部屋で先生からレクチャーを受け、1人1人の研究の進捗状況を報告することになっていた。早速先生はレクチャーを開始し、メンバーの何人から質問が出て来た。

 

不遜な言い方であるが、先生のレクチャーを聞きながら、私はもうこの分野に関しては先生よりも精通しており、先生から学ぶことはほとんどないように思えていた。そうしたこともあり、私は少し退屈さを感じながらその場にいた。

 

すると夢の場面が変わり、私の目の前に小中学校時代の友人がいた。彼と話をしていたその場所の説明は難しい。そこは屋内と屋外の境目のない不思議な空間だった。

 

ちょうど私たちが立っている場所は屋内に属するようであり、一応部屋の形をしている。その部屋の隣には大浴場がある。しかしその大浴場には湯船はなく、複数のシャワーしかない。

 

少しばかり友人と話をしていると、私たちの目の前に見知らぬ若い女性が2人ほど現れた。最初私は、彼女たちは人間だと思っていたのだが、どうやら人間の姿をした人工物のようだった。ただし、それはロボットのような機械というよりも、やはり生身の人間であるという印象を私に与えた。それぐらいに、その人工物は人間に近しい存在だった。

 

するとどういうわけか、彼と私は、目の前の人工物を除去する必要があると察した。しかし、2体の人工物は、どう見ても人間の若い女性であり、しかもこちらに危害を加える様子もなく、むしろ心が綺麗なように思えた。そう思わせる笑顔を振りまいていたのである。

 

2体の人工物と少し会話をしたところ、その印象は消えるどこからむしろ強くなっていった。だが、私たちはどうしてもその人工物をこの世界から葬らなければならないと確信していた。

 

2体の人工物が壁際に向かって歩き出し、壁に掛かっているパネルを舐め始めた。見るとそこには食べ物のエキスが塗られているようであった。

 

友人と私は、2体の人工物を始末するために、それらが口を付けているパネルの箇所に殺虫剤を吹きかけることにした。なぜ直接それらの人工物に殺虫剤をかけなかったかというと、そうすると逃げられてしまうと思ったからである。

 

2体の人工物は直接的な攻撃を敏感に察知するように作られているようだったが、間接的な攻撃は気が付かないようだった。そうしたことからも、次に口をつける箇所に殺虫剤を吹きかけることが懸命だと思われたのである。

 

実際に殺虫剤を吹きかけ、その箇所を1体の人工物が舐めると、その人工物の容態が変わった。やはりその人工物は、人間の手によって作られながらも、それは決してロボットではなく、生身の人間に近い生命体なのだと思った。

 

その人工物は目眩を起こし、その場に倒れ込んだ。そこで友人の彼は、持っていた包丁でその人工物の腹を何度も刺し、ついにその人工物を始末した。

 

最初に包丁で刺された時、その人工物は悲鳴を上げていた。若い女性の悲鳴は、どこか私に罪悪感を感じさせた。

 

その人工物は始終抵抗してジタバタしていたが、友人が身体を押さえつけていたので身動きが取れないようであり、包丁で滅多刺しにされた後に静かになった。その光景はとても残酷のように思えた。

 

1体の人工物を始末した後、もう1体の方を見ると、もう1対はまだその場にいて壁のパネルに付着したエキスを舐めているようだった。ところが、私がそちらの方を向いた瞬間に、その人工物は消えた。

 

包丁で滅多刺しにされた人工物からは大量の血が溢れ出しており、友人はその死骸を大きな布団に包み、その場を綺麗にし始めた。ちょうど隣が大浴場だったので、布団に包めた人工物の死骸を大浴場の方に持っていくことになった。

 

彼は、身体に飛び散った血をシャワーを使って洗い流し始めた。どうやら私にも血が飛び散っていたようなので、私もシャワーを浴びることにした。

 

すると、その大浴場にまたしても別の2人の若い女性が談笑しながらやって来た。2人を見ると、またしても彼女たちは人工物のようだった。

 

その人工物たちは、私たちに飛び散った大量の血に対して驚いているようであり、悲鳴を上げた。しかし、その人工物たちは確かに飛び散った血に対して驚いているようでありながらも、私たちがいる背後の壁を指差して悲鳴を上げているようだった。

 

震える指が示す壁の方を振り返って見てみると、なんとそこには先ほど刺し殺された人工物の血で書かれた絵とメッセージがあった。そこに描かれている絵は、友人と私がその人工物を殺したことを示唆するものだった。「これはまずいことになったな」と私は思い、そこで夢の場面が変わった。

 

次の夢の場面は、どこか1つ前の連続している感覚があった。というのも、夢の場面が変わった後も、若い女性の姿をした人工物を殺した感覚が自分の内側にあったからである。そうした感覚を引きずりながら、私はある建物の中にいた。

 

その建物の外はもう違う国のようであり、建物の中でパスポートコントロールが行われていた。私はパスポートコントロールの場所に向かい、中国人風の係員にパスポートを提示した。

 

すると、パスポートだけではなく、大学の教授からの推薦状も見せて欲しいと言われたので、それをクリアファイルから取り出して手渡した。そこでは何の問題もなく、すぐに私は建物の外に出ることができた。

 

外に一歩足を踏み出してみると、外は真っ暗であり、空を見ると、どす黒い雲が空を覆っていた。そう言えば、小中高時代の2人の親友(NK&SI)もパスポートコントロールを済ませて後からやって来ることを知っていたので、その場で待つことにした。

 

だが、用を足したくなったので、建物の外にあるトイレに行くことにした。その建物はそもそも複合施設のようになっており、中にはお洒落なレストランやカフェがあった。建物の外にもレストランがあり、その横にあるトイレに向かったのである。

 

トイレの前に辿り着くと、そこには4つのトイレがあった。男性用、女性用、男性用かつ女性用、女性用かつ男性用の4つである。最後の2つに関しては、男性が先に表示されるのか、女性が表示されるのかの違いがあった。ただし、中がどのように違っているのかわからなかったため、私は男性用のトイレに入った。

 

すると案の定、そこはとても綺麗なトイレだった。だが、用を足す便器に向かっていくと、そこが不思議な空間であることに気づいたのである。

 

隣の空間は女性用のトイレのはずだったのだが、なぜかそこが女湯になっており、今いる場所は男湯のようだった。そこには確かに便器があったが、浴場の中で用を足すことに気が引けてしまい、私は用を足さないままに外に出ようとした。

 

すると、水着を着用した女性たちが男湯の方にやって来て、湯船に浸かり始めた。すでに湯船に浸かっていた男性は何も驚いた表情を見せず、それを当たり前のように受け止めているようだった。

 

「何なんだ、この空間は?」と思いながら、私はその場を後にした。トイレのドアを開けて外に出てみると、相変わらず辺りは真っ暗だった。

 

まだ親友たちはやって来てないようだったので、私は屋外のレストランのテーブル席に腰掛けて、彼らを待つことにした。携帯のバッテリー残量が心配だったため、電源コンセントがないかを探して足元を確認すると、ちょうどいい場所にコンセントがあった。すぐにそこに充電器を差し込んで充電を始めた。

 

すると、私の耳元でブンブンとハチが鳴っていた。ハチに刺されるのは嫌だったので、手で少しばかり追い払おうとしたところ、それが逆効果だったのか、ハチが私に吸い寄せられるようにこちらに向かって来た。

 

それは決してこちらを攻撃して来るような感じではなく、文字通り、私に懐いて来たのである。私はその場で静かにしていようと思い、身動きせずにその場に佇むことにした。

 

すると、ハチは私の耳元に向かい、ブンブンと音を鳴らした後に自分の首元に移動した。すると、なぜかハチの口元が脳内でクローズアップされ、ハチが自分の首元でホコリを取ってくれていることに気づいたのである。

 

ハチが自分の体を綺麗にしてくれていることに気づき、少しばかり安堵し、私は引き続きその場に佇んでいることにした。フローニンゲン:2020/2/15(土)07:24

 

5545. 無数の可能世界・無限の可能性

 

時刻は午後7時半を迎えた。つい先ほどから雨が降り始めた。少々風があるようであり、小雨の粒が書斎の窓ガラスに少しずつ付着していく。

 

少しずつの前進。確かに今日もまたそのような1日だった。明日もそうなるだろう。

 

そして、明後日も、明々後日も。絶えず小さく少しずつ進んでいくこと。それを絶えず続けていく。

 

窓ガラスに少しずつ付着する雨滴のように生きること。そうしよう。

 

今日は、ソール·クリプキの主著“Naming and Necessity”を読んだ。この名著から得られるものは多かった。

 

人は単に固有な存在であるだけではなく、その存在容態が無限な広がりを持っていることに気づかされた。これを書いている自分と、これを書かなかった自分がいる。ここでもすでに2人の自分がいることになる。

 

このようにして、自己はいかようにも派生していく。であれば、未来の自己とはこのようにして無限の可能性を持っていることがわかる。

 

そして、今この瞬間に未来の自己の1つを選び取り、形作ることも可能だ。いかようにも自己を形作ることが可能なのだ。

 

過去·現在·未来のどのような時間軸における自己も無限に存在している。この自らの気づきに励まされる。

 

窓ガラスに付着した無数の雨滴。それが今、街灯と室内の明かりで輝いている。そうか、自己はそのようであったか。

 

自分が作曲を始めたあの瞬間にも、未来からの投げ掛けがあり、それをその瞬間の自分が受け取ったのだと思う。無数の未来につながる分岐点が目の前に開示されている。それらの何を選ぶかはこの瞬間の自分次第だ。

 

その選択が未来の自己につながり、未来の自己が現在にやって来る。もう選択をしてしまったのだから、それがやって来るのは当然だ。

 

クリプキの書籍の流れで、先日届いたデイヴィッド·ルイスの“On the Plurality of Worlds”を読み始めた。彼が提唱した「様相実在論」は大変面白い。

 

ルイスの書籍を読んだ後は、引き続き哲学書を読むか、意識状態に関する書籍を読む。前者であれば、オックスフォード大学出版から出版された“The Oxford Handbook of Philosophy of Mind”か“The Oxford Handbook of Philosophy of Time”を読み、後者であればチャールズ·タートが執筆した“States” of Consicousness”を読む。

 

その後に読むことを予定しているのは、白魔術に関する書籍である。文字通り、白魔術に関する書籍だ。

 

それは、アリス·ベイリーの“A Treatise of White Magic”という650ページに渡る書籍である。現代科学と現代哲学を探究し、尚且つ意識の探究をしている者にとってみれば、白魔術というのは何ら驚くべき対象ではないだろう。

 

科学と非科学の線引きに関しては諸々の自分なりの基準がある。昨日も改めて振り返っていたが、私が取得した最初の修士号は幾分文系と括られる類のものであり、その後にさらに取得した2つの修士号は理系に括られるものだ。

 

それら3つの修士号を取得する際に獲得された知識が、科学と非科学の線引きを明瞭なものにしている。その観点でベイリーの書籍を読めば、そこで展開されている白魔術と呼ばれるものがいかなるものかが自ずとわかって来るだろう。

 

ベイリーがなぜ「黒魔術」ではなく「白魔術」を主題に選んだのか。その理由が自分なりに推察される。それについてはここに書かない。

 

そう言えば、その理由に関連したことを、ひと月前まで行われていたオンラインゼミナールの中で述べていたように思う。小雨の降る景色、そして小雨が窓にやって来る音が大変心地良い。フローニンゲン:2020/2/15(土)20:02

 

5546. 外界と触れ合うことの大切さ

 

振り返ってみると、今日もまた穏やかな1日だった。今日もまた絶えず自己と世界に向き合うような1日だった。

 

自己と向き合うことは世界と向き合うことであり、世界と向き合うことは自己と向き合うことである。

 

今日も夕方に、近所のスーパーに買い物がてらジョギングをした。毎日このようにして軽い運動をしていることが、どれほど自分の心身の状態を整えてくれることだろうか。

 

自分のライフワークの性質上、室内にいることがどうしても多いのだが、一日中書斎の中に籠っていることがどれほど不健康なことかは嫌というほど知っている。

 

オランダにやって来た初年度は、大学院に行く必要がない日は一日中家にいることもあったが、それは端的には心身の流れを滞らせていた。家でヨガマットを敷いてヨガをしたとしても、実際に外界に出ていき、そこで外の空気を吸い、絶えず呼吸を続ける外の世界に触れること以上の気分転換はないことを教えてもらった。

 

かのモーツァルトもベートーヴェンも、カントもアインシュタインも皆、毎日必ず散歩をしていた。探究や創造活動に従事する者の中で外に出なくていいのは、彼らを凌ぐ大天才だけだ。そしておそらく、そのような人間はいないだろう。

 

一時帰国して実家にいる時は、実家の目の前に広がる瀬戸内海を散歩することが最大の楽しみである。その散歩がどれだけ大きな気分転換をもたらしてくれるか。脳がデフォルト·モード·ネットワークの状態となり、脳波も意識の状態も、さらなる探究と創造活動に最適の状態になる。外の世界を散歩をすることにはそうした力がある。

 

明日は一日中雨とのことだから悩ましい。何とか雨が降っていない時間帯があればと思う。

 

昨夜も書き留めていたように、今後の理想は、家の目の前が自然であることだ。シベリウスのように、自宅の周りが森に囲まれているのも憧れる。グリーグのように、岬の近くに居を構えるのもいいだろう。贅沢を言えば、海川山森の全てが家の近くにあれば最高だ。

 

人生は茫洋とした物語だが、それでいて光に満ちてもいる。この人生は、本当に1つの物語なのだろう。しかもしれは、可能世界論が示唆するように、無限の分岐点を持つ。その分岐点を作るのは、関係性なのだろう。

 

自己と他者、そして世界との関係性が無限の分岐点を生み出していく。様々な人たちと織りなす物語として自分の人生がある。そのようなことを改めて思う。

 

午後にふと、機械言語と異なり、自然言語に曖昧性が多分に含まれているのは、無限の可能世界を担保するためなのではないか、そして担保のみならず、そうした無限の可能世界を生み出すためではないかと思った。

 

自らにおいては、無限の可能世界の存在に気づき、自分が望む世界を選択していくこと。他者の成長支援においては、そうした選択ができるように支援していくことを行っていく。

 

今後いかなる分野の探究を行うにしても、哲学はその根幹となる。また、創造活動においても哲学は基盤をなし、創造活動の大きな養分になる。フローニンゲン:2020/2/15(土)20:23

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