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5434-5437:ミラノからの便り 2020年1月7日(火)


本日の言葉

Happiness is a state of inner fulfilment, not the gratification of inexhaustible desires for outward things. Matthieu Ricard

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タイトル一覧

5434.【ミラノ旅行記】治癒と変容が進む旅

5435.【ミラノ旅行記】今朝方の夢:キリコの形而上学的世界

5436.【ミラノ旅行記】コスミック・ヒーリングの実践

5437.【ミラノ旅行記】今回の旅で起こっている超常的な体験

5434.【ミラノ旅行記】治癒と変容が進む旅

時刻は午前5時を迎えた。幸いにもミラノは晴天続きであり、ミラノの地を観光する上ではこれ以上高望みすることのできないほどに天気に恵まれている。

とはいえ今は1月の初旬であるから、この地の気温が低いことは確かである。実際に昨日は正午過ぎまで肌を刺すような寒さがあり、指先がかじかんでしまい、自然と鼻水が垂れてくるような気温であった。

当然手袋を持参しているのだが、観光中は携帯の地図を見ることが多く、そのために手袋を外していることが多い。今私が持っている手袋は携帯の画面を操作することができることを売りの一つにしているのだが、実際のところは画面の操作が非常に難しい。そうしたこともあって手袋をしないままに観光する羽目になってしまっている。

今日は昨日よりも一段と冷え込んでおり、今の気温はマイナス1度であり、なんとここからまだもう1度ほど気温が下がり、午前8時の段階でピークのマイナス2度となる。ちょうどホテルのレストランで朝食を摂るときに、外の世界はそうした気温に達するらしい。

朝食を摂り終え、9時半を目処にホテルを出発しようと思っているのだが、その時の気温もまだマイナスのままであり、昼過ぎにならないと0度を超えてこないような状況だ。だがこうした気温の低さがあったとしても、空が晴れであることが私を嬉しくさせる。

ミラノの滞在もとても充実した形で進行していく。今ふと気づいたが、フローニンゲンの自宅を出発したのはちょうど1週間前のことだったのだ。どこかもう1ヶ月以上も自宅から離れているような感覚がある。

1週間前の自分とはもはや別人の自分がここにいる。とりわけ内的感覚とそうした感覚を生み出す存在がまるっきり異なってしまった。そのようなことを感じさせる。

旅は本当に自分を変容させてくれるようだ。いや、変容のみならず、そこには何かしらの治癒もある。

治癒と変容が両方あって初めて片方が成立するのかもしれない。治癒は変容にとってなくてはならないものであり、変容は治癒にとってなくてはならないものだったのだ。だからこそ私は、治癒と変容の両方に関心を持っており、それを探究するためにより一層学習と実践をしていこうと思っているのだろう。

大きな治癒と変容が静かに生起する今回の旅。フローニンゲンの自宅を出発してからのこの1週間の密度の濃さ。その期間において考えたこと、感じたことは多岐に渡っており、それらを通じて自己がどんどんと変貌を遂げていく。

秩序化された普段の生活を離れて旅に出かけていくことは、確かに時に不便なこともあるのだが、それでも旅が持つ効能は計り知れない。旅が持つ治癒と変容の作用の大きさを考えてみたとき、自然と存在が旅に向けて動き出す。そのような存在として自己があるようだ。

簡単に今日の予定を書き留めておくと、今日は滞在2日目に訪れる予定だったブレラ絵画館に行く。ここはミラノを代表する美術館であり、ナポレオンによって収集された北イタリアのルネッサンス絵画が数百点以上所蔵されている美術館である。とりわけ、ラファエロの名画に関心があり、それを見ることを楽しみにしている。

この美術館を堪能した後に、そこから歩いて少しのところにあるスフォルツェスコ城美術館に行く。ここも滞在2日目に訪れたのだが、その日は月の最初の日曜日ということもあり、長蛇の列のために入館できなかった。ここでもダ·ヴィンチの特別展示が行われており、それを楽しみにしている。その他にも、ミケランジェロが死の数日前まで制作していた「ロンダニーニのピエタ」を見ることも楽しみの一つである。

この美術館はその他にもたくさんの所蔵品があり、日曜日に訪れたときにその大きさに圧倒されたため、今日の午後はこの美術館でゆっくりと過ごすことになるだろう。

今日はこれらの2カ所だけを訪れ、帰りに近くのオーガニックスーパーに立ち寄って夕食を購入したい。今日もまた治癒と変容が進む1日になるだろう。ミラノ:2020/1/7(火)05:40

5435.【ミラノ旅行記】今朝方の夢:キリコの形而上学的世界

今日はゆっくりと4時半過ぎに起床したこともあり、目覚めた時から心身が全快している感覚があった。昨日も複数の美術館·博物館を巡っていたこともあり、随分と身体を動かした。フローニンゲンの自宅で就寝する際にも横になったらすぐに眠ることができるのだが、旅の最中は入眠の速度はさらに速い。昨夜もほんの一瞬で入眠に至ったように思う。

昨日の朝方にも夢を見ていたのだが、それを書き留めることをしていなかったのでもうそれについては忘れてしまっている。今朝方も夢を見て、今朝はそれを書き留めておいた。

夢の中では、幼少時代に見ていたテレビアニメのキャラクターの2人が登場していた。それは主人公の息子とその友人であった。

2人は共に格闘の才能に溢れており、小さいながらも彼らの格闘能力は非常に高かった。私は2人の様子を彼らが生きている世界の外側から眺めていた。

すると、彼らが運河沿いを歩いているときに、彼らの前方から一体の敵がやってきた。その敵は不死身の存在であり、外見はふくよかで優しそうに見えるのだが、ひとたび戦闘に入ると、とんでもない力を発揮する。

2人は確かに格闘の才能があるのだが、その敵に挑むにはまだ早すぎると私は思っていた。ところが彼らは勇敢にもその敵と戦い始めたのである。

だが戦闘が始まってみると、力の差が一瞬にして露呈し、2人は体を変化させて敵から身を隠す手段に出た。のほほんとしたその敵は、彼らの変身術に翻弄されたようであり、2人は無事にその場から立ち去ることができた。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、小中学校時代の友達数名と一緒に映画を見ていた。ただしそこは映画館ではなかった。白い壁に囲まれた部屋の中に私たちはいて、壁にかけられた小さいスクリーンに映し出された映画をこれから見ようとしていた。

映画が上映され始めると、スクリーンと自分が立っている目の高さが合っていないと思い、私はその場にしゃがんだ。すると周りの友人だちもおもむろにしゃがみ始めた。

しゃがんでみてすぐに気づいたのだが、お尻の下に何も敷いていないと少し居心地が悪いと思われたので、その部屋の隅っこに置かれていたクッションを取りに行くことにした。

私は近くにいた2人の女性友達(AS & HK)にクッションが必要かを尋ね、彼女たちの分までクッションを取ってくることにした。2人にクッションを渡したところで夢から覚めた。今朝方はそのような夢を見ていた。

昨日訪れたキリコの特別展示で改めて気づいたのだが、キリコは無意識の世界を深く探究しており、その世界で知覚されたことを絵画にしていた。無意識からインスピレーションを得て、あのように独特な絵画を制作して行ったのである。

キリコの絵は「形而上学的絵画」と呼ばれたりもしている。自然現象の背後にある目には見えない世界を描き出したキリコ。五感で捉えられる現実世界を超えた領域の探究とそこから得られたインスピレーションをもとに絵画を描き続けていったキリコ。

キリコの絵の前に立って彼の作品を見るとき、私の脳はいつもと違うように動き出していた。キリコの絵にはデジャブ的な感覚を引き起こす作用があることはよく知られているが、実際に彼の絵を見たときに確かにそれに似た感覚があった。彼の作品が持つ形而上学的な性質がそうした作用を引き起こしているのではないか、そのようなことを彼の作品を前にして考えていた。

キリコはショーペンハウアーやニーチェを青年期に愛しており、そこから古代ギリシャの哲学へと関心を移して行った。実際にキリコの絵には古代ギリシャをモチーフにしたものが数多くある。

キリコが描く古代ギリシャをモチーフにした絵を眺めていると、時空を超えて、自分が生まれるよりも遥か昔の人間世界に戻っていくような感覚がもたらされることがある。外見上激しさがある絵においても、絶対的な静けさがそこにある。こうした究極的な静けさをもたらすのはキリコの形而上学的な特性ゆえなのかもしれない。

私も自らの形而上学的な世界の中で静かに今日という日を過ごしていく。そして、そうした形而上学的な世界そのものを開拓していく実践を今日も行い、内なる静けさを深めていく。ミラノ:2020/1/7(火)06:13

5436.【ミラノ旅行記】コスミック・ヒーリングの実践

——旅は私たちを豊かにしてくれる。もし旅に出る時間的·金銭的余裕がないのであれば、想像力を働かせなければならない——クロード·ドビュッシー

時刻は午後5時を迎えた。ミラノ滞在4日目がゆっくりと終わりに向かっている。

今日は2つの美術館に訪れ、今日もまたとても充実した1日だった。旅の1日1日は豊かな時間を提供してくれ、それによって自己そのものが豊かになっていく実感がある。

今朝方ホテルを出発した際に、旅は麻薬のような意識変容作用があるということを思った。私は知らず知らずして、そのような作用を持つ旅をこれまで繰り返してきた。世界の様々な場所に行き、その場所に固有の意識変容作用を得ながら自己が少しずつ変貌を遂げていったのである。

今回のマルタとミラノの旅もまたそれぞれに固有の意識変容作用があり、それは自己の肥やしになっていった。だが私は、旅を自らの肥やしのために行うのではなく、現在過去未来の人々の様々なリアリティを理解し、それをもとにして治癒と変容実践をこの世界に対して行うためにあるということを考えた。そうした旅をこれからも行っていく。

来月末にはベルギーに行こうと思う。以前言及したベルギーの主要3都市のそれぞれに3泊4日ぐらいで滞在する旅をしよう。

3月か4月にはギリシャに行こうと思う。その頃はまだフローニンゲンは寒さが残っているが、ギリシャは春の様相を帯びているかもしれない。

ワーグナー、ニーチェ、キリコが陶酔したギリシャ文明に触れる時期がようやくやってきた。ギリシャに訪れるのであれば、まずはアテネに足を運んでみよう。アテネで訪れたい場所については少し前にもう調べてしまっている。

昨日見たキリコのある絵を思い返している。キリコが地中海やギリシャ文明を自身の空想世界に思い描いていたように、私は地球を自分の想像世界の中で思い浮かべ、地球全体に対して治癒と変容の働きかけをしているヴィジュアリゼーションの実践を毎日行うようにした。

自己を治癒するヴィジュアリゼーションをするのではなく、自己はオープンシステムとして常に周りの他者や環境と相互作用としているのだから、他者や社会を含めた環境全体、しかもそれを一気に拡張して地球全体の治癒をしているヴィジュアリゼーションをしている。自分の気を地球に送っているイメージを持ってそれを行っている。

慣れてきたらその対象範囲を地球に限定するのではなく、地球は他の惑星や銀河と相互作用しているのだから、宇宙全体に対して気を送っているイメージを持ち、宇宙全体の治癒をヴィジュアリゼーションしてみよう。それを「コスミック·ヒーリング」と命名し、朝·昼·晩、慣れてくれば1日の中でふとしたときに何度も行っていこう。

ちょうどフローニンゲンの自宅には、ニッサン·インゲル先生と共同制作した絵画のモチーフに地球と宇宙空間が描かれているため、その絵を見ながら自分の気を地球全体と宇宙全体に送っているイメージを持ってみよう。

自分自身の治癒と変容を実現させることに際して、自己という狭い範囲でそれを捉えない。自己の境界線を一気に拡張し、それを溶解させてしまう形で地球全体や宇宙全体に広げていく。地球全体と宇宙全体の治癒と変容を通じて自己の治癒と変容を実現させるという発想を持って、日々絶えずエネルギーワークとしてのヴィジュアリゼーションの実践を行っていく。そのようなことをミラノの街を歩いている最中、さらには美術館にいる間中に考えていた。

意識が拡張し、地球や宇宙と手を取り合っている自己がここにいる。彼らとようやく握手を交わすことができた。諸々のことが始まるのはこれからだ。ミラノ:2020/1/7(火)17:22

5437.【ミラノ旅行記】今回の旅で起こっている超常的な体験

昨日キリコの特別展示を見ていた時、ある作品の前で立ち止まり、その作品の解説文をメモしている自分がいた。そこには、ホメロスの『オデュッセイア』の主人公であるユリシーズ (Ulysses)が裸で海辺に座っている姿が描かれていた。その時に初めてユリシーズの名前を知り、彼が古代ギリシアの英雄であることを知った。

説明文を読んでいると、ユリシーズは海という存在を自らの運命と一体のものであると見ていたことに感銘を受けた。いやそれは「共感」という言葉の方が正しいかもしれない。

先日滞在していたマルタで見た地中海を通じて幼少時代の原風景である瀬戸内海を思い出し、ユリシーズの思いに共感したのである。海という存在及びそのシンボルとそれが喚起する諸々の感覚や感情は、自分にとってまだ何か重要な意味を持っていそうである。

今日は予定通り、ブレラ絵画館とスフォルツェスコ城美術館に足を運んだ。最初に訪れたブレラ絵画館でもキリコの作品を見ることができ、またしてもキリコの絵画作品は私の脳を刺激した。

絵画を鑑賞するという体験は、きっと脳に何かしらの影響を与えているに違いない。ミラノに滞在中に訪れた美術館では必ず脳がうずき、そうした体験を通じて、絵画が脳に与える影響を確信し始めている。

ここからは絵画のみならず、絵画と音楽の鑑賞体験が脳さらには意識に与える影響について探究していこうと思う。特に脳と意識に与える治癒と変容作用が関心事項である。

ブレラ絵画館にはスケールの大きな作品がいくつも並んでおり、それらの作品には圧倒されるものがあった。そこに込められている存在エネルギー及び創造エネルギーは尋常ではない力を持っていた。

一度イメージの世界の中で、ブレラ絵画館に所蔵されている全ての作品が発しているエネルギーが一つの巨大なエネルギーとなり、それが一気に自分の内側に流れ込んでくる不思議な感覚があった。実はこれと似たようなことをここ数日間毎日体験している。そうした体験を毎日しているものだから、毎晩就寝する際に目を閉じると、まぶたの裏に鮮やかな光を知覚する体験をしている。

またこれは幾分奇妙に響くかもしれないが、おそらくそうした体験に伴って、個の保存の衝動、つまり自我が自我の存在を守ろうとする衝動が緩み、自我が溶解していく体験をしている。その際には自己意識なるものが極度に希薄化され、自己が誰だかわからなくなる。

それに類する体験はこれまで何度もしており、最初に体験したのはアメリカに留学していた時のことだった。その体験については過去の日記で何度も言及している。

最初の体験の時は、それはあまりにも恐怖であったが、今はもうそれに慣れてしまい、そうした体験をすればするだけ、自己の境界線が緩み、そしてそれが拡張されているのを実感する。まさに自我が囚われから解放されつつあるプロセスをその体験は示している。

そうした体験に伴って、マルタにやってきてからは幻聴のようなものが聴こえる。それは音楽を聴いているときにやってくるものであり、端的にはその曲の作り手が込めた意味聴き取れるという類の幻聴だ。そのため、決して何か聞こえない音が聞こえてくるというものではない。あえて言うのであれば、作曲家が曲に込めた意味やエネルギーが音楽的な何かとして聴覚に入ってくる感じである。

それら2つの体験をもたらしたのは、もちろん美術館で芸術作品に触れただけではないだろうが、それは間違いなく大きい。美術館に所蔵されている全ての作品が一つの集合的な存在エネルギー及び創造エネルギーとなり、それが自分の内側に流れ込んで来るという体験をしているのだから、やはりその影響は大きいと言わざるを得ないだろう。

こうした体験はオカルト的でも何でもなく、インテグラル理論の観点で言えば、ゾーン1の現象学的体験として個人に起こっても何ら不思議ではないことである。そして何よりも、こうした体験に類するトランスパーソナル的な体験は、トランスパーソナル心理学の観点から随分と説明が可能である。

今回の旅を総括するのはまだ早いが、マルタとミラノではこれまでの旅にないような体験をさせてもらっている。そうした体験を「している」のではなく、そうした体験を「与えてもらっている」のである。

そこには必然的な意味があり、それは自己の天命や運命と分かち難く結びついている。もう私は、自分の天命と運命と微塵も離れない形でそれらの中でそれらを通じて毎日を生きているようだ。ミラノ:2020/1/7(火)17:48

 
 
 

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