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5384-5387:フローニンゲンからの便り 2019年12月24日(火)

December 26, 2019

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5384. 死を遂げようとする2つのものに関する夢

5385. 一音に込めるエネルギー

5386. 雷鳴のような気づきを受けて:シュタイナーの思想探究を受託して

5387. 閉まっていたコピー屋:仮眠中の知覚体験

 

5384. 死を遂げようとする2つのものに関する夢

 

時刻は午前4時を迎えようとしている。明日はクリスマスであり、それを祝うためなのか、起床してからこの時間までにすでに2回ほど爆竹の音が外から聞こえた。

 

今朝の起床は午前3時過ぎ(3:14)であり、昨日の起床時間より1分ほど早い起床となった。このあたり、何時何分に起きたのかも記録しておくと、自分の生活リズムがわかって面白いかもしれないとふと思う。

 

早速ではあるが、今朝方に見た印象的な夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、公民館のような場所にいた。そこは小さな集会場になっていて、建物の高さは1階しかない。

 

1階に比較的広々とした部屋があったのだが、その1室しかないようだった。大学のサークルでお世話になっていた2人の先輩が若くしてお亡くなりになられ、2人の葬儀に参加するために私はその場にいた。

 

2人がどれだけ多くの人に愛されていたかを物語るように、その場には大勢の関係者がいた。しかしなぜかその場には、2人とは接点がないであろう小中学校時代の友人たちがかなりいた。それは男女問わず、10人ほどだったように思う。

 

部屋に大勢の人数が集まってしばらくすると、これから葬儀を始めるに際して、司会者のような人物が参加者1人1人にある依頼をした。それは何かというと、今日この場にいる目的について簡単にシェアをしてほしいというものだった。「この場にいる目的」を問うことは、少々野暮なのではないかと思ったが、それを断れるような雰囲気ではなく、私も少しばかり今日この場にいる目的について考えた。

 

すると、最初のシェアが始まった。見るとそこには、小中学校時代に野球部に所属していた友人がいた。

 

彼は開口一番、自分の過去の歩みについて簡単に触れ始めた。サッカーを長くやってきて救われた体験があり、大学では仏教を学び、今は住職をしているとのことであった。それを聞きながら、「彼は野球部に所属していたはずなのだが」と思ったが、彼のシェアはすぐに終わり、何事もなかったかのように次の人のシェアに移った。

 

そこからも順調にシェアは進んでいき、私の後ろにいた小中学校時代の女性友達(MF)がシェアを終え、私の番となった。私は自分のシェアの内容を少し考えていたが、順番が回ってきてからその場で話をしようと思った。そして私の口から出てきたのは、「私は今回、端的に述べると、自分の実存的·超個的な課題に取り組むためにここに来ました。2人は私にとって掛け替えのない存在であり、2人は自分自身であったと思えるぐらいです。そんな2人が先に旅立たれ、彼らの死を私は受け止め、受け入れ、また彼らの魂が本来あるべきところに還してあげること、それが今日ここにいる自分の目的です。以上です」というものだった。

 

私がシェアを終えると、その場は少し静まり返っていた。全員が何かを静かに感じているようだった。そこで夢から目覚めた。

 

改めてこの夢を振り返ると、夢の中で若くしてお亡くなりになられた——現実世界では生きていらっしゃる——2人の先輩は、何を象徴しているのかと気になる。自分の中で、やはり何かが死を遂げようとしているのは間違い無いだろう。

 

1つは、「我」が生まれ変わりに向けて死を迎えようとしていることが思いつく。しかしもう1つは何だろうか。一体何が自分から死という形で離れていこうとしているのだろうか。それが何かはまだ見えてこない。フローニンゲン:2019/12/24(火)04:16

 

5385. 一音に込めるエネルギー

 

静けさの中で進行していく時間、及び自らの成長のプロセス。人生はこのようにして日々少しずつ深まっていくのだろうか。

 

そのようなことを思わせてくれる静かで優しい闇が目の前に広がっている。クリスマス前日を迎えた今日の外の世界は、いつもと同じように新しい何かを自分の目の前に開示してくれている。

 

昨日も色々なことについて考えていた。とりわけ、作曲について随分と多くのことを考え、すぐにいくつかの実践をしてみたことがあった。

 

1つとしては、曲を作るための原型モデルを作成することであり、昨日は3つほどモデルを作った。モデルの1つ1つをエクセル上で管理し、その日のその瞬間にモデルを直感的に選んでそれを活用したり、ある明確な目的意識を持ってモデルを選択していく。そして今後は、モデルの数を徐々に増やしていくことと、既存のモデルを修正したり、発展させていくことを行っていこうと思う。

 

黙想的·観想的な意識状態で、1つ1つの音に自分のエネルギーを込めながら音を配置していこう。今日からは特にその点を意識する。

 

モデルに沿って曲を作っていく分、音の配置に意識を集中できることは嬉しい限りである。ここからは、心と魂を込めて音を置く鍛錬をしていく。音を置いていく1つ1つの手は、まだまだ杜撰であり、ときに惰性で音を置いてしまうのだが、今後は本当にできる限り意識を集中させ、それぞれの音に命を宿すかのようにエネルギーを込めていきたい。

 

数学者が神の数式を求めるように、仮に神の音なるものが存在するのであれば、いやそうしたものが存在しなかったとしても、それを探求したいというささやかな願いがある。それが叶わぬ願いだったとしても、そこに向かっていこうとする自分が今静かにここにいる。

 

昨日はその他にも、目には見えない重力や月の引力のような形で働く文化的な力について考えていた。我が国で見られがちな同調圧力や個を蝕む力について考えを巡らせる自分がいた。

 

生命力を弱体化させるような目には見えない力が母国に蔓延っているような感覚。それは年を追うごとに増してくる。

 

確かに私は長らく母国の外で生活をしているが、そうした力が年々強力なものになってきていることを感じることや、それが国の外にいる自分にも何かしらの影響を与えていることを感じることは見逃せない。

 

そうした文化的な力は抗いようが無いのだろうか。重力や月の引力を変容させていくことは可能なのだろうか。文化的な力を変容させることは、それと同じぐらいに難しいように思えてきてしまう。それに向けて何か打ち手を見出すわけでもなく、我が国を覆う目には見えない重たい力についてぼんやりと考えている自分が昨日いた。フローニンゲン:2019/12/24(火)04:42

 

5386. 雷鳴のような気づきを受けて:シュタイナーの思想探究を受託して

 

数日前に、委託と受託についての話を書き留めていたように思う。先ほど夕食を作っているときに、その二つの関係性についてまた一つ進展があった。自分がなぜスイスのドルナッハに行ってシュタイナーの思想を探究しようと思ったのか、そして今現在そのように思っているのかについての意味がまた開けてきたのである。

 

今から後2、3年後に欧州永住権取得をしたら、そこからしばらくはオランダで生活をすることになるだろう。そこから先は、今のところフィンランドに居を構えようと思っている。だがその前か後か、あるいはフィンランドに家を残したまま、スイスのドルナッハにある精神自由科学大学のプログラムに出願しようと思う。

 

これまで発達科学と教育科学を中心に探究をしてきた。そうした学術探究を再度アカデミックの世界で行う気は全く無いことについては以前述べた通りである。

 

その代わりに、人間発達や教育に関する思想的な探究は今後一生涯にわたって続けていきたいと思っている。中でも、私を引き付けてやまないのはシュタイナーであり、彼の人間発達観及び教育思想である。

 

精神自由科学大学には、シュタイナーの思想を深く学べるドイツ語と英語のプログラムが提供されている。以前より、その英語のプログラムに関心があった。期間に関しては、1年間のプログラムと2年間のものがある。私はできたら腰を据えて、2年間のプログラムに応募しようと考えている。

 

シュタイナー教育では、子供のみならず、教師にとっても「自由」という考え方が大切にされている。どのようにカリキュラムを組むか、年間のスケジュールはどうするのか、1人1人の子供たちにどのように向き合っていくのか、等々を含めて、それらは全て1人1人の教師の自由裁量に委ねられている。しかしその分、教師たちが準備する事柄は多く、シュタイナースクールの教師は非常に多忙であるという話を聞く。

 

興味深いことに、教師の全てがシュタイナーの思想に精通しているわけではなく、むしろシュタイナーの思想についてほとんど知らないという教師もいるぐらいだそうだ。この点に関して、私が果たす役割のようなものがあるような気が突然したのである。

 

実は以前、フローニンゲン大学での研究生活を終えた後、シュタイナー教育の教師になろうかと考えていたことがあった。しかし、私には教師としての資質がなく、ましてや子供たちに教育を施す責任感のようなものが極度に希薄であることに気づき、教師の道を歩むことはやめた。だがそれでもなぜか私の頭の中には絶えずシュタイナー教育があって、実際にシュタイナー教育やシュタイナーの思想を書物を通じて探究している自分がいたのである。

 

先ほど夕食を摂りながら雷鳴の如く気づいたのは、私はシュタイナー教育の教師には決してなれないが、シュタイナースクールの教師の支援ならできるのではないかと思ったのである。そして、それを行いたいと思う自分がいたのである。

 

先日の日記で書き留めたように、私は誰かの代わりに絶えず何かを探究しており、それを誰かのために還元していく道を現在歩みつつある。これまで発達科学と教育科学を探究し、今度はシュタイナーの思想に探究の方向性が向かっている。

 

それはきっと、シュタイナーの思想を深く学びたくても時間の取れないシュタイナー教育の教師たちを支援するためのように思えてくる。もちろん、それはシュタイナー教育の教師たちだけではなく、教育に携わる全ての教師に行いたいことでもある。これは完全に慈善活動として行う。

 

欧州永住権を取得し、時期が来たらドルナッハヘ行こう。シュタイナーの思想を体系的に深く探究できる本場の精神自由科学大学で、シュタイナーの思想について理解を深め、そこで得られた知恵を教師たちに共有し、彼らの支援を行っていく。これは例えばオンラインミーティングなどを通じて行えば、私がスイスにいても行えることであり、フィンランドやオランダに戻ってからもできることである。

 

シュタイナーの思想を探究することは、どうやらこの世界から受託されたことのようだ。作曲や日記の執筆などの活動に加えて、一つまた生きる道を見出したように思える。フローニンゲン:2019/12/24(火)19:38

 

5387. 閉まっていたコピー屋:仮眠中の知覚体験

 

今日は朝から雨模様だったが、午後に雨が止んだので、ハウアーの2本の論文を印刷しに、近所のコピー屋に行った。

 

事前にウェブサイトを通じて休暇スケジュールを確認し、今日は店が開いているはずだったのだが、なぜかもう休暇に入っていた。店主のデニーは関心するほど店を休みにする。これは皮肉でもなんでもなく、私はそれぐらいゆったり働くのがいいと思っている。

 

デニーの店は土日は休みであり、平日も昼の12時から夕方の5時までしか開いていない。働く時間はそれくらいで十分であり、むしろそれでも働き過ぎのように思える。

 

私は今はまだ金銭的報酬を得るような仕事に週に数時間(おそらく1週間に平均で5時間ぐらいだろうか)は従事しているが、今後はそうした仕事をゼロにしていこうと思っている。そうしたことから、デニーは感心するぐらいに働いていると言える。

 

とはいえ、今日店が閉まっていたことは肩透かしを食らった。ハウアーの論文を今夜から読むことを楽しみしていたので残念である。

 

デニーの店のドアには張り紙が貼ってあり、大抵多くの店は明日のクリスマスと元旦だけ店を閉じるのだが、デニーはなんと今日から1月6日まで店を閉めるようだ。そうしたこともあり、論文はまた別のコピー屋で印刷しようと思う。

 

今週はオンラインゼミナールの準備や協働プロジェクトに関して音声教材を作る必要があるため、印刷した論文はマルタ共和国やミラノに持っていくことになるかもしれない。

 

午後にふと、ハウアーの博物館があるかを調べてみたところ、ウィーン郊外にそれがあることがわかった。ウィーンにはいつかもう一度足を運ぼうと思っていたので、その際に是非ともハウアーの博物館に足を運ぼうと思う。それは来年か再来年あたりになるだろか。

 

少し前までは毎月1回の旅行は頻度が多いように思えていたが、今はそれがちょうど良い頻度のように感じている。ヴェネチアに訪れたのが前回の旅であり、そこから考えてみると、随分と時間が経っているように感じる。

 

今後の人生の進展に応じて、旅の頻度もまた変わってくるだろう。今はどうやら、旅を通じて何かを汲み取ろうとする自己がいるようなのだ。そうした内側からの内的要求に応じる形で、つまり内的促しに身を委ねる形で、来年以降もしばらくは毎月1回のペースで世界のどこかに旅に出かけようと思う。

 

上述のように金銭的報酬を得る仕事に従事する時間を限りなくゼロにしようとしているのは、こうした事情によるのだろう。もちろん、旅先でも仕事に従事することは全くもって可能なのだが、自分がこの世界でなすべきことがもはや明確なものになってきており、それは絶えず人生の進行に応じて更新されていき、更新が進むにつれて、明らかになった活動に従事するためには自分の落ち着いた時間というものが必要になってくることがわかる。活動に向けた内的要求と、自分の時間に対する内的要求の双方がある。

 

時刻は午後の8時を迎えようとしている。今日は午後の仮眠中に、とても印象に残るビジョンを知覚した。それは、密教的な鮮やかな曼荼羅模様だった。

 

極彩色の曼荼羅が突如脳内、あるいは意識内に現れ、それが緩やかに動いていた。そして私の頭の中にはゆったりとした音楽が流れており、ある時から私は、その平穏な音楽の中に漂っていた。

 

平穏な音楽の中に漂いながら色鮮やかな曼荼羅を知覚するという不思議な体験をした。目が覚めてからも、しばらくは特殊な意識状態にあった。依然としてその音楽が流れており、体は浮遊感に包まれていた。

 

意識の深まり、自己の深まり、人生の深まり、実践の深まり、ビジョンや夢の深まり。諸々のことが深まりの歩みを緩やかに進めている。フローニンゲン:2019/12/24(火)19:59

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