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5376-5378:フローニンゲンからの便り 2019年12月22日(日)

December 24, 2019

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5376. 泥中を道として生きて

5377. ヨーゼフ·マティアス·ハウアーに関する3つの論文と今朝方の夢

5378. 本日のゼミナールを振り返って:仮眠中のビジョン

 

5376. 泥中を道として生きて

 

時刻は午前4時を迎えようとしている。今朝の起床は午前3時過ぎ(3:13)であり、昨日とほぼ同じ時間の目覚めである。確か昨日の起床は、もう10分ほど遅かったように思える。

 

相変わらずの全き静寂。この世界の静けさを味わうともなしに味わう自己。

 

その瞬間に静寂さは自己となり、自己は静寂さになる。静寂さを感じようとすることやそれを味わおうとすることはおかしなことだったのだ。

 

その一つのおかしさは、そうした意識が働く瞬間に我が立ち、真の意味で静寂さを感じることや味わうことを妨げてしまうことである。もう一つは、そうした意識が働く瞬間に、静寂さは感じられる対象や味わわれる対象と成り果ててしまうということだ。

 

本来、静寂は対象物になり得ないのだ。それが真の静寂であれば、それは即私となるはずなのだ。そうした点において、静寂さが自己と化し、自己が静寂さに化すという直感的認識は、今の自分にとって大変腑に落ちる。

 

起床してオイルプリングをしながらヨガを行い、先ほど小麦若葉のドリンクを作った。その際に、前回のゼミナールに参加してくださっていたある方から、ゼミナール後の同窓会(飲み会)の際に撮影した動画を昨日送っていただいた。

 

昨日の夕食時に、「逢茶喫茶·逢飯喫飯(ほうさきっさ·ほうはんきっぱん)」の実践を放棄して、夕食を食べながらその動画を見ていた。その中で、私が尊敬をしている友人のシェアがとても面白かった。

 

その友人とはおよそ毎年一回ほどオンラインを通じて話をさせてもらっている。飲み会の場では、1人1人が「自分にとってインテグラル理論とは何か?」について発表をしていた。

 

その友人の発表の冒頭に、私に関する話があった。その中で、「加藤さんのブログを見ていると、言っちゃあなんですけど···、正直イっちゃってるじゃないですか。彼は特殊な純粋培養の世界にいて、自分の代わりにああした探究をしてくれているように思うんです」というような発言があった。それを聞いて、思わず笑ってしまったが、その後色々と考えており、今朝も起床時にそれについて考えていた。

 

少なくとも、この欧米での8年間の生活の中で、純粋培養の世界にいたとは私は認識していない。むしろ、一度たりともそのような環境にはいなかったように思うし、今もいない。

 

人間の真の成熟は、果たして純粋培養の世界から起こるのだろうか?私は否だと思う。過去8年間を振り返ってみたときに、目には見えないほどにゆっくり、かつ小さなものではあったが、私は成熟を遂げてきたように思う。そうであれば、自分はやはり純粋培養の世界になどいなかったのであり、むしろ泥中にいたのだ。

 

「蓮は泥中より咲く」という言葉が思い浮かぶ。やはり私はこの8年間、泥の中に揉まれて日々を生きてきたのだという確かな実感がある。

 

一方で、現在のように、自分の内的時間に従って生きることや、日々充実感と幸福感を感じながら生きることが純粋培養の世界の中で生きていることだと捉えられてしまうこの現代社会の風潮はどこかおかしくないだろうか。自分の固有の生命時間を生きることや、日々の瞬間瞬間に絶対的な喜びを見出して生きることが、純粋培養の世界の中でしか生じない現象であるという認識の枠組みは、早急に打ち壊されるべき類のものなのではないだろうか。

 

友人のシェアの中で興味深かったのは、「イッている」という言葉である。それをどのように文字変換するのか、つまりどのような漢字を当てるのかによって随分と意味合いが異なってくるため、色々と考えさせられることがあった。

 

ここ最近の日記で書き留めているように、確かに今の私は、「逝く」道を歩いているように思う。向上道と向下道のうち、私は再び前者の道を歩き始めたように思う。

 

「逝く」というのは「逝去(せいきょ)」という言葉にも現れているように、死ぬという意味がある。一昨日あたりの日記で書き留めたように、今の私は、我を徹底的に放伐する道を歩き始めた。それは我が死に向かっていく道であり、同時に上り道でもある。

 

この道を上りきらなければ、下りの道はない。この道を歩くことは自分にとって難題である。この先も紆余曲折があり、まだまだ上り道があることは承知だが、今回の上り道を上り切れば、また新たな形で下り道を歩めるような気がしている。下り道を歩く具体的な形も少しずつ見えてきている。

 

そのためには、まずは「無我の我」が恒常的なものになる必要がある。今日という1日もそこに向かう過程であり、今日そのものが道となる。いや、それはもう最初から道としてそこにあり続けているのであって、自分に求められているのは、道を作ることでは決してなく、道として生きていくことだけなのだと思う。フローニンゲン:2019/12/22(日)04:35

 

5377. ヨーゼフ·マティアス·ハウアーに関する3つの論文と今朝方の夢

 

つい先ほどまで日記を綴っていると、時計の針が少しばかり進み、時刻は午前4時半を迎えた。ふと我に返った時に時間が経っていることに気付いたり、1日が終わりに近づいていることを感じる日々である。

 

なるほど、そうであれば、今の私が向かっている「我の放伐」の道を歩き切れば、我に返る我がもはや「無我の我」の我であるから、時間感覚もまた変容するのではないかと思われる。今はまだ、無我に至る前の我として生きており、ここから無我に至り、再度我に戻ってくる。それが無我の我である。

 

一昨日に届いたヨーゼフ·マティアス·ハウアーの作曲思想と作曲技術に関する書籍について、昨日の日記でも言及したように思う。この書籍が今の自分にとってはあまりに秀逸であり、昨日は随分と歓喜の中にいたように思う。本日はその続きを読み進めていく。

 

この書籍は何度も繰り返し読んでいこうと考えているが、そうした繰り返しの読書と並行して、ハウワーに関する3つの論文を見つけたので、それらも合わせて読んでいこうと思う。具体的には、下記の3つの論文である。

 

1. “The music and theories of Josef Matthias Hauer (1990)”

2. “Concerning the spiritual in music: The twelve-tone aesthetics of Josef Matthias Hauer (1991)”

3. ”The Zwolftonspiel of Josef Matthias Hauer (1992)”

 

全て同じ研究者による論文であり、一番上のものは博士論文だ。昨日の段階では、一番下の論文だけPDFではなく、印刷をして読み込んでいこうと思っていたが、真ん中の論文も大変興味深かったので、それも合わせて印刷しようと思う。

 

ハウワーはシュタイナーの思想やゲーテの思想を参照していたことで知られており、実際に真ん中の論文でもシュタイナーの文献がいくつか引用されていた。再来週からはマルタ共和国に行くため、印刷は来週中にしておこう。そのために、近所のコピー屋に近々足を運ぼう。

 

少し前にビザの資料を印刷する必要があったため、その店に足を運んだところ、店主のダニーがインフルエンザか何かに罹っていてコピーができなかった。ダニーの無事を確認する意味も含めて、来週の始めに彼の店に行こう。

 

昨日は、ハウワーの傑作の一つである“Zwolftonspiel”をひたすら繰り返し聴いていた。そこにはハウワーの思想が滲み出ており、トランスパーソナルな領域での体験を聴き手にもたらすという考えが具現化されているように思えた。上記の3番目の論文は、まさにこの曲を取り上げており、作曲において非常に参考になる考察がなされているため、早く読みたい気分である。

 

今はまだ曲を作っているというよりも、曲を生み出すための実験をし続けているという感覚であり、今日もこれからそうした実験をしていく。その前に今朝方の夢を簡単に振り返っておこう。

 

夢の中で私は、日本の近未来的な街にいた。そこは人混みは少なく、清潔感があった。私はこれから電車に乗って、空港駅に行く予定だった。

 

駅に到着し、目的の電車が到着するプラットフォームを探した。その駅を訪れたのは初めてだったため、少し迷ったが、なんとか無事にプラットフォームに到着した。

 

すると、10:49発の電車がちょうど到着しようとしていて、私は運がいいと思った。その電車に乗ると、そこには友人の誰かがいて、彼と少しばかり雑談をしていた。そこからフッと夢の場面が変わり、私は学校の教室にいた。

 

教室内では何か授業が行われていたが、生徒は皆成人だった。私は右列の前から3番目に座っていた。私の前、つまり前から2番目の席には、私と歳が近いある有名なYoutuberの方がいた。

 

彼は読書家であり、知識を豊富に持っている。そんな彼が、教壇上の先生の発言に対して、自分の意見を述べ始めた。

 

場の雰囲気を察すると、その場にあまり相応しくないような発言を彼がしていて、教室の中は少し嫌な空気になった。彼は決して悪気があったわけではなく、彼の感覚からしたら当然のことを当然のように話していただけなのだが、周りから見ると、それは持っている知識や知性をひけらかすように映っているようだった。

 

そこで私はスッと立ち上がり、彼の左肩を軽く叩き、「ちょっと外で話でもしようか」と持ちかけた。私の方を振り向いた彼は何事かという表情を浮かべていたが、私についてくる形で一緒に廊下に出た。

 

先生や他の生徒たちは、彼を教室の外に追いやった私に感謝の念を伝えているのを感じた。廊下に出た後、私は彼にあの場ではああした形で話をすることは望ましくないということを伝えた。

 

すると彼は、ビックリ仰天した表情を浮かべ、彼の考え方と先生や生徒たちの考え方が全く異なることに気づいたようだった。自分の常識が世間の非常識であること、自分の非常識が世間の常識であることはよくあることだ、ということを彼に伝え、私たちは一緒に何か飲み物を買いに外に出かけた。フローニンゲン:2019/12/22(日)05:05

 

5378. 本日のゼミナールを振り返って:仮眠中のビジョン

 

時刻は午後2時半を過ぎた。つい先ほど仮眠から目覚め、これから夕方に向けての取り組みに従事したい。

 

今日の正午から午後1時半まで、オンラインゼミナールの日曜日クラスがあった。金曜日クラスに引き続き、本日のクラスでも大変興味深い論点が場に共有された。

 

一方で、個人的に反省するべき事柄があり、それについてはまた自分なりの改善策ないしは打ち手を考えたい。こうしたオンラインゼミナールをこれまで7年間ほど不定期に行ってきたが、学びの場を作るということについてはまだまだ学ぶ必要があり、実践を積み重ねていく必要があると自覚する。

 

この点については、遅ればせまながら、毎回のクラスをより有意義なものにするための準備と工夫を心掛けていく必要がある。年内最後のクラスが来週にまたあるので、今日よりも充実した学びの場が自ずから醸成されるような心掛けと実践をしてみたい。

 

先ほど仮眠を取っている最中に、印象に残るビジョンを見ていた。私は、欧州のどこかの国を走るバスの中にいた。バスには乗客はほとんどおらず、おそらくオランダ人と思われる白人の中年男性が運転手をしていた。その運転手は帽子をかぶっており、少しばかり小太りであった。

 

私はバスの左列の真ん中あたりに座っていた。ちょうど私の前の座席には、小中学校時代の男女の友人が3人ほど——2人の女性(MF & KY)、1人の男性(KS)——座っていた。彼らは私が後ろに座っていることには気づいていないようであり、3人で何かの話題について楽しげに話をしていた。

 

私は窓の外をぼんやりと眺めながら、彼らの話に耳を傾けていた。あるところでふと、3人は突然ZARDの歌を口ずさみ始めた。その歌は、私たちが小学生だった頃に流行っていた懐かしいものだった。

 

バスの中にいたからか、彼らは少し遠慮がちに歌を口ずさんでいたが、3人の表情はとても明るかった。彼らの歌に耳を傾けていると、私も思わずサビの部分から口ずさみ始めた。バスの運転手は、ミラーを通じて私たちの方をチラリと見て、微笑んだ。そのようなビジョンがあったのを覚えている。

 

仮眠から覚めてベッドの上にいる自分に気づいた時、不思議な感覚があった。ここでもやはりまた、あの頃から今にかけての自分の不変的な存在感覚が現れたのである。

 

あの頃から今にかけて、私は多少なりとも変わった。だが、もはやどうにもすることのできない変わらないものが確かに自分の内側にあって、それがとても尊いもののように思えたのである。目が覚めてからも少しの間、私は仮眠中のビジョンの中で口ずさんでいた歌を歌っていた。

 

今朝方の夢について振り返っている時、そして今仮眠中のビジョンを振り返ってみてふと、いつか夢やビジョンについて書かれた日記だけを集めて編集してみると、何か面白い発見が得られるかもしれないと思った。そうした振り返りを行うに資するだけの材料はありそうなので、あとはそれらをまとめていくことを行うだけだ。

 

一連の夢やビジョンを辿ることによって、自分の無意識の世界の変化や変遷を探ることができるかもしれない。そのような思いつきの案があった。フローニンゲン:2019/12/22(日)15:05

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