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5363-5369:フローニンゲンからの便り 2019年12月20日(金)


本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5363. 今日からのオンラインゼミナールに向けて

5364. 自己への帰還と新たな出発〜探究的実践への意欲の再燃

5365. 今朝方の夢

5366. 大死一番の誓願〜我の打倒に向けて

5367. ここからの変容プロセスに関する走り書き

5368. オンラインゼミナールの開始:言葉に先立つ何か

5369. 自然法爾と心身脱落

5363. 今日からのオンラインゼミナールに向けて

時刻は午前3時を迎えた。今朝は午前2時半に起床した。いつものように目覚めはすこぶる良く、目が覚めた瞬間から1日の活動に向けて準備万端のように思われた。心の落ち着きがありながらも、身体はもう活動に向けてエネルギーが充満しているような感じである。

本日からは、いよいよ全4回にわたるオンラインゼミナールが始まる。初回のクラスは今日からなのだが、受講者の方々からは事前に質問を寄せていただいており、すでに26個の音声ファイルを作成し、時間としては400分近いものになっている。前回のゼミナールはどちらというと「理論編」であり、今回は「実践編」であることからか、いただく質問も実践的なものが多く、回答させていただくこちらとしても得るものが多い。

ゼミナール開始前の段階ですでにかなりの量の音声ファイルを作成しており、ここから実際のクラスが始まり、これからの2ヶ月弱の間において、またかなりの音声ファイルを作ることになるかと思う。音声ファイルの作成は、日記を綴ることや作曲実践と同様に、創造に伴う喜びや楽しさのようなものがあり、一度作り出すとついつい多くを作ってしまう。それはどちらかというと肯定的なことなのだが、創造活動に伴う中毒的な側面を改めて感じる。

今日の初回のクラスでは、冒頭でもう一度ゼミナールの趣旨や留意事項を確認しておこうと思う。そこからは、最大3人ぐらいで1つのグループを作り、簡単な自己紹介を行っていただいた後に、事前課題についてのグループディスカッションを行ってもらおうと考えている。

前回のゼミナール同様に、今回のゼミナールも1回あたりのクラスの時間が90分である。前回のゼミナールに参加してくださっていた何人かの方から、グループディスカッションの時間がいつもあっという間であり、盛り上がり始めたら終わってしまうこともあった、というフィードバックをいただいていた。そうしたことも考えて、今回は少なくとも30分は時間を確保していきたいと思う。40分だとおそらく逆に長いように思えるため、最大で35分から37分ぐらいにしようかと思う。

書きそびれていたが、グループディスカッションの前には、今回取り上げる『インテグラル理論』の書籍に関する質疑応答を行う時間を設ける。ただし、今回は実践編であり、書籍については前回のゼミナールで1章1章取り上げてきたため、グループディスカッションとその後の全体での意見交換に時間を多く取ることを考えている。書籍に関する細かな質問については、受講者専用のGoogleドライブ上の質問Boxの方を通じて行っていただくように促そう。

今週と来週にゼミナールのクラスがあり、年末年始を挟んで、1月にまた2回ほどクラスがある。2019年の締め括りと2020年のスタートを、今回のゼミナールを通じて行う。

早いもので、気がつけばあと10日ほどでマルタ共和国に向けて出発する。出発は大晦日の日である。

フローニンゲンの若者たちは少し気が早く、ここ最近は日中に爆竹を鳴らす音が時折聞こえてくる。近くで爆竹を鳴らされると心臓に悪いのだが、それもこの季節においては仕方ない。ここから年末に向けて爆竹が鳴らされることが多くなるだろう。年越しはできるだけ静かに祝いたいので、爆竹から逃げるようにマルタ共和国へ行く。その日が近づいていることを静かに実感する。フローニンゲン:2019/12/20(金)03:34

5364. 自己への帰還と新たな出発〜探究的実践への意欲の再燃

—耳に見て、目に聞くならば、疑はじ。自ずからなる軒の玉水——大灯禅師

戻ってきた感じがする。再び還ってきたのだが、以前とはまた違う自己としてそこに戻ってきた感じがする。それがここ最近の感覚である。

昨日あたりの日記に書き留めていたように、再び禅や仏教に強い関心を示し、それをお勉強ではなく、それらを実践的に生きることを行い始めようと思っている自分がいる。思い返してみると、早朝に行っているヨガの実践について、数ヶ月前に見直しを行ったことが思い出された。

それがいつだったかは具体的に覚えていないが、ある朝ふと、起床直後に行っているヨガのアーサナの種類を見直し、これまでよりも少し長めにヨガを行い始めた。そしてその後しばらくして、14日間に及ぶ断食があった。それを経てからの禅や仏教の実践的探究の再燃である。

何か私には、ヨガの実践の見直しと断食が、禅や仏教の実践的探究の再開に向けた準備であったように思えたのである。それらは必然的な準備であり、本格的に再度禅や仏教の実践を通して自己を知り、世界を知ろうという試みに向かう自分の姿を見る。

自己にベクトルが向う今回の探究衝動は、アメリカに渡る前に芽生え、そこから4年間続いていたものに似ている。それをもって私は、「還ってきた」という表現をした。

もちろん、今回還ってきた当人は新たな自己であり、今回の探究的実践を行う姿勢や成果は必然的に異なるだろう。一巡してまた同じようなスタートラインに立ったかに見えるが、それはまるっきり異なるスタートラインであり、そこから歩みを始める景色もまた必然的に異なるだろう。

今回の探究的実践は、過去のそれよりも長い期間を要するように思われる。それこそここから一生涯続くかもしれない。そうであったとしてもそれを始めようという気概のようなものがある。

成果というものを期待していては空転してしまいそうだが、ぼんやりとではあるが、今回の試みを通じて、生きているありのままをそのままに見ることのできる眼、すなわち「仏眼」を獲得し、それを通じて日々の生活を営めるようになれるような気がしている。

また、そうした眼だけではなく、生きているありのままの姿から発せられる音を聴き取れる耳、「仏耳」も獲得されるのではないかという小さな期待がある。そして、それらの眼と耳は統合的な感覚として働き始め、両者の間にはなんの分別もなく、この世界を耳で見て、目に聞くという恒常的なあり方が実現されるだろう。

今回の探究的実践においては、確かに禅や仏教に関する手持ちの文献を改めて読み返していくが、そうしたお勉強はほどほどにして、何よりも日常の中で禅的に生きることを大切にしたい。

仏道の悟りに至る修行の過程の中に、「正見」というものがある。これは、自分の目で見、自分の肌で感じたことのみをデータとして、それをよく観察することを意味する。これは本当に大切なことであり、それを行っているようで、徹底的に行っている人は少ない。

今回の試みでは、それを徹底的に行う。確かにこれまでもそうしたことを心掛けてきたが、それをより徹底させていく。探究過程で見たこと、聞いたこと、感じたことを、言葉の形にし、音の形にしていく。体験そのものへの観察と、形になったものからの再観察を行っていく。

2019年の最後の最後になって、このような取り組みへの意欲が高まるとは思ってもいなかったことである。2019年の最後に起こったこと、それは自己への帰還であり、新たな出発であった。フローニンゲン:2019/12/20(金)03:58

5365. 今朝方の夢

時刻は午前4時を迎えた。今、八丁味噌で作った具なしの味噌汁をゆっくりと味わっている。

外の世界は深い闇に包まれていて、静寂さが滲み出している。オランダにやってきた1年目とはもう随分と異なる印象で闇や静けさを感じている自分がいる。それもそのはずであり、外側に広がる闇も静けさも、もはや自分に他ならないと気付いているのだから。そしてそれらは、即自己でありながら、自己をさらに深めていくものでもあると気付いているのだから。

一杯の味噌汁を一口ずつ飲んでいくとき、その一口は自己になる。一口の味噌汁が自己の身体を形作ることは言わずもがなであるが、ここで言わんとしていることはそうしたことも含まれながらも、それ以上のことである。

目の前の味噌汁は、もう最初から自己であったという気づき。その気づきがある。仏道を通じた探究的実践を再度始めようと思い立ってから、小さな変化が自分の内側の中で起き始めていることに気づく。

それらの変化を言葉として書き留め、音として形にしていこう。それは、そうした変化そのものに囚われないためでもあり、同時にそれらの変化をさらに育んでいくためでもある。

それでは、今朝方の夢を走り書きしたメモを見ながら、今朝方の夢について振り返り、その後、作曲実践を始めたい。夢の中で私は、地元の国道を歩いていた。その国道は、戦争時代に戦闘機の滑走路として使われていたため、今でも道幅が広い。

国道の脇にある歩道をしばらく歩いていると、向こうから小中学校時代の友人(RS)がやってきた。彼は運動神経が抜群であり、どのようなスポーツをやらせても突出していた。そんな彼ともう1人、ちょうど目の前にある小高い丘の上に住んでいる友人(YU)も姿を表した。

私たち3人はそこで少し言葉を交わし、その場でサッカーをしようということになった。運動神経の良い友人が、今からロングキックをするとのことであり、もう1人の友人と私はそれを見守ることにした。

友人が助走を始め、思いっきりキックをすると、それは見事に遠くの方まで飛んでいった。だが、思っていたコースから少し外れてしまったようであり、ボールは近くの森の背の高い木の枝に挟まってしまった。

ボールを蹴った友人は、すぐにその木に向かって走っていき、なんとかボールを取ろうとし始めた。すると、木の上の方にカラスがいて、ボールはそのカラスにぶつかっていたようだった。カラスの表情を見ると、ボールがぶつかった衝撃で失神しているようだった。

友人は、カラスの口元にあったボールを取ろうした。するとその瞬間に、カラスの目がカッと開き、カラスは友人をクチバシで襲った。

そこで友人は、そのカラスを殺してしまおうと考え、足元に落ちていたクワでカラスを打ち殺そうとし始めた。クワを打ち付けられたはカラスは悲痛な雄叫びを上げていたが、何度クワで打ち付けられても一向に死ぬ気配はなく、その生命力は凄まじいものがあった。

はたから見ていた私にとって、それはかなり残酷な仕打ちのように思えた。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、小中高と付き合いの長い友人(HY)と一緒に下校をしていた。ちょうど高校の授業が終わり、自転車を漕ぎなながら部活の話をしていた。

すでに私は高校三年生になっていたが、サッカー部に入ろうかと考えており、彼にその件について話を持ちかけた。希望しているポジションとしてはボランチであり、そのポジションに空きがあるかを聞いた。より厳密には、今は誰がレギュラーを務めているかを尋ねたのである。

最初友人は、左右のボランチのうち、どちらをやりたいのかを私に尋ねてきたが、どちらでも問題なかったので、それを伝えた。すると、どちらのポジションも、私たちの学年ではなく、一つ下や二つ下の後輩が務めているそうだった。同学年に何人かそのポジションにふさわしい友人がいることを知っていたのだが、彼らよりも上手い選手が下の学年にいることを私は驚いた。

「今から入部してもレギュラーになれないかもしれないな」そんな考えが脳裏をよぎった。そこで私は、他のポジションについても彼に話を聞いた。

すると驚いたことに、他のポジションも同様に、多くは下の学年が務めているようだった。同じ学年の友人たちは一体どうしてしまったのだろうと思い、今度実際に試合を見に行き、下の学年たちがどれだけ上手いのかを確認しようと思った。

私たちはそこからも引き続きサッカーの話をしていた。しばらくして、友人の自宅の前に到着した。友人が「少し寄ってく?」と声を掛けてくれたので、ちょっとお邪魔させてもらうことにした。

家に上がり、友人がリビングの方に向かって行ったので後をついて行ったところ、真っ暗闇に包まれたキッチンから、友人の母親が姿を表した。私は少しびっくりしてしまった。どうやら友人の母親は、電気をつけることをせずに料理を作っていたらしい。

友人の母親に挨拶をしたところで夢から覚めた。今朝方の夢の中で印象に残っているのは、やはりカラスのシンボルだ。それが何を意味するのかについて、まずはドリームディクショナリーを使って調べてみよう。それと並行して、自分なりの解釈と意味づけを施してみようと思う。

「カラスが失神した」という表現をした時、「失神」という言葉に改めて関心を持った。失神とは、神を失うことなのだと気付いたのである。

意識の中には神的なものがやはり宿っているのである。あるいは、意識そのものが神的だと言えるかもしれない。または、意識の働きそのものが神的であると言うこともできるかもしれない。

いずれにせよ、仏道においては、それは仏性と呼ばれるものに該当するだろう。私たちの意識に宿っている神的·仏的な働き、ないしは生命力への関心が静かに高まっていく。フローニンゲン:2019/12/20(金)04:44

5366. 大死一番の誓願〜我の打倒に向けて

時刻は午前8時半を過ぎた。先ほど乾燥機のスイッチを入れた時に外を眺めると、そこには鮮やかな朝焼けが広がっていた。それは本当に息を飲むような美しさであった。自転車で通りを走る人たちも、皆顔を上げて朝焼けに見入っているようであった。

赤紫色の光の帯がまだ空に残っている。こうした美を拝めることの幸せ。それに気づける心の余裕とそれを味わえる心の余裕。それは今後も持ち続けていきたいものであり、ここからはさらにそうした余裕を育んでいく。

「これだ」と思った。昨日の日記でも書き留め、確か今朝方の日記でも言及していたように思うが、ここから私は仏道を通じた探究的実践を行っていく。先ほど、我が我に対して宣言をしていた。

厳密にはそれは、自己が我に対して宣言をしていたと言っていいかもしれない。その宣言は、「我を打倒する道をこれから歩む」というものだった。

もはやいくらカネがあっても時間があっても、我が立ち続ける限り幸福などありようがないという場所までやってきた。仮に幸福が感じられたとしても、それはほんのごくわずかな時間しか続かない仮初めの幸福感である。

「全てよし」「これでよし」という絶対的な安心感かつ諦念感の中で幸福感を感じるためには、我を撃ち倒さなければならないのだ。我を打ち倒し、無我への転換を図る大悟徹底こそが、今の自分に求められていることなのだ。

いくらカネや時間があっても本当にダメだ。ダメ以上にダメだ。この我が立ち現れ続ける限り、絶対的諦念感及び安心感の中で、究極的な幸福感を永続的に感じ続けることなど不可能なのだ。

仏道を通じた探究的実践に入ろうと決意したのはそのためだ。今から打ち倒そうとする我がこうしたことを語れるのだろうか。今おそらく、私は我から少しばかり離れたところから、だがそれでもまだ我として我を倒そうと宣言しているように思える。このあたりが大変興味深く、我は撃ち倒されることを恐れていながらも、同時にそれを望んでいる節もあるのではないかと思わされる。

人間存在というのは、かくも矛盾した事柄を内包しているようなのだ。その滑稽さには思わず笑ってしまうが、今はそうしたことを笑っている場合ではない。

我を打ち倒すための理性的探究と存在的実践をこれから徹底させていく。おそらくこれが最終関門であり、この関門を潜り抜けるまでにもしかしたら一生かかるかもしれない。いや下手をすれば、一生かかってもこの関門を潜り抜けられないかもしれない。

どちらであったとしても、もうその関門を潜り抜ける道を歩まざるをえないところまでやってきた。そうした状況に置かれてしまったのである。

今日からは我が現れる都度、一喝する。そして、一喝した我の残滓に対してもまたすかさず一喝する。日々、最大限の慈悲心を持って我を殺しにかかる。

大死一番としての誓願を立てた。この誓願に基づいて、あとはもう突き進むのみだ。フローニンゲン:2019/12/20(金)08:59

5367. ここからの変容プロセスに関する走り書き

いまだ彫琢されぬ貧困な体験的語彙でこれまでの歩みと現在の課題について書き留めておく。これは走り書き、ないしは殴り書きの類のものである。

最初、「我」を徹底的に客体化するプロセスがあった——当然ながら、その前には客体化される対象としての我を確立する必要があった——。その後、その我がフッと消える瞬間があった。

我に対して究極的に客体化を進めていくと、我が忽然として消える瞬間があり、それはもう大爆笑が起きるような出来事だった。これまであれだけ懸命に我を打ち立て、そして打ち立てられた我をこれまであれだけ懸命に客体化してきたのに、それが非在ないしは不在だと知って大笑いが起きる体験が何度かあった。実際には、それは日常ふとした時によく起こっていた。

我を確立し、我を対象化し、そして我など存在しないと気付いたというのが上記のまとめになる。そして、我など存在しないと思っている期間が続くと、今度は我は明確に存在していると気づき、同時に自分の中に我ではない神性ないしは仏性のようなものが内在していることに気づいた。ここからは、我と仏性の混在の時期である。

時に我が前面に立ち、時に仏性が前面に立つ。そのような振り子運動のようなものが起きていた。おそらく、今の私はこのプロセスの中にいるようだ。

ここから求められること。それはもうただ一つだけだ。

仏性を通じて我を放伐すること。それにより、我を溶解させ、我を虚空の彼方に解放することである。そうすれば、自己は究極的に仏性になる。

そしておそらく少しばかり先が見えているのは、今度はこの仏性を解放していく必要があるだろうということだ。つまり、我の打倒を通じた仏性の確かな確立を経て、その仏性すらも手放す段階があるだろうということだ。

もうそれは明白だ。それは間違いなく必要であり、それなくしては、幸福を超えた幸福などあり得ない。そしておそらく、仏性の解放すらもまだ最終的なプロセスではない。

もう一度、大爆笑が起こるはずだ。そう踏んでいる。最大級の抱腹絶倒は、仏性を解放した後にやってくるだろう。

そこでは、自己が全てとなり、全てが自己となり、自己は存在しているようで存在しておらず、存在していないようでいて存在するようになるだろう。簡単に言えば、「存在」即「非在」即「偏在」のような状態になるのではないかということだ。

いつか一連のプロセスを飛ばして、そうした状態を経験したことがある。それが存在の中に残り香として香っている。だからうっすらとわかるような気がする。

そこが次の、そして最後の大爆笑地点なのではないかと思う。そこではおそらく、自己は大爆笑となり、大爆笑は自己となり、自己も大爆笑も消え、そして両者はともにいかなる森羅万象の中に偏在するようになる。そのようなプロセスが自分の前に現れ始めているのに気づく。フローニンゲン:2019/12/20(金)09:24

5368. オンラインゼミナールの開始:言葉に先立つ何か

時刻は午後の7時を迎えた。今日からいよいよ『インテグラル理論』の実践編のゼミナールが開講となった。

前回のゼミナールよりも少人数の募集をしたため、本日金曜日クラスに参加してくださったのは10数名ほどであった。人数に関しては前回と異なるが、グループディスカッションからの全体の場でのディスカッションは前回と同様に、私にとっても大変有意義な場であった。

受講者の方々からは、クラスの場だけではなく、質問Boxを通じての質問によって、様々な領域の言葉を学ばせてもらっている。単純に日本語の単語を新しく学ぶことも多々ある。

新たな言葉を学ぶことは、どこか新たな和音を学ぶことに似ている。言葉も和音も、ある特定のコンテクストにおいてその意味が立ち現れる点では共通である。

ゼミナールの場を通じて、自分の言語世界がまた豊かになっているのを実感する。それに伴い、自己そのものが豊かになっていく。さらには、それは言語世界だけではなく、自分の内側の音楽世界にも多様な影響を与えている。それらの影響についてはまたどこかの機会で書き留めておこう。

ゼミナールを終えて少し仮眠を取り、今回のゼミナールから行い始めた試みとして、私自身もクラスの振り返りがてら、その日のクラスに関する補足事項などを音声ファイルで録音することにした。気がつけば、1人で35分ほど話をしていた。それはクラスの内容を補足する意味もありながらも、自分にとっての振り返りとして行っていたためにそうした長さになってしまったのかもしれない。

音声ファイルを作成した後は、気分転換にジョギングに出かけた。今日は早朝に、鮮やかな朝焼けを拝むことができた。幸いにも、夕方にも夕焼けを拝むことができた。

ジョギングから自宅に戻ってくると、先日ドイツの書店に注文していた“Serial Composition and Tonality: An Introduction to the Music of Hauer and Steinbauer (2011)”が届いていた。本書は、12音技法をアーノルド·ショーンバーグよりも早く考案したとされるヨーゼフ·マティアス·ハウアー(オーストリアの作曲家:1883-1959)の作曲思想と作曲技術について解説している。

ハウアーは、シュタイナーを含め、様々な思想家の神秘主義的な思想を探究し、その探究の成果を作曲に活用していた大変興味深い人物である。本書は年明けから読もうと思っていたのであるが、年末年始に読もうと思っていた書籍群を次々に読み終えてしまったので、明日から本書に取り掛かろうと思う。そうなると、年明け以降に新たに読む本がなくなってしまいそうだが、それはそれでいい。良書はとにかく繰り返し読むことが大切なのだから。

もう一つ本日の気づきを書き留めておきたい。本日のゼミナールを通じて、不思議なことに気づいた。それは、「言葉は発せられるよりも前に存在している」という事実である。

これは一体なんなのだろう。意識に先行して言葉がもう存在していることを知覚している自分がいた。言葉はもうそれが発せられる前に無意識の領域に存在していて、意識はまるでそれを運ぶ水路のような役割を果たしているだけのように思えたのである。

なるほど、断食や生活習慣の見直しなどを通じて行ってきたことは、水路の清掃ないしは浄化の類であり、その結果として、言葉が無意識という泉から止めどなく汲み出されるようになっているのかもしれない。もう少し付け足せば、おそらくそうした実践によって、無意識そのものもより明瞭なものとなり、言葉が誕生しやすくなっている印象がある。

そして何より、言葉は発せられるよりも前にすでに存在しているというような気づきが芽生えるようになったのも、意識下のそうした清掃実践ないしは浄化実践のおかげかと思われる。そして言うまでもなく、言葉は発せられるよりも前に存在しているという現象と全く同じことが音に対しても起こっている。どちらも等しく興味深い。フローニンゲン:2019/12/20(金)19:33

5369. 自然法爾と心身脱落

風が吹いている。幾分強い風が世界を通り抜けた。自分はそこに風としてあり、風として去った。

いやはや気が早い人たちもいるものだ。ここ最近、毎日近所で1日1回は爆竹の音が鳴る。今日は夕食時に一度鳴った。時々、その後に救急車のサイレンが鳴ることがあり、爆竹を打ち上げて腕を吹き飛ばしてしまう人が毎年何人もいるらしいので、そのあたりは気をつけてもらいたいものだ。自分の体を大切にしてほしい。

ところで、吹き飛んだ後のその腕は、当人とって自分と認識されるのか、それとも、もはや酸素や炭素の塊としての物体とみなされてしまうのだろうか。身体の大部分は酸素と炭素でできているが、優しさでもできているように思うのは私だけだろうか。爆竹の音はあっていいが、悲鳴の音はやめてほしい。

「自然法爾(じねんほうに)」という親鸞聖人が残した言葉。その意味を体感として実感する日々が続く。

自然法爾、それは人間の思慮分別を超えたあるがままの自然の力が自ずから働くことを意味する。それは自分自身、そして自分自身を取り巻く世界に対して働きかけている。それを実感する日々が続く。

とりわけこの半年間、ないしは今年1年間、あるいはもっと前かもしれないが、あるがままの巨大な力が自己の内側から湧き上がっているのを感じる。それは自分の内側から湧いているのか、はたまた外からもたらされているものなのかよくわかない。それはわからないのだが、確かなことは何か無限大に太いものとつながっているというありありとした触感である。今、この瞬間もそれを感じている。

なるほど、我執が消し飛んだ心身というのは、宇宙大の心身であり、この世の神羅万象と呼応し、一体化する心身なのだ。それが心身脱落というものなのであり、私はそれを体験しているのかもしれない。

それは一時的な状態的として強く感じており、そして恒常的なものとして緩やかに感じている。このあたりについても、やはり仏教のテキストを紐解いてみよう。

先ほどの日記で書き留めたように、明日からは、作曲家のヨーゼフ·マティアス·ハウアーに関する“Serial Composition and Tonality: An Introduction to the Music of Hauer and Steinbauer (2011)”を読み進めていくが、今から随分と昔に購入した、井筒俊彦先生の“Toward a Philosophy of Zen Buddhism (2001)”を再読しよう。

ここ最近注文した音楽関係の一連の書籍、そして詩と神秘主義に関するコリン·ウィルソンの書籍はもう読んでしまった。年末年始にマルタ共和国とミランに持っていく書籍は、井筒先生の上記の書籍にしようか。

その選択をさせるのも、自然法爾の力によるだろうか。自然法爾の力の恩恵を授かりながら、大悟徹底に向けた歩みをゆっくりと歩んでいこう。着実に、そしてゆっくりと。ゆっくりと、そして着実に。フローニンゲン:2019/12/20(金)19:55

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