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5354-5358:フローニンゲンからの便り 2019年12月18日(水)


本日生まれた7曲

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タイトル一覧

5354. 静寂さと変容運動として

5355. 小さな美術館としての書斎の中で

5356. 長眠について:創造と規則

5357. 今朝方の印象的な夢

5358. 儚さと永遠の充満する世界の中で

5354. 静寂さと変容運動として

時刻は午前6時を迎えた。今朝は、心身の欲するまで睡眠を取り、起床したのは午前5時過ぎと遅かった。昨夜就寝したのは午後9時半過ぎだったことを考えると、随分と睡眠を取ったことになる。

自分の心身はそれぞれ一つの生命であり、それら二つが合わさってまた一つの全体としての生命を形作っている。そこには生命固有のリズムがあり、そのリズムに沿った形で諸々の事柄が進行していく。睡眠もその一つである。

こうしたリズムへの自覚とリズムへ寄り添いながら生きていくことが徹底されている。これがもう深い次元で実現されていることを実感する。その実現に伴って、日常生活が随分と変わった。日常の世界の見え方が随分と変わった。日々を生きる質が随分と変わったのである。

ふと顔を上げると、そこには深い闇が存在している。後ほど改めて今朝方の夢について書き留めたいが、外の世界の闇の深さは、内側の闇の世界と同じぐらいに深い。何より、そこには静寂さがある。

静寂さがあって、そこに自己があって、静寂さと自己が一つになっている。静寂さは自己であり、自己は静寂さである。静寂さについては昨日も考えていたように思う。

今年の冬は、自分の内側の静寂さをとことん深めていこう。内外の静寂さを深く味わっていこう。それを継続させていけば、自分は静寂さになるだろう。そして、全ての静寂さが自分になるだろう。

静寂さは世界の本質である。この世界の映し鏡である。

こうして毎朝静寂さを感じていると、黙想的な意識が単なる一時的な状態ではなくて、恒常的なものになっていく。今はもう、日々がこうした黙想的·観想的な意識の中で過ぎていく。それによって、自分がまた全く新しい自己へと変容の方向に向かっていることに気付く。今朝方起床して、ヨガをしている時にもそれを感じた。

自分は再びこれからまたどこかに向かっていく。次の変容は、これまでと同様に、いやそれまで以上に大きなものになるだろう。今の自分では全く想像できない自分がそこに待っていて、そこに向かっている自分が今ここにいる。そこへ向かう運動に抗うことはできず、自分にできることはその運動を運動として生きることである。

その運動を見守ることなどできない。なぜなら、それは見守られるような客体物ではなく、自己を通じて生きる対象としてそこにあるからである。それは本当に極度に主観的な運動なのだ。それは決して目には見えず、主体的かつ自己を超えた超主体的な運動であるがゆえに、それを通じて生きていくしか方法はないのである。

自己はどこに向かっているのだろうか。ひょっとすると、それは自己すらも知らないのかもしれない。されば、自分にわかりえようがない。

今年の冬も、様々な充実感がありそうである。今年の冬を通じて、自分はまたどこかに向かって進んでいく。自己が深まり、人生が深まっていくことをもたらしてくれる冬が、静寂さの中で、いや静寂さとして静かに進行している。フローニンゲン:2019/12/18(水)06:16

5355. 小さな美術館としての書斎の中で

この静けさを思う存分に味わおう。この静けさの中に溶け出していってしまい、静寂さになってしまおう。そして、静寂さとして今日1日を生きていこう。そのようなことを思わせてくれる気分である。

今年の冬はまだ始まったばかりであり、寒さは全くもってピークを迎えていないのだが、早くもこの冬の意義を実感している。それは兎にも角にも、静寂さの本質に気づかせてくれたことと、静寂さとして生きていくことがなんたるものをかを教えてくれたことである。

自己を深め、人生を深めていくためには諸々の事柄や実践が要求され、それは成熟のプロセスごとに異なる。今の私にとって必要だったのは、絶対的な静寂さだったようだ。

実践としては、絶対的な静寂さを味わうことと、それとして生きること。つまり、自己が絶対的な静寂さそのものとなり、この世界を静寂さとして生きていくことが要求さていたのだ。

昨夜、自分の書斎が小さな美術館であることを改め感じた。それは書斎の窓から外の世界を眺めた時、外の世界が絵画作品のように見えるというだけではく、2枚の原画を含め、自分が所有している3枚の絵画作品と、備え付けの4、5枚の絵画作品がここにあるからである。

昨夜は就寝前に、ニッサン·インゲル先生の2枚の原画をぼんやりと眺めていた。その瞬間には、確かな静寂さがあって、それら2枚の絵画は静寂さそのものであった。そして、私自身も静寂さであった。

内と外、そして外の対象物の三者が共に静寂さとなり、それらが一つの巨大な静寂さになるという瞬間を体験した。この体験は一見すると何の変哲もないように思えるかもしれないが、自分にとっては極度に意味のあるものかと思われる。

静寂さ、静寂さ、静寂さ···。今も静寂さの中にいて、自分が静寂である。

副詞の“in”を置く形ではなく、状態を表す形容詞としての静寂なありようが自己そのものになっている。副詞を活用した瞬間に、そこでは静寂さが名詞として捉えられてしまい、客体物となってしまう。今の自分は静寂さを名詞としては捉えていないのである。

文章を綴る際には、どうしても言語の性質として、それを客体化することになるのだが、それはそもそも客体化の範疇を超えている。完全なまでに主観的な形でそれは経験されている。絶えずそれが知覚の中にある。いや、知覚そのものが静寂さになっているのだから、その説明はあまり相応しくないかもしれない。

「自分は静寂である」という表現。自己と静寂な状態が完全にイコールで結ばれているそうした表現は、今の状態を表すにふさわしい。さらに驚くことに、それはもう状態から恒常的な構造特性へと移行し始めていることにも気付く。

ある状態特性をしばらく、ないしは長らく経験していると、それが恒常的な構造へと変貌を遂げていくというのは発達の原理の一つである。その原理がまさに今の自分に適用されている。

この文章を綴る前に何を書こうとしていたのか定かではない。そもそも、最初から意図や目的などなかったのかもしれない。書きながら何かを感じ、書きながら考えること。そして何より、書きながら生きること。自分はただそれだけのことを行っているに過ぎないのだ。

今日もまたふとした時に、小さな美術館としての書斎に飾られた絵をぼんやりと眺めよう。静寂さと観想として生きる1日が、また小さな振動と共に産声を上げようとしている。フローニンゲン:2019/12/18(水)06:41

5356. 長眠について:創造と規則

ここのところは午前2時や3時あたりに起床することが習慣となっており、今朝のように午前5時に起床すると、1日のスタートが随分と遅いものに感じられてしまう。それは別に大きな問題ではなく、そこからゆっくりと1日を始めればいいのであり、自分の取り組みにより深く集中していけばいいだけの話である。とはいえ、少しばかり睡眠について考えてみると、今朝の私の心身は、おそらくいつもより多くの睡眠を欲していた何かがあったのだろうと思われる。

人にはそれぞれ最適の睡眠時間があると言われる。それは確かにそうなのだが、その最適さも自分の成長プロセスやライフサイクル、さらには日常の心がけと実践次第で大きく変動する。それを先日の断食を通じて改めて実感した次第である。

この世界には短眠の人と長眠の人がいる。断食後、睡眠時間が減りながらも、それでいて極度に濃縮した質の高い睡眠が実現され始めた姿を見ると、そもそも極度に質の高い睡眠が実現されていれば、果たして長く眠ることなど人間にできるのだろうか、ということを考えていた。

長く眠ってしまうというのは、それだけ睡眠の質が悪く、睡眠によってうまく心身の回復がなされていないことの証なのではないかと思うに至った。そして、日中の活動の中で、これまでの習慣的な行為や発想によって、知らず知らずのうちに、心身を疲弊させ、質の低い睡眠を導く状態を生み出してしまうことや、睡眠を取ってもなかなか心身が回復しない状態を生み出してしまっているのではないかと思う。

要するに、長眠には長眠にならざるを得ない何かしらの問題があるようなのだ。それは前回の断食を通じて得た気づきの一つであった。

静寂さについてまた考えている自分がいる。朝の一杯の具なし味噌汁を作っている時にもまた静寂さについて考えていた。絶対的な静寂さの中で、絶対的な静寂さとして絶対的に動的(ダイナミック)に瞬間瞬間を生きること。そうした生き方を希求する自己がいるようだ。

少しばかり目を閉じて、心の中の声を聞いてみる。すると、そうした生き方の確からしさと正しさが感じられてくる。そして何より、心がそうした生き方に向かってゆっくりと歩いている姿が見える。

昨日、作曲上の規則について少しばかり考えていた。現在は確かに、過去の偉大な作曲家が生み出した作曲法則と、それを定式化した音楽理論家の理論に従う形で曲を作ることが多い。しかし今後は、自らで積極的に作曲上の規則を作り、それをまた積極的に破っていくということが求められるような気がした。

守破離の考え方を、他者が作った規則に対してだけ適用するのではなく、自らが作った規則に対しても適用するのである。創造的に規則を作り、創造的に規則を破ること。この双方を行っていくことが今後求められることかと思われた。

こうしたプロセスを何度も繰り返し行うことによって、自由自在に音を創造することができるようになってくるだろう。この果てしないプロセスの中で、プロセスそのものして今日もまた作曲実践を行っていく。フローニンゲン:2019/12/18(水)07:05

5357. 今朝方の印象的な夢

時刻は午前7時を迎えた。起床から相変わらず日記をつらつらと綴っている自分がいる。それが静寂さという自分の望むことであれば、それはそれでいいのだと思う。それもまた静寂さに則った生き方である。

今朝方の夢は、随分と印象に残るものだった。目覚めた時、なぜか私は不思議な帰還感覚があり、そこは今から10年、あるいは20年先の世界のように思えた。宇宙の遠い惑星のどこかから帰ってきたかのような感覚があった。

言わずもがな、それは物理的に遠くから帰ってきたという感覚だけではなく、自己の存在として遠くの自己から自己の近くに帰ってきた感覚があったのである。

夢の中で私は、未だかつて訪れたことのないリゾート地にいた。そこは島になっており、雰囲気としてはインドネシアのバリ島のようなイメージだった。

南国にある木々が海岸沿いに生い茂っており、太陽の光によって温められた暖かい風がそれらの木々の枝や葉を揺らしていた。

そもそも私がこの島にやってきたのは、小中高時代から付き合いのある親友(SI)の結婚式に参加するためだった。彼からの招待を受けた時、こうしたリゾート地的な島で結婚式を行うことを驚いたが、到着してすぐに、ここに来て良かったと思った。

結婚式場に到着すると、私はトイレに行きたくなったので、トイレに立ち寄ることにした。結婚式場はとても豪勢であり、清潔感に溢れていたのだが、なぜかトイレが実際に通っていた中学校のトイレのように汚かった。

私の時代にはまだ和式トイレが残っていて、そこも全てが和式トイレだった。とはいえ、私は用を足すだけだったので、和式トイレの個室に入る必要はなかったのだが、そうしたトイレの姿が少し懐かしく思えたのだ。

用を足し終えてトイレから出ようとすると、そこで小中学校時代の友人(MS)と出会った。どうやら彼も結婚式に招待されたらしく、式が始まる前に用を足そうという考えを持っていたようだった。

すると彼は突然、「今からトイレ掃除をしよう」と述べた。それは私に対する提案というよりも、強制的に私も手伝えというニュアンスが含まれていた。

彼はすぐさまブラシを持って和式トイレを磨き始め、彼の提案を断れる雰囲気ではなかったので、私もトイレ掃除をすることにした。すると、時間が移動し、どうやら結婚式を終えて、その場で二次会が始まろうとしていた。

二次会では、新郎新婦の幼少時代の思い出を巨大なスクリーンに映し出すようなことが企画されていた。ちょうど私の友人(YU)がそれを担当しているようであり、彼がスクリーンの前に立っていた。また、彼の横には新郎もいて、2人で何かを話していた。

すると再び、ここでも時間が途切れ、時間がいつの間にか推移していた。気がつくと私は、親友である新郎の目に蹴りを2回入れていたようだった。彼が机の下に潜り込んでいるときに、かかとで彼の両目を2回ほど蹴り込んだようなのだ。

どういうわけかその時の私は憤怒の感情の中にいて、そうした行為を行っていたようだった。改めて我に返った時、それによって彼が失明してしまうのではないかと私は恐れたが、彼はなんとか無事のようだった。しかし、その痛みがひどいらしく、彼は地面に伏す形で眠りの世界に入っていた。すやすやと眠る彼の姿を眺めていると、安堵の念が生まれた。

すると、実は私が暴行を加えたのは新郎の彼だけではなく、スクリーンの前に立っていた友人に対してもだったようだ。その友人に対しては、蹴りではなく、拳で顔面を殴りつけたようだった。彼もまた無事のようであり、私は一安心したが、時間が飛んだその間に、いったい私は何をしたのだろうかと思った。

また、何がそれほどまでに自分を怒らせたのかを少し考えていた。そして、我を忘れることの怖さ、あるいは自分が自分ではない制御不能の者に突如として変貌してしまうことに対しても恐ろしさを感じていた。

そこから私は式場から出て、一人になりたいと思った。一人になって、心を落ち着かせる必要があると感じたのである。

すると式場の近くに、木造の家屋があり、私はそこに入った。そこは宿泊用の家屋であり、実際に私たちが宿泊している場所のようだった。

私はその一軒家のような木造建築の家の中で一人になった。とはいえ、そこには何人かの友人たちと一緒になって宿泊しているようだったから、彼らに見つからないように、私はロフトの方に向かっていった。

ロフトに上がってみると、その上に隠された屋根裏部屋のようなものがあることに気づいた。「これは運がいい」と私は思い、その屋根裏部屋に逃げ隠れるようにして、そこでしばらく時間を過ごそうと思った。

しばらくすると、何人かの友人たちが帰ってきた。向こう側から見えない床板を通して、屋根裏部屋から彼らの様子を眺めていると、彼らは私を探しているようだった。

私は彼らに見つかることはないと高を括っていたが、小中高時代の女性友達(KF)が私が屋根裏部屋にいることに気づいた。気づかれてしまったのでもう隠れていてもしょうがないと思い、私は一階に降りた。

すると、そこでもまた時間が一気に推移した。どうやら結婚式も二次会も終わり、島を離れる日がやってきたようだった。

島を離れるためにはフェリーに乗る必要があった。そこにはまるで大きな駅のように、行先の様々なフェリーが停まる立派な船着場があった。

如何せん様々な目的地へのフェリーがあるものだから、間違ったものに乗らないようにする必要があった。私たちはフランスのマルセイユかどこかを経由する形で自分たちの目的地に帰ることになっていた。目的地は明確なのだが、その船着場がやはり複雑であったから、なかなか目的の船を見つけることができなかった。

私は、結婚式場で暴行を加えた親友2人と一緒に船を探しており、次々と船が出発していく姿を見て、意を決して目の前の船に飛び乗ることにした。制服を着て、顎髭を生やした船長らしきフランス人男性が船内にいたので、その男性に話しかけ、目的地に到着するかどうかを確認したところ、目的地に到着するとのことだったので、私たちは一安心した。

するとまたしても時間が推移しており、私は空を飛んでいた。厳密には、時間が逆行する形で、私はまだその島にいて、島の海岸線の上を飛んでいたのである。さらに厳密に言えば、私は結婚式が行われた宮殿のような場所で、数人の友人と口論しており、それに嫌気がさして宮殿の中庭から空に向かって飛び出したようだった。

海岸線の上空をしばらく飛んでいると、下から何かの動物の鳴き声が聞こえてきた。見ると、なんとそこには猪の大群がいて、小さな子供の猪が鳴き声を上げていたのである。猪たちの数は尋常ではないほどに多く、彼らは海の浅瀬の中を歩いており、これから別の島に向かって大移動を行っているようだった。

上空から猪たちの力強い足取りを眺めていると、こちらにも力が湧いてくるかのような感覚だった。また、小さな猪たちの姿も可愛らしく、それは私の心を多いにくつろがせてくれた。

彼らの進む方向と合わせる形で空を飛び、彼らの移動風景を見ていると、ある時突然、猪たちが全員巨大化した。それは本当に尋常ではない大きさになった。しかも、大きさだけではなく、凶暴性も増したようであり、彼らが浅瀬からジャンプすれば、空を飛んでいる私に届きそうであり、私は食べられてしまうかか殺されてしまうかを恐れた。

一頭の猪がジャンプした時、本当に自分の足に届きそうだったので、これはまずいと思い、私は高度をさらに上げて飛ぶことにした。すると猪たちはまた穏やかな表情に戻っていった。

だがそこから突然、猪の大群たちは、人食巨人に変化したのである。彼らの姿形は人間であり、彼らの知性は人間と同等かそれ以上であった。

何人かの巨人が、経済学の話をしているのが聞こえてきて、若い巨人たちはどうやら大学のようなものに通っているらしかった。彼らは人間を食べてしまうが、普段は大人しく、必要に迫られない限りは人間に危害を加えてこない。

とは言え、私は彼らの存在がおっかなかったので、彼らに捕まらないように、さらに高度を上げようとした。ところが、それ以上高度が上がらず、下手をすると彼らがジャンプをすれば手が届きそうな場所を飛んで移動することになった。

こちらの島から別の島にかけて、無数の巨人たちが浅瀬を行進する光景は圧巻であった。向こうの島に夕日が暮れかかっており、夕日に照らされた島と海、そして巨人たちの歩く姿に目を奪われたところで、再び時間が跳躍した。

最後の夢の場面は、再びそのリゾート地が舞台となっていた。島を取り囲む海岸の近くに、海を眺めることのできる吹き抜けのカフェがあった。カフェでしばらくゆっくりしようと思っていたところ、大学時代に第二外国語で同じクラスだった友人がカフェにやってきた。彼は現在弁護士をしており、いくつかの専門領域の法律にかなり精通している。

先日偶然ながら、私が出版した書籍を彼が紹介してくれることになり、紹介文を書いてもらった。ところがその紹介文が散々たる出来であり、読者を混乱させるような内容になっていた。その紹介文はオンライン上で読めるようになっており、読者からコメントがもらえるようにもなっていた。

大抵の読者は、「書籍の内容と全く違うことが書かれている。これでは読者を混乱させるだけだ」というような趣旨のコメントをしていた。私もそのように思い、彼に紹介文を依頼しておきながら恐縮であるが、彼の紹介文に手直しを加えた。いくつかの項目のうち、ある一つの項目の文章だけが酷かったので、そこだけ修正することにしたのである。

そんなことが先日にあったと思い出しながら、私はカフェで彼と話をしていた。ちょうどその件について話をするタイミングあったので、彼のことを気遣いながら、さりげなくその話題を持ち出した。

すると、彼は全くそれに気づいておらず、また悪気は一切なかったとのことだった。むしろ彼は、私の書籍を紹介してくれるために特別な会社を設立してくれていたようだった。しかも彼は借金をして、その会社を作ったそうだった。

会社設立に要した費用は50万ぐらいかと私は見積もっていたのだが、聞いてみるとなんと、1000億円ぐらいの借金をして設立したそうだ。設立費用がそのような金額になるとは考えられず、もう少し話を伺ってみると、彼は投資会社を設立していたようであり、膨大な金額の借金を元手に、巨大な金額のお金を運用していたらしい。

どのようなスキームで投資を行っているのかさらに突っ込んだ話を聞いてみたところ、それは法律の抜け穴を掻い潜るような、かなりグレーなスキームだった。見方によっては、それはもう詐欺的な手法のように私には思えた。

とは言え、そのスキームには彼の高度な知性が反映されていたし、そのスキーム自体に面白さがあったのは確かである。実際私はその場で思わず、「面白い!」と大きな声を上げていた。

そのような手法を思いつく彼に対して、好感が増したところ、後ろから2人の女性が声をかけてきた。振り返ると、そこには小中学校時代の女性友達(KF & NI)がいて、「で、加藤のスキームはどんなものなの?」とニタニタした笑顔を浮かべて尋ねてきた。

2人の表情を見たとき、私が行っていることも彼女たちから見ればグレーなことのように映っているのだと思えた。特に私は投資会社を運営しているわけではなかったので、何もグレーなことはしていないと説明しようと思ったところで夢から覚めた。

今朝方の夢の中では、特に大切な親友に暴行を加えたシーンが印象に残っている。おそらくそれと関連して、巨大化した猪の大群や巨人の大群のシンボルがあるのだと思う。

自分の中に潜んでいる我を忘れさせるほどの巨大な暴力性と破壊衝動については、もう少し角度を変え、時間をかけながら探求していく必要がありそうだ。今から少し、一昨日にゼミナールの受講者の方々に共有したドリームディクショナリーを使って、猪のシンボルについて調べてみようと思う。フローニンゲン:2019/12/18(水)08:34

5358. 儚さと永遠の充満する世界の中で

時刻は午後の7時を迎えた。つい先ほど、静寂さを楽しみながら夕食を味わって食べた。

ここ数日間、静寂さについて色々と考え、日記にも書き留めていたように、静寂さと一体となってこの世界に接している自己がいる。それは先ほどの夕食だけではなく、今日は朝から晩までそのような形で活動に営むことができていた。

朝にコーヒー豆を挽き、その香りを楽しんでいるときに、絶え間ない儚さの中を自分は生きていることにはたと気付かされた。目の前で立ち込めているコーヒーのアロマもまた儚く、その芳ばしい香りを味わっている時間もまた儚い刹那的なものである。それはもう、香りや時間だけではなく、目に映る光景にも当てはまることであり、聞こえてくる音もまたそうだ。

私たちは儚さの充満する世界の中で生きている。それを改めて実感した。

この世界に充満する一つ一つの儚さを味わっている体験や感覚、そして気持ちそのものも儚いものである。世界は本当に儚さで出来ているようなのだ。そして私たちの自己も人生もまた儚さで出来ているのだ。

全てが儚さで出来ていると考えてみると、そこから一転して、全てものが永遠を体現しているようにも思えてくる。連続的かつ永続的な儚さ。全ては現れては消えていく儚さを持っているのだが、それは即永遠を意味している。そのような考えが浮かんでいた。

今日はいつもに比べて、ちょっぴり濃い目のコーヒーを味わっていた。ドリップ用の入れ物にいつもより濃い目のコーヒーを注いだ時、その色の鮮やかさに息を呑んだ。コーヒーがいつもより輝きを増しているように思えたのである。

気持ち多く豆を挽いている時、そして挽いた豆をドリップしている時、こうした手作りのコーヒーを大切な人に振る舞いたい気持ちになった。そのような出来事が今朝方にあった。

本日は、午前中に一件と午後に一件、オンラインミーティングを行った。午前中のミーティングの中で落語の話題が挙がり、協働者の方から大阪にある天満天神繁昌亭について教えてもらった。落語は大学時代の時によく聞いており、今もまだ関心があり、今度一時帰国して大阪に滞在する際には、ぜひそこで落語を聞いてみたいと思う。これでまた、来年の一時帰国の楽しみが増えた。

今夜もまた静寂さを味わい、明日も静寂さを味わえるように祈りながら就寝しよう。就寝前には、小さな美術館としての書斎の壁に飾られた2枚の原画を眺めよう。

ニッサン·インゲル先生がお描きになられた2枚の原画には、独特な存在エネルギーがある。そこからは、複製のデジタル画などにはないエネルギーが迸っている。

これは絵画作品のみならず、文章でも同じなのかもしれない。例えば、肉筆の手紙が持つ温かさとその存在エネルギーを考えてみれば、原画や直筆の力にすぐに気づくだろう。静けさに浸り、自分の内側の静寂さと一体となりながら、インゲル先生の作品を眺める形で今夜は就寝しよう。フローニンゲン:2019/12/18(水)19:18

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