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5331-5336:フローニンゲンからの便り 2019年12月12日(木)


本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5331. 大学再入学に関する夢

5332. 今朝方の夢の続き

5333. ヨーゼフ·マティアス·ハウアーとの出会い

5334. ルシファーとアーリマン:目には見えない霊的存在を認めることについて

5335. コミュニケーションと私たち

5336. 贈り物を通じた喜び

5331. 大学再入学に関する夢

時刻はゆっくりと午前5時に近づきつつある。今朝は一度、午前2時前に目覚めたが、そこで起きることはせず、結局今日は午前4時に目覚めた。

ここのところは、午前2時から3時の間、あるいは3時半までに起きることが多かったため、4時まで寝ると、相当に睡眠を取ったという感覚がある。今日の活動に向けての心身の状態は今とても良い。今日はまず今朝方の夢について振り返っておきたい気分であるため、夢をメモした裏紙を眺めながら、今朝方の夢について書き留めておこうと思う。

夢の中で私は、あるビルの中にいた。そこは確かにビルなのだが、雰囲気としては学校のような感じであった。もしかすると、ビルというよりも、小さなホテルと言った方が正確かもしれない。なぜならそこには宿泊施設があり、同時に研修施設もあったからである。

ある研修部屋の中に私はいて、これから駿台予備校の模試を解くことになっていた。私はすでに日本の大学を卒業していたが、もう一度受験し、大学に通い直そうと考えているようだった。

研修部屋は比較的広く、そこには小中学校時代の男女の友人が何人かいて、彼らもまた模試を受けるようだった。中学校時代にお世話になった女性の数学の先生が部屋にやってきて、問題を配り始めた。解答用紙にまずは名前を書いたところ、最初の科目は数学のはずだったが、なぜだか理科の問題が配れていることに気づいた。それに気づいたのは実は少し後になってからであり、実際のところは、右隣に座っていた小中高から長い付き合いのある女性友達(MH)が教えてくれたのであった。

私は先生に、問題用紙と解答用紙が違うことを伝え、先生は「ごめんごめん」と笑いながら数学の問題を配ってくれた。いざ試験が始まってみると、私は数学の一問目からつまづいた。模試を受ける前にほとんど準備をしておらず、私にはそのとき様々な仕事があり、大学受験用の勉強などしている時間がなかった。いや、そうした時間はあったかもしれず、時間を確保しようと思えばなんとでもできたと思うが、生まれた時間は自分の好きなことに使っていたように思う。

そのようなことを思いながら問題を解いていたこともあってか、どの問題も一向に答えまで辿り着ける気配がなかった。本来であれば、ざっと問題全体を確認し、解きやすいところから解いていくのが王道だと思うが、私は第一問に執着し、それを解き切ってから次の大問に移ろうと思っていた。

第一問は図形の問題であり、最初の一問目から、高度な幾何学的センスを問うようなものになっており、正直お手上げであった。そもそも、数学の問題に集中するための集中力に欠けており、研修室の部屋の様子などが気になってしまう状態であった。

そうこうしているうちに、あっという間に試験時間が終了し、気づけば私は、一問ぐらいしか問題が解けていなかった。得意としている数学の不出来さには自分でも少々驚き、そして幾分落胆した。そうした感情を幾分引きずりながら、その次の科目である英語の問題を解いていった。ここでも問題が難しく感じ、その後の国語と社会もまた同じであった。

試験が終了すると、すぐに結果が返ってきて、数学の点数はなんと「3/200」と燦々たる出来であった。英語に関しても低調であり、どの科目も一様に低い点数であった。先生は、「今回の問題は難しかった」と言って、私を含め、その場にいた受験者全員を慰めていたが、さすがに自分の点数の低さには驚かざるをえなかった。

返ってきた結果を眺めながら、これから入試本番までにどのように勉強していいか考えていたが、さすがにこのままだと志望校に受からない可能性があり、大学に通い直すのはもうやめにしようかと考える自分がいた。そこで気分転換にトイレに行ったところ、ちょうどそこに、大学時代のゼミの一学年上の先輩(TH)がいて、その先輩も先ほどの模試を受けていたようだったから、お互いの結果についてそこで少し立ち話をした。

その先輩は、「正攻法的に、やはり問題は解けるものから解いて行った方がよかったね」と私に述べた。そこで夢の場面が変わった。

大学受験に関する夢を久しぶりに見たように思う。すでに大学を卒業しているのだが、日本の大学に入り直そうとする夢、しかも卒業した母校に再入学しようとする夢を見ることは過去にも何度かあり、大抵はそれがうまくいかない。自分の準備が足りていないことが多く、入試問題がかなり難しく感じられてしまう夢が多々あり、今回もそうした分類に属する夢だったように思う。

大学受験をしたのはもう随分と昔のことなのだが、何か当時の出来事が自分の心の奥底に眠っているようだ。それは肯定的なもの、否定的(トラウマ的)なものの双方があるだろう。

また、大学に再度入学しようとする夢の中の自分が何を象徴しているのかも気になるところである。今の私はもうアカデミックの世界に戻ろうとは考えていないのだが、ひょっとすると心のどこかでは、またアカデミックの世界に何らかの形で戻りたいと考えているのかもしれない。それはこれまでの探究領域ではなく、新たな探究領域に関してのことだとは思われるが。フローニンゲン:2019/12/12(木)05:19

5332. 今朝方の夢の続き

天気予報を確認すると、今日は一日を通して晴れらしいのだが、起床してすぐに通り雨が降った。今はもうそれが止んでいるが、ここのところは天気の悪い日が続く。

過去数年間の冬において、このように雨が続いていたかを考えてしまうほどである。とはいえ、天気の優れない日々を過ごしていると、晴れの日の有り難さが身に染みることも事実である。そして、雨の日の持つ趣を認識し始めた今日この頃においては、雨の日における自分の感情は随分と変化が見られるのではないかと思う。今日もまた夕方あたりに、気分転換として近所の運河沿いを軽くジョギングし、その足で近所のスーパーに立ち寄ろうと思う。

先ほど今朝方の夢について振り返りをしていたが、夢にはまだ続きがあったので、それについても振り返っておきたい。先ほど書き留めていた夢は、実はその後の夢と連続していた可能性が高い。

夢の中で私は、四方を学校の校舎に囲まれた中庭にいた。校舎の建物は、あまり親近感の湧くようなものではなく、無機質な建物のように感じられた。

中庭を横切って向こう側の建物に行こうとしたところ、近くにいた友人が私を止めた。中庭は一種の戦場と化しており、そこでは静かながらも確かに銃撃戦が繰り広げられていたのである。

誰と誰が銃撃戦を行っていたのか気になったところ、友人の話に基づけば、中殴のどこかの国と西欧のどこかの国の人たちが争っているようだった。その背景には、中欧の国が西欧のその国から抑圧されてきた歴史があるようであり、今ここでその恨みを晴らし、完全なる独立を果たそうと考えているようだった。

「銃撃戦」と述べたのだが、それは実際には、中欧の国が一方的に西欧の国に対して攻撃を仕掛けているような状態だった。というのも、中欧の国の人間はライフル銃を携えているのに対し、西欧の国の人たちは銃など持っておらず、全くの無防備だったからである。

中庭にいる西欧の国の人たちが少しでも不穏な動きをしたら、中欧の人間たちは迷わず彼らを射殺した。そのようなおぞましい光景が目の前に広がっていた。

友人と私は、その場から一刻も早く離れたかったのだが、動くに動けない状態だった。私たちの外見はアジア系であり、分かる人であれば日本人だと分かってもらえるかと思っていたが、なんと中国人もその場で射殺されていたので、中国人に間違われてはならないと思い、うかつに動けなかった。過去に中国もその中欧の国を支配した歴史があるとのことだった。

中国人と間違われて射殺されては元も子もないと思いながらも、その場でじっとしていても何も始まらないと思ったため、私は慎重を期して、中庭をそろりそろりと歩いていった。幸いにも銃撃戦も落ち着いてきており、無事に反対側の建物の方に辿り着いた。

しかしそこでも、何人かの西欧人が捕まっている姿を見て、まだまだ危険な状況にあるのだと理解した。そこで私は、空を飛び、ここから脱出しようと考えた。

不穏な動きと思われないように、私は少しずつ、慎重に自分の腕をバタつかせ、宙に浮かび上がってった。そしてそこから建物の向こう側に飛んで行こうと思ったのだが、思うように高度が上がらず、結局再び地上に降り立つ形となった。再度下手に飛ぶと撃ち殺されてしまう危険性があったので、これはもう地上で大人しくしていようと思った。

中庭の外壁に沿って静かに歩いていると、アフリカ系の親子に遭遇した。母と2人の娘がそこにいて、3人は少し心配げな表情を浮かべていた。彼女たちの表情を見たとき、何とかその場の雰囲気を明るくしてあげようと思い、私は彼女たちに話しかけ、そして空を飛ぶときの動作を見せてあげた。

すると、5歳ぐらいの女の子が笑顔になり、私の動きを真似し始めた。その子の姉だと思われる女の子は中学生ぐらいであり、彼女は私に声をかけてきて、壁にかけられていた一文字の漢字の意味を尋ねてきた。壁には「働」という漢字が絵画作品のようにかけられていた。

その漢字の意味を説明する際に、「人が動くということが「働く」という意味なんだ」と私はその子に教えた。すると、その子は笑みを浮かべ、何か納得したようであった。

そこで夢の場面が変わり、私は海岸線を走る車の後部座席にいた。私の左横には、小中学校時代の女性友達(MN)がいた。

私は、ぼんやりと車の窓越しから、移りゆく海岸線の景色を眺めていた。すると、深い安堵感が生まれた。

どうやら一つ前の夢で舞台となっていた戦場から無事に脱出した自分がそこにいて、自分がまだ生きていることの喜びを静かに噛み締めているようだった。しばらく車内は静かだったが、あるときふと、隣に座っている友人が口を開いた。

友人:「それにしてもドイツは大きいね。オランダの大きさはこれっぽっちしかないのに」

友人はドイツの大きさを両手で示し、オランダの大きさを右手の親指と人差し指の2本で示した。友人は続け様に、「確かにオランダはこれっぽっちの大きさしかないんだけど、創造的なものが日々生まれ、みんな元気に見えるよね。それに比べて日本はあれだけ人口がいるのに、どうしていいものが生まれてこないのかしら。それと元気がないのも心配だわ」と述べた。私は彼女が述べたことに同意しながらも、幾分やるせなさを感じながら移りゆく海岸線を眺めていた。フローニンゲン:2019/12/12(木)05:56

5333. ヨーゼフ·マティアス·ハウアーとの出会い

時刻は午前6時を迎えた。今日は晴れとのことであるが、朝日が昇るまでにあと2時間半ほどはかかりそうである。先ほどまで夢の振り返りをしていたが、そういえば、また別の夢の中で、12音技法を活用して作曲をする際には、もう少し慎重に音を選ばないといけないと知人から言われていたのを思い出す。

そのフィードバックを受けたとき、自分もそのように思っていたので納得した。一方で、そのフィードバックをあまり気にしすぎないようにした方がいいとも思った。

夢の中で12音技法が出てきたのは、ひょっとすると、昨日の午前中に、ヨーゼフ·マティアス·ハウアー(オーストリアの作曲家:1883-1959)について調べていたからかもしれない。ハウアーは、アーノルド·ショーンバーグよりも先に12音技法を提唱したと言われることで有名である。

実際にハウアーが作ったピアノ曲を聴いてみると、ショーンバーグのピアノ曲よりも共感するものがそこにあった。私の感性はどちらかというと、ショーンバーグのものよりも、ハウワーの感性の方に近いのだと直感的に理解した。

そこからハウワーについて調べてみると、ハウアーがゲーテの色彩論や中国の易経などの探究を行い、その探究成果を曲に活用していることを知った。それを知ってますますハウアーについて関心が高まると、ハウアーが神秘思想を探究し、中でもシュタイナーの思想に共感の念を持っていたことを知るに至った。

そのときふと、静かではあるが、自分の内側で何かがつながる感覚があった。ハウアーの音楽との出会いの背景には、目には見えない縁が横たわっているように思えたのである。

12音技法を用いてハウアーが作ったピアノ曲を聴いてみたところ、その美しさに驚いてしまった。とかく奇妙な響きばかりを生み出してしまいがちな12音技法を用いながらも、このように美しい曲を作れることに感銘を受け、どのような発想と技術でそのような曲をハウアーが作ったのかを知りたくなった。

そこで文献を調べてみたところ、“Serial Composition and Tonality: An Introduction to the Music of Hauer and Steinbauer (2011)”という大変興味深い書籍を見つけた。ショーンバーグに関する書籍は数多くあるが、ハウアーに関する書籍は少なく、しかもそれがドイツ語ではなく英語になるとなお数が少なくなってしまう。

その書籍を購入しようと思ったところ、アメリカやイギリスのアマゾンでは入手不能という珍しい書籍だった。幸にも、運命的に1冊だけドイツの書店にあったので迷わず購入することにした。

12音を用いて霊的な世界を表現することに苦心したハウアーの音楽にこれから徐々に親しんでいき、彼が体得した音楽書法から多くのことを学びたいと思う。ハウアーのように、作曲というものを無限に広がる世界との交流とみなし、個人的な自己表現から、献身や観想に変容させていく試みに従事していきたい。フローニンゲン:2019/12/12(木)06:30

5334. ルシファーとアーリマン:目には見えない霊的存在を認めることについて

時刻は午後の4時を迎えた。今日は天気に恵まれ、今、遠くの空に暮れゆく太陽を拝むことができる。

朝とはまた違った質感で、小鳥たちが鳴き声を上げている。いつも彼らの鳴き声を聞くたびに、心が洗われるかのような気持ちになる。天高く昇っていく声と供に、自分も天に近づいていくかのようだ。

そのようなことを考えていると、思想家のシュタイナーが提唱している2つの悪魔のことが思い出された。それは、高きものに私たちを執着させるルシファーと、俗物的なものに私たちを執着させるアーリマンの2つである。

1人の人間には、どちらの悪魔的かつ霊的な存在が内包されているが、ここ最近の私には、ルシファー的な力が幾分強く働いているのかもしれないという自覚がある。高きものが発する美の中で陶酔感を感じることが日々の生活の中で見られることからも、ルシファー的な力が今の自分に強く作用しているのだろう。

ルシファーもアーリマンも、繰り返しになるが、シュタイナーはそれらを高次な霊的存在として捉えており、それらは「悪魔」と括られているが、単純にそれら自体を悪だとはみなすことはできない。2つの悪魔の中間に位置する私たちが、そうした悪魔のどちらか一方に偏りすぎた場合に、私たちはその悪魔に囚われて堕落していく。

一昨日あたりにふと、目には見えないもの、とりわけ神秘主義思想などにおいて霊的な存在とみなされるものを極端に否定する人たちについて考えを巡らせていた。実は私たちが生活をしていく中で、目には見えないものは無数にあり、それこそ愛や美といった抽象的な概念はそもそも目には見えないし、私たちの肉体に常に働きかけている重力も目には見えない。それらの目には見えないものと霊的なものを一緒くたにするのは乱暴だが、それらはいずれも目には見えないという共通性を持っていることは確かだろう。

私は、重力のような物理次元の目には見えないものの存在をもちろん信じ、心理的次元における概念や観念のような目には見えないものの存在もまた信じている。そこから、さらに高次の霊的次元を考えてみたときに、その次元に目には見えない存在があることを考えることはそれほどおかしなことではないように思えてくる。もちろんそう思うことの背後には、概念や観念の次元よりも高い次元が存在しているということが前提となっているのだが。

私は、概念や観念を超えて、霊的な存在を認めることが、私たちの行動を変え、それによって私たち自身の生活や人生がより豊かになるのであれば、目には見えない霊的存在を認める方が望ましいのではないかと思えてくる。例えば、食べ物一つに神や仏が宿っていると考えることができたら、食べ物との向き合い方や食事の質に何か変化が生まれやしないだろうか。人との出会いの背後に、目には見えない霊的な力が働いていると考えることができたら、感謝の念が生まれたり、人との出会いとそこからの関係性を大切にしやしないだろうか。

霊的な存在を盲信するのではなく、霊的な存在も物理次元や心理的次元の目には見えないものと同様に存在するのだと当たり前のように思うことができたのであれば、物質的なものや心理的なものを逆に毛嫌いするスピリチャルなものへの偏狭から逃れることができ、私たちの生活や人生により彩りや実りがもたらされるのではないだろうか。

目には見えないものに思いを馳せ、その存在を認めることができること。それは私たちの日々の行動や考えを変え、それらを深めてくれるのだと思う。そしてそれは、私たちの日々の生活や人生をより豊かなものにしてくれるのだと思う。フローニンゲン:2019/12/12(木)16:28

5335. コミュニケーションと私たち

時刻は午後の4時半を迎えた。今は冬真っ盛りであり、これからまだまだ気温が下がっていくのだが、その一方で、夕日が沈む早さのピークはもう過ぎたように思われる。

今この時間帯においてもまだ辺りは薄暗さを保っており、遠くの空には暮れゆく夕日を拝むことができる。そうした夕日を見ると、ホッと一息つくことができる。天気が悪い日が続く分、なおさら夕日が拝めることを有り難く思う。

一昨日、協働者の方たちとオンラインミーティングがあり、そこではコミュニケーションの質が話題に挙がった。そして偶然ながら、その前日に友人かつかかりつけの美容師のメルヴィンに髪を切ってもらっているときにもコミュニケーションの質が話題となった。そして昨日は、私の配慮不足から、少々ミスコミュニケーションが生じてしまう出来事があった。

社会的な生き物として私たちが生きていく中で、コミュニケーションは必須のものであり、それは私たちの人生を豊かにすることもあれば、ミスコミュニケーションによって種々の問題を引き起こす。コミュニケーションもまた、インテグラル理論のAQAL的に様々なものが考えられる。私たちは、対人間だけではなく、対物質、対文化、対制度などの様々な相手に対して、ラインもレベルも実に多様なコミュニケーションの網の目の中で生きていることがわかる。

全ての対象に対して高次元のコミュニケーションを発揮できる人など皆無であり、私もまたそうだと深く反省させられるような出来事があった。ちょうど私の友人が、コミュニケーションをテーマにした書籍の執筆を進めており、改めてその書籍の意義を知る。

もう少ししたら入浴し、夕食の準備を始めるが、まさに食べ物とのコミュニケーションがそこには存在している。欧州で暮らす日々が進行していくに従って、死というものについて考える機会が増えているが、そこには死とのコミュケーションの問題が存在している。先ほどの日記で書き留めていた霊的な存在についても、そうした目には見えない存在との間におけるコミュケーションの問題が存在している。

一つの主体として存在する私たちは、主体以外の無数のものとのコミュニケーションによって日々の生活が成り立っており、私たちの存在も、そうした無数のコミュニケーションから逆定義されるのではないかと思われるほどだ。他の一切の存在者と主体を切り離し、主体単独でその存在を定義しようと思ってもそれは不可能なのだろう。

コミュニケーションは、私たちの心を暖かくもしてくれるし、不快にもさせる。そうしたことを思うことが直近にあったため、このテーマについては今後も考えを深め、コミュニケーションの質を高めていくような心掛けと実践を絶えずしていきたい。

どの領域の何に対して自分がコミュニケーション能力が極度に低いかは昔から見えていたのだが、それをこれまでずっと放置していたように思う。それが昨日のミスコミュニケーションを生んでしまったのだと思われるため、ここから考えを改め、行動を変えていこう。フローニンゲン:2019/12/12(木)16:51

5336. 贈り物を通じた喜び

つい先ほど夕食を食べ、今からメールの返信を済ませてから、少しばかり読書をしようと思う。年末年始にかけて読もうと思っていた本が、幸いにも続々と届き始め、未着のものはあと2冊になった。

現在はまだショーンバーグの“Style& Idea: Selected Writing”を読み進めている最中だが、もう少しで読み終えるので、明日か明後日からは、コリン·ウィルソンが執筆した“Poetry and Mysticism”かピエール·ブーレーズが執筆した“Music Lessons: The College de France Lectures”を読み進めていこうと思う。前者の書籍は、年末にマルタ共和国を訪れる際に持参しようと思っていたが、そこまで待ちきれないので、もう読んでしまおうと思う。

マルタ共和国への訪問について言及した瞬間に思い出したが、年末にマルタにいく前に、部屋の大掃除をしたいと思う。ここで一度大掃除をして、部屋をもう一度全体的に綺麗にしたい。普段からフロアやトイレの掃除は欠かさずに行っているが、細かな点についてはあまり掃除が行き届いていないと思われるため、2019年を締めくくるためにも大掃除を行いたい。それによって、来年にはまた良いエネルギーが部屋にやってくるだろう。

夕方の日記の中で、コミュニケーションに関して言及していたように思う。昨日に発生してしまったミスコミュニケーションについて考えていると、そうしたミスコミュニケーションの背後にはやはり自分自身の思い込みやシャドーの問題が見え隠れしている。逆に言えば、ミスコミュニケーションは、まだ客体化されていない発想の枠組みやまだ内側で統合されていないシャドーの存在を教えてくれる。昨日の出来事はそのような機会だったと捉えている。

自分が常識と思っていることが他者にとっては全くもって常識でなかったり、自分自身の中にある思わぬシャドーに気づかされる形になった。少しばかり心の波が揺れたが、今回の体験を通じて得られたことは大きい。

今日は午後3時あたりに、散歩がてら街の中心部にあるお茶·コーヒー専門店の“Simon Lévelt”を訪れた。この店は、なんと200年近い歴史を持っており、店が始まったのは1826年とのことである。

この店は、フローニンゲン大学のシンボルでもあるレクチャーホールと図書館の近くにあり、店に足を運ぶ際には、フローニンゲン大学のそれらの建築物を懐かしく眺める自分がいる。

本日その店に訪れたのは、この間購入したコーヒー豆が切れかかっているためと、それ以上に重要な理由としては、友人かつかかりつけの美容師であるメルヴィンにコーヒー豆をプレゼントしようと思ったからである。メルヴィンにはスシというガールフレンドがいて、あと数日で交際4周年の記念日ということだったので、それに見合うコーヒー豆を選び、それをプレゼントすることにした。

店に到着し、まずは自分の豆を選ぶことにした。前回とは異なる豆を試してみようと思い、今回はエチオピアのオーガニックコーヒー豆を購入することにした。

この店に置かれているほとんどのお茶やコーヒーはオーガニックであり、今日もまた親切な店員さんに声をかけてもらい、そのあたりの事情についても話を伺ってみた。店としても、オーガニックなものを作る生産者を応援したいという気持ちが伝わってきた。消費者である私も同じ気持ちを持っている。

この店には数多くのコーヒー豆があるため、今度はより深みのある味のコーヒー豆を購入してみようと思う。次に、メルヴィンとスシにプレゼントするコーヒー豆を選ぶことにした。

2人ともコーヒーが好きであることを知っていたので、ぜひ記念日も含めて、2人で一緒にコーヒーでも飲んでくつろぎながら語り合ってほしいと思った。2人にプレゼントするものとして、クリスマス用の特別なコーヒー豆であり、いくつかのオーガニックコーヒー豆がブレンドされているものを選んだ。

プレゼント用のコーヒー豆を選んでいる時にふと、こうして誰かに渡す贈り物を選んでいる自分が喜びを感じていることに気づいた。そして、店員さんが親切にもそれはプレゼント用かと尋ねてきてくれたので、その旨を伝えると、綺麗に包装紙に包み、リボンを付けてくれた。

贈り物が包装紙に包まれていく姿を見ていると、さらに嬉しさの感情が湧いてきた。そして店を後にして、メルヴィンの店に立ち寄る際にも、心が弾んでいた。贈り物というのは、選ぶ際、そしてそれを届ける際にも喜びの感情が得られるのだと改めて気づいた。

そのお茶·コーヒー専門店とメルヴィンの店は歩いてすぐの距離にあるため、メルヴィンの店に立ち寄ると、ちょうどメルヴィンが休憩中だったので、早速プレゼントを手渡した。贈り物を選ぶ時、それを相手に持っていく時のみならず、いや、やはりそれ以上に、実際に贈り物を相手に手渡し、相手が喜んでくれる姿を見た時に、喜びの感情が絶頂に達するのだと思った。

メルヴィンと少しばかりその場で立ち話をし、2人の交際4周年記念を祝ったところで、店を後にした。店を後にして自宅に戻っている最中にも。喜びの余韻にしみじみと浸っている自分がいた。フローニンゲン:2019/12/12(木)20:04

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