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5325-5330:フローニンゲンからの便り 2019年12月11日(水)


本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5325. シュタイナー教育の価値と意義〜それらを貶めるもの

5326. 毎日外の空気を吸うこと

5327. ある心象風景:「知的早産」を引き起こす現代の教育及び人材育成

5328. 「知的早産」を逃れ、継続的な自己教育の実現を促してくれたもの

5329. 感動に打ち震える今朝方の夢

5330. 音声ファイルを作りながら:言葉に宿る命について

5325. シュタイナー教育の価値と意義〜それらを貶めるもの

時刻は午前3時に近づきつつある。今朝は午前2時過ぎに起床し、そこから朝のルーティンを行い、この時間帯から一日の活動を始めるに至った。振り返ってみると、14日間の断食を終えてから、まだ2週間が経っていないことに気づく。

昨日は、かかりつけの美容師のメルヴィンの店に行き、髪を切ってもらっていた。その際にも、14日間の断食について話題が及び、断食中に起きた体験などをメルヴィンに共有していた。

14日間の断食を通じて、身体の器官がまるで生まれ変わったかのように機能がなお一層健全なものになり、断食を終えてから心身の状態がすこぶる良い。それは睡眠の質にも直接的な影響を与えている。

以前の睡眠も質は決して低いものではなかったと思われるが、今のそれは以前と比較にならないぐらいに高い。そのおかげもあって、夜の10時から今朝のように2時ぐらいまで睡眠を取れば、もう十分すぎるほどに身体が回復しており、すっきりとした目覚めと共にそこから一日の活動を始めることができる。

今朝のように、2時半あたりから活動を始めると、正午までに9時間半ほど活動時間があり、正直なところ、もう午前中だけで自分の一日の取り組みを終えることができてしまう。一般的に、勤め人の場合、勤務時間は8時間から9時間ほどであろうから、午前中だけで彼らの1日分の仕事時間を確保することができていることになる。

実際には、昼に軽食として4種類の麦のフレークを食べた後にも、仮眠を挟んで、寝る1時間前の夜9時頃まで自分の取り組みに従事しているため、午後から就寝までにも8時間ぐらいの活動時間が確保されていることにふと気づく。そうした活動時間に、ゆったりとした気持ちの中で、日記の執筆、作曲、読書などを行っている。今日もまた、落ち着いた心を持って、自らの取り組みに従事していこうと思う。

昨日、シュタイナー教育に関する動画を共有した。本当は色々と思うことがあって一連の動画を共有したのだが、シュタイナー教育に関する自分の思いについては、徐々に日記の中で言及していきたいと思う。

動画を共有する際に、短い文章を添えていた。その中で、シュタイナー教育の持つ固有の価値や意義について触れていたように思う。

現在世の中には、多様な教育思想や実践があり、それは教育に関する多様性を確保し、教育の選択に伴う自由を考えてみれば、悪いことでは決してないように思う。しかしながら、一つ一つの教育手法に根差す思想や実践方法を人間発達の観点から眺めてみると、やはりどの意識段階に基づいて構築された教育手法なのか、そしてどの深度までの発達を見通した教育手法なのかによって、各々教育には差があることがわかる。

そのようなことを考えながら、もし仮に人類が一つしか教育手法を残すことができないとなれば、私はその一つとしてシュタイナー教育を挙げたいと思う。ここでは詳細に説明しないが、端的にはシュタイナー教育が持つ幅(span)と深さ(depth)が他の教育手法に比べて広く深いからだ。

とりわけ、人間発達の観点からすれば、霊的な成長の次元を考慮に入れた教育実践を行っているものは他にないのではないかと思われる。霊的な成長を教育の核に据えて、知的な教育、身体的な教育、芸術的な教育が、それぞれバラバラではなく統合的になされる点に、シュタイナー教育の大きな特徴があり、まさにそれはインテグラル教育と呼ぶにふさわしいものかと思う。

そこからふと、霊的(spiritual)なものと宗教的(religious)なものを取り違えたり、混同したりすることが世間では往々にして見られることに視点が向かった。このあたりの取り違えや混同ゆえに、シュタイナー教育の真の価値や意義などが伝わりにくくなっている可能性があり、それは非常に残念である。

繰り返しになるが、シュタイナー教育の価値や意義は、自由への教育という思想のもとに、霊的な成長の次元まで押し広げた全人格的かつ統合的な教育を実践することにある。ゆえに、もし霊的なものを宗教的と受け取ってしまったり、霊的なものを理解の及ばぬいかがわしいものとして骨抜きにしてしまうのであれば、それはもはやシュタイナー教育とは呼べず、シュタイナー教育の価値や意義をひどく貶めるものになってしまうだろう。そのようなことを昨夜考えていた。フローニンゲン:2019/12/11(水)03:11

5326. 毎日外の空気を吸うこと

真っ暗な闇の世界に小雨が降りしきる。起床した午前2時過ぎにおいては、雨は降っていなかったのだが、3時半を迎えようとしている今、小雨が天から降り始めた。

幾分風もあるようであり、天気予報を確認すると、午前8時頃までどうやら小雨が降り続ける可能性があるようだ。幸いにもそこから晴れ間が見えるようなので、今日もまた身体の調整及びリフレッシュを兼ねて、近所の運河沿いをジョギングし、その足で近所のスーパーに立ち寄ろうかと思う。

思考も魂の躍動も、そして創造活動も、それらは全て身体を土台にしているため、身体を適度に動かしながらほぐしていくことを毎日行うことは大切かと思う。私の場合で言えば、それは起床直後のヨガと夕方近くに外にジョギング兼ウォーキングをすることが、そうした身体実践になる。

身体をほぐした後の思考の状態や創造活動に向けたエネルギーの状態を眺めてみると、身体を動かすことの意義が明確なものとして掴めてくる。それは触感的にありありとしたものとして知覚できる。

確かにこの季節の当地の環境は厳しいが、過去の偉大な創造的な芸術家や哲学者は、寒さの厳しい環境にあっても、散歩などを通じて身体を動かしていたことが興味深い。とかく私の場合は、自分の内側の世界に籠ってしまいがちであり、そうした実践が多いため、なおさら対極に振って自己を外側に開く形で外の世界に身を置くことが大切なのだろう。それは些細なものでよく、1日に1度は外の空気を吸うために、ジョギングやウォーキングをするだけで良いかと思う。

色々と自分の身体を観察していると、例えば今朝のように雨が降っており、そうした雨が一日中続くと、家から一歩も外に出ないことが過去にはあった。特に、フローニンゲンにやってきた最初の年はそうした傾向にあったかと思う。

当地の雨は1日中降り続けることはあまりないため、雨が降らないタイミングを見計らって、今では極力1日に1度は外の空気を吸うようにしている。それは時間としては短かく、30分程度だろうか。

だが、この30分がどれだけ自分をリラックスさせ、リフレッシュさせてくれるだろうか。その恩恵は計り知れない。

観察をしてみると、例えば1日中家に籠った後の翌日にジョギングなどをすると、心肺機能が数ミリ単位で弱っているのを感じる。足腰の筋肉も同様である。この点については、どうやら科学的な研究も進んでいるようであり、私たちの身体は、1日室内で放置しただけでも随分と弱ってしまうそうなのだ。とりわけ、足腰が弱ってしまうというのは、この地上に立つというグラウンディングの力を弱めてしまい、存在力(presence)のようなものを弱体化させてしまうように思える。

地上にしっかりと自らの足を立て、グラウンディングしている人を見ると、当然ながら落ち着きがあり、存在感のようなものが全身から放射されているように思える。まさに「グラウンディング」というのは、ちょうど昨日友人かつかかりつけの美容師のメルヴィンとも話していた内容である。

フローニンゲンはこれからますます寒くなり、今後は雪も降ることだろう。そうであったとしても、白銀世界の素晴らしさを書斎の窓から眺めるだけではなく、それを触知し、自らの身体の調整とリフレッシュをするという意味も含めて、毎日できるだけ外の空気を吸いに30分ほどのジョギングやウォーキングを行おうと思う。

それが自分の身体や存在を根底から支え、日々の創造活動を後押ししてくれる。何よりも、外の空気を吸うことは、世界が私に創造の息吹を吹き込んでくれる("inspire”の語源通り)ことに他ならないのだと日々実感する次第である。フローニンゲン:2019/12/11(水)03:46

5327. ある心象風景:「知的早産」を引き起こす現代の教育及び人材育成

昨日、ふとしたきっかけで、変わり続けている自分に改めて驚いた。それはとてもシンプルな気づきなのだが、例えば4年前の自己と今の自己との間に見られる変化には打たれるものがあり、今から4年後の自分が一体どのような自己として世界に存在しているのかに意識が向かった。

もちろん、4年後の自分がどのようになっているのかは未知であり、それが発達の本質なのだが、きっと今の自分からは想像もできないような自己がまたそこに現れているのだと思った。そのようなことを考えていると、私の心の中に、ある一つの心象風景が浮かび上がっていた。それは、変わり続けていく海岸の景色と、一方で海そのものがそこにあり続けるという変わらない景色であった。

自分が踏み締めた一歩によって砂浜に足跡ができて、また歩く。時間を空けて振り返ると足跡が消えているのだが、確かに自分はその砂浜を歩いたという絶対的な存在感覚がある。そして、この絶対的な存在感覚に気づいた瞬間に、新たな自分がそこにいることに気づく。心象風景の中で、私はそのようなことを思っていた。

シュタイナー教育についての探究を日々小さく行い、自らにシュタイナー教育に類することを実践している日々が続く。シュタイナー教育が、日本の英才教育で見られる単純に知的操作だけを鍛錬するようなことを絶対的に避けようとする態度には深い共感の念を持つ。そうした早期英才教育の弊害は、発達科学者のカート·フィッシャーやポール·ヴァン·ギアートを含め、随分と科学的に明らかになっている——それは通称「ピアジェ効果」と呼ばれるものである。

人間の魂の成長を見据えた上で、永続的な成長を実現させようとするシュタイナー教育。とにかく個人の魂の特性に配慮し、焦ることなくそれを育んでいこうとする態度。そうしたものがシュタイナー教育の根底に横たわっている。

上述の通り、単純に知的操作だけを行う知的教育をシュタイナー教育では避けるが、逆に五感や感性を育む教育は早期からしっかりと行うのはシュタイナー教育の大きな特徴だろう。発達理論の観点から見ても、身体及びそれに伴う感性の土台を小さい頃から焦らず大きく育んでいくことは重要に思われる。

シュタイナー教育というのはひょっとして、植物の花を咲かせようと躍起になるのではなく、植物が育つ土壌を豊かにすることだけに焦点を当てているのではないかと思われてくる。世の中の多くの教育が、土壌を豊かに耕すことを蔑ろにし、農薬や化学肥料を用いて植物を強引に成長させようとするような傾向があるのに対して、シュタイナー教育のあり方はやはり希有である。

土壌を豊かに育てようとすることの結果として種から芽が出て、花が咲く。シュタイナー教育では、種から芽を強引に引き出そうとしたり、花を無理やり咲かせようとさせることは避けられているように思う。それがまさに、魂の存在を認めながらも、魂には触れないという態度の現れだろうか。言い方を変えると、内在的な発達力そのものに介入するのではなく、一人一人の子供たちが持つ固有の内在的な発達力が、あるべき姿で自然と発露するように環境を整え、その土台を作ってあげることに焦点が当てられているのがシュタイナー教育かと思われる。

農薬や化学肥料を用いるような形で、発芽や開花を早めようとする教育は、そもそも芽が芽として地上に出てくるための目には見えない発達力や、花が開花するための目には見えない発達力を完全に見落としているのだと思う。それが結果として、「知的早産」につながるのだろう。

知的早産というのは、無理に知的な成長を遂げてしまったがゆえに、他の知性領域·能力領域に歪みが生じ、意思力や行動力が低下し、自分が将来及び現在、何に向かって情熱を注いでいいのか分からなくなってしまい、生きる意味を喪失しかねない現象だと私は理解している。これは日本においては、21世紀にもなって相変わらず続いている、「受験」という名の教育上の徴兵制度のもとで見られる問題ある現象かと思われる。

そして、知的早産は、形を変えて、私たち成人の多くが日常で多く経験していることでもあるだろう。それこそ、企業社会における既存の人材育成の類は、大抵この知的早産を引き起こすようなもののように映る。

私たちは新たな知性領域や能力領域の実践をする際には、まるで幼児のような段階から成長の歩みを始める必要がある。それが人間発達の原理である。そうであるにもかかわらず、企業社会における人材育成は、生産性や効率化を推進しようとする動きの背後にあるイデオロギーや時代精神を完全に見落としているがゆえに、生産性や効率を高めるために、成長を加速させようとする無理な教育を成人に施す事態を生んでいる。

なるほど、この間秋に日本に一時帰国し、そこで講演をさせていただいた時に、都市部、とりわけ東京で働く成人の多くが死んだ魚のような目をしていると述べたのだが、それはこうした知的早産の結果として生じているものなのかもしれない。フローニンゲン:2019/12/11(水)04:31

5328. 「知的早産」を逃れ、継続的な自己教育の実現を促してくれたもの

時刻は午前4時半を迎えた。滴り落ちる雨の音を聞きながら、暖かいカカオドリンクを飲んで一息ついている。そして、先ほど書き留めていた「知的早産」や「ピアジェ効果」について考えていた。実はそれらについては、昨夜ベッドの上でも少し考えていたことである。

自分自身を振り返ってみたときに、幸いにも両親のおかげで、私はこの知的早産を逃れたのだと思う。実はこの点については、秋に一時帰国して、実家に戻った初日の晩餐の際に、直接2人に感謝の言葉を述べたことでもある。

自分の両親を褒め称えすぎるのは控えたいが、純粋に私は、父のことをルドルフ·シュタイナー的な人物だと思っているし、母のことをマリア·モンテッソーリ的な人物だと思っている。

幼少時代に東京の社宅で過ごしていた時、父が勤めている会社の性質上、その社宅に住んでいる親たちは軒並み高学歴であり、特に教育熱心な家庭が多かった。今でも鮮明に覚えているが、ある日、社宅の同じ学年の友人と遊んでいるときに、突然「今から塾に行く必要があるんだ。じゃあね」と言われたことがあるのを覚えている。

確かに、私も習い事はしていたが、それらはことごとく遊びの延長であり、それらは全て受験とは関係のないものだった。もちろん、全ての友人とは言わないが、当時の社宅にいた友人たちの多くは、中学校受験——下手をすると小学校受験——に向けて、塾に通っていたように思う。

この点に関して、私を塾に通わせることをしなかった父と母には心底感謝をしており、その感謝の念を30代も半ばを迎えようとしている今年の秋に、改めてそれを言葉で伝えた。前々からこの点については感謝の言葉を伝えていたが、それをこれまでよりも明確な形で伝えのは今回の一時帰国の時だったように思う。

母曰く、私は言葉を覚えるのが早く、口達者ではあったものの、文字、とりわけ日本語が読めるようになってきたなと自分で思い始めたのは28歳になってからだった。大学に入学するまでは本など一切読まず——読めず——、学生時代は優秀な友人たちに啓発される形で本を読み始めてみたものの、それはある意味形だけの読書だったように思う。とにかく、他者が書いた文章を読むのが苦痛であり、書かれている内容が自分の内側に入ってくることがほとんどなかった。

それは今となってみれば、そうした文章は結局魂が抜けたようなものばかりであり、自分の書籍の撰定が誤っていたとわかるのだが、文字を読むということに関しては、本当に長らく苦戦をしていたように思われる。

以前の日記でも言及したように、小学校時代の読書感想文は苦痛以外の何物でもなく、自由に執筆できる日記は毎日欠かさず書いていたのだが、本を読んでその感想を書くというのは、当時の私にとってはあまりにも過酷な苦行であった。なんとか頑張って、最初の1ページぐらいは読もうと思ってみるものの、かろうじて最初の数行が読める程度であり、いつも最初と最後のページの数行だけ読んで、読書感想文用の原稿用紙を埋めていたことを今でも鮮明に覚えている。

両親は勉強一般に関して何も私に言ってこず、それが知的早産から私を救い、自分のペースで発達の歩みを進めることにつながったのだと思う。無理やり本を読むことがなかったがゆえに、私は成人となってから、水を勢いよく吸収する砂漠の根のように読書を始めた。そこでようやく読む楽しさがわかり、少しずつではあるが、文字が読めるようになり、自分の肥やしとなっていった。

それは読書のみならず、勉強全般に言えることであった。幼少時代から一貫して勉強することを強要されることが一切なかかったために、結果として成人になってから勉学の楽しさに目覚め、それは会社を辞めて留学するほどに強烈なものであり、気がつけば、欧米の大学院で3つの修士号を取得するに至っていた。そして大学院終了後も、大学院に在籍していた時とほぼ変わらない学習を日々行っていることもまた、勉強を一度も強制されたことがなく、自ら学びの楽しさと喜びに目覚めた恩恵かと思われる。

幼少時代に知的早産を避けることができたがゆえに、成人以降においても継続的に発達を遂げている自己の姿を見る。こうした継続的な自己涵養の実現と、日々の充実感と幸福感は密接につながっており、それを導くことを手助けしてくれたのが両親からの教育だったのだと改めて思い、この間2人に感謝の念を伝えたのである。

そのようなことを考えながら、先ほどふと、ここからはより意識的にシュタイナー教育の教育思想や教育実践を自らの自己教育として採用してみようと思った。前々から考えていたように、再来年以降に欧州永住権を取得したら、どこかのタイミングでスイスのドルナッハにある精神自由科学大学に入学し、そこでシュタイナーの思想と人間発達実践について学びたいと思う。

もう伝統的なアカデミックの世界に戻ることは懲り懲りであるが、精神自由科学大学で学べること、及びその学び方はシュタイナー教育の思想が息吹いており、成人を迎えた自分にとって意義ある学びを得ることができるのではないかと思う。スイスのドルナッハで生活することも今後の展望の一つである。フローニンゲン:2019/12/11(水)05:09

5329. 感動に打ち震える今朝方の夢

時刻は午前5時半に近づきつつある。今もまだ小雨がパラパラと降っている。

起床してから3時間ほどが経つが、まだ日記しか書いていない。そして、それでいいのだと思う。

昨日は、夕方以降に日記を書くことがあまりできず、夕食後に一度日記を書いたぐらいだったかと思われる。それが影響してか、翌朝の今になって、まだ文章を書き留めておこうとする内在的な力が渦巻いている。

もうそろそろ今度は言葉ではなく、音を通じて自分の内的感覚及び命の動きを形にしておきたいと思われるため、今朝方に見た夢だけを最後に振り返り、その後に作曲実践を始めたいと思う。端的には、今朝方の夢は、巨大な感動を引き起こすものだった。

夢の中の私は、あまりの感動に昇天してしまいそうになり、夢から覚めた後の自分もまた、途轍もない感動に包まれていた。夢の中で私は、野原の中にポツンと立つ学校の校舎の中にいた。それは幾分レトロな雰囲気を持つ校舎であった。

ある教室の中に私はいて、その教室には椅子も机も何もなかった。そこにあるのは黒板と、黒板に立てかけられたダンボールだけだった。

教室の中には、小中学校を共に過ごした友人の男女が数名いた。しばらくすると、先生らしき人が教室に入ってきて、今から授業を行うことになった。

教室には椅子も机もなかったので、とりあえず私たちは、黒板に立てかけられたダンボールを取ってきて、それを床に敷く形でその上に腰掛けた。そこで始まったのは授業というよりも、クイズのようなものだった。

それは歌に関するものであり、1人の女性友達(HS)が先生から出題された問題に回答し、見事に正解をした。すると、そこで夢の場面が変わり、私は欧州の見知らぬ街にいた。街の雰囲気から察するに、そこは中欧のどこかの国であった。

街を散策していると、広場のような場所の一角に人だまりができていた。何かと思って近づいてみると、そこに小中学校時代の友人(KS)がいて、路上パフォーマンスをこれから行うところだった。彼は今からパフォーマンスを始めようとしていたので、私は彼の邪魔をしないように、彼に声を掛けることを後回しにした。

彼が何のパフォーマスをするのかと思っていると、彼は突然、私たちの少年期に流行っていた日本の歌を歌い始めた。それは曲の出だしだけであり、しかもお世辞にも上手いとは言えず、むしろ相当に下手だった。それは広場に集まっていた欧米人たちにも伝わっているようであり、彼らは皆失笑していた。

だが、友人の彼はそれをなんとも思っていないようであり、むしろ今のパフォーマンスは単なる声出だしであり、準備運動に過ぎないという雰囲気を発していた。彼が最初のパフォーマンスを終えたところで、私は彼に声を掛けた。

久しぶりの再会に喜びあったのも束の間、私も彼と一緒にその場で歌を歌うことにした。それを決意した瞬間に、小中学校時代の友人が続々とその場に現れ、そこに一大合唱団が形成された。

遠くの人たちにも私たちの姿を見てもらおうと、私たちは三段に及ぶ踏み台にそれぞれが立ち、そこで歌を歌い始めた。最初は、各声部がそれぞれ独立した形で、しかも小さな声で歌を歌っていたのだが、ある時を境にして徐々に声部が一つになっていき、突然に途轍もない声量の歌が奏でられ始めた。歌っている私もそれに驚いてしまったのだが、そこからも引き続き歌を歌っていった。

すると、またある時を境目にして、もはや想像を遥かに絶するような巨大な歌声が生まれ、それは声楽的な龍のような姿になり、その龍が天高く飛翔していく姿を知覚した。厳密には、私を含め、歌を歌っている私たちは、自分たちの歌声が作り出した巨大な龍と一体となり、昇天をしていったのである。

その龍は天まで、いや宇宙の果てまで届くかのような力と勢いを持っており、歌に込められた魂の果てしなく上昇するエネルギーに観客たちも圧倒されていて、彼らもまた私たちと一緒に昇天を遂げているようだった。

夢の中の私の自己意識は、上昇するエネルギーの中に完全に溶解していき、自己意識が完全に滅却した後に、再び自己の本質とも呼べるような一点が現れ、その一点が感動に打ち震えていた。そこで目を覚まし、ベッドの上の私もまた途轍もない感動に打ち震えていた。フローニンゲン:2019/12/11(水)05:44

5330. 音声ファイルを作りながら:言葉に宿る命について

時刻は午後7時半を迎えた。今朝はもう何時に起床したのか忘れてしまうぐらい、一日の始まりは早かったように思う。今朝の日記を確認すると、どうやら今日は午前2時過ぎに起床してたようだ。

振り返ってみると、今日一日もまたいつもと変わらないほどに充実した一日だったように思う。いや、充実感というのも一つの感覚·感情であるがゆえに、自己が日々成熟の歩みを歩んでいるのであれば、それもまた深まっているのだと思う。そのため、今日の充実感は昨日のそれより深く、明日のそれは今日のそれよりももっと深いものになるだろう。

本日の夕方には、来週の金曜日から始まるオンラインゼミナールに向けて、音声ファイルを作成した。前回のゼミナールと同様に、受講者の皆さんから寄せられた質問をクラスの中だけではなく、補助録音教材として音声ファイルを作っていく。

前回のゼミナールを終えてから早いもので3ヶ月経っており、今日は久しぶりに音声ファイルを作った。最初は1人で喋る感覚を忘れているかと思ったが、いざ話始めてみると、それほど感覚が抜けていないことに気づき、最初から少々喋りすぎてしまったように思える。

今日は5本ほど音声ファイルを作った。ゼミナールを始めるにあたっての事務的な事柄のみならず、リフレクションジャーナルの作り方、シュタイナー教育でいう、自分だけの教科書としての「エポックノート」の作り方、そして第一回目のクラスに向けた事前課題などを中心に話をしていった。明日は、ゼミナール開始前にすでにいただいている質問事項に答える形で音声ファイルを作っていこうかと思う。

今回のゼミナールのクラスの回数は4回であり、短期集中型であり、前回の8回のものよりも短い。前回のゼミナールでは、2200分近い音声ファイルを作成したが、今回はどれくらいの量になるのだろうか。

受講者の皆さんからいただく質問が多ければ多いほどこちらとしても嬉しく、ゼミナールを終えて共有財産としての音声ファイルがどれくらい出来上がるのか楽しみである。そして何より、実際のクラスの場での皆さんとのやりとりが今から楽しみである。

「言葉には命が宿っていなければならない」というシュタイナーの言葉を思い出す。その言葉にはシュタイナーの命が宿っていた。命の宿らない生命力の抜けた言葉が跋扈するこの現代社会において、シュタイナーのその言葉は本当に大切かと思われる。

シュタイナーの言うように、言葉に命を宿すためには、知的理解だけを通して学ぶのではなく、自分の五感や存在を通した直接体験をとにかく大切にしていくことが求められる。そしてさらに重要なのは、そうした直接体験を咀嚼することを急がずに、それを寝かせることなのだと思う。

使い古された言葉かもしれないが、簡潔に言えば、体験を味わうことが真っ先に優先されるべきであり、そこに知的解釈を加えるのは後でいい。体験を寝かせてからでいいのだ。

確かに私はリフレクション(内省)の大切さを認めており、その実践を推奨すらしているが、そもそもリフレクションの対象になるのは、体験が自分の内側で寝かされ、それが心の水面に浮かび上がってきたものではないかと最近思う。リアルタイムのリフレクションであったとしても、体験が一度自分の深部にまで降りて行かない限りは、その実践の意味はほとんどないのではないかと思われる。

つまり、リアルタイムのリフレクションの対象になるものも、やはり一度自分の内側の深部に触れたものである必要があり、そうでなければ、そもそもリフレクションの対象を失い、リフレクションが成り立たないのではないかということである。

直接体験を積み、それを寝かせ、寝かせた後に浮上してくるものと深く向き合っていくこと。ヨーロッパでの探究の日々において、その大切さを毎日実感してきたように思う。フローニンゲン:2019/12/11(水)19:49

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