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5316-5320:フローニンゲンからの便り 2019年12月9日(月)


本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5316. 今朝方の夢

5317. 芭蕉の感性:日々の小さな積み重ね

5318. オランダの健康保険に加入して〜社会貢献としての保険料の支払い

5319. 檻に閉じ込められた鳥たち

5320. 天体と自己との調和が奏でる歌の創造に向けて

5316. 今朝方の夢

時刻は午前4時を迎えた。今朝の起床は午前3時半であり、それぐらいの時間に起床することは特に早いものではないと感じられるようになった。感覚として、午前2時あたりに起床するのが少し早いと感じるぐらいだろうか。午前3時や3時半あたりに目覚めることは、今の自分にとって最適のように思われる。心身の状態を見ればそれが一目瞭然だ。

早速ではあるが、書斎の窓の向こうに広がる闇の世界を眺めながら、今朝方の夢について振り返りたい。夢の中で私は、小中学校時代の親友4人と一緒に会話を楽しんでいた。会話をしていた場所は地元のある旅館の中だった。

親友の1人が、これからみんなでご飯でも食べにいこうと話を持ちかけた。しかし、その旅館には食事がついていたため、別の親友がそれについて指摘し、結局外に食べにいくのではなく、旅館の中で食事を摂ることになった。そこの食事は、日本食が美味いことで有名であり、ビュッフェ形式でそれを楽しめるようになっていた。

私たちは早速食事会場に足を運び、席を確保してから、各々好きなものを取りに行くことにした。そこに置かれている食事を見ると、確かに美味しそうであり、質も高そうなのだが、私が食べれそうなものがあまりなかった。

肉類を取ることを避け、良さそうなものを取ってみたところ、それは魚であることに気づき、魚すらもなるべく食べないようにしている私は、それをまた元の場所に戻した。すると、そこからしばらく魚料理が立て続けに並べられており、よく焼けたサバなどは美味しそうに見えたが、それを取ることを避けた。

何か食べられるものはないかと探していたところ、親友の1人が何か神妙な顔をして立っている姿が見えた。彼に近づいていくと、彼の母親がそばにいて、何か2人で話し込んでいた。

親友の母親は、最近結婚したばかりの親友の結婚生活がとても順調だと思っているようであり、それを喜んでいる様子だった。しかし、親友は顔を曇らせており、おもむろに口を開き始めた。

実は親友の奥さんはかなり気が強く、家庭内で親友は恐妻家になってしまっているとのことだった。そして、実はもうすでに離婚していると述べたのである。

奥さんが気の強いことは知っていたが、すでに離婚していたとは知らなかったので、少々驚いた。親友の母親もそれを知って少しショックを受けているようであり、しばらく茫然とそこに立ちすくんでいた。

私は親友を励ますために、食事を摂ることは後回しにして、ちょっと外の空気にでも当たりながら話をしようと持ちかけた。親友はコクリとうなづき、2人で外に出て話を始めたところで夢の場面が変わった。

次の夢の舞台はサッカーグラウンドだった。そこはイタリアの田舎町のグラウンドであり、イタリアのサッカープロリーグの2部に所属するチームのグラウンドだった。そこに元日本代表の選手(MM)が移籍してきて、今から彼のデビュー戦が行われることになっていた。

確かにそれはデビュー戦だが、公式戦ではなく、同じく2部に所属する他のチームとの練習試合だった。練習試合とは言え、移籍したばかりのその選手にとっては、仲間から信頼を勝ち取り、ポジションを獲得するための大事な試合だった。

そもそもその選手をこのチームに呼んだのは、元サッカー日本代表のブラジル人監督だった。その監督も昔イタリアの1部リーグに所属しており、そこで素晴らしい活躍を見せていた。その時の縁があって、その監督はその選手をこのチームに推薦したのであった。

私はその選手の切れ味鋭いドリブルが好きであり、今日はその選手を応援するためにグラウンドに来ていた。早速練習試合が始まると、練習試合とは言え、公式戦さながらの激しさがあった。

双方のチームの選手たちは、まさに生き残りを賭けたような真剣な表情でプレーしており、激しいプレーが続いていた。緊迫した雰囲気の中で試合が進んでいき、ある時、相手の選手がその日本人選手に激しいスライディングタックルを仕掛けた。それはかなりのラフプレーであり、完全にファウルなのだが、審判はそれを流していた。

その選手は相手のタックルによって倒れてしまい、起き上がったところに相手チームのマスコットキャラクターがいた。クマの着ぐるみをきたマスコットキャラクターは、起き上がったその選手に何か挑発的な言葉を投げかけていたようであり、その選手はマスコットキャラクターを軽く突き飛ばした。すると、マスコットキャラクターはその可愛らしい顔には似つかず、挑発的なジェスチャーを投げかけていた。

結局、その日本人選手は本来持っている力を発揮できないままま前半終了を迎えることになった。前半が終了し、選手はロッカールームに引き上げていった。

なぜか私もロッカールームの方に向かって行った。すると、ロッカールームは地下道にあって、その地下道は、その街の商店街や病院などとつながっているようだった。

ロッカールームに行く前にトイレに立ち寄ろうとすると、ファン同士がいざこざを起こしており、私がその現場に近づいて行った時に、1人のイタリア人男性が地面に倒れ込んだ。見ると、その男性の脳天にアイスピックが突き刺されており、殺されているようだった。

私はそれを見て一瞬驚いたものの、冷静に対処する必要があると思った。すると、私の意識は地下道に直結している病院にあり、そこで2人の外国人ドクターが話をしているところに立ち会った。2人はどうやらカップルのようであり、良き同僚でもあるようだった。

2人は手術などを施すドクターというよりも、薬の研究を行っているドクターのようだった。何やら、新薬の発明にあと一歩のところまで迫っているらしかった。

2人は笑顔を交えながら会話をしており、新薬を発見した方が、今度の論文で最初に名前を載せることにしようという取り決めをしていた。2人はどうやら同じ名前のようであり、そのようにお互いが競い合うことにによって、研究の最後の詰めを行おうとしているらしかった。フローニンゲン:2019/12/9(月)04:39

5317. 芭蕉の感性:日々の小さな積み重ね

時刻は午前5時に近づいている。昨日は断続的に雨が降っていながらも、太陽の姿を拝むことができてほっと一息ついていたのを思い出す。

今この時間帯には雨は降っていないが、正午を挟んでその前後に雨が少し降るようだ。

静けさの中に溶け込んでいってしまいそうな自分がいる。

昨日は、再び芭蕉について思いを馳せ、来年の秋に一時帰国した際には、芭蕉の句集を購入し、芭蕉に縁のある土地を訪れようと思った。芭蕉の感性には学ばされることが多く、詩人としての眼は特に注目に値する。

対象を説明するのではなく、感動を呼んだ対象の内側に入り、その対象の固有の性質を掴んでいくこと。芭蕉にはそれができた。

芭蕉の言葉で言えば、「松のことは松に習へ」という精神で、対象の中に深く入りこみ、対象の本質に至る術を芭蕉は心得ていた。芭蕉が俳句を詠む時、そこでは対象との主客合一が起こっていたのではないかと思う。

小さな自我が溶解し、対象と一体となることによって生み出された俳句の数々には打たれるものがある。とても気が早いが、来年の日本旅行に期待が膨らみ、胸が高鳴る。

日々日記を執筆することと、毎日内的感覚を音の形にするという作曲実践は、絶えず小さな変化を自分の内側にもたらしている。そうした変化は、バタフライ効果を引き起こし、いつか巨大な変容を突如生み出す。そのようなことを昨晩考えていた。

それは考えていたというよりも、実際に日々刻々と自分に起こっている直接体験の確認であったと言った方がいいだろうか。日々の小さな積み重ねは、本当に驚くべき力を持っている。進んでいないようでいて小さく進んでいくことが、どれだけ私たちを遠くに運んでくれるだろうか。

一気に遠くへ行こうとしてはならない。それは発達の肝である。

いや、多くの物事の核にそれがあるように思える。例えば旅において、飛行機である地点まで一気に飛んでいってしまうことは、本来地上を移動することによって得られる旅の情緒や風雅を奪い去ってしまう。地上を緩やかに移動し、その変化を楽しむことが、どれだけ私たちに感動をもたらすことか。そして、感動によって心が揺り動かされたということが、どれだけ私たち自身、そして私たちの人生を深めてくれるだろうか。

今日もゆっくりと歩みを進めていこうと思う。それは本当にゆっくりとしたものであっていい。むしろそれが早いと感じたら、あえて立ち止まろう。そして後ろを振り返り、後ろの景色を味わおう。そして、その景色を味わうその時間そのものも味わおう。こうしたプロセスを経ずして、自己と人生が涵養されることはない。

昨日その他に考えていたこととしては、能力や知性の複雑化のプロセスと同様に、自分の曲も徐々に複雑化の道を辿っていくだろうということだ。それはもちろん、外見上の複雑さを単純に意味しない。形になることを望む内側の何かが外に出てくる際に、それを十全に表現するに足る複雑さを持つということである。

形になろうとするものを、彼らが望むような形で曲にすることは極めて難しく、それを行うためには鍛錬された技術が要求される。そうした技術を少しずつ獲得する中で、複雑さの中にある単純さや、単純さの中にある複雑さがより色濃く曲の中に形として現れ始めるだろう。フローニンゲン:2019/12/9(月)05:14

5318. オランダの健康保険に加入して〜社会貢献としての保険料の支払い

一昨日にオランダの健康保険に加入をした。そのことについてまだ何も書き留めていなかったように思う。

これまでの3年間は、ビザの関係上、オランダの保険に加入する必要はなく、留学生や海外生活者向けの、世界のどこの国でもある程度の事柄をカバーしてくれる保険に加入していた。

先日正式に起業家ビザを取得したため、今年からオランダの保険に加入することにした。「加入することにした」と言うと、何か自分の意思で加入するのかしないのかを選べるように思えるかもしれないが、実際のところは強制である。

オランダでは、日本とは異なり、国民健康保険のようなものがなく、個人が民間の保険会社を選び、そこで保険をかけることが義務付けられている。これはオランダ人だけに当てはまることではなく、オランダで生活をする全ての人がそのような形で医療保険に加入する必要があり、それは義務付けられている。

滞在許可が得られてから一定期間以内に保険に加入しないと、オランダ政府から罰金が課せられる(350ユーロほどらしい)。正直なところ、日々健康に気をつけているため、保険にお世話になることは全くと言っていいほどなく、もし万が一の時があったらもうそれは万が一なのだから諦めてあの世に行こうと考えている自分がいるが、保険に加入することが義務付けられているのだからしょうがない。

罰金で課せられる350ユーロと、年間の最低保険料の合計を比較してみると、罰金の方が遥かに金額が低く、年間の最低保険料の合計の1/4なのだから、いっそのこと罰金を払った方がいいと考えることもできなくもない。もしオランダに1、2年だけ住むことを考えるのであれば、それは社会の裏道を通るようなやり方としては賢明なのかもしれない。

だが、私のように、これからも長くオランダで生活をしていきたいと考えている者にとっては、やはりそれは賢明な選択ではないだろう。おそらく保険料の支払い拒否は、法律違反とみなされるだろうから、そうしたことをしていると、ビザの延長やオランダでの永住権取得に影響を与えるであろうことが予想される。

オランダ永住権と欧州永住権の取得に向けて、そのようなことを考えながら、渋々保険に加入したのだが、加入の手続きを終えてみて、あることに気づいた。自分が健康保険に加入して、毎月保険料を支払うことは、一種の社会貢献であることに気づいたのである。

もう加入する前からわかっていたが、毎月支払う保険料は私個人にとっては全く無駄である。保険にお世話になるようなことは今後何年もないであろうし、保険にお世話になるような瞬間がやってきたら、それはもう人生の最後の瞬間なのだと思っているため、月々の保険料の支払いは固定費の増加でしかなく、個人のファイナンスの観点からしたら、これほど馬鹿らしいカネの使い方はない。

しかし私はふと、自分が毎月保険料を支払うことによって救われる人がいることに気づいたのである。突如、先月にバスに轢かれた女性を目撃した光景が脳裏に浮かび、そうした不慮の事故に遭遇してしまった人たちを救うのが保険であり、そうした保険に自分が加入して、自分の資金を提供することは一種の社会貢献に思えたのである。

そうした発想の転換が起こると、保険料の支払いという一見すると馬鹿げたカネの使い方にも社会的な意義があると感じ、肯定的な感情で支払いをすることができる。

さて、上述の通り、オランダでは、自分のニーズに合わせて各人が民間の保険会社を通じて保険に加入する必要がある。様々な保険会社がある中で、どこにしようかと考える際に、デン·ハーグに住む友人から教えてもらった比較サイトが非常に役に立った。それは、こちら「https://www.independer.nl/」のものである。

オランダの保険の加入に際して必要なのは、BSN(ソーシャルセキュリティーナンバー)と銀行口座番号だけであり、それ以外には特に必要ない。その他に必要なことを挙げるとすれば、自分のニーズを考えることだろうか。

保険会社を選ぶ際には、ニーズを考えて、自己負担金額をどの程度にするのかを自分で決めていく必要がある。自己負担金額の最低金額は385ユーロであり、そこから100ユーロ刻みで885ユーロが最大だ。自己負担学を上げれば上げるほど、月々の保険料の支払いは安くなる。

現在の自分の健康状態を考慮した上で、私は自己負担額を最大のものにした。基本的な事柄をカバーしている保険を選び、半年に一度は歯科医に入って歯の検査とクリーニングをしてもらっているので、基本プランに歯科医の保険を追加した。

上記のウェブサイトを通じて保険を選ぶのにそれほど時間が掛からず、無事に保険に加入することができた。保険は毎年見直すことができるため、今年1年間現在の保険に加入してみて、プラン変更が必要であれば来年それを行おうと思う。フローニンゲン:2019/12/9(月)05:52

5319. 檻に閉じ込められた鳥たち

世界が動き出すこの感じ。私はこの時間帯が好きだ。

時刻は午前9時半を迎え、今日は月曜日ということもあってか、世界が躍動している感覚を受ける。雨はまだ降っておらず、遠くの空に朝日が輝いているのがかすかに見える。

挽き立てのコーヒーを飲みながら、至福感に包まれてこの世界にあるということそのものが幸せな感情を生み出す。そこには二重の幸福感があるということになるだろうか。

カカオには幸福感を引き起こす物質が含まれており、それはコーヒー以上の含有量なのだが、私はどうもコーヒーを飲んでいる時の方が至福さを感じるようだ。それはアロマと関係しているのかもしれない。また、そもそも私は嗅覚を通じてより幸福感を覚えるタイプなのかもしれない。

檻に閉じ込められた鳥たち。檻が開けられたのに外に飛び出していかない鳥たち。そんな鳥たちの姿が脳裏に浮かんだ。

鳥が何を象徴しており、檻が何を象徴しているかは自分にとって明白だった。人々は結局のところ、組織や社会の檻にひとたび入れられてしまうと、仮に檻が開けられても外に出ることができないのだと思う。

ひとたび檻の中で飼い慣らされた鳥は、檻の扉が開けられても外に出るのを嫌がるそうだ。せっかく檻が開き、自由の身となったのに。

仮に檻の外に飛び出していき、自由を享受したと思っても、餌の取り方を忘れてしまった鳥は、長く生きていけないそうだ。そんなエピソードを見聞きしたことがある。

檻の世界の中の快適さと檻の外で生きていくことへの恐怖。人間に飼い慣らされた鳥も、組織や社会で飼い慣らされた人間も、その辺りは共通のようだ。

そのようなことを考えていると、近年注目を集めている成人発達理論やインテグラル理論の枠組みを活用した人材育成方法に疑問を感じる自分が姿を現した。結局そこでは、いかに既存の檻の中で生きていくのかという発想の枠組みの中で人材育成が行われており、檻の外に出て、自己を解放して自由に生きることを促そうとする発想はほぼ皆無である。

これまでいろいろな協働プロジェクトに携わってきて、様々なプログラムを見てきたが、そのプログラムを受講したことによって、受講者が檻から脱出することができなければ、そのプログラムの質は低いものだと言えるのではないかと思う。あえて極端なことを言えば、そして本質的なことを言えば、真にその人を成長させてくれるプログラムを受講したのであれば、必然的に既存の檻から出ていく選択肢を当人には取るであろうから、会社を辞めるという選択肢が最上位に来ることは何らおかしなことではなく、逆にそうした選択肢が生まれてこないのであれば、そのプログラムは欺瞞の塊である。

この点について、人の成長を促すプログラムの作り手、及びそれを活用する企業の双方は、ほとんどが善意なる詐欺師であり、両者は結託している点が問題のように映る。彼らは、真の発達というものが囚われからの解放であることの真意をほとんど理解しておらず、プログラムの受講者がプログラムの終了後に組織から離れる決断をすることをひどく恐れている。

そうした恐れを抱くケースを数多く見てきた。むしろそうしたケースしかないのではないかと言えるぐらいだ。

無知で善意な詐欺師が結託共謀する組織や社会の中で生きることの過酷さ。檻の中で与えられる餌は、檻の中にいることの心地良さを与えるが、自らの心身及び存在そのものが蝕まれていることに麻痺させる。

人々が既存の檻から出ていき、自由を獲得していくことを喜べるのかどうかが、今後協働プロジェクトに関わる際の基準となるだろう。

幾分自覚的ではあったが、過去の自分もまた詐欺師だったのだと思う。だがもはや、多くの人たちが檻の中で苦しみ、もがき、そして騙され続けている状態を見過ごすことはできない。

善意の詐欺師はもはや私に何も話を持ちかけてこないだろう。彼らの行動が善意な詐欺行為であることを指摘すれば、私は恨まれるだろう。それでも、檻に入った鳥たちを自由な外の世界に解放し、再度餌の取り方を一緒に学び、一緒に外の世界の自由さと素晴らしさを味わいたい。

私もまた一羽の鳥であり、鳥が檻に入った鳥を見過ごすことができないのは当たり前なのではないだろうか。鳥たちは仲間なのだ。一方、檻の外にいる善意の詐欺師たちは、人間の顔をした悪魔なのかもしれない。

家の外で小鳥たちが嬉々とした鳴き声を上げている。この声が聞こえるだろうか。また、自分はそうした喜びに満ち溢れた声を日々上げているだろうか。

自分はもう、あの鳥たちのように解放された鳥として生きていく。そして、解放を望む鳥たちに手を差し伸べる。

「約束だよ」そんな意味が込められた鳴き声を、小鳥たちが高らかに外の自由な世界に響かせている。フローニンゲン:2019/12/9(月)10:07

5320. 天体と自己との調和が奏でる歌の創造に向けて

時刻は昼の12時半を迎えた。つい今し方、バイオダイナミック農法で作られた4種類の麦のフレークに豆乳をかけたものをレンジで温め、それを食べた。そこにこの間購入した、これまたバイオダイナミック農法で作られたゴマペーストと蜂蜜を加えると美味である。

ここから午後の取り組みに取り掛かり、途中で一度仮眠を取りたいと思う。日々の作曲実践が、日記の執筆と同様に、自由連想的なフリーライティングの様相を呈し始めている。そのようなことに朝気づいた。

その日のある瞬間に感じられた内的感覚を、それが望んでいる形のままに作曲をしていくこと。ある音が次の音へと自由連想的に繋がっていき、曲を作る主体としての自己が作曲行為の中に溶け出していること。それら二つは重要なことであり、それらが実現されつつあることを嬉しく思う。

作曲は自分の命の固有な運動に寄り添うことであり、寄り添って生まれた音を形にしていく行為に他ならない。存在で曲を書くというのはそういうことを意味するのだと自分なりに定義づけている。

今、アントン·ウェバーン(Anton Webern)の歌曲を聴いている。それはとても美しく、先日イギリスの書店に注文したウェバーンの歌曲集の楽譜が早く届いて欲しいと願う。

それにしても、こうした歌曲を12音技法で書いたウェバーンの功績には改めて敬意を表する。12音技法で作る曲は歌にくさが難点だと思っていた自分の既存の考え方を打ち壊してくれたのがウェバーンの音楽である。

私は、とにかく歌を大切にしたい。歌うことは祈りにも似た、いや祈り以上に何か尊いものがあり、偉大な力があるように思っている。

今朝方考えていた理想で言えば、天体と自己との調和が奏でる歌を作っていきたい。しかもそれを12音技法で作ってみたいという思いがある。

昨日から、アーノルド·ショーンバーグが執筆した“Style and Idea: Selected Writings of Arnold Schoenberg (2010)”を読み進めており、12音技法の活用に対して意義を見出し始めた自分がいる。この技法は現代音楽においては古臭いものと見られがちのようであり、その扱いにくさのために私はこの技法を敬遠していたが、ショーンバーグの考え方に触れてみると、この技法にしか表現できない世界があることに気づく。

ウェバーンの楽譜が届いたら、まずはこの技法を用いて歌曲をどのように作っていくのかを研究していきたい。そして、自分が実際に曲を作る際には、12個の音をどのように選び出すかの工夫をしたい。

月の満ち欠けや天体の運行にしたがって音を選びだす工夫をしてみようか。プラトンが述べた天体の音楽のようなものを作ることができたらどれだけ素晴らしいだろう。この点に関しては、シュタイナーが提唱したバイオダイナミック農法における発想が何かヒントになるかもしれない。この農法においては、月の満ち欠けや天体の動きを参考にしている。そのあたりに数列作成のヒントを得てみよう。

12音からなる数列を1つ作ることができたら、その日1日は同じ数列を用いて、次の日にまた新しい数列を作り直す。天体と自分との関係性によって運命的に生まれた1つの数列とその日1日を共に過ごし、また次の日は新たな数列を通じて天体と共に生きていく生活。そうした生活を送りたい。

こうして生み出された曲が、人間の聴覚範囲を拡張させるようなことにつながれば面白い。これまで聴けなかったものが聴こえるようになる音楽。それは物理的な次元での音だけではなく、心的、魂的、精神的、天体的な次元での音である。

日々私たちが生きている世界の中に充満している豊穣な音に気づき、それらの音がもたらす恩恵を享受しながら生きる日々を送りたいと思うし、多くの人がそのような日々を送って欲しいという願いがある。フローニンゲン:2019/12/9(月)12:59

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