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5310-5315:フローニンゲンからの便り 2019年12月8日(日)

December 10, 2019

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5310. 「聴くこと」と「在ること」

5311. 土作りと調和〜地中の中で日々を生きて

5312. 漆黒の闇に抱かれて:緩やかな揮発過程の終わりに

5313. 今朝方の夢と願い

5314. 内なる芸術家の緩やかな目覚め:芭蕉に関する旅

5315. 「エポックノート」としての日記と作曲〜自分なりの教科書を作成すること

 

5310. 「聴くこと」と「在ること」

 

今朝は午前3時過ぎに起床した。実際に目が覚めたのは午前2時だったが、昨日は午前12時半に起床していたこともあり、今朝はもう少しだけ睡眠を取っておこうと判断した。そして次に目が覚めたら3時過ぎだったというわけである。

 

在るということの奇跡。先ほど咄嗟に出てきた言葉はそれであった。

 

今日もまた新たな一日がやってきて、今このようにしてこの世界に再び自己が在るということ。一見シンプルに思われるそのようなことが、とんでもないほどに奇跡的なことなのだということを先ほど噛み締めていた。

 

今日はどうやら風が強いらしい。家に通じている換気口が時折カタカタと音を立てている。

 

天気予報を確認すると、今週1週間は雨マークしか付いていない。今日もまた一日を通じて雨が降る時間帯が多いようである。

 

風が何かを訴えるかのようにして強く吹いている。

 

自らの眼を養い、世界を把握していくことは重要であるが、詩人のリルケも述べているように、凝視の先にあるものを大切にしたい。自らの眼を養うことを超えて、感じることを養っていくこと。それはとても大切なことのように思う。

 

昨日読んでいた音楽と意識に関する書籍の中にも、眼だけではなく、耳を開発することの大切さが書かれていた。自分の内側の声を聴くこと。自他の魂の声を聴くこと。世界の声を聴くこと。そうしたことを可能にする耳を涵養していくことの必要性。そのようなことを考えていた。

 

風の声が聴こえてくる。それを聞いた時、そこに風がこの世界に生まれたことを知り、風の存在認識を通じて自己の存在認識が生まれたことを知る。

 

「聴く(to listen)」というのは「在る(to be)」ということだったのだ。この世界に存在する多様な存在者の声を聴き、彼らとの交流を通じて生まれる自分の内側の声に絶えず耳を傾けたい。

 

そして聴こえてきた声の内容を曲の形にしていきたい。それを通じて、自他の耳の変容を促すことができないだろうか。そのような考えが浮かぶ。

 

昨日、上の階に住むピアニストの友人に一つお願いをした。昨年も同じお願いをしたのだが、彼女が日本に一時帰国する際に、3冊ほど和書を持って帰ってきてもらうことにした。

 

昨年は随分と重たい本を持って帰ってきてもらって迷惑をかけたため、今年は文庫本を中心に持って帰ってきてもらうことにした。本当はその他にも入手したい和書がたくさんあるのだが、それは来年の秋に自分が日本に一時帰国した際に購入しようかと思う。

 

その友人の実家宛に送らせてもらった3冊とは、『万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)』『リズムの哲学ノート (単行本)』『小泉文夫フィールドワーク―人はなぜ歌をうたうか』である。万葉集への関心の高まりは、先日の日記に書き留めた通りである。

 

昨日近所のスーパーから戻ってくる最中にある考えが芽生えていた。万葉集の一つ一つの歌を読み、それによって喚起されるものを応答の形として短い曲にしていきたいというものだった。遥か古の人たちが詠った歌を読んで、自分の歌を曲として詠っていくこと。それを行いたい。

 

その他の2冊に関しては、前々から音楽の持つリズムの本質と歌の本質について関心があった。ここ最近イギリスやドイツの書店から書籍を随分と注文したばかりだが、それらは着々と読み進められている。上記の3冊の書籍を読み進めていくことが今から楽しみだ。それは新年の素晴らしい贈り物になるだろう。フローニンゲン:2019/12/8(日)04:09

 

5311. 土作りと調和〜地中の中で日々を生きて

 

今、大麦若葉を白湯に溶かし、そこにソイプロテインを溶かしたドリンクをゆっくり味わっている。大麦若葉にせよ、ソイプロテインにせよ、自分が他の生命に助けられながら日々を生きていることを実感する。昨晩の夕食の時にもそれを実感していた。

 

毎晩食べるオーガニックの野菜たちへの感謝の念。彼らを食べるということは、彼らの生命をいただくことなのだ。彼らをいただくことを通じて、彼らの歴史が自分の中に取り込まれていき、そしてまた自分の歴史がゆっくりと前に進んでいく。

 

この寒さの厳しい冬にあって、土をしっかりと耕していくこと。しかもそれはできる限りゆっくりと、自らの固有の生命のリズムに合わせて行っていく必要がある。土づくりが大切なことは、人間にも当てはまることなのである。

 

子供たちの人間発達上の土を育んでいく教育。成人たちの人間発達上の土を再度耕していくような教育。健全な土を育み続ける教育について思いを馳せる自分がいる。

 

時刻は午前4時半に近づこうとしている。相変わらず、換気口がカタコトと強風によって音を立てている。時折、激しい風が家の前を走り抜けているのを感じる。実際にそうした音が聞こえてくる。

 

昨夜、シュタイナーが提唱したバイオダイナミック農法に関して少しばかり調べ物をしていた。そこである動画を見て、この農業の根幹に横たわる思想とその実践方法に大変感銘を受けた。

 

人に優しい食物を作ることだけが念頭に置かれているわけでは決してなく、地球にも優しい形で進められている農法がそこにあった。またそこには、人間が地球のみならず、宇宙とどのように調和をしていくのかを考え抜いた思想と実践がある。

 

天体のリズムに合わせて地球が躍り、人間が踊る。私たちがこの世で調和的に生きるというのは、そうした躍りを踊ることなのかもしれない。生きることの本質には、そうした躍りがあるように思えてくる。

 

まだまだ果てしなく暗い闇の時間帯が続く。こうした闇の時間の中で、闇そのものと調和を図ること。

 

闇を闇と認識せずに、つまり闇と自己とを切り離さず、闇と手を繋いで一つの踊りを踊ること。それができるようになってきたら、それはどれほど素晴らしいことだろうか。

 

闇の中を相変わらず駆け抜けていく剛風。その力強く進む姿には打たれるものがある。

 

風はどこからかやって来て、どこかに向かって進んでいく。だが不思議と、風には出発地点も終着地点もないのではないかと思えてくる。風は人生であり、人生は風であったか。

 

冬の間、地表は閑散としているが、地中の中では生命たちが活発に生きている。彼らは生命力を蓄えながら呼吸をし続けており、霊的な活動を続けている。

 

そうした彼らの姿と今の自分の姿を思わず重ねてしまう。そう重ねてしまうことは決して悪いことではなく、むしろ大切なことなのだと思う。

 

確かに北欧に近い北オランダの一つの街で生活を営んでいることと関係はしているだろうが、おそらく私は世界のどこにいても、今感じているようなことをこの人生のこの時期に感じていたことだろう。

 

今はとにかく地中の中で呼吸をし続けていくこと。自己を育みながら、霊的活動を絶えず続けていくこと。それを大切にして毎日をこの地中の中で生きたいと思う。今私は新たな自己の誕生に向けて、地中の中にいる。フローニンゲン:2019/12/8(日)04:36

 

5312. 漆黒の闇に抱かれて:緩やかな揮発過程の終わりに

 

全き闇。漆黒の闇の世界に思わずうっとりとしてしまう。

 

闇を愛せるようになった自分がここにいる。光を求めることに躍起になるのではなく、闇の存在に感謝の念を捧げ、闇の中でくつろぐこと。そうしたことが可能になり始めている。

 

アメリカでの4年間は光を求めていた時期だったか。いやあの頃は、闇の存在など目に入っていなかったかもしれない。仮にそれが目に入っていたとしても、光で闇をかき消そうとして生きていたように思える。

 

欧州での生活を始めてから、闇との向き合い方は緩やかに変化していった。最初は、この深い闇の世界に押し潰されそうになっていたのを覚えている。ひるがえって今は、闇がまるで1人の親友になったかのようだ。

 

闇の持つ味わい。闇にくつろぎ、闇を味わえるようになり始めている自己が芽生えつつあるのは大きな進歩だろう。そうしたことは、私の色彩感覚の変容にも現れているように思う。

 

思わず息を飲んでしまうような色鮮やかな絵画作品はもちろん好きだが、それとは対照的に、白と黒の世界だけで表現された芸術作品にも魅力を感じ始めている自分がいる。白の上には何でも描けてしまうという不思議さ。その無限の包容力。

 

一方、黒の上に何かを描くと全てがかき消されてしまうかのような偉大な力がある。逆に言えば、黒もまた全てを受け入れる力を持っていると言えるかもしれない。

 

なるほど、この瞬間の自分が深く落ち着いているのは、全てを抱擁してくれる闇が自分の周りを取り巻いているからなのだろう。漆黒の闇に抱かれているという絶対的な安心感。それは光に包まれているという安心感と同等か、あるいはそれ以上の安心感をもたらす。

 

私たちの魂を育んでくれるのは光だけでは決してない。光と闇の双方が私たちの魂を育んでくれるのだ。そして、光は闇であり、闇は光であることを忘れてはならない。

 

光が闇であり、闇が光であるというのは自明過ぎるほどに自明なのだが、私たちはそれをなかなか理解しない。光がある時、そこには闇があり、闇がある時、そこには光がある。

 

光と闇はそもそも区別されるようなものではなく、同一存在の表裏に過ぎないのだとわかる。光と闇がある時、そこには全てがあり、光と闇がなくなってしまった時、そこにもまた全てがある。

 

早いもので、気がつけば12月も来週から第2週目となる。欧米で過ごす8回目の冬が、ゆっくりと進行している。

 

この8年間において、日本から背負ってきた古い思考と感覚が徐々に揮発していったのを実感する。それはとても緩やかな歩みであった。

 

今、欧米での8度目の冬を体験している最中だが、どこか自分の思考と感覚が全く新しいものに生まれ変わっているのを感じる。過去の自分が背負っていたものがようやく揮発され尽くしたのだろうか。

 

緩やかな揮発過程に準ずる形で、自分が徐々に解放に向かっているのを感じている。それは真の自由に向けた解放である。あるいは、真に自己を実現していくことに向けた解放と述べていいかもしれない。

 

私たちは、自己を解放させようと意気込みがちだが、そもそもその自己を丸裸にし、完全に手放してみるというのはどうだろうか。ある対象を解放させようとしながら、それがなかなかうまくいかないのは、そもそも対象を掴んでいるから、あるいは対象に固執しているからなのではないだろうか。

 

小さな自我を丸裸にし、そして手放すこと。それができれば、小さな自我は自然死を遂げ、真の自己実現なるものが成就され、真の自由を享受できるような気がしている。フローニンゲン:2019/12/8(日)05:03

 

5313. 今朝方の夢と願い

 

今朝方の夢についてまだ振り返りをしていなかったので、夢を振り返ったのちに早朝の作曲実践を始めたい。とは言え、今朝方の夢はそれほど記憶に残るものではなかった。

 

小中学校時代の友人2人(YU & NK)と一緒に楽しげに話をしている場面があったのを覚えている。話の内容は定かではないが、私たちを包む場所は優しい太陽光に照らされていて、太陽の光に似た色の喜びを感じていたのを覚えている。

 

その他の夢の場面として、ある知人(TG)が寝ている私を起こしに来るというものがあった。私は座敷のような部屋で布団を敷かずに横になっており、そこに知人がやって来て、私を起こそうとしたのである。

 

私は寝たふりをしており、彼が諦めてどこかに去っていくのを待っていた。しかし、彼は一向にその場を去ろうとせず、執拗に私を起こそうとする。

 

彼がなぜ私を起こそうとしていたのかというと、教育関係の問題解決に向けて私の協力が必要だったからである。実際に彼は寝たふりをしている私に向かって、そのようなことをしきりと述べていた。

 

人間の発達と社会の発達を実現させていくために、私の知見が必要であると彼は訴えていた。それでもまだ私は寝たふりを続けていた。

 

すると、彼は私の足を触り、初めて聞くような日本語を述べた。意味としては「肥満」を指しているのだが、その言葉を私は初めて耳にした。そもそも私は肥満などでは決してないと思われ、なぜ彼が私の足を触りながら肥満を意味する言葉を述べたのかはわからない。

 

彼は私を起こすことを止め、座敷部屋から出ていこうとした。そこで私は、突如何かに打たれたかのような感覚になり、ハッと目を覚まして、彼の後を追おうと思った。そこで夢から覚めた。

 

昨夜もまた、この世界に対して自分にできることは何かあるのかと考えていた。この世界に関与し、貢献できることが、自分の中に何か一つでもあるのだろうか。そのようなことを考え続けていた。

 

結局それは具体的な形を持つには至らなかった。そうした取り組みが何なのかははっきりしないが、何かがありそうだという感覚、そして一つでもそうしたものがあってほしいという願いのようなものが芽生えた。

 

自己を生きることと、世界に関与し、貢献することが完全に一致する活動。それは自分にとって一体どのようなものなのか。それを探している自分の姿を見ていると、やはり私はまだ探求人なのだと思う。あるいは、旅人と呼べるかもしれない。

 

仮に永遠の探求人·旅人であり続けたとしても、日々生きる中での一挙手一投足が、世界と深く繋がったものであり、世界に何かしらの貢献を果たすものであってほしいと願う。フローニンゲン:2019/12/8(日)05:28

 

5314. 内なる芸術家の緩やかな目覚め:芭蕉に関する旅

 

——音の神秘を知る者は、宇宙の神秘を知る者だ—ハズラット·イナヤット·カーン

 

つい今し方、本日7曲目の曲を作り、その曲を聴きながら喚起される感覚を水彩色鉛筆で絵の形にした。曲を作ること、そして絵を描くことは、自分の意識を内側に向けさせてくれる。それは瞑想とほぼ同じものか、瞑想以上に深いインナーワークであるように思えてくる。

 

雑念の波が穏やかになり、波そのもの、いや雑念を生み出す海が消失する。そんな状態の中で音を生み出したり、絵を描いている自分がいた。

 

こうしたことを日々続けていると、シュタイナー教育が大切にしている「内なる芸術家」が目覚めてくる。それは幼少期から損なうことなく育めれば最善であるが、成人になってからでもそれを目覚めさせ、育むことが可能なのだと実感する。

 

ゆっくりとでいい。ゆっくりと着実に、自分の内なる芸術家を目覚めさせ、それを育みながら共に生きていこうと思う。

 

音の神秘を探究するプロセスが進む。それもまた、内なる芸術家を見出し、それを育むプロセスと同じぐらいに緩やかであるが、毎日緩やかにそのプロセスも進んでいる。

 

今日から、アーノルド·ショーンバーグが執筆した“Style and Idea: Selected Writings of Arnold Schoenberg (2010)”を読み始めた。早朝に少しばかり本書を読み、600ページ中70ページほどを読み進めた。午後からもゆっくりと本書に向き合っていく。

 

ショーンバーグの指摘の中で、一つ大きく共感するものがあった。作曲において重要なのは、他者を喜ばせようなどという邪念を持って曲を作るのではなく、兎にも角にも自らを喜ばせる曲を書くべきだということだ。

 

他者に媚びるような曲を作ることに喜びを一切見出すことができない。仮に他者に向けて曲を書くことがあるとすれば、それは本当に愛している人に対してだけなのではないだろうか。

 

そうなってくると、上述のショーンバーグの考え方、及びそれに共感した自分の考えに矛盾するが、隣人愛の輪を広げていくことができれば、他者に向けても曲を書くことができるのだろうか。そのあたりはまだよくわからない。

 

いずれにせよ、現段階では、自分の魂を喜ばさずして、一体誰の魂を喜ばすことができるだろうか、という精神で曲を作っていく。時に魂は喜びのみならず、慰めや励ましも必要であろう。喜び、慰め、励ましを自分の魂にもたらすような曲を作っていきたい。

 

午前中、来年の秋の日本への一時帰国に際して、松尾芭蕉が旅をした場所に足を運んでみたいと思った。芭蕉の旅の跡を巡るような旅を行いたいという気持ちが芽生えた。

 

しかもその時には、芭蕉の句集を持参し、句が読まれた場所でその句を読みたいと思う。そんな贅沢な旅を実現したい。

 

少しばかり調べてみると、三重県に芭蕉翁記念館というものがあり、そこから歩いて15分ほどの距離に芭蕉が弟子と過ごした蓑虫庵がある。来年もまた大阪に滞在する予定であるため、それらの芭蕉ゆかりの地に足を運んでみよう。フローニンゲン:2019/12/8(日)11:19

 

5315. 「エポックノート」としての日記と作曲〜自分なりの教科書を作成すること

 

時刻は午後3時を迎えようとしている。今、至福の時間を過ごしている。それはなぜかと言うと、挽き立てのコーヒーの完成を待っているからである。

 

挽いた豆をドリップして待つこの間のなんとも言えない幸福感。なんとも香ばしいアロマが書斎に広がっている。

 

幸いにも、午後から天気が回復し、太陽の姿を拝むことができた。今も優しい太陽の光が地上に降り注いでいる。

 

この時期に太陽が姿を現す時には、それが午前中であっても正午であっても関係なく夕方の太陽の光に似ている。光の持つ優しさと印象が、夕日のそれに近いのだ。もちろん、時間帯によって多少の差はあるのだが、この時期の太陽の光は絶えず優しげだ。

 

ここのところ、またしてもシュタイナー教育やシュタイナーの思想に対する関心が高まっている。一昨日に偶然ながら、シュタイナー教育に関する日本語の素晴らしいドキュメンタリー番組を見つけた。それについて後日また改めて書き留めておきたいが、その番組の中で、「エポックノート」と呼ばれる存在について知った。

 

これは以前にもどこかで見聞きした覚えがあったのだが、すっかりその存在を忘れてしまっていた。エポックノートとは端的には、自分だけの教科書のことを指す。

 

シュタイナー教育では教科書を用いないことは有名である。教科書を用いない代わりに、教室で学習したことをもとにして自分自身の教科書を作っていくのである。それはどこか、各人の関心や発達段階、そして個性に応じた学びの理想的なあり方のように思えてくる。

 

先ほど近所のスーパーからの帰り道にふと、毎日このようにして綴っている日記や、日々の作曲実践で曲という形を残していくというのは、自分にとってのエポックノートの作成に他ならないということに気づいたのである。

 

それは自分にとっての学びの最良の教科書であり、人生の最良の教科書である。書かれた日記や曲を再度眺めてみたときに、それらがどれだけ自分に学びをもたらしてくれることか。

 

単純に知的なものだけではなく、身体的·霊的なものも含め、日々学んだことや感じたことを、まるでエポックノートを作成するかのように日記として執筆したり、曲として形に残すということを行っている自分がいる。それがどれだけ自分の学びを深め、自己を深めてくれるのかを改めて知る。

 

こうした体験を通じて、自分なりのエポックノートを作るというのは、何も子供たちの学習にとって有益なだけではなく、成人の学びにとっても有益なのだとわかる。

 

果たしてどれほどの大人たちが、自分なりのエポックノートを作成しているだろうか。他者が執筆した教科書的な書籍を熱心に読む大人は多くても、自分自らの教科書を作成するという姿勢で日々学習をしている大人がどれほどいるだろうか。

 

自己に根差した学習を行うことが、自らの学習や自分自身を真に深めるということを思い出したい。おそらくそうした学習こそが、発達を促す自己教育なのだろう。

 

今後は、シュタイナー教育でユニークなオイリュトミー的な身体表現や、絵画表現、音楽表現、そして言語表現などを通じて、多角的な観点で自己教育を継続させていきたいと思う。フローニンゲン:2019/12/8(日)15:11

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