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5300-5305:フローニンゲンからの便り 2019年12月6日(金)

December 8, 2019

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5300. 沈黙の期間:ハープシコード(チェンバロ)について

5301. 夢を見るAI・トラウマを体験するAI

5302. 日々新たな自己と世界:今朝方の夢

5303. 一年半前のあの日の出来事:アムステルダムで行われたジャン·ピアジェ国際学会に参加した時の思い出

5304. アロマの儚さに魅せられて

5305. 自己の音響体:愛の放射に向かって

 

5300. 沈黙の期間:ハープシコード(チェンバロ)について

 

時刻は午前2時半を迎えた。今朝はとても風が強く、起床直後に換気のために窓を開けると、力強い風が吹き込んできた。風の音が鮮明に聞こえてくるぐらいの風の強さである。

 

昨日は本当に冷え込んでおり、寝る時には湯たんぽを使い、随分と暖かくして寝た。今日は小雨混じりの一日のようだが、そのおかげで気温は少しばかり上がる。

 

昨日、リルケの詩集を本棚から取り出し、少しばかりリルケの詩の世界の中にいた。リルケは一時期、創造活動に向けて数年間ほど沈黙の時間を過ごし、その間に静かに思索を深めていった。その後、旺盛な詩作に取り掛かって行ったというエピソードがある。

 

ひょっとすると、今の自分はそうした沈黙の時間を過ごしているのかもしれないと思わされた。もちろん、この間にも着実に自分のなすべきことは進めているのだが、それは将来に待つ大きな実りに向けた大切な準備であり、その準備の期間を静かに過ごしているのが今の自分の姿のように思えてくる。

 

リルケの詩を読みながら、まるで自由詩を詠むように、歌いたいことを歌いたいだけ歌うことを理想とする自分の存在に気づいた。作曲を通じて自分の歌を歌うこと。それを促す様式であれば活用したいが、それを制限するような様式であれば活用しない。

 

様式に囚われるようなことはしたくない。あくまでも様式というのは、創造性を刺激する補助的な道具のような存在なのである。それに囚われ、創造性が制限されてしまうというのは本末転倒である。

 

今、オランダの古楽器演奏家グスタフ·レオンハルトがハープシコード(チェンバロ)を用いて演奏しているバッハの曲に耳を傾けている。これまでバッハの曲はピアノかオルガンで聴くことが主であったが、このようにハープシコードの響きで聴くのもとても味わい深いものがある。

 

昨日、久しぶりに上の階に住むピアニストの友人とゆっくり話をし、その時にレオンハルトについて教えてもらった。もう一人、フランスのピエール·ハンタイという演奏者についても教えてもらい、彼の演奏にも近々耳を傾けたいと思う。

 

昨日は、彼女が現在力を入れているハープシコードについてあれこれと教えてもらった。いくつも興味深い話を聞いたのだが、ハープシコードというのはピアノのように大量生産されるようなものではないらしく、一台一台が手作りであり、作り手の魂が深く刻み込まれている生き物のような性格を強く持っているらしい。

 

端的には、ピアノのように万人に対して優しく、誰が引いてもそれなりの音が出されるような楽器ではないとのことであった。演奏者側がどれだけ真摯にハープシコードと向き合うかが問われるとのこととであった。まさにハープシコードと深く対話をするような感覚で、ハープシコードが日々発するメッセージに気づき、絶えず意味や感覚を汲み取りながら演奏をしたり、メンテナンスをこまめに行っていく必要があるとのことであった。

 

もう一つ興味深い点は、ハープシコードで演奏する際には、伴奏の部分は即興性が求められるらしい。それは特に、ハープシコード向けに書かれた時代の曲であればその傾向が強いとのことである。

 

楽譜の和音の部分が特殊な表記になっているらしく、その和音構成であれば、どのような和音を付けてもいいという表現の自由が確保されている点が面白く、まさに演奏者はその場で作曲家のように曲を作っていくようなことが求められるのだろう。

 

過去の音楽教育の中で、決められたことを忠実に守りながら演奏することに慣れていると、自由かつ創造的に演奏するというのはなかなか難しいということをその友人が述べていたのが印象に残っている。昨日の彼女の話から考えさせられることが多く、少しばかり考えを寝かせ、種々のテーマについてまた文章を書き留めておこうと思う。フローニンゲン:2019/12/6(金)02:59

 

5301. 夢を見るAI・トラウマを体験するAI

 

時刻は午前3時を迎えたが、相変わらず外の風は強い。風の音が吹き荒れる中で、グスタフ·レオンハルトの演奏を聴いていた。そこでふと、人間が演奏することとAIが演奏することの違いについて考えていた。

 

演奏にせよ、作曲にせよ、AIが今後より発達していけば、多くの演奏や作曲は本当にAIに置き換わってしまうのではないかという思いがある。作曲に関して言えば、もう小説を書けてしまうようなAIがいるぐらいなのだから、より数学的な法則性に忠実な作曲は、AIからしてみると、もしかしたら小説よりも難しくない領域なのかもしれない。

 

生身の人間にしか表現できないことを求めて、演奏家や作曲家が奮起し、創造性を十分に発揮するような刺激となる形でAIが活用され始めるのであれば、それは良いことなのかもしれないが、人間が行う演奏や作曲が完全にAIに置き換わってしまったらとても寂しい限りである。そうした事態を危惧する自分が存在しており、そうした事態が起こってしまう可能性としては、AIが完全に人間の生命現象を再現し、とりわけ意識というものを完全に再現できた場合なのだと思われる。

 

レオンハルトの演奏を聴いていると、例えば音そのものであれば、もうAIでもそれを表現できてしまうかもしれない。端的には、音響学で扱うような物質的な次元の音であれば、もうAIは演奏者と同じ音を再現できてしまうだろう。逆に言えば、物質的な次元の音しか演奏できないような演奏者は、ほぼ間違いなくAIによって淘汰されるように思う。

 

生身の演奏者とAIが共存していく道があるとするならば、それは物質的な次元ではい、より精神的な次元の音を演奏者がどれだけ創造できるかにかかっているように思う。インテグラル理論の観点で言えば、グロスレベルの音しか出せないような演奏者はAIによってほぼ間違いなく存在意義を奪われるが、サトルレベルやコーザルレベルの音まで生み出すことができる演奏者は今後も生き残ることができ、AIとの共存の道を歩める可能性がある。

 

ただし、ここで前提となっているのは、AIがまだ人間が持っているのと全く同じ性質の意識を獲得していないという点、そしてそれが非常に難しいという点が挙げられる。おそらくコンピューターサイエンティストや認知科学者のような右側象限を主戦場とする人たちから見れば、人間が持つ意識をAIが獲得するのはもう間近だと言うかもしれないが、そのあたりはどうなのだろうか。

 

人間が持つ意識に「近い」形のものをAIが獲得すると言うのであれば、それは実現性があり、実際にはもうその実現が迫っているように感じる。しかし私は、AIが完全に人間の意識と同じ性質を持つものを獲得することは起こり得ないのではないかと思う。

 

このあたりのテーマは私の専門ではないが、人間の意識というのは本当に宇宙と同じぐらい謎に満ちており、そして奥深い。AIが人間の意識を完全に再現するというのは、AIが宇宙を完全に創造するということに等しいのではないかと思う。

 

レオンハルトの演奏を聴きながら、きっと彼の指には、その時彼がいた場所から喚起される特定の感情やその日の天候や体調などによって絶えず変化しているエネルギーが込められているように思えた。また、使っている楽器との相性により、音が変わることもあるだろう。そして、レオンハルトがその日の朝に見た夢や、過去のトラウマ等を含め、その瞬間の演奏には無意識が多かれ少なかれ影響を与えている。

 

そのようなことを考えていると、AIが作動していない時間において、AIがちゃんと夢を見て、夢を見ない深い眠りの世界に落ちることがないのであれば、それは人間の意識を忠実に再現したことにはならないだろう。また、AIが人間と同様にトラウマ体験をして、それを引き受け、乗り越えていくような格闘をしないのであれば、それは人間の意識を忠実に再現したことにはならないだろう。

 

夢を見るAI、そしてトラウマを体験するAI。そして、夢やトラウマから影響を受けながらも、夢から啓示を得たり、トラウマと向き合う過程の中で意識を成熟させていくAIは誕生するのだろうか。

 

AIは自らの人生において葛藤や苦悩を覚え、それらと向き合い、それらを乗り越える形で自らを成熟させていくことができるのだろうか。それができないのであれば、AIが人間の行為を完全に代替することは不可能であろうし、葛藤や苦悩を抱えることは人間の特権なのかもしれない。そのようなことをぼんやりと考えていた。フローニンゲン:2019/12/6(金)03:33

 

5302. 日々新たな自己と世界:今朝方の夢

 

強い風と共に小雨が降り始めた。外の世界はまだ深い闇と静寂に包まれている。気がつけば、今週も早いもので金曜日を迎えた。明日からは週末となる。

 

昨日と同じ自分がやって来ることはなく、昨日と同じ世界がやって来ることはないということ。そして、日常そのものが絶えず創造的であるということ。そのことについて先ほど思いを巡らせていた。

 

このように毎日日記を綴っていると、その行為自体は実に淡々としたものなのだが、こうして毎日日記を綴ることによって、絶えず自分が刷新されており、絶えず世界が刷新されていることに気づく。

 

自分も世界も、毎日新たなものとして誕生し、自分の存在も世界の存在も一回きりのものなのだということに気づかされる。そしてその事実は、静かに自分の心を打つ。

 

闇と静寂さの中でこうして日記を綴っている自分は、もはや昨日の自分ではなく、明日になればもうそこにはいないのだということ。そうした一回きりの自己を日々生きているのだということを忘れず、その自己の中に生起した諸々の事柄を言葉や音の形にしていこう。それを改めて思った次第である。

 

それでは、今朝方の夢について振り返り、その後に早朝の作曲実践を始めていきたい。夢の中で私は、日本だと思われる国のある街の小さな駅にいた。そこは都会ではなく、長閑な景色から察するに、田舎のように思われた。

 

私は大学時代のゼミの友人たちと待ち合わせをするためにその駅にいた。夏の太陽のような日差しが照りつけていたが、それは嫌になるような暑さを持つものではなく、とても爽やかな日差しであった。

 

そんな日差しを浴びながらしばらく駅で待っていると、数名の友人たちが改札口から顔を見せた。挨拶もそこそこに、私たちは駅から目的地に向かっていく道順を確認し始めた。

 

この駅には2つ出口があり、そのどちらを使うのかによって、道順が随分と違ってきてしまうようだった。幸いにも、友人の中にこの辺りの地理に精通している者がいたので、彼の助けを借りて私たちはそれほど苦労せずに目的地に到着した。そこは、街の公民館のような佇まいを持つ1階建ての小さな建物であった。

 

私たちは靴を脱ぎ、早速建物の中に入った。するとそこには、体育館のような比較的広々としたスペースが広がっていた。机や椅子などは見当たらず、本当に体育館のような見た目をしていた。

 

すると突然、ゾロゾロと多くの人たちがその場に集まり始めた。その中に、中学校時代のバスケ部の先輩(KT)がいることに気づき、先輩に声を掛けた。何やら、今から合唱の練習が始まるとのことであり、先輩は歌うための準備をし始めた。

 

私はいまいち事情が掴めなかったが、どうやら自分もその場に合唱の練習をしに来たようだと思い、多くの人たちと一緒に練習することにした。広々とした空間の中で、自分の立ち位置は右側のスペースだと思ったため、私はそちらに向かって歩き始めた。

 

すると、集まってきた人の中にはちらほら外国人がいて、その中でも特に、東南アジア系の、幾分日焼けした顔をしている男性の姿が目に止まった。私が彼の目の前を通り過ぎようとすると、彼は笑顔で私の方に近寄ってきて、握手を求めてきた。それは、これから始まる練習に全力を尽くし、思う存分楽しもうという意図が込められたものだった。

 

私は彼と握手し、その意図を感じた時に笑顔になった。いざ歌が流れ始めると、リズムが取りにくい箇所が随所にあり、英語の箇所もあったので、苦戦を強いられたが、それを含めて、歌うことの素晴らしさ、しかも多くの人と場を共有しながら歌うことの素晴らしさを全身を通じて感じていた。フローニンゲン:2019/12/6(金)04:10

 

5303. 一年半前のあの日の出来事:

アムステルダムで行われたジャン·ピアジェ国際学会に参加した時の思い出

 

「なんて素晴らしい研究発表の数々なのだろうか。同時に、このように『ご説明』に熱を上げ、自己を深く省みない形で人生を生きてなるものか」

 

そのようなことを思ったのは今から一年半前に、アムステルダムで行われたジャン·ピアジェ国際学会に参加していた時のことだった。それは学会の最終日の前日だったように思う。

 

私が科学者として最後の仕事をしたのはその学会だった。そこで自分の研究を発表する機会に恵まれ、意気揚々と学会に出かけて行ったことが懐かしい。

 

学会には第一線級の発達科学者が集い、彼らが長年に渡って行ってきた研究に比べると、私が発表した研究は雛鳥のようなものだった。しかし彼らの研究と比較するような意識さえ芽生えないほどに、科学者としての実績が異なっていたことはある意味幸いだったのかもしれない。なにせ、理科系の科学者に転じようと思ったときにはもう私は30歳を迎えていて、しかもその学会での発表は、科学者としての歩みを始めてから間もなかったのであるから、そうした比較の意識さえ芽生えなかったのは当然である。

 

学会が始まってから二日間ほど、数々の洞察に溢れる発表を聞いている最中、今後の研究の参考にしていこうという意思があった。しかし、三日目に「それ」は起きた。

 

「科学者というこの人たちが行っているのは、単なる「ご説明」なのだ」そんな気づきが突如として芽生えたのである。発達を取り巻く内外の現象そのものやプロセスを説明すること——「解明」というより洗練された言葉が好まれて用いられる傾向にあるかもしれない——、それは確かに意義や価値のあることなのだが、それだけに熱を上げ、発達という現象そのものを通じて自らの人生を生きている発達科学者がほとんどないことに愕然とした気持ちになった。そのような気持ちが芽生えた時、もうこんな場所にいてはならないと思った。

 

科学の世界の中に閉じこもり、説明に熱を上げるような生き方はできないと思った。もっと大切なことが自分の人生にはある。そう思ったのは学会の三日目の午後だった。

 

もう一年半前のことだから記憶が曖昧だが、もしかしたらその日の夕方に自分の発表があったのかもしれない。そして、上記のような気づきが芽生えたのはさらに一日早く、学会の二日目だったかもしれない。

 

学会に参加するために宿泊したホテルから、アムステルダムのゴッホ美術館までは歩いてすぐだった。私は、こんなご説明の発表会みたいな場所に長時間いることがあまりにも馬鹿げたことであるように思われた。それはもう自分の人生の浪費であり、自分の人生という貴重な時間を冒涜しているようにさえ思えたのである。

 

そんな思いが芽生えた時、もう私は学会会場にはいなかった。ゴッホ美術館に行き、ゴッホの絵の前にたち、彼が魂を込めて描いた絵を無心で眺めていたのである。

 

ゴッホの絵は、何も「ご説明」しない。説明はしない代わりに、私の魂を鷲掴みにし、魂に何かを注ぎ込んできた。それは説明を仕事にする科学者には到底真似のできないことのように思われた。

 

美術館で、私はゴッホの画集をいくつか求めた。その日の夕方か、明くる日の夕方に自分の発表があったため、再度学会会場に足を運んだが、もうそのときには誰の発表も聞かずに、ホテルのロビーでコーヒーを飲みながら画集を無心で眺めていた。

 

説明のご遊戯にはもう関心がなく、ゴッホの絵だけに心が向かっている自分がいた。そんな出来事が一年半前にあったことをふと思い出した。まだ夜が明けぬ闇の世界の中で、なぜ自分がそのようなことを思い出したのか定かではない。

 

人生から問われ続けているこの感覚に気づく。何をするのか、何をしないのか。何を続けていくのか、何を続けていかないのか。どのように生きていくのか、どのように生きないのか。それらを日々問われている自分がここにいる。

 

そうした人生からの問いと向き合おうと思わずとも向き合わざるを得ない自分がここにいる。こうしたことも、人間の宿命の一つだとみなせるのだろうか。

 

自分の内側の何かが崩れ去り、新たなものが誕生しつつあることに気づく。一年半前のあの出来事は、また一つ自分の中で何かが崩れ去ったことの現れであり、同時に新しい自己の誕生を意味していた。そして、今再び何かが自分の内側で崩れ去ろうとしていることに気づく。

 

昨日ふと、吟遊詩人としての自己、農業に取り組もうとする自己を見出した。旅人であり、詩人的作曲家であり、日記を執筆する人であり、農業を営む人としての自分。旅をすることが、作曲をすることが、日記を書くことが自分の「仕事(ライフワーク)」になるとは思ってもみなかった。そして、そこに「農業」が付け加わる可能性が見出されている。

 

真の変容というものが、過去の自分からは全くもって想像もできない自分に変貌することであるのならば、今自分に起こっているのは真の変容なのかもしれない。

 

冬はまだやってきたばかりだ。これからますます冬は厳しくなる。

 

今年の冬が厳しければ厳しいほどに、自分の内側の変容は進んでいくだろう。そして私はますます、今の自分とはかけ離れた自分ならぬ真の自分に近づいていくのだろう。フローニンゲン:2019/12/6(金)07:07

 

5304. アロマの儚さに魅せられて

 

コーヒー豆を自分の手で挽き、それにお湯を注ぎ、コーヒーの完成を待つ楽しみ。そのシンプルな行為に最上の至福さを覚える。これはインスタントでは決して味わうことのできない特権的な至福さである。

 

挽き立てのコーヒーの味が格別なだけではなく、なんとも言えない至福さに包まれた時を味わう格別さも挽き立てコーヒーを飲む魅力である。そして、コーヒーが持つアロマには本当に癒される。

 

アロマについて少し調べていると、コーヒーのアロマは、まるで線香花火のような、あるいは桜の花びらが舞い散るかのごとく儚いものだと知った。アロマは実に短命であり、ドリップしてからわずか3分ほどでその命を全うするそうだ。

 

ここにコーヒーが生き物だということを見て取る。コーヒーにも命があり、アロマはその燃焼の証だったのだ。

 

そうした命の燃焼としてのアロマを今味わっている。アロマを「頂いている」という表現をした方がいいかもしれない。

 

アロマというのは実に不思議なものであり、焙煎し立てのコーヒーにしか含まれておらず、インスタントのものには含まれていないそうだ。インスタントコーヒーにお湯を注いだ時、確かにコーヒーの香りはするのだが、それはもう死んだ香りであり、ある意味死臭なのだ。

 

この秋に実家に帰った時、両親と三人で久しぶりにコーヒーでも飲みたいね、という話をしていた。確かに実家にはインスタントコーヒーが備え置かれていたのだが、せっかくなので豆を自分たちで選んできて、豆を手で挽こうということになった。

 

父がすぐさまコーヒーミルを購入し、父と私は一緒にコーヒー豆を選びに買い物に出掛けた。帰ってきてから、いつもであれば手を使うことに関しては父に任せがちな自分が豆を挽いてみることにした。それが自分の初めての豆挽き体験だったように思う。

 

後日、父が母と私のためにコーヒー豆を挽いてくれているときに、良い香りが漂ってきたので、その香りに癒されるという旨のことを伝えたところ、「豆を挽いている自分が一番癒される」というようなことを父が述べていた。

 

先ほど調べていると、まさに父が述べていたように、コーヒーのアロマは豆を砕いているときに一番放出されるようなのだ。そして、挽き終えた豆をドリップしている時に二番目にアロマが放出されるらしい。コーヒーを挽いている人、コーヒーを淹れている人が実は一番癒されるように感じる、と父が述べていたのは科学的にも正しいようだ。

 

今、コーヒーのドリップを終え、挽き立てのコーヒーを一口飲んでみた。思わず、「美味い」という感嘆の声が漏れた。コーヒーの命をいただきながら、正午まで再び自分の取り組みを続けていく。フローニンゲン:2019/12/6(金)09:49

 

5305. 自己の音響体:愛の放射に向かって

 

環境、環境、環境。この外部環境。それは内側の環境と密接不可分に結びついていて、内側の環境に大きな影響を与えている。

 

今朝方にも書いたにもかかわらず、もう一度書いてしまいたくなるのは、厳しい冬は本当にまだ始まったばかりなのだ。

 

何日も続く雨。太陽の見えない日々。

 

何かを吹き飛ばしてしまいそうな強い風が吹いている。風が吹き、雨が降り、太陽の見えない中であっても、高らかに鳴き声を上げている小鳥たち。彼らの歌声がもたらす励まし。

 

ようやく始まった冬は、来年の5月末まで続く。それは嘘ではなく、この地の冬は本当にそこまで長い。

 

存在を圧縮させ、そして濃縮させるような実存的厳しさを持つ冬のピークはどこでやって来るのか。そのタイミングは年によって違ったのか、同じぐらいだったのか、もう分からなくなってしまっている。

 

今年は今年。今日は今日。明日は明日。明日の風は明日に吹くのだ。

 

短い春、短い夏、短い秋にかけて、自分の内側に広がっていた音響体のようなものに気づく。それは広がりを持つ和音の形を持っていた。

 

だが、この長い冬においては、その音響体は極度に密度を縮こまされる。広がりのある音ではなく、重密度の音を存在から生み出すことにつながりうる条件がここにあるのだが、その条件が仮に和音という音響体そのものを圧殺してしまったら、自己はどうなり、自己は何を思うだろうか。

 

既存の自己が新たな自己に開皮するためには、実はそれが必要なのだ。自分の内側の音響体としての和音の圧殺が必要なのである。

 

自分の小さな自己は、それ自身をまだ守ろうとしているようなのだ。それが続く限り、新たな自己は生まれない。新たな和音構造を持つ音響体は誕生し得ないのだ。

 

昨日、上の階に住む友人のピアニストと久しぶりにカフェでゆっくり話した。そこでは多岐に渡るテーマが取り上げられたが、「愛」の必要不可欠性と偉大さについて言及があったのを覚えている。

 

自分はどれだけ、いろんな人から、いろんな街から、いろんな出来事や現象から愛を与えてきてもらっただろうか。もう自分の内側は愛で満たされているのだ。それでもまだ愛を享受しようというのか。

 

もうそのような状況から脱却する時期に差し掛かっているのを最近本当に強く感じる。愛で満たされた自己から愛を放射する時期に差し掛かっているのだ。愛を降り注ぐ行為なしには、もはや進めないところに来ているのではないかと思う。

 

雨が地上に静かに降り注いでいる。時刻はまだ午後の4時半なのだが、もう辺りは随分と暗い。

 

暗い世界の中で降り注ぎ続けている雨。世界が明るかろうが、暗かろうが関係なしに天から降り注がれる雨。

 

天の小さな自己は完全に滅却されており、我執のない無私の雨が地上に降り注がれている。フローニンゲン:2019/12/6(金)16:29

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