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5279-5285:フローニンゲンからの便り 2019年12月2日(月)


本日生まれた12曲

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タイトル一覧

5279. 昨日購入した書籍

5280. 没入と生きることの喜び

5281. コーヒーについて

5282. 死に縁取られた園の中の生

5283. この瞬間にここで生きていることの意味

5284. 地上で生きる喜びを噛みしめて

5285. この世界に生まれて来れたことへの尽きぬ感謝の念

5279. 昨日購入した書籍

今朝は午前2時過ぎに起床した。断食中は基本的に就寝時間が普段よりもさらに早く、起床時間もいつもより早いことが多かった。

現在まだ回復期間であるためか、そして断食の効果が継続しているためか、今朝の起床は随分と早かった。寝覚めた瞬間に腹が鳴り、胃腸が活動に向けて動き出した。目覚めた瞬間に、心身の調子がすこぶる良いと判断したため、それ以上寝ることはせず、そのまま起床した。

小さい頃はよく二度寝などをしていたが、とりわけ欧米での生活を始めてから、特に欧州にやってきてからは二度寝をすることなど無くなったことを思う。このあたりに、自己の中に確立された意思の力を見る——それは単に一度目覚めたら起きるというような意思の力ではなく、二度寝をしようと思わないほどの目覚めの良さをもたらす生活を自ら作り上げていく意思である——。

また何よりも、二度寝をする必要がないほどに良質な睡眠を取ることができているのだろう。昨夜も、就寝前にベッドの上でシャバーサナを少々し、自分が最も好む入眠の姿勢に入ると、そこから数分と経たないうちに眠りの世界に入っていった。特にここ数日は入眠の速度が早く、それは回復食の影響かもしれないと思っている。

より具体的には、夕食時に水分を取ることをやめ、これまで味噌汁にしてきた具材をスープ状で摂取するのではなく、ジャガイモと和えて食べることにより、消化液が薄まらないままに食事ができていることと関係しているかもしれない。スープを単体で摂取する際には、スープそのものの消化の良さが活かされるが、その後にさらに食べ物を胃に入れてしまうと、スープによって消化液が薄まってしまい、消化がそれほどうまく進まないのではないかということを確かに感じる。以前に言及した断食に関する書籍にもそのあたりの事情が記述されていた。

今日は普段よりも早く起床したため、いつもよりもさらに創造活動や読書に打ち込めるだろう。読書に関しては、昨日はあれこれ書籍を吟味した結果、下記の5冊を購入することにした。

ドイツの書店から購入したもの

1. The World Is Sound: Nada Brahma: Music and the Landscape of Consciousness

2. Style& Idea: Selected Writings

3. Poetics of Music in the Form of Six Lessons

4. Music Lessons: The College de France Lectures

イギリスの書店から購入したもの

5. The Anton Webern Collection

いずれの書籍も全て音楽関係のものである。音楽と意識に関するもの(1)、ショーンバーグ、ストラヴィンスキー、ブーレーズが音楽に関する思想的·技術的な事柄について語ったもの(2、3、4)、そしてウェーベルンの歌曲の楽譜(5)を購入した。

数日前にもイギリスの書店から、コリン·ウィルソンの書籍(詩と神秘主義)に関するものを購入した。上記の5冊は比較的早く到着するであろうから、年内から読み始め、年末年始にかけてそれらの書籍を通じて、作曲に関する思想的·技術的な事柄に対する理解を深めていきたいと思う。フローニンゲン:2019/12/2(月)03:19

5280. 没入と生きることの喜び

——仏道をならうというのは、自己をならうことである。自己をならうというのは、自己を忘れることである。自己を忘れるというのは、天地宇宙の一切のものの働きによって悟りがわが上に現れることである。天地宇宙の一切のものの働きによって悟りがわが上に現れるというのは、自他の身心をしてそっくり束縛から脱せしめることである——道元

試したいと思ったことは試してみる。真似たいと思ったことは真似てみる。今日もそうした精神で作曲実践に取り組もうと思った。

時刻は午前3時半を迎え、オイルプリング後の小麦若葉ドリンクを飲み終え、今は大麦若葉とソイプロテインを混ぜたものを飲んでいる。それを作っている最中にふと、上記のようなことを思った。

学習を深め、技術を習得していくプロセスにおいて、その中心には実験的な試みと、模倣を通じた真似が絶えず存在しているように思う。実践することと模倣することは学びの根幹にある。

今日もまた、偉大な作曲家や研究者たちが積み重ねてきたものの恩恵を授かりながら、実験的な試みと模倣を通じた実践をしていく。合わせて、そうした実践の中において、自分の独自性が何であるのかということを意識し、またそれを実践に加えていくことを行う。

ここ最近は、作曲実践に集中できる環境にあり、それが何よりも嬉しい。昨年の秋にフローニンゲン大学での研究者としての仕事から離れて以降、こうした望ましい流れが生み出されている。今は本当に作曲に関する実践と学習に没頭できており、それが何よりの喜びになっている。

それは本当に生きがいであり、作曲実践のおかげでこの世にあるということの幸福さと生の喜びを実感することができている。また、旅に出かけた際にも、そこでしか感じられないことを曲にすることを通じて、旅の体験がもたらす喜びがさらに深いものになっているのを実感する。

自分にできることは、こうした静かな環境にあって、自らの取り組みに淡々と従事していくことだ。そして、そうした日々の中で、生きることの喜び、この世界にあることの喜びを常に感じていたい。

生の喜びの中に浸り、毎日自分の取り組みに没頭していると、ふと道元の言葉を思い出す。自分について、自己の本質について多くのことを教えてくれるのは、こうした没頭体験なのかもしれない。

何かに没頭することによって、小さな我からの超出現象が起こり、そのときにふと、自己を客体として認識し、その存在に対して内省する。こうした自己客体化および内省が真に成立するためには、自己を忘れるぐらいの没頭体験が必要なのだろう。

自己を忘却する形で自分の取り組みに従事していると、生きること、そしてただこの世にあることへの感謝の念と喜びが湧出し始める。我執を滅却した後に待っている、こうした感謝の念や喜びというのがもしかすると、悟りと言われるものの感情的発露なのかもしれないと思う。

そこでは悟りというものが、何か形而上学的な考えとして現れるのではなく、自分の身体や存在全体を馬のように駆け抜けるような生き生きとした感覚や感情となって現れる。今の自分はそれを日々感じている。

それではここからは、やはり道元の指摘するように、他者が同様の感覚を通じて毎日を生きれるように支援する活動に従事していくことが求められているように感じる。自己を忘れるぐらいの没頭的実践を通じて今日を生き、それと並行して、他者が同様の感覚を持って日々を生きれるような取り組みに従事していく。

実はそれらは異なる実践ではなく、同一の実践であることを自分は理解している。今日も日記を書き、そして作曲に従事する。フローニンゲン:2019/12/2(月)03:43

5281. コーヒーについて

起床してから1時間が経ったが、時刻はまだ午前3時半を過ぎたところである。今日はこれから作曲実践をしたり、読書をしたいと思う。昨日から再び12音技法に関する書籍などを読み始めている。

今日は昼食を摂った後にでも、街の中心部のお茶·コーヒー専門店に立ち寄りたい。そこは良質なお茶の葉やコーヒー豆が売られているだけではなく、お茶やコーヒーを淹れるための道具が充実している。

昨日の日記に書き留めたように、季節柄なのか、あるいは自分の中で少し変化があったのか、コーヒーをまた味わうような生活を送りたいと思っている。不思議なことに、カカオはスーパーフードとして非常に栄養が豊富なのだが、コーヒーには栄養がほとんどない。健康に関するコーヒーの肯定的·否定的な影響は、医学研究においてあれこれ言われているが、実際のところは何が真理なのかわからないというのが正直なところだ。

以前のように、まるで小説家のバルザックのごとく、毎日コーヒーを多く飲むことはせず、一日に1、2杯ほど自分の手で淹れたコーヒーを味わいたいと思う。自動ではなく、手動で豆を挽くコーヒーミルがあれば、それと合わせて好みの豆を選びたい。もしそうしたコーヒーミルがなければ、ドリップ式の器具とコーヒーの粉を購入しよう。

目当てのものを購入したら、その足でオーガニックスーパーに立ち寄り、八丁味噌と麦味噌、そして4種類の麦のフレークを購入したいと思う。今日の予定はそのようなところであり、日々の生活の中で、こうした買い物が良い気分転換になっている。また何よりも、軽いジョギングをしたり、散歩をしながら買い物に出かけていくため、身体の良い運動にもつながっている。

そして道ゆく人たちを眺めながら、それぞれの人生がそこに存在しているということを実感し、この世にあることの素晴らしさを実感する。日々の何気ない買い物がそうしたものをもたらしてくれていることに感謝が尽きない。

そういえば、今朝方は不思議と印象に残る夢を見ていなかったように思う。かろうじて覚えていることがあるとすれば、私はヴェネチアのような街にいて、そこで楽しげな気分で街を散策していたことだ。そこがヴェネチアだと断言はできないが、イタリアのどこかの街であることは確かだと思う。街が持つ固有の感覚質がそこがイタリアの街だということを伝えていた。

上記で、今日はコーヒーを淹れるための器具と豆か粉を購入しようと述べたが、本当にコーヒーを飲み始めるかどうかは、今日の午前中の様子を見て決めたい。断食後にコーヒーを断つというのならわかるが、コーヒーを逆に飲みたくなるという現象は興味深く、そのあたりの要因をもう少し考えてみたいと思う。

仮にコーヒーをまた飲み始めることになったら、コーヒーの残りカスは消臭剤に活用しようと思う。コーヒーは石炭よりも消臭効果があるらしく、コーヒーの残りカスをレンジなどで乾燥させてしまえば、簡単に消臭剤のもとが作れてしまうとのことである。

またそれは消臭のみならず、除湿にも使えるようなので、使っていない小皿にでも入れて、浴室に置いておこうかと思う。また、コーヒーの香りがもたらすリラックス効果を考えてみると、それを寝室の枕元に置いておくのも良いかもしれない。そのような利用の仕方も考えている。フローニンゲン:2019/12/2(月)04:22

5282. 死に縁取られた園の中の生

現在行っている日記の執筆や、自分個人の内側の感覚を俳句的に曲の形にしていくことが、社会的な意味を持ちうる道について模索する。その考察に際して、芸術作品と呼べるものの成立条件を考えてみることがヒントになるのではないかと思った。

一つには個人の内的体験に留まらず、そこに普遍性を持たせるということがあり、もう一つには何かしらの感動を出発点にし、そこに向かって共鳴現象を起こすような性質を持たせることが思いつくが、逆にいえばまだそれくらいしか観点がなく、それら二つに関しても具体的な方法についてはまだ見つかっていない。このテーマに関しては、自分なりに考えていくことはもちろんのこと、美学関連の書籍を読むことや、作曲家や画家の思想を参考にしていきたいと思う。

どうやら少し通り雨が降ったようだ。濡れた通りを走る車の音が聞こえる。

時刻は午前7時半を迎えたが、辺りは依然として真っ暗闇である。起床してからもう4時間ほど経ったが、こうして闇の奥ゆかしさを味わうことができていることを喜ぶべきだろう。

この街の闇の世界にあっては、現代社会が喪失しつつある真の静寂がある。そうした静寂は、どこか僧院や修道院の静けさに似ている。

自然が生み出す静寂さとはまた違った形の静けさがここにあり、それは人間が自己を律するために生み出した静けさと似ている。

自然の静けさは魂をくつろがせてくれる。一方で、今感じているこの静寂さは、魂をより一層骨太なものにしてくれる。魂を根底から育む静寂さがここにある。

自分は独りなのだという感覚が突如到来した。毎年のことだが、この季節になると、妙に自己の独り性に意識が向かう。それを「孤独」という言葉で表現しないのは、どこかその言葉に違和感があるからである。

おそらく私はまだ真の孤独さを通過していないのだと思われる。その一歩手前にあるか、そこから迂回して、別の種類のそれらしきものに直面しているのかもしれない。ただし、おそらく真の孤独さの本質であろう固有性を感じているという点において言えば、それは真の孤独さの一端と今向き合っていると言えるのかもしれない。

「死を通過していない者に美など見い出しようがない」というある人の言葉を思い出した。それは哲学者か芸術家の言葉だったように思う。

自らの死というよりも、より普遍的な死という現象に関心の矢が向かうことが最近多い。言い換えると、日常の中でふとしたときに死を意識することが増えている自分がいる。

それは欧州での生活が始まってから顕著に増えた。そして、その頻度は欧州で過ごす月日が経るごとに増している。

死を意識する瞬間、死と何らかの形で接触する機会の増加。それが意味することが何なのかは今の自分にはわからない。ただし一つ言えることは、それによって、日常の生がより鮮明に知覚され始めたことは確かである。

死の側から生を眺めるというよりも、死に縁取られた園の中にある生を見ているような感覚。そうした縁があるからこそくっきりと浮かび上がる生。そのような生を眺め、そのような生を生きている自分がいることに気づく。

空が徐々に黒紫色に近づいてきている。空が変色する様を眺めていると、死という縁も変色するのだろうかと考える。それが変色すれば、生の見え方も自ずから変わっていくのだろう。フローニンゲン:2019/12/2(月)07:40

5283. この瞬間にここで生きていることの意味

晴天。冬の爽快な空が眼前に広がっている。

小鳥たちがどこからともなくやって来ては鳴き声を上げている。青空を拝みながら眺め、小鳥たちの清澄な鳴き声に耳を澄ませる。そして、彼らの鳴き声をより純化させてくれる静謐な時間と空間に感謝の念を捧げる。

確かに毎日少しずつ、作曲に関する知識と技術を習得するように学習と実践を進めているが、それよりも、作曲する意味や作曲と生き方との関係など、思想的な事柄を考えていることの方が多いように思う。

音楽と生に関して、作曲と生に関して、何か思想基盤のレンガを日々一つ一つ積み重ねて進んでいる感じだ。その歩みは緩やかであり、緩やかであればあるほどに安心し、落ち着くことができる。

生の喜びを形にし、それを追体験することを促し、独自の生の喜びを見出す縁をもたらすような曲を作っていきたい。言い換えると、自分が日々触れる生の喜びに基づいて生まれ出てくる曲が、それを聴いたこの世界の誰かがその喜びを追体験しながらにして、独自の生の喜びを見いだしていくようなことが実現できればどれだけ素晴らしいだろうか。

その実現に向けて、知識と技術は遥か及んでいないが、ゆっくりと着実に進んでいこう。その実現に向けてまだスタート地点にすら立てていないが、そこに向かって行こうとする魂がここにある。

日々を生きる中で普遍的なものに触れた時、それは固有の感覚として自分に知覚される。曲として形にしたいのはまさにそうした自分が受け取った独自な感覚なのだが、それを再度普遍化させることに意義があるように思う。

普遍的なものが個別的なものとして自己を通して経験され、それを再度普遍の領域に送り返すのである。ひょっとすると私たちは、そうした普遍的なものを独自な眼で見るために、この世界に生まれて来た、ないしは送られてきたと考えてみるのはどうだろうか。そうした普遍的なものを個別的なものとして見るために、私たちは今この瞬間ここにいると考えてみるのはどうだろうか。

そして、そうしたものを見る場を与えてくれたことへの感謝の念と共に、見たものを再度普遍の世界に送り届けるために生きていると考えるのはどうだろうか。そこに普遍が個となり、個が再び普遍に帰ることを通じて、普遍と個が他者に共有される道を見る。

自分がそのようにしてこの世界に産み落とされ、独自の眼を通して日々を生き、自分という存在を通じてそれを再び普遍の世界に送り返すことに、何か自分という一つの個の存在意義を感じる。それが私が私であることの喜びであり、私がこの世に生きていることの喜びなのかもしれない。

裸の街路樹がそれを語り、微風がその言霊を自分のもとに届けてくれている。それを受け取った自分がなすべきことはもうありありと見えている。フローニンゲン:2019/12/2(月)11:16

5284. 地上で生きる喜びを噛みしめて

「これが地上で生きる喜びなんだ」

そんな感覚に思わず囚われた。

今私は、美しくそして優しく輝く夕暮れ空を眺めながら、自分の手で挽いたコーヒーを飲んでいる。

昼食を摂り、仮眠を取った直後に私は、街の中心部に向かって出かけた。本当に仮眠してすぐであったため、どこか夢心地の中、フローニンゲンの街に繰り出して行った。

仮眠中に見ていたビジョンはとても優しい気持ちにさせてくれるものであった。ビジョンの中の私は、欧州のどこかの国に旅行に出かけているようであったが、宿泊先のホテルの名前は漢字で表記されており、しかも雰囲気が和をを感じさせてくれるものであったため、とても穏やかな気持ちになった。ホテルの前の通りも、どこか日本の古き良き時代の面影を残した道に見え、私の心は心底くつろいでいた。

そこからもビジョンは自然発生的に色々なものに移り変わっていったが、それらの全てが北欧にほど近い北オランダのこの地の冬の午後に降り注ぐ太陽の光のように優しいものだった。そんなビジョンを思い出しながら自宅から街の中心部に向かって歩いていた。

空を見上げると、雲一つない青空が広がっていて、遠くの空には一筋の飛行機雲が見えた。通りを自転車で走る人たちや犬の散歩をしている人たちを眺め、途中ですれ違ったオランダ人の中年女性と目が合って、お互いに挨拶を交わした。

目に映るもの、感じられるものの全てが、自分の存在の深い部分とつながっているような感覚があった。すると、そこから幸福の果汁が溢れ出して来たのである。私はもう堪らなくなってしまい、道を歩きながら幸福感に昇天しそうになった。

自分の足で石畳の道を踏みしめる喜び、その石畳の道を舗装してくれた誰かに対する深い感謝の念、優しくもあり冷たく張り詰めたフローニンゲンの街の空気、草むらからひょっこりと顔を出した子猫。

全てだった。目に映るもの、感じられるもの、本当に全てのものが自分と分かち難くつながっていて、どれもこれもが幸福感を私にもたらしていた。

「これは説明などできない!感じるしかないことなのだ!」思わずそうした歓喜の言葉が漏れて来てしまいそうだった。実際にそれは魂が叫んでいた喜びの声だった。

ひょっとすると、これが詩人として世界を眺め、詩人としてこの世を生きることなのだろうか。こうした生き方が、自分の内側の芸術家に目覚めた生き方なのだろうか。

決してドクター(博士)として生きたくはない。そういう生き方はもうやめにしたではないか。

そうだった。自分はドクターとして世界と知的な距離を取りながら世界を説明するような形で生きていくのではなく、世界そのものとして、世界と寸分違わぬ形で生きる喜びを感じながら生きることを誓ったのであった。

詩人として毎日生きたいという強い強い思い。詩人として日々の瞬間瞬間を生き、世界から与えてもらった言葉と音を自分なりに不器用に形にしていく試みに人生の最後の瞬間まで従事していきたいという願い。

それだけでいい。もし願い事が一つ叶うのであれば、その願いだけ叶えてほしいと思う。

フローニンゲンの街のシンボルであるマルティニ教会前の市場を歩きながら、私はそのようなことを思い、願い事を天に届けていた。

街の中心部に向かっている最中に通った運河が、今日は一段と輝いて見えた。それは午後の太陽光が反射しているからという理由だけではなかったように思う。

運河も一つの存在であり、そこには存在の固有の輝きがあるのだ。それは運河の向こうに見えた教会もそうであり、道ゆく一人一人がそうである。

目当てのお茶·コーヒー専門店に到着する前に、いくつかお洒落な雑貨屋が目に止まった。これまで素通りしていたそれらの店の存在が、今日はなぜだか自分の内側に入って来たのである。その瞬間に、それらは自分の世界で存在の居場所を見つけ、固有の輝きを放ち始めた。

世界の輝きに気づけないのは、私たち側に責任があるのではないだろうか。なぜなら、この世界に遍満する全ての存在は、絶えずその場で固有の輝きを放ち続けているのだから。

まずは自分自身の固有の輝きを見つめよう。そしてそれと同時に、世界の全ての存在の輝きをその眼でしっかりと見つめよう。

何もかもがそこから始まる。逆に言えば、そこからでないと何も始まらない。

勉強、実践、仕事、社会変革、日常の生活。それら全てが、そこを出発点にしなければ始まらないのだ。そこを出発点にしないで始まる事柄は全て、出発点という基点のないあやふやで脆いものになってしまうだろう。

久しぶりに街の中心部のお茶·コーヒー専門店に到着した時、ウキウキした気分になった。店の外で手袋を外している時、ショーウィンドウから見えるお茶の道具やコーヒー豆を眺めていると、それらが全てとても愛しい存在に見えて来た。途中で見た、画廊の絵一つとって見てもそうであったし、雑貨屋のポストカード一枚を取ってみてもそうだった。

店内に入り、早速私は目当てのものを探した。店に来るときにはもう感動の渦の中にいて、コーヒーミルを購入するのか、ドリップ式の器具を購入するのかを考えている暇などなかった。

そう、本当に心が感動と幸福だけて満たされていたのである。まさに感動と幸福が私を無我たらしめていて、感動と幸福に満たされ、それらと一つになっている自分がいたために、そんなことを考える心的空間がなかったのである。

以前この店を訪れたときには、ハーブティーを購入した。だが今日から私は、コーヒーという嗜好品を少しばかり楽しむことを自分に許し、地上で生きる喜びを思う存分に味わうことにしたのである。

この前店に訪れたときに、ちらりとコーヒーミルを見ていたので、その場所がどこかすぐにわかった。色々と品を検討していると、中年の優しそうなオランダ人女性の店員さんが声を掛けてくれた。

店員:「何をお探しですか?」

:「はい、自分でコーヒーを淹れたいと思っていまして、コーヒーミルを購入するか、ドリップ式の器具を購入するか迷ってるんです」

そのような言葉を交わした後、その店員さんは親切にそれぞれの器具の使い方を含めて、コーヒーに関するあれこれを教えてくれた。

:「やっぱり豆ですよね。豆を自分で挽いて、それでコーヒーを作るのが一番ですよね」

店員:「そりゃ~もう。コーヒー豆を挽いてそこにお湯を注いだ時のアロマは、「こ~んな感じ(身振り手振りが混じる)」ですよ笑」

:「ですよね~、もう「こ~んな感じ」ですよね笑」

店員:「コーヒーの粉とはやっぱり比べ物にならないですよ。アロマも味も」

私は店員さんのその言葉に完全に同意していたし、アロマや味だけではなく、自らの手で挽いたというその行為に内包された意味と目には見えないエネルギーにも着目していた。

この間の秋に実家に帰った時、父が淹れてくれたコーヒーの旨さには本当に驚いた。それは母の手料理に関して昔から感じていたことでもあるし、今回の一時帰国を通じて父の全ての料理に関しても感じていたことである。

効率性を狂ったように追い求め、全てを自動化させることを良しと疑わないこんな現代社会にあってこそ、自らの手で作ることの良さと意義を忘れたくはない。手作りには、人間の手からでないと注入できぬものがあるのだ。

自らの存在と魂を通じてしか吹き込めないもの。そうした息吹を大切にしたい。

そんなことから私は、コーヒーの粉からコーヒーを作るのではなく、自分で豆を挽いてコーヒーを作りたいと思い、コーヒーミルとコーヒー専用のケトル、そして紙のフィルターがいらない便利かつ洒落たコーヒーを注ぐ器具を購入した。

:「う~ん、このコーヒーミルはなかなかいいですね。オランダ製のものですか?」

店員:「ええ、そうですよ。しかも25年保証なんです。一生ものですよ笑」

:「今から25年···一生ものですか?笑 僕はまだまだ生きますよ」

店員:「えぇ、それを願ってます笑」

とても気さくかつ親切なその店員さんは、それら三つの品の新品を取りに、店の地下に降りていき、商品を取って来てくれた。そしてそこからは、コーヒー豆について色々と説明をしてくれた。

私は濃いめのコーヒーが好きであり、その店員さんも濃いめが好きとのことであり、意気投合した。だが私の目の前には、この季節限定の「シンタクラース·コーヒー(シンタクラースとは2年前ぐらいの日記で何度か言及していたように、平たく言えば、サンタクロース的な神話的人物である。ちょうど先週あたりにオランダではシンタクラースを祝う日があった)」があり、その豆はさらにオーガニックのようであったから、それを購入することにした。

味はマイルドのものであり、それを一度飲んでみて、今度濃い目にするか薄めにするかを判断すればいいとその店員さんから助言をもらった。会計を行う時もまだ私の心は高揚していた。そして店から出て、自宅に戻る最中も、今日から一日の楽しみとして2、3杯だけ飲む手作りコーヒーに思いを馳せていた。

自宅に帰ると早速ケトルをガスコンロで温め、それを待っている間にシンタクラース·コーヒーの豆をミルで挽いた。実家にいるときに何度か自分でも豆を挽いていたので、勝手がわかっており、とてもスムーズに豆を挽き終えた。

その頃にはもうすっかりコーヒー豆の良い香りが漂っていた。そして、粉末にしたコーヒーを洒落たコーヒーポットに入れて、そこにお湯を注ぐと、そこからはなんとも典雅なアロマが立ち込め始めた。

もうその香りに包まれているだけで私は幸せだった。今そのようにして作ったコーヒーを味わっている。

今日は本当に幸福な一日であった。明日からは、早朝に自分で挽いたコーヒーと共に、この地上で生きる喜びを全身で噛みしめながら日々を過ごしていきたいと思う。フローニンゲン:2019/12/2(月)16:10

5285. この世界に生まれて来れたことへの尽きぬ感謝の念

今日は本当に至福さに包まれた日であった。世界の全ての存在が輝いて見え、見えるもの、感じられるものに絶えず打たれる自分がいた。

この世界そのものが詩に他ならず、音楽に他ならないことを実感させてくれるような一日であった。今日だけではなく、明日もまたこのような日であって欲しいと切に願う。日々を新たな眼を持って眺め、日々を生きるただそのことに喜びを見出していきたい。

夕方、購入したコーヒーミルを使って豆を自分の手で挽き、コーヒーを飲んだとき、その香り豊かなアロマとコクのある味に心底幸福感を覚えた。そのときに突如として、こうした至福さを感じているのはそもそも、両親がこの世に自分を運んで来てくれたからであるということに気付かされた。そのことに、ただただ感謝の念しかなかった。

このように日々この地上で自分なりの幸せを感じることができている前提には、そもそも自分がこの世界に生まれて来たことがあるのだ。それを実現してくれた両親には本当に感謝の意を捧げるしかない。

この感謝の念は尽きず、それを言葉で伝えるのは難しい。それゆえに、自分はこの世で生きる喜びを感じながら日々を生きるということそのものをもってして、感謝の念を表したいと思う。

生きるという行為そのものをもって、そしてこの地上にあるというただそのことへの感謝と喜びをもって生きるという行為を通して、その感謝の念を表したい。それは言葉を重ねることよりも重要であるように思える。

そうした行為こそが真実の言葉のような気がする。この生がいつ終わりを迎えるのかは誰にもわからないが、こうしてこの世で生きることの喜びを感じられることそのものがあるだけで、この世に生まれて来て良かったと思える。それは絶対的な生の肯定感だと言えるかもしれない。

もう自分にもよく理解できない。あるということの奇跡と、ただあるということに気づいたことから生まれる絶対的な至福さがここにあるということの奇跡は、自分の理解を超えている。

夕方、コーヒーミルを含め、街の中心部のお茶·コーヒー専門店で購入した器具類を手に握りしめながら自宅に向かって帰っているとき、もう自分は美の世界の中で、詩の世界の中で生きたいと強く願った。

このような現代社会であっても、そのようにして人間という生き物は生きれるのだということを生き語りたいと思う。それは決して、説教じみたものでもなんでもなく、多くの人たちが忘れている生きることの本源的な喜びをもう一度思い出してもらうための静かな呼びかけであり、それを呼び覚ますことに向けた静かな手招きのようなものである。そしてそれは呼びかけや手招きを超えて、共に生きるということに向けた自分なりの社会参画なのだと思う。

私たちの目の前のものは詩そのものであるということ。そして、絶えず美と喜びがそこにあるということ。

確かに醜がこの世界に存在しているのは知っている。だがそれに屈してはならない。絶えず美と喜びに包まれながら生きていくことをもってして醜を乗り越えていくことが、私たち人間に求められていることなのではないだろうか。フローニンゲン:2019/12/2(月)19:56

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