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5274-5278:フローニンゲンからの便り 2019年12月1日(日)

December 3, 2019

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5274. 師走を迎えた朝に思うこと

5275. ライフサイクルに応じた今後の生活拠点:今朝方の夢

5276. 優しい大いなるものに触れて:メチエの習得に向けて

5277. 思想と存在を通じて書くということ

5278. 仮眠中のビジョン:コーヒーの恋しくなる季節に

 

5274. 師走を迎えた朝に思うこと

 

今朝は午前3時前に起床し、今時刻は午前3時半を迎えたところである。早いもので、今日から12月となった。2019年最後の月が今日から始まったわけである。

 

昨日の夕方、近所のスーパーに向かって軽くジョギングをしていると、ヨーロッパで迎える4度目の冬について思いを馳せ、これから後何回この土地で冬を過ごすのかを思った。それはオランダだけではなく、この欧州の地で後何度自分が冬を過ごしていくのかを思ったのである。それは回数を超えて、遠い遠い道のりのように思えた。

 

今年最後の月の始まりは、どこかまた自分を内省的にしてくれる。今年1年を大きく、そして静かに振り返る時期がやって来たことを感じる。

 

現在の気温は0度であり、今日は日中でも5度までしか気温が上がらない。昨日の段階ですでに手がかじかんでしまいそうな寒さであったから、今日の外はもっと手がかじかんでしまうほどだろう。それでも足を動かし、外の空気を吸い、身近な自然を眺めること以上に自分をリフレッシュしてくれるものはないから、今日も夕方近くになったら近所の運河沿いにジョギングをしに行こうと思う。道ゆく人々を眺め、多様な人生の存在を感じるために街の中心部に出かけて行くのは明日にしよう。

 

今年だけではないが、欧州での生活をここで改めて振り返ってみると、そこには深く内面と向き合っていく精神的な時間が十分にあったと言える。今もそうした時間が十分にあり、それは「十分」という言葉ではこぼれてしまうほどに濃密だ。言い換えれば、自分の内面と向き合うための時間しか存在していないとさえ言える。

 

それはひどく精神化された時間だと言えるかも知れない。そうした時間の中で、今日も明日もこれからも、自分の内面と寄り添いながら日々を過ごしていく。そうすること以外に生きる道はなく、それを促す道だけがここにあり、その道が自己だということにもう自分は気づいている。そして、その道を歩くに際して自分に寄り添ってくれているのが自らの言葉であり、自らの音なのだと思う。

 

言葉を紡いでいくこと、音を紡いでいくこと。本当にそれらだけしか生きる術はなく、逆にそれらだけが絶えず自分にある。地上で生きることの喜びを真に噛みしめ、生の喜びに浸るために必要なのは、自分にとっては言葉と音を絶えず創造していくことであった。

 

さらに重要なことは、それが単に個人的な営みではなく、社会に対する働きかけにつながっているという気づきを得れたことは大きい。それは社会に対する直接的·間接的な働きかけを可能にする。それがどのような働きかけなのについては具体的に述べることをしない。

 

絶えず言葉を生み出し、絶えず音を生み出すこと。それを今日もまた淡々と行っていく。

 

自分の存在しかないのではないかと思われる今この瞬間の深い闇の中にあっても、絶えず内から外に向かって言葉と音を紡ぎ出していく。フローニンゲン:2019/12/1(日)03:47

 

5275. ライフサイクルに応じた今後の生活拠点:今朝方の夢

 

昨日ふと、自然の中での生活に絶えず憧れはあるが、今はギリシャ·ローマ的なものが感じられる場所で生活を送る方が自分に合っているのかも知れないと思った。

 

先日にヴェネチアを訪問したことをきっかけとして、イタリアも今後の移住先の一つとなった。新年早々に訪れるミラノがどのような場所かも楽しみであるが、今度はぜひフィレンツェとローマを訪れたい。イタリアのいくつかの都市を巡ってみて、イタリアでの生活も少しばかり視野に入れてみようと思う。

 

まだ今の自分のライフサイクルを考えると、主要都市の落ち着いた場所に居を構えるのが懸命かと思われる。そこからライフサイクルの進行に合わせて、徐々に郊外に移っていき、最後には窓を開けたら大自然がそこにあるような場所に居を構えたいと思う。自然に取り囲まれた場所に関しては、やはりフィンランドなどの北欧諸国に憧れがある。

 

今月末に足を運ぶマルタ共和国も地中海的な文化が浸透しているため、その中に身を置き、それを味わってみて、そこで自分が生活をしていきたいと思うのかどうかも確かめたいと思う。ただし今回は、宿泊先のエリアがリゾート地のセントジュリアンであるため、日中の観光の際に、リゾート地ではないエリアを通じて、マルタの生活空間を味わってみようと思う。

 

それでは今朝方の夢について簡単に振り返りを行い、早速今日も早朝の作曲実践を行いたい。それはもはや実践と言うよりも、呼吸を行うことに等しい類の行為になりつつある。そうした形でこの世界の中で呼吸をし、自らの生命の動きを真に感じられる行為としての作曲に従事する前に、今朝方の夢について振り返ってみよう。

 

夢の中で私は、学校のような場所の小さな教室にいた。その教室に見覚えはなかったが、周りを見渡すと、そこには小中学校時代の友人がいた。

 

どういうわけか、私は黒板の前に立っていて、英作文の課題の回答を板書しようとしていた。それは与えられた日本語を英語に訳すようなものではなく、特定のお題が与えられた自由英作文であった。

 

私は作文自体が好きだったので、与えられた日本語を英語に訳すような英作文も嫌いではなかったが、最も好きなのは自由英作文であった。自分が好きなものであったせいか、私はその場で即興的に英作文を書けると思いながら黒板の前に立っていた。

 

課題、あるいは宿題として出された英作文の問い自体は難しくなかったが、頭の中で様々な考えがぐるぐると巡り、まとまった文章を書いていくことはなかなか難しかった。そもそも、書き出しの1行をどうするかについてもあれこれと悩んでおり、書いたり消したりを少し繰り返した。

 

すると、教室の後ろの方から、小中学校時代の友人(TK)が私に声を掛けてきた。おそらくそれは彼の親切心からだと思うが、彼は英作文に関してあれこれ指示を私にし始めた。

 

彼の言っていることもあながち的外れではないと思ったが、私は自分が書きたいことを書きたいように書くと決めており、彼の言うことにはあまり従わず、引き続き板書を進めていった。ところがやはり、途中からうまく文章が書けず、そこでまた私に声を掛ける人がいた。声の方を見ると、そこには小学校5年生の時の担任の女性の先生がいた。

 

先生からは助言と言うよりも、授業が終わりの時間に迫ってきているということを言われ、そこから私は急いで文章を書き始めた。しかし、出だしの1行があまり気に入らず、そこからまた文章を書き直そうとして、一度全部文章を消した。

 

そこから再度文章を書く時間がないと思った私は、結局その文章を通じて伝えたいことの鍵となるものは、「実存的危機」と「生の充実」だと述べた。その時に、私は文章ではなく、突然英語を話し始め、文章で表現したかったことを全て話し言葉で述べた。“existential crisis”と“fulfillment of life”という単語をしきりに強調している自分がそこにいた。フローニンゲン:2019/12/1(日)04:15

 

5276. 優しい大いなるものに触れて:メチエの習得に向けて

 

闇、闇、そして闇。起床してすでに4時間が経つが、辺りはまだ闇に包まれている。そんな中を、小鳥たちの歌声の旋律が走り抜ける。

 

「感性はメロディーに現れるのかも知れない」そんなことをふと思った。その考えに従えば、あの小鳥たちはなんと美しい感性を持っているのだろうか。

 

では、自分にはどのような感性が備わっているのだろうか。自分の感性は全く見えないが、それでも何かしらの感性はあるのだと思う。少なくとも小鳥たちの感性に共鳴する何かがある。それを起点に、ゆっくりと自分の感性を育んでいこう。

 

先ほど、自分が日常の何気ない生活の中で、ふとした瞬間に突然涙を浮かべる現象について考えていた。それはひょっとすると、「優しい大いなるもの」に触れているからではないかと思った。

 

それは小さな自己の存在を超えており、時間も超越している。そうした大きな存在に触れた時、そっと涙が滲み始めるのである。そのような自分の内的体験について振り返っていた。

 

とりわけ作曲におけるメチエ、つまり表現技法のようなものは、身体的に掴んでいくしかないということが見え始めている。表現技法は決して頭を通じて体得されるのではなく、それは身体全体、さらには存在全体として体得されるものである。そして、そうした業を体得しなければ、自由自在に自分独自の生命の歌を曲という形になどしようがないことがわかる。

 

表現技法の習得には長大な時間がかかる。それはひょっとすると、もはや習得されるようなものではなく、自己の変容に応じて絶えず変貌を遂げていくものなのかもしれない。

 

そうであれば、今この瞬間に自分が持っている表現技法を大切にし、自己及びそれを涵養していくしか道はないのだと思う。芸の道に終わりはないというのはこうしたことを指すのかもしれない。そこには絶え間ない自己変容のプロセスが横たわっている。

 

闇の中、ふと、墨絵のような音楽を模索したいと思う自分が顔を覗かせた。色彩豊かな音楽にも憧れるが、同時に黒一色の墨絵的な音楽にも憧れる。

 

そうした音楽を生み出すにはどうしたらいいのだろうか。安易な道としては、無調の音楽を参考にすることなのだろうか。やはりそれは安直すぎるような気がしている。

 

そこで例えば、篠田桃紅先生の作品を見て、そこから喚起される感覚に従いながら音を置いてみるという実験をしてみようか。そこに調性があるのかないのかはもはや関係はなく、墨絵によって喚起される墨絵的なものを自分独自の方法で表現していく。

 

その際には、今闇の世界の中で光り輝く鳴き声を上げている小鳥たちの鳴き声のように、黒の中に光を表現できるような曲にしていきたい。墨絵と光の対称性について、実際の墨絵を見たり、自分が求めようとするものに近い音楽を探してみようと思う。フローニンゲン:2019/12/1(日)07:31

 

5277. 思想と存在を通じて書くということ

 

——生きるということは1つの形式を擁護することだ——ウェーベルン

 

先ほど、オーストリアの作曲家アントン·ウェーベルンの歌曲に耳を傾けていると、作曲において技術や音楽理論の理解は当然大切となるが、結局最終的には曲というのは自らの思想で書き、自らの存在で書くのだということを思わされた。

 

自らの思想は自らの存在そのものであり、ある人が生み出す創造物にはその人の思想と存在が滲み出す。創造物は知的な理論的産物や単なる技術の産物なのではなく、根底には絶えずその人の思想と存在が流れているものなのだ。

 

ヨーロッパの地で暮らす日々が長くなればなるほどに、個人の思想と存在が密接不可分なものだということに気づかされる。そして、ある一人の人間が生み出すものには必ずそこに思想と存在が滲み出るものなのだと気づかされる。逆に言えば、思想と存在が滲み出ないものは、ある一人の固有の人間の創造物とみなすことはできない。

 

そこから私は、音楽理論や作曲技術の習得に向けた学習と実践を継続させていくだけではなく、やはり旅を通じて、そして何気ない生活の中に潜む生の喜びと充実感を感じながら、自らの思想と存在を深めなければならないと思った。そうでなければ、自分の生命の流れを納得いく形で曲の形に表現することなどできないだろう。

 

自分なりの作曲形式を求めるというのはひょっとすると、自分なりの生の形式を求めることなのかもしれない。ウェーベルンが述べるように、それは自分が守るべきものであり、同時にそれは一生涯をかけて育んでいくものなのだと思う。

 

他者や社会が作った形式ではなく、自らの形式を内側から彫琢していくこと。内側から花開かせていくこと。それを絶えず念頭において毎日を生きる。

 

今はすっかり外は明るくなったが、まだ闇が深い時間帯に、詩人のように毎日を生きたいという思いが改めて吹き上げてきた。全ての感覚を解放して、世界と一体となって、生の喜びの中で日々を生きたいという強い思い。そして、そこから湧き上がるものを曲にしたいという煮えたぎる思い。

 

詩的な、あるいは俳句的な曲で、生の喜びを味わっているその瞬間を歌い上げていきたいという実存的切望、さらには霊性的切望。そうした切望を抱いている自己がより色濃くなっている。

 

これからより一層学習と実践に力を入れていこう。作曲に関して、理論的な側面や技術的な側面を学んでいくことはもちろんのこと、私が最も大切にしたいのは曲を作るという創造行為にまつわる思想といかに生きるかという点だ。

 

先ほど吟味をし、さらなる探究と実践のために、少しばかり書籍を購入することにした。それらは下記の6冊である。

 

1. The Musical Language of Pierre Boulez: Writings And Compositions

2. Pierre Boulez and the Piano: A Study in Style and Technique

3. Music Lessons: The Collège de France Lectures

4. Poetics of Music in the Form of Six Lessons 

5. The World Is Sound: Nada Brahma: Music and the Landscape of Consciousness

6. Style and Idea: Selected Writings of Arnold Schoenberg

 

これらの書籍を購入しようと思った時、アメリカの大学院に通い、卒業後、どこの大学にも所属せず独りで探究をしていた4年間と、フローニンゲン大学に所属していた2年間と全く同じように、英文書籍を読みに読む生活に戻る方向に向かっている自分がまた現れ始めたのに気づいた。

 

今回はその時と探究領域は異なるが、根底ではそれらは結局繋がっている。人間の成熟、よく生きること、十全に生きること、そして創造が根底に横たわっていることにおいては全く何も変わっていない。そして、探究に向けた情熱も全く変わっておらず、それはむしろ当時以上に深く自己に根差しており、強く巨大なものかもしれない。フローニンゲン:2019/12/1(日)11:11

 

5278. 仮眠中のビジョン:コーヒーの恋しくなる季節に

 

時刻はまだ午後2時半だが、夕方を思わせる夕暮れ空がもう広がっている。

 

つい今し方、仮眠から目覚めた。仮眠中、今日もまたビジョンを見ていた。

 

一つ目のビジョンは、愛犬が登場し、その後、2種類の犬のぬいぐるみが現れた。一つは可愛らしい犬の縫いぐるみが1匹と、もう一つの種類は歯がギザギザしているような2匹の犬の縫いぐるみだった。

 

私は自分の右腕をあえてギザギザした歯のぬいぐるみに噛ませてみた。その時の私は半袖を着ており、さらには腕まくりをしていたので、歯形が右腕についた。それが一つ目のビジョンである。

 

もう一つのビジョンは、英語で書かれた文章を読解した後に、先生のような人物から一枚の紙を渡された。見るとそこには、先日受けた模擬試験の結果が掲載されていた。

 

その試験に関して、私は随分と自信があったのだが、見ると、英語や数学の得点の表記にバグが生じており、「1」という数字が書かれていた。まさか1点ではあるまいと思い、それは間違いなくコンピューターのミスだと思った。

 

するとビジョンの中で少しばかり雨が降った。そこからもいくつか印象に残るビジョンを見ており、それを見ている最中は鮮明な記憶があったのだが、なぜか仮眠から覚めてみると、それらのうちの大半はもう忘れ去れてしまっていた。

 

夢に類するこれらのビジョンもまたとても逃げ足が早い。先ほど見ていたビジョンの種類を問わず、それらのビジョンの中の私は、総じて冷静であり、その場の時間を楽しんでいるかのような気分であった。

 

それではこれから少しばかり作曲実践をし、その後、近くの運河沿いのサイクリングロードをジョギングしたい。今日はとてもいい天気であるから、さぞかし気持ちいだろう。天日干し中の椎茸も日光浴を楽しんでいるかのようだ。

 

もう7ヶ月近く自宅でコーヒーを飲むことはなかったのだが、その代わりに飲んでいたカカオドリンクの摂取量が逆に上がっているように思えた。そして何より、昨日と今朝は良質なコーヒーを少量でいいので楽しみたいという自然な気持ちが湧いていた。

 

街の中心部のオーガニックスーパーや、街の中心のお茶·コーヒー専門店には、良質なコーヒー豆やコーヒーの粉末が売られている。明日はちょうど街の中心部に出かけようと思っていたため、久しぶりにコーヒーでも購入しようかと思う。

 

とはいえ、これまで使っていたコーヒーマシーンは備え付けのものであり、それはもう随分と古く、新しく自分で購入したいと以前に思っていた。マシーンの補水部分に水垢が付着しており、重曹などをわざわざ用いて手入れしてもそれが取り除かれる保証がないぐらいの古さである。

 

この間実家に帰った際に、豆を手で挽く機械が実家にあって、それで淹れたコーヒーがとても美味しかった。そうしたこともあり、街の中心部のお茶·コーヒー専門店にそうした器具があればぜひ購入し、自分で豆を挽きたいと思う。

 

もしなければ、機械で豆を挽くとその音がうるさいものが多く、掃除も幾分大変であるから、フィルターを用いたドリップ式の形でコーヒーを味わいたい。そのための器具とコーヒー専用のケトルを購入しようと思う。やはりコーヒーが恋しくなるような季節に入っているようだ。フローニンゲン:2019/12/1(日)14:45

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