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5233-5241:フローニンゲンからの便り 2019年11月24日(日)


本日生まれた11曲

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タイトル一覧

5233. 断食10日目の心身の軽さ:肌の状態・幻聴幻覚

5234. 昨日考えていた諸事項

5235. 断食10日目の夢

5236. 断食を終えるタイミングを見極める方法について

5237. 断食10日目に思う「断食リトリートや断食道場に対する疑問」

5238. 夕暮れ時のなんと美しい空よ:「立ち合い」としての自己と生

5239. 創造エネルギーの枯渇と充満について

5240. 「説明」ではなくその「中」で生きること

5241. 溢れ出す言葉:ブルドックに興味を持たれて

5233. 断食10日目の心身の軽さ:肌の状態・幻聴幻覚

断食10日目の朝を迎えた。今朝は午前3時半に起床した。起床した瞬間に気づいたが、体が本当に軽い。

昨日は起床する前に体の重さを少しばかり感じていたのだが、それとは打って変わって、とてつもなく軽くなった体がそこにあった。身体の軽快さのおかげか、精神も軽やかであり、心身の脈動の軽やかさを起床直後に実感することになった。

毎朝の習慣通り、オイルプリングをし、歯磨きと舌磨きをした。舌の調子もさらに良くなっていたのだが、それよりも驚いたのは肌の調子である。起床直後に顔を触った瞬間から実は感じていたのだが、肌のキメがなお一層のこと細かくなっており、自分でも驚いた。14日間以上の断食によって、生まれた時の肌の状態、つまり赤ちゃん肌にまで戻ったという体験談もあながち嘘ではないと思った。

この10日間の断食を通じて、デトックスは着実に進んでおり、身体の治癒が確実に行われていたことを実感する。活動エネルギーが外から入ってこなくなった臓器は、古い細胞を食べることによってそれをエネルギー源として活動を始め、またエネルギーが外から入ってこなくなった細胞たちは、身体の中の老廃物や毒素を食べながら活動している。

肌に関して言えば、肌の表面の老廃物や毒素を食べてくれる細胞たちが飢餓状態ゆえに活性化され、それによって肌の調子が良くなっているのだろう。断食10日目の朝に実感した身体上の変化はそのようなところだろうか。

それに合わせて、精神面でも軽やかさがあることが嬉しい。軽やかであり、さらには活動に向けて燃え上がるような力強さもある。起床してすぐに、今日も作曲に関する学習と実践がしたくてたまらない気持ちに襲われていた。

作曲に関しては、毎日本当に反省の連続である。それは曲を作る上での態度に関する反省である。

ここ最近ゴッホの画集を読んだり、辻邦生先生のパリ留学時代の日記を読んだりしているのだが、ゴッホや辻先生が創作に向かう態度と自分のそれとがかけ離れており、二人の文章を読んでいると本当に大いに反省させられてばかりであった。そうした反省が自分の学習意欲や実践意欲につながっていることは疑えない。

いずれにせよ、今朝は創造活動と学習に向けて、非常に良い心身の状態にあると言える。それともう一つ書き留めておきたいのは、特殊な知覚体験についてである。

もう脳内はブドウ糖を主とするのではなく、ケトン体で動き始めているのか、あるいは脳内でドーパミンやセロトニンが通常よりも多く分泌されているためか、昨夜ベッドの上で横になって目を閉じた時、いつも以上にビジョンが見え始めた。

私はよくベッドの上に横たわって目を閉じた瞬間から、千変万化するイメージの渦を知覚するのだが、昨夜はそれがいつもより色鮮やかであった。これは見方を変えれば幻覚と呼ばれるものである。

幻覚的な多種多様なイメージが脳内に溢れかえっており、私はしばらく静かにそれを観察していた。そうした幻覚的イメージの波に合わせて、幻聴のようなものも聞こえてきた。

私は聴覚よりも脳内の視覚(イメージ覚)が感覚的に優位であり、日常生活の中で幻聴を聞くことはない。だが昨夜はそれが起こった。

そう言えば、以前7日間の断食をした際には、5日目あたりに幻聴のようなものを聴いていたことを思い出した。今回の断食ではそれが9日目の夜に起こった。

幻覚にせよ、幻聴にせよ、それを物質的な観点(インテグラル理論で言えば右象限の見方)で言えば、それは断食による脳内物質の変化によってもたらされたと見ることができ、何も驚くべきことではない。

また、意識の状態の観点からも、脳からドーパミンやセロトニンが大量に放出される意識下においては、そうした特殊なビジョンや幻聴的な音を知覚することもまた不思議なことではない。とりあえず、断食9日目の夜から10日目の朝に起こったことについて書き留めておいた次第である。フローニンゲン:2019/11/24(日)04:46

5234. 昨日考えていた諸事項

昨日もふと思った。小鳥たちはいつも優しく、彼らの鳴き声はいつも美しいと。あのように、毎日優しい気持ちで美しく生きることはできないものだろうか。

動物に退化する形ではもちろんなく、意思ある人間として小鳥たちのように常に優しさを持ち、そして美しく生きたいものである。

昨日もいつものように雑多なことを考えており、それを就寝前にとりあえず書き出しておいたが、まだまだ様々な雑多なことを考えていたように思う。一夜明けてもまだ覚えていることについて書き留めておこう。

学びの本質には意識化があるという再認識。学びの本質は、何か特別なことを学ぼうとするのではなく、内外世界と自己が密接に結びついたものを絶えず意識化していく試みなのではないか。そして、教育はそうした学びを促すものであるという気づき。

学ぶというのはやはり、特定の知識を詰め込むのではなく、自分と紐づいた様々な事柄を絶えず意識化していく試みであり、言い換えれば、それは認識の拡張をもたらすものなのだと思う。

そうであれば、教育とは、そうした認識の拡張を促すものでなければならない。そうした実践と場を提供するのが教育の重要な役割なのだろう。

二つ目として、アカデミックな世界で一度も芸術を学ばなかったヴァン·ゴッホと武満徹氏がいつも何か指針を与えてくれることについて思いを馳せていた。

また、そもそも小説制作の理論や技術もアカデミックの世界で学ぶことはできないため——文学論であれば文学部で学べるのであろうが——、辻邦生先生もまた自分に大きな指針と励ましを与えてくれる存在である。

彼らが書き残したものをまたじっくりと読み解いていこう。それは単に作曲上のヒントを得るという実利的な理由からによるものではなく、いかようにして日々を生きていくのかを考えたいという理由による。また、何かを創造する者としてのあり方や態度というものを絶えず内省していきたいという理由にもよる。

三つ目としては、昨夜の最後に書き留めたことと関係して、音を通じて生命の流れを喚起し、音が新たな生命の流れを生み出すきっかけになるのであれば、それは治癒であり発達支援に他ならないのではないかというものだった。

ここに作曲というものが、一つの社会的な参画たりえることが見え始めた。音を生み出し、曲を作ることにより、生まれた曲を聴いた人の中に新たな生命の流れが生まれるのであれば、それは治癒や発達に他ならないのではないかと思う。

治癒や発達の程度は微々たるものかもしれない。だが、ある人間の一つの生命の流れが形となったものが、別の人間の生命の新たな流れを生み出すことにつながりうるということを見逃すことはできない。

もちろん、前提条件としては、聴き手に新たな生命の流れを生み出すことのできる曲を作っていくことが挙げられる。それを実現するハードルは高いが、そこに向かって学習と実践を進めていこうと思った次第である。

昨日考えていた雑多なことはそれぐらいだろうか。今日もまた様々なことを考えるであろうから、それらについてもメモをしておこうと思う。フローニンゲン:2019/11/24(日)05:38

5235. 断食10日目の夢

つい先ほど、日記を書く手が思わず止まってしまうぐらいの便意が催され、トイレに駆けつけた。すると今日も宿便が排出された。

さすがに10日間固形物を何も食べていないため、便の量は日に日に少なくなっているが、毎朝必ず排便があるのは驚くことであり、それはきちんと毎日デトックスが行われていることの証でもあるから喜ばしいことでもある。とりわけ今日は幾分お腹が張る感覚があり、宿便が排出されると共にその感覚は消えた。

数日前に街の中心部にあるオーガニックストアで購入した炭(チャコール)の錠剤のおかげもあり、胃腸内の壁についた老廃物や汚れが根こそぎ綺麗になっていく感覚が日増しに強まる。そして、毎朝排便ができているのは、やはり地球上最もデトックス効果のある植物だと言われる小麦若葉の力によるかもしれない。

今日も午前4時半あたりにそれを飲み、その後しばらくして便意を催した。断食をしていないときはもう少し排便は遅い時間帯なのだが、固形物を一切摂取していない断食期間においての方が排便時間が早いこともまた興味深い。

今、時刻は午前6時に近づいてきている。今は大麦若葉のパウダーを白湯に溶かしたドリンクをゆっくり飲んでいる。今日はカカオドリンクの摂取量を控え、ここからは水やゴールデンフルーツティーを飲んでいこうと考えている。

それでは、早朝の作曲実践を始める前に、今朝方の夢について書き留めておきたい。夢の中で私は、高校時代を過ごした社宅の近くの道を自転車で走っていた。社宅近くにはグラウンドがあり、そこはかつて私が小学校時代に所属していたサッカークラブが使っていたグラウンドであった。

自転車を漕ぎ、坂道を下ると、グラウンドの片隅に電子レンジと冷蔵庫が置かれていることに気づいた。すると突然、どこからともなく母の声が聞こえてきた。

母の姿は一切見えないのだが、声だけが聞こえてきたのである。何やら、父が赤味噌と納豆を丼飯にかけた料理を作ってくれたとのことであり、それが冷蔵庫の中に入っているとのことであった。

グラウンドに到着した私はそれを冷蔵庫から取り出し、まだ納豆はパックに入ったままだったので、まずはご飯を電子レンジで温めることにした。両親は普段玄米を食べているはずなのだが、なぜか冷凍庫には白米しか入っておらず、できれば栄養価の低い白米は食べたくなかったのだが、それしかなかったので仕方なく白米を電子レンジで温めることにした。

温め終わり、それを赤味噌と納豆で和えたものに盛って食べてみると、あまりの旨さに衝撃を受けた。「これはご飯が進んでしまいそうだ」と思いながらも、白米しかないことが残念であり、それ以上ご飯を食べることをやめようと思った。

すると、再び母の声が聞こえてきて、母の口に何か食べ物が入っているのか、母の声は聞き取りづらく、何やら坂道の上の道端にある冷蔵庫の中にさらにご飯があるとのことだった。私はもうご飯はいらないと思ったところで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、中学校か高校が主宰する料理対決の企画に参加していた。それは企画と言うよりも、学校の行事だと言ってもいいかもしれない。

体育館のような場所に学年の全生徒が集められ、数名1組で壇上で料理を作り、その味を競い合うという行事だった。私のチームは、友人2人(KM & KF)を含めて3人だった。

私が具材を切り、調理する担当であり、残りの2人は具材をどこからか調達してくる係だった。私は友人からキャベツを受け取り、それを千切りし始めた。

だが、千切りされたものを入れるボールがなく、それをもう1人の友人に伝えたところ、ボールが一向に見つからなかった。それは困ったと思いながらも、私は調理を続けていった。

すると、小中高時代の親友(HO)と、同じく小中高から付き合いのある女性友達(NI)が私の近くにやってきて、私の料理の腕前を見て驚いていた。

親友(HO):「以前、学園祭の時の出店で料理を作っていた時と全然違うね」

:「そうりゃあそうさ。なんせあの時はふざけて料理してたからね」

そのようなやり取りが親友とあった。すると、まだ料理は終わっていないにもかかわらず、料理終了のブザーが鳴った。

私はまだ料理を完成させていないことを嘆いたが、ブザーが鳴ってしまったのでもうどうしようもなかった。そこで敗退することは予想していなかったが、気にしてもしょうがないと思い、手を洗いに行くついでにトイレに立ち寄った。

すると、タンク式の給水器具がそこにあり、そこで水を飲もうと思ったが、あまりに冷たい水であり、これでは胃腸を冷やしてしまうと思って飲むのをやめた。すると、そこから最後の場面に映った。

最後の夢の場面では、私は大学の図書館にいた。そこは実際に通っていた大学の図書館であり、とても厳かな雰囲気が館内に漂っていた。

私は目当ての書籍を本棚から取り出し、自分の席に持っていこうとしていた。すると、小中学校時代に野球部に所属していた小柄な友人(TS)が図書館にいて、私に話しかけてきた。

話の内容はロサンゼルスに関するものであり、以前私はそこに住んでいたし、偶然ながらまた近々ロサンゼルスに引っ越すことになっていた。私は彼からの質問に答え、彼は疑問を解決できたようであり、納得の表情でその場から立ち去っていった。

そこから私は自分の席の場所に向かって再び歩き出したところ、席の目前で、小中高時代の友人(HY)が、何やら大きなパンフレットのようなものを5冊ほど机の上に置き、そのうちの1冊を広げようとしているところに遭遇した。

:「あれっ、OO君じゃん。どうしたの?こんなところで」

友人:「今からこれを読もうと思ってね」

:「あぁ、これ知っているよ。あの有名な画家が描いたものだよね」

友人:「そうそう。実は俺、先日この画家と一緒に山に登ったんだ」

:「えっ、あの画家の方と面識があったの?」

友人:「いや面識なんてなかったんだけど、向こうがSNS上でいきなり俺に連絡を取ってきて、『一緒に山に登りたい』って言ってきたんだ。だからこの間、ロープウェイを使って一緒に山に登ってきたよ」

友人はそのように述べながらパンフレットのページをめくっていた。それは映画アニメに関するパンフレットであり、ある画家がそのアニメで担当した絵が収められていた。

改めて絵を眺めてみると、やはりどれも素晴らしかった。だが私の心の中では、その画家と一緒に山に登った友人が羨ましくもあり、小さな嫉妬心のようなものが芽生えていた。フローニンゲン:2019/11/24(日)06:19

5236. 断食を終えるタイミングを見極める方法について

時刻は午前8時半を迎えた。8時を過ぎてからようやくうっすらと明るくなり始める今日この頃。

今日も晴れのようなのだが、今は空が曇っていて、外はとても寒そうに見える。

今日は断食10日目であり、再読を進めていた断食関係の書籍の最後の一冊を今ゆっくりと読み進めている。それは、“The Science and Fine Art of Fasting (2013)”というタイトルの500ページほどの書籍である。まさに、断食に関する科学的な辞書のような書籍であり、ページ数が多いことに加えて字も小さく、断食に関する知識が網羅的に記されている。

今、いくつか自分に関心のある章を中心に読み進めている。まず断食の期間とその終わるタイミングについての記述を読んでみたときに、確かに断食の知識をある程度十分に持ち合わせ、断食を過去に何度も経験している者であれば、断食の終わるタイミングはある意味、天からのお告げのような形で判断することは可能かと思う。今回の私もどちらかというと、そのような形で、内側からの内的要求に基づいて断食を終了しようと思っていた。

繰り返しになるが、これは断食を何回か経験した者でなければ難しい判断基準かと思われる。そもそも、断食において犯しがちな過ちは、断食による解毒や治癒のサインと、本当に危険なサインを見誤り、断食を中途半端な地点でやめてしまうことである。

軽い症状で言えば、ちょっとした頭痛や目眩など、そして中度であれば嘔吐や下痢などが解毒や治癒のサインとなり、それらは好転反応とも呼ばれる。そうした症状が出た時に即座に断食をやめてしまうと、それ以上の根本的な解毒と治癒に行き着かない。

私の場合は、何冊も書籍を読んだ上で一人で断食を行ったが、本来であれば、断食の経験者や断食に詳しい医師の下で断食を行った方が一番安全かと思われる。仮に一人で断食を行うのであれば、やはり事前に徹底的な調査をし、断食中に何がどういう理由で起こるのかを把握しておくことが大事だろう。

今回の断食を終えるにあたって、確かに天からのお告げのようなものを頼りにしようと思うが、そうした形而上学的な基準だけではなく、より客観的に断食を終えるタイミングを見極めるものとしては、自然な食欲が湧き上がってくるかどうかというのが一つ目の基準として挙げられるだろう。

断食を始めてみるとすぐに感じられるのだが、食欲はなくなる。今断食10日目だが、固形物を摂取したいとは微塵も思わない。

こうした状況においては、まだ内臓器官を含め、固形物を摂取する準備が整っておらず、まだ身体は解毒と治癒に向けて動いていることがわかる。解毒と治癒が完了し、身体が本当に固形物を欲し始める真の食欲——「食べなければ飢え死にする」という固定観念や、「しっかり食べなさい」という親の言葉、そして物質消費社会の宣伝によって毒された私たちが日常感じさせられている嘘の食欲ではなく——が出てきた時が断食を終えるタイミングになるだろう。

ただしここでも、偽りの食欲と真の食欲を見誤る可能性があり、その他の判断基準としては、舌の状態と排便の状態を挙げることができる。舌や排便を見れば、どれだけ解毒が進んでいるかがほぼ一目瞭然であるため、それらを基準にするとわかりやすいかもしれない。

舌においては、舌苔(ぜったい)が無くなり、薄ピンク色の綺麗な舌となり、便に関しては、宿便が全て排出されたタイミングで断食を終えていくのが理想だろう。ただし、大抵の人の腸の中に5kgぐらい溜まっていると言われる宿便を一度の断食で全て排出することは難しいため、何回か宿便が出たタイミングで断食を終えるというのが通常かもしれない。

次に読もうと思っている章は、断食の終わり方に関するものだ。よく宝くじに当たった人が、翌年には破産申告し、不幸に陥ったという話を聞く。それはそもそも、その人にファイナンシャルリテラシーが欠如していたことが大きな要因であろう。

宝くじは当たって有頂天になるのではなく、当たった後のカネの使い方が重要なのだ。それと同様に断食も、解毒と治癒が完了して有頂天になるのではなく、断食後の回復期が重要になる。

ここで仮にファスティングリテラシーが欠如していたら、宝くじに当たったファイナンシャルリテラシーの欠如した者と同じように悲惨な状態に陥るだろう。いや、断食の場合はそれ以上に悲惨かもしれない。

というのも、それは生命に関わることだからだ。実際に、断食後に食べる食べ物の種類と量を誤り、死に至るケースがいくつもある。

それほどまでに、断食をどのように終え、終えてからしばらくの間、どのような食生活をしていくのかが大切になるのである。そのあたりについても該当の章を読みながらさらに理解を深めていこうと思う。フローニンゲン:2019/11/24(日)09:08

5237. 断食10日目に思う「断食リトリートや断食道場に対する疑問」

一つ前の日記で書いたことを基にすると、巷でよく見かける「三日間断食リトリート」や「七日間断食道場」といった類のものは、あまり好ましくない形の断食実践だと言えるように思える。

すでに述べた通り、断食の終わる地点を事前に把握することは難しく、自分の体内にどれだけ毒素や老廃物が蓄積しているかはなかなかわかりにくいものである。また、そうした身体的な毒に加えて、精神的な毒までもが蓄積されていることを考えると、断食の終了地点を事前に見積もることは難しい。

そもそも、毒の蓄積度合い、さらにはそれを浄化させる力も人それぞれ違うのであるから、一緒くたに何人も集めてリトリートや道場を開催して、決まった期間断食を行うというのはどこかおかしいように思える。

実際に私の周りには何人か、そうしたリトリートや断食道場に参加した人たちがいるのだが、彼らの話を聞いていると、どうも不十分な断食、不完全燃焼な断食を経験しているようにしか思えない。

彼らはおそらく、本来解毒すべき毒素を全て出し切ることなく、そして本来治癒されるべきものを全て治癒することなく断食を強制終了させられてしまったのだと思う。その結果、再び日常生活に戻されることによって、中途半端な断食によって中途半端に綺麗になった身体に新たな毒を盛らされる体験をしたのだと思われる。

そうしたことからも、理想は断食の指導に関する専門資格を持つ者や断食の実践者でもある医師の指導のもと、個別に断食を行うことなのではないかと思う。そうした指導者が周りにいない場合には、私が取った手段のように、徹底的に断食の書籍を読み込み、断食に関する正しい知識を得た後に断食を行うことかと思う。しかもそれは慎重を期し、段階的に行っていくのがいいだろう。

ひょっとすると断食というのも、単なる流行的な実践に成り果てつつあるのかもしれない。本来断食は、心身の浄化を通じて、既存の価値観から生まれる囚われや、社会の因習的なものからの解放をもたらし、究極的には自我の囚われからの解放をもたらすものだと思うのだが、今広まりつつある断食というのは、そうした側面が去勢されてしまったものになっているのかもしれない。

端的には、断食という実践すらもが消費対象にされてしまい、人々は断食らしきものを消費し、それで満足してしまっているのだ。結果、そうした断食を通じては囚われからの解放を実現することはできず、逆に既存の囚われにより縛られることになる。

マインドフルネス瞑想しかり、運動や睡眠しかり、芸術しかり、つくづく現代人というのは、実践をファッション化し、消費対象にするのが得意なのだなと思う。むしろ、現代人が得意なのはそれくらいしかないのではないだろうか。

もしもう一つ得意なものがあるとすれば、消費対象と成り果てた実践を盲目的に行うことによって、既存の囚われの奥深くに沈み込んでいくことぐらいだろうか。フローニンゲン:2019/11/24(日)09:36

5238. 夕暮れ時のなんと美しい空よ:「立ち合い」としての自己と生

「美しい」としかもはや言いようのない夕暮れ時の赤紫の空が目の前に広がっている。その美しさは言葉で表現するのが難しく、それはもう詩や音楽でしか表現できない。

この点において、詩的言語や音楽言語の優れた特性を見る。だが今はそのようなことは問題ではなく、目の前に顕現している絶対的な美そのものを味わい尽くそう。

存在がその赤紫色の空に吸い込まれていき、その中に溶け込んでしまいそうだ。

オランダの冬は厳しい。それは気候としてもそうであり、同時に精神的にもそうである。

オランダでの生活は、はや4年となり、その厳しさに慣れたとはいえ、その厳しさの本質は変わらず、依然としてそれは自己を深める養分であり続けている。

美しさが深まる夕焼け空。こうした厳しい環境にあって、このような景色はなお一層のこと存在の奥深くに染み渡っていく。

水を求め続けた砂漠の草が、幸運にも降り注いだ雨の雨滴を根っこに思う存分染み込ませるかのようである。

今目の前に広がる美を認識している者について思いを馳せる。それは私自身ともう一人いる。そこには大いなる自己が存在しているのである。

この美を認識している大いなる自己もまた絶対的な美なる存在なのかもしれない。目の前の夕暮れ時の空と大いなる自己の二つの存在が呼応しあい、その呼応に私は立ち合わさせてもらっている。

自分がこの世に存在するというのは、もしかしたらこうした「立ち会い」なのかもしれない。そうなのだ、そうかもしれない。

内側の世界と外側の世界、そして超越的な世界の三つの世界が交差するそこに立ち合わさせてもらっているのが自己なのだ。生きるとは、こうした立ち会いの連続的な流れなのかもしれない。

立ち合いとしての自己と、立ち合いとしての生。

消えた。目の前から赤紫色の夕焼け空が消えていった。

きっと今静かに消えていった夕焼け空は、私にそのことを教えるために姿を見せてくれたのだと思う。それに対して素直にお礼を述べたいと思う。どうもありがとう。

立ち合いについての続き。先ほどふと、世界のどこかの街の道端で、そこを通りかかった人に少し話を伺い、似顔絵を描くかのようにその人を表す曲を即興的に作ってみたいという思いが湧き上がった。

それはその場所での一回限りの出会いかもしれないが、その場でその人と出会いの感動を分かち合いたい。実はこうした思いは、今から2年前の夏にノルウェーのオスローを訪れ、夕暮れ時に街中を歩いていた時に思いついたものだということを思い出した。

通行人の似顔絵を描く画家が道端にいて、彼がそれを通じて人を幸せにしている光景を目撃して思ったことであった。

立ち会いを立ち合いとして認識し、それを形にすること。自分の場合、それは言葉のみならず、やはり音を通じて行いたいという強い思いがある。

なぜなら、立ち合いの感動は言葉から滑り落ちていく類のものであるからだ。それこそ先ほどの夕暮れ時の空の美しさを把捉するために音楽言語が必要だったのと同じことである。

立ち合いの形象化には、自然言語を超えた詩的言語か音楽言語が不可欠となる。そのようなことを考えていると、もうすっかり日が暮れそうだ。今日もとても充実した一日であった。フローニンゲン:2019/11/24(日)16:54

5239. 創造エネルギーの枯渇と充満について

今朝方突然、何かよくわからないが、間違いなく重要な様々なことが徐々に見え始めているのを実感した。それは、自分個人の人生における真理なのか、人間に普遍的な真理なのかわからないが、諸々の真理的な事柄が開示されつつあるのを知覚した。この体験もまた断食によってもたらされたものなのだろうか。

時刻はゆっくりと午後7時を迎え、断食10日目が静かに終わりに向かっている。それにしても今日は本当に充実した一日だった。

気力に満ち溢れ、日記の執筆や作曲といった創造活動に打ち込むのみならず、オンラインゼミナールの続編に関する説明会を開催したり、外に出かけて軽くジョギングをしたりしていた。

今朝排出された宿便は、デトックスが後半に向かっていることを示しているように思えた。明日もまだデトックスは続くだろう。解毒と治癒の双方がゆっくりと進行し、それが進行している限りは今回の断食を終えることはない。

先ほどふと、過去に旅行で訪れた場所、そしてまだ訪れたことのない場所を思いながら曲を作ってみるのもいいかもしれないと思った。場所を想起することによって喚起される固有の感覚があり、その感覚を形にしたいのである。

そうした固有の感覚の中に、その場所と自分の固有性が生き生きと現れる。そうした固有性を曲の形にまとめ上げていくこと。

繰り返しになるが、それはどれほど小さくてもいい。その場所に関する感覚がわずかに芽生えたら、それを逃さず形にしていくこと。それを行っていこうという思いが芽生えた。

昨日は12曲ほど小さな曲を作り、今日は11曲ほど作った。実はまだ曲を作るエネルギーが残されていたのだが、あえてそれをせず、楽しみは明日に取っておこうと思った。

というのは確かだが、今夜はオンラインゼミナールの続編に関しての連絡事項があるため、そのメールを書く必要がある。11曲以外に今日は、それほど日記を書いている意識はなかったが、ひょっとすると1万字ぐらいの日記を書いていたかもしれない。

文章の執筆というのは興味深く、何かを頭で説明しようとする文章を書くと、疲弊し、創造エネルギーが枯渇していく。だが、内側の生命の流れそのままに文章を生み出していくと、疲弊どころかエネルギーが満ちていく。

そこで起こっているのは、生命の流れの湧出が新たな生命の流れを生み出す連続運動である。簡単に言えば、そこではエネルギーの連続的な再創造が行われているのである。こうしたことは自分にとって、文章のみならず、作曲実践においても当てはまる。

いずれにせよ、文章や音を生み出していく際には、それが説明的なものであっては決してならない。それは私のエネルギーを奪い、生命力を枯渇化させる方向に働いてしまう。

説明的なものを生み出すのではなく、あくまでも生命の流れに従う形でそれを形として生み出していくことが大切だ。私がアカデミックの世界を離れた理由の一つは、論文執筆というものがどうしても説明的な文章を要求するからであり、それによって自分の中の大切な何かが失われつつあることを感じ始めたからであったことを改めて思い出した。

明日からもまた、創造エネルギーが新たな創造エネルギーを生む円環的大海の中で毎日を過ごしていく。フローニンゲン:2019/11/24(日)19:16

5240. 「説明」ではなくその「中」で生きること

——恋人は恋を知ることより、恋を生きることを願う——プルースト

まさに先ほど述べたことは、プルーストの言葉によって見事に言い表されている。対象を説明して知った気になるのではなく、絶えず対象の中で生きること。

その対象の中で生きていることを自覚し、それを十全に味わいながら生きることができればなおのことよい。

対象を説明することが私たちに疲弊をもたらすのはなぜなのだろうか。これはまさに一つ前の日記のテーマと関係している。

私たちが知覚する対象というのはひょっとすると、説明されることを望んでいるのではなく、私たちと手を取り互いに喜びを分かち合いたがっているのではないだろうか。

また対象は単に説明されることを嫌い、単なる説明で終始される場合においては、私たちから生命力を奪っていくという恐ろしい力を持っているのかもしれない。だがこれは、相互互恵的な関係を結びたがる対象の願いとして分からなくもない。

私たちが一方的に対象を説明しようとするのは傲慢であり、それは説明というベクトルが向かっていながらも、対象の存在を解き明かし、何か新しいことを知ってやろうとするようなテイクの発想に基づいている。

そこにはこちらから対象に向けてのギブはないのだ。そうであれば、当然ながら対象は不満を感じるであろう。

しかしここでひとたび私たちが対象の中に入り、対象と共にその瞬間を喜び、その喜びを分かち合うという発想を持っていれば、そこでは互恵的な関係性が築かれ、対象は私たちに生命の充満する力を授けてくれる。それが充実感や幸福感と呼ばれるものであったり、創造エネルギーの正体なのかもしれない。

そうしたことを考えると、なお一層のこと、日々の生活の中で、対象を説明しようとする態度を堅持することは馬鹿げたことのように思われてくる。

そうした態度は早急に手放したほうがいい。でなければ、日々の生活の中で疲弊するばかりであり、生命エネルギーや創造エネルギーが減退する一方だ。

対象の説明ではなく、対象の中で生きること。生の説明ではなく、生の中で生きること。美の説明ではなく、美の中で生きること。芸術の説明ではなく、芸術の中で生きること。創造の説明ではなく、創造の中で生きること。

そして、そうした「中」で生きることを通じて初めて感得されるものを形にすること。それを大切にしたい。

おそらく、そうして生み出された形に触れた他者は、そこに対象の説明を読み取るのではなく、その対象の中にいることを感じれるようになるのかもしれない。おそらくそれが真の創造物のように思われる。

表現者がある対象の内側に入って生きた感覚を追体験できるような形が生み出されば、それは表現者冥利に尽きるのではないだろうか。逆に言えば、生み出される形は、そうしたきっかけに過ぎないと言えるかもしれない。

ある一人の人間しか体験できぬ唯一の体験を、形を通じて共有すること。形を見た者、聞いた者、触れた者が、それを追体験できるような形の中に、社会的な、あるいは共同体的な価値を見出す。

そうした形を生み出したいという思いが募る。その道は果てしなく遠いが、もはやその道を歩いている自分がいる。フローニンゲン:2019/11/24(日)19:33

5241. 溢れ出す言葉:ブルドックに興味を持たれて

実は私は、毎日日記を書くことを抑えるようにしている。一昨日か昨日も、日記を書くことを抑え、その代わりに作曲や読書をする時間を確保することを意識している自分がいた。

だが、そうした目論見は大抵それほどうまくいかず、いつも控え目ながらもある一定量の日記を書く日々が続いている。しかし今日は、どこか言葉が流れ出てくるようなので、その衝動に逆らわずに従いたいと思う。

確かヴェネチア旅行中にも何回かこうした瞬間があったように思う。ヴェネチアを旅している時も、私としては作曲実践をしたり、早く美術館に出かけたいと思う気持ちなどがあったのだが、自分の内側から言葉になろうとするものの形象運動に逆らうことができず、熱に浮かされる形で筆を走らせている自分がいた。

今日も幾分それに近いだろうか。とは言え、もうこの現象を今この瞬間に意識に上げてしまっており、さらにはそろそろこの形象運動を鎮静化させようと思っているので、今夜はこの日記が最後になるだろう。

今少しばかり筆を走らせたが、そのようなことを書くとは思ってもらず、また今から書くことなども当然ながら何も決まっていない。と述べた瞬間に出てきたのは、音楽は何も語らずして多くのことを語る。いや、全てを語り尽くす力を持つという気づきが昨日に芽生えたことだ。

昨日は音楽の持つ力について考えており、音楽自体は何も語ってくれないのだが、それは雄弁過ぎるほどに全てを語り尽くしてしまうという力があることに気づいた。もちろんそれは、曲がその曲としての生命を輝かせ、その本質的な役割を正しく果たしていればという条件付きではあるが。

夕方ジョギングに出かけた際に、大麦若葉とオーガニックのピーナッツペーストの空き瓶を外のゴミ箱に捨てに行った。その際に、今日はいつもとは違うコースを走ってみようと思った。

いつもとは違うどころか、まだ一度も走ったことのない場所を走ろうとなぜかその時に思ったのである。

以前から、自宅の書斎の窓から見える赤レンガの家々の奥に、池と小さな公園があるのを知っていた。だが不思議と、この4年間一度もそこに足を運んだとこがないことに改めて気づき、空き瓶を捨てた私は、気がつけばそこに向かって足を踏み出していた。

池に到着すると、水面にカモメのような白い鳥が優雅に浮かんでいた。池の周りには遊歩道があり、歩道の上に落ちている落ち葉を踏みしながら、私は走った。

その時の私は黙想的な意識状態にあり、自分の内側に意識が向かっていた。一方で、断食のおかげか、感覚が鋭敏になっており、音や匂いをいつもより強く知覚している自分がいた。

しばらくゆっくり走っていると、可愛らしいブルドックを連れた女性がこちらの方に向かってくる姿が見えた。女性に挨拶をし、そのまま走り去っていこうとしたところ、女性がオランダ語で何かを叫んだ。

後ろを振り返ると、彼女の愛犬のブルドックが私の足元にして、懐こうとしていた。いや厳密には、そのブルドックは不思議な生き物を見るかのような眼で私を見ていたのである。

なぜそのブルドックが私に興味を持ったのかは定かではなかったが、引き続き走りながら考えていたのは、ひょっとしたら断食によって何か特殊なオーラか香りが出ているのだろうかと思った。そんなことが今日の夕方にあった。

そうしたことを思い出し、これからオンラインゼミナールの告知に関する連絡メールを執筆しよう。その後時間があれば、音楽理論に関する書籍を読むか、年末のマルタ共和国の旅行に関する旅程を練ろうと思う。

途轍もなくシンプルな幸福感が止めどなく流れ出し、私はその中で呼吸をしている。フローニンゲン:2019/11/24(日)19:47

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