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5221-5224:フローニンゲンからの便り 2019年11月21日(木)

November 23, 2019

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5221. 断食7日目の朝の状態:万葉集を携えての日本旅行への思いと旋律の大切さ

5222. 断食7日目の夢

5223. 仮眠中のビジョン:レンブラントに向かわせた何か

5224. 書くことについて:感動と作曲

 

5221. 断食7日目の朝の状態:万葉集を携えての日本旅行への思いと旋律の大切さ

 

断食7日目の朝を迎えた。もうここまで来ると、心身の状態で言えば前日とほとんど何も変わらないように思える。

 

ただし、やはり治癒が緩やかに進行しているためか、断食の日数が重なるごとに状態がより良い方向に向かっていることはわかる。肌の調子に関しても、やはり昨日よりも今日の方がキメが細かい。

 

断食を終了しようという気はまだ一切起きておらず、終了を告げる内側からの促しもない。そうしたことを見ると、もうしばらく断食を続けていきたいと思う。

 

身体がまだ断食による解毒と治癒を欲しているようなのだ。身体を新たに生まれ変わらせるには、やはり14日から21日ぐらいの断食が必要なのかもしれないと感じる。

 

昨日は、万葉集について色々と思いを馳せることが多かった。もし私が今日本にいれば、すぐにでも万葉集を購入したところだが、異国の地で暮らす身としてなかなかそういうわけにもいかない。

 

もちろん、日本から郵送してもらうという方法はあるが、あえてそれを選ばず、次回一時帰国した際に持って帰って来ようかと思う。自ら書店に足を運び、自分の手で持ち帰った書籍の方が思い入れが深い。

 

欧州の地で美術館や博物館を巡る旅を継続していくのみならず、万葉集を携えて日本全国を巡る旅に出かけたいという思いが募る。古代日本人が歌に込めた思いを、その歌が読まれた土地で感じてみたい。

 

私にとって日本はもはや旅先となってしまったが、一番大切な旅先であることは確かだ。万葉集を起点に、自分の魂の原風景を探っていこう。

 

昨日言及した全4巻にわたる万葉集とその別冊辞典が良さそうであり、それらを購入し、一つ一つの歌をゆっくりと読んでいこう。

 

教会音楽と同じように、万葉集の一つ一つの歌も、やはり声に出されて読まれていたことを知る。それは歌だから当然だと思うかもしれないが、現代にあっては、文字に書かれたものを声に出して読むことは少なくなってしまっているのではないかと思う。

 

当時の人たちは歌を往復書簡のように交わしており、それを実際に声に出して読んでいたのだ。今で言えば、それはメールやテキストメッセージに該当するのだろうが、果たしてメールやテキストメッセージを声に出して読む人がどれくらいいるかというとそれは疑問であるし、そもそも万葉集の歌にあるような叙情性に溢れた言霊がやり取りされることはほとんどないのではないかと思う。

 

この点について、万葉集は実際に声に出して読んでみたいと思う。万葉集が文字通り歌としての側面を持っていることについて考えていると、やはり自分が作る曲においても歌の側面は大切にしたい。とりわけ旋律を大切にしていこう。

 

もちろん、ピアノ曲しか作らない私にとってみれば、人間が歌えないような曲が多く出来上がってしまうことは確かだろうが、それでも絶えず旋律を意識したい。音楽の本質にはやはり旋律があるように思う。

 

旋律という律動は、魂の律動、あるいは生命の律動なのだと思う。そうしたものが欠けてしまっている歌には、やはり魂としての躍動感がない。

 

本日作る小さなどの作品にも、魂の律動が体現されたような旋律があって欲しいと思う。フローニンゲン:2019/11/21(木)06:19

 

5222. 断食7日目の夢

 

時刻は午前7時を迎えた。今の気温はマイナス1度であり、暖房がなければ室内もかなり寒い。

 

ここのところ、気温が上がる日の日中以外はヒーターをつけっぱなしにしている。そうでなければ、この寒さには耐えられないほどだ。

 

明日からは少し気温が上がるようなので助かるが、この二日間は本当に気温が低かった。今日も昨日と同様に、白い霧がかかっており、その雰囲気は寒さを助長している。そうした環境の中でも、断食による治癒を進めていき、自分の取り組みを緩やかに前に進めていこうと思う。

 

それでは早朝の作曲実践を始める前に、今朝方の夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、小中学校時代を過ごした社宅のリビングにいた。

 

ふと窓の方を眺めると、窓の上の方にティッシュが付着していて、よくよく見ると、そこにアブバチのような生き物がもがいていた。それはもう瀕死の状態であり、誰かがそれをティッシュで潰して対峙しようとしたのだと思った。

 

そこは自宅であったから、家族のうちの誰かがそれを行おうとしたと考えるのが本来自然だが、その時私は家族以外の誰かがこのアブバチを殺そうとしたのだと思った。

 

さて、そのアブバチをどうするかを考えていた私は、ティッシュごと外に捨てるか、トイレに流そうかと思った。しかし、アブバチが静かにもがくティッシュを掴む気になかなかなれず、どうしたものかと考えていた。

 

すると、スルスルとティッシュが地面に落ちた。そこでもまだアブバチはティッシュにくるまったまま動いていた。

 

そこで私は、幾分残酷だが、いっそのこと殺虫スプレーで殺してしまおうと思った。殺虫スプレーを持ってきて、アブバチの体に吹きかけたところ、それを文字通り体に吹きかけてしまったためか、逆に苦しさによってアブバチは激しくジタバタと動き始めた。

 

それを見て私は、その苦しさからこちらに飛びかかってくることを恐れ、今度は頭の部分にスプレーを吹きかけた。するとすぐさま、アブバチは身動きをしなくなった。そこで夢の場面が変わった。

 

次の夢の場面では、私は実際に通っていた小学校のプールサイドにいた。今からそのプールで泳ぐことになっており、プールサイドで軽く準備体操をしていた。プールの中にはすでに友人が何人かいて、楽しそうに泳いでいた。

 

いざプールに入ろうとすると、先ほどまでは屋外の明るいプールだった場所が突然室内の薄暗いプールに変わった。時刻も昼あたりから夜に変わってしまった印象があった。そうした中、とりあえず私はプールに入った。

 

すると、高校時代のある友人がものすごい勢いで25mの往復を繰り返していた。ちょうど私がいる側の壁にタッチをした時に、彼が顔を上げ、私に気づき、そこで彼は少し泳ぐのを止めて私と話をした。結局、彼がどうしてあれだけ一生懸命に泳いでいるのかはわからなかった。

 

彼との話を終えると、突然プールサイドに水が浸水し、そこもまたプールのように泳げるようになった。すると彼はプールの中ではなく、プールサイドに出ていき、そっちの方でまたしても勢いよく泳ぎ始めた。

 

彼の不思議な行動を眺めながら、私はいったんプールサイドに上がり、一息ついたところで、そこから今度はプールを横切る形で泳ぎ始め、向こう側に行くことにした。反対側のプールサイドに到着すると、そこにはサッカー元日本代表の選手がいた。

 

その方に簡単に挨拶をしたところ、その選手はなんと水泳着を着用することなく、真っ裸で泳いでいたことを知った。目のやり場に困りながらも挨拶を済ませた後、プールサイドには中学校時代の先輩が何人かいた。

 

三人の先輩が何やら「青森丼」について話をしており、その具材が何なのかを話し合っていた。私はその話に入り、自分が通っていた大学のカフェテリアでは青森丼を食べることができ、その具材が何かを自分は知っていると述べた。

 

だがそうは言うものの、それほど青森丼を私は食べたことがなく、具材については他の人に聞いた方がいいかもしれないと先輩たちに述べた。すると、一人の先輩は具材が何かを相当に知りたかったのか、私と同じ大学に通っていた他の先輩が更衣室にいることに気づき、そちらの方に向かって急いで走り去っていった。

 

その場に残ったもう二人の先輩を見ると、そこには先ほどの中学校時代の先輩ではなく、同じ大学に通っていた先輩がそこにいて、実は先ほどからそこにいたことを知った。青森丼の具材を聞きに走り去っていった先輩の後ろ姿を見ながら、「灯台下暗しというのはこういうことか」と私は思った。フローニンゲン:2019/11/21(木)07:34

 

5223. 仮眠中のビジョン:レンブラントに向かわせた何か

 

たった今仮眠から目覚めた。断食中も毎日仮眠を取っている。

 

たった今、仮眠から目覚めた時の目覚めはとてもすっきりしたものであった。一方、仮眠中に見ていた不思議なビジョンの数々が印象に残っている。

 

一つは、小学校時代に通っていたサッカーチームの練習場が現れ、そこで友人たちとサッカーをしていたビジョンである。サッカーを楽しんだ後、各々が給水がてらコート脇のフェンスにぶら下げている水筒を取りに行き、そこでお茶を飲んだ。

 

フェンスの向こう側の野原に何か落ちているように思えたので、私はそれを拾いに行こうとした。するとビジョンが瞬く間に変化し、屋上に庭園がある不思議なビルの中にいた。そのビルが不思議な点は、ビルの壁を車が貫通していくことである。

 

私は誰かが運転する車の助手席に座っていて、ビルの壁を貫通しながら上空の庭園を眺めていた。すると、ジェットコースターのように車が斜めに滑り落ち始めた。その時の私には恐怖心のようなものは何もなく、むしろ興奮のようなものがあった。

 

するとそこでもまたビジョンが変わり、誰かが突然私のお尻に指で浣腸をした。振り向くと、父がいたずらをした子供のような顔でニコニコしている。私は「やられた」と思い、笑った。

 

そのようなビジョンの他にも、まだいくつかのビジョンが脳内を駆け巡っていた。天国的なビジョンがあったのを覚えているし、レンブラントの絵画的な暗さを持つビジョンがあったのを覚えている。

 

レンブラント。そう、まさに昼過ぎにレンブラントについて調べていたのである。無性にレンブラントの作品が見たくなり、彼について調べている自分が先ほどいた。

 

何やら今年はレンブラントの生誕350年記念とのことである。レンブラントの作品を見るのであれば、アムステルダム国立美術館とレンブラントハイス美術館がいいだろか。両者は共にアムステルダムにあり、今から4年前に一度訪れたことがある。もうあれは4年前のことだったか。

 

デン·ハーグにもレンブラントの作品を見ることのできる美術館があり、それはマウリッツハウス美術館だ。レンブラントが生まれた街ライデンにも小さな美術館があり、そこでもレンブラントの作品が見れることを先ほど知った。

 

少し前から頭の中に浮かんでいたように、また折を見てデン·ハーグやライデンを訪れたいと思う。その際にはどちらかの街で数泊ほど宿泊して、デン·ハーグ、ライデン、アムステルダムにある美術館を回ろう。

 

ふと、レンブラントの妻の名前サスキアは、フローニンゲン大学に在籍していた時の私のアドバイザーの名前でもあり、その話題を先生と話していたことを懐かしく思い出した。なぜ今このようにしてレンブラントに突如として惹かれるものがあるのかわからないが、そうしたわからなさがあるというが縁の本質であり、霊的因果律なのだろう。フローニンゲン:2019/11/21(木)14:18

 

5224. 書くことについて:感動と作曲

 

時刻はゆっくりと午後9時に近づいている。断食7日目が無事に終わりに向かっている。

 

明日から断食8日目を迎える。以前に行った断食は7日間のものだったので、明日からは未踏の領域に入る。

 

前回の断食が7日間のものであったためか、ここまでは全く問題なく断食が進行していった。そして、前回の時に感じられた異常な感覚過敏のようなものもなく、本当に普通の状態という感じなのだ。

 

もちろん、心身が日に日に治癒されている感覚はあるが、特に驚くほどの変化は今のところ何もない。こうした穏やかな形で引き続き断食が進行していってくれた方が私としては有り難い。

 

以前の断食の際に見られた、際立って思考が明晰になるような感覚もまだなく、淡々と断食の時間が流れていく。明日もまた観察を怠らないようにしよう。

 

江戸時代末期に農政改革を行った二宮尊徳は、成田山にある新勝寺で21日間の断食を行ない、そこで農地改革のアイデアを閃いたそうだが、今回私はさすがに21日間も断食を行わないだろう。今回の断食の終了地点はそこまで遠くない。

 

今日は夕方に、リビングのフロアを掃除し、そこにヨガマットを敷いてヨガを行った。毎朝ヨガを行っているが、夕方にヨガを行うとさらに心身の調子が整うような実感があった。夕方にヨガをして、少しばかり瞑想をすることを習慣化してもいいかもしれない。

 

今日もまた日記の執筆と作曲実践を行い、そして少々読書をするような一日だった。日記を書き続け、曲を書き続けることによる絶え間ない自己発見。書くことは新たな自己を発見することであることを改めて実感した一日であった。

 

言葉にせよ音にせよ、それを用いて自己を書き表すことによってしか開かれない自己の側面がある。そして、書くことは決して何かを完了させるためではなく、そこから何かを始めるためにあるのだと改めて思う。

 

書くことによって、新たな自己が発見されたのであるから、そこから新たな出発があるというのは当たり前と言えば当たり前なのだが、書くことの持つこの力を認識している人はほとんどないだろう。書くことは自己を開くことであり、新たな出発をすることなのだ。

 

本日得られた作曲に関する気づきについても書き留めておく。それは、メロディーの出発地点は、ある一つの感動なのかもしれないというものだ。

 

感動の対象は何であっても良く、逆に言えば、何でもありうる。その出発点が、感動の流れとしてメロディーという形になり、それは感動が持続するだけ続いていく。

 

自分が日々行う曲作りはこのようにして進めていこう。日々の小さな感動であっていい。その小さな感動が曲になる時に、それは短い曲であって良いのである。

 

感動の持続時間の長さは問題ではない。日々いかに小さなことに感動できるかどうかが大切なのだ。

 

毎日の中で、瞬刻瞬刻において何かしらの感動を得ることができれば、それはどれだけ幸せだろうか。そしてそうした感動を絶えず曲の形にしていくことができれば、それはどれだけ幸せだろうか。

 

そのようなことを思っていたのが本日の午後であり、そうした思いが芽生えたことすらもが感動的な出来事だったのだと今思う。そして、今この瞬間に感じているその感動をしっかりと味わうこと。それをしてから就寝に向かいたい。フローニンゲン:2019/11/21(木)21:03

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