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5216-5220:フローニンゲンからの便り 2019年11月20日(水)

November 22, 2019

本日生まれた9曲

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タイトル一覧

5216. 断食6日目の朝の観察:万葉集への導き

5217. 万葉集に体現された生命の流れを求めて:内なる芸術家を大切にするシュタイナー教育

5218. 断食6日目の夢

5219. 白の世界の美しさの中で:書物と精神力

5220. 今宵、心の言霊の中で

 

5216. 断食6日目の朝の観察:万葉集への導き

 

時刻は午前6時半を迎えた。断食6日目の朝は静かであり、小鳥の鳴き声さえ聞こえない。ただしこの時間帯になると、通勤に向かう車の音が少しばかり聞こえてくる。

 

今の気温はマイナス1度である。通りを見ると、霜が降りたのか、白い轍(わだち)ができている。

 

朝の10時を越すまでマイナス1度が続くとのことであり、気温が上がるのには随分と時間がかかることを知る。

 

断食6日目の朝の状態はすこぶる良い。やはり日に日に心身の状態が良くなっているのを実感する。とりわけ3日目を超えてからそれを実感するようになった。

 

起床してすぐに洗面台に向かうと、肌の色が昨日よりもまたさらに良くなっていることに気づいた。仮に私が女性であれば、化粧乗りが良い肌になっていると思ったことだろう。

 

その他にも、毎朝オイルプリングをした後に軽く歯をブラッシングするのだが、その際に舌診を自分で行なっており、舌を確認すると、昨日よりも色がさらに良いものになっている。舌の表面に付着していた白い苔もますます薄くなり、程よいピンク色の舌に近づきつつある。

 

早いもので明日は断食7日目となる。同時にそれはヴェネチアから戻ってきて7日目を意味する。

 

ヴェネチア旅行を終えてからまだ1週間しか経っていないということがにわかに信じられない。あのような歴史的な災害に直面してから、ほんの1週間ほどしか経っていないのである。

 

あの一件は、間違いなく私の死生観を変えた。そして、年末に行う予定だった断食が急遽早まった。ヴェネチアからフローニンゲンに戻ってきた夜から断食をすることになったのも、あの出来事が関係している。

 

ヴェネチアで感じたこと、考えたことは多岐にわたっており、それらのうちまだほんの少ししか消化されていないように思う。ひょっとすると断食は、そうした事柄をゆっくりと消化していくことにもつながっているのではないかと思う。

 

いずれにせよ、明日からもまだしばらく断食を続けていこうと思う。この調子だと少なくとも10日間から14日間は、何も問題なく断食が行えそうである。そして何より、そうした期間の断食を求めている内側の何かがある。

 

昨夜、篠田桃紅先生の作品集を眺めていた。そこに、篠田先生が万葉集の歌をもとに作った作品があるのを改めて見つけ、それに霊感的啓示を得た。

 

自分も万葉集をもとにして曲を作っていこう。そのような素朴な考えが芽生えたのである。

 

心から湧き出るような内なる言葉を歌のリズムにし、耳に届けられた音を文字に置き換えたと言われる万葉集をもとに曲を作っていきたい。当時の人々が感じていたであろうことに思いを馳せ、そこにある普遍的な何かから霊感を得る形で曲を作りたい。

 

そのような思いから、次回日本に一時帰国した際には万葉集を購入しようと思った。早速調べてみると、『万葉集 全訳注原文付 (講談社文庫)』の全4巻シリーズのものが良さそうだと思った。また、それらに合わせて『万葉集事典 (講談社文庫)』という別冊の辞典も購入しよう思った。

 

昨年は、マラルメ、リルケ、オーロビンドなどの詩を集中的に読む時期があったが、ここにきて日本の詩や和歌に関心を寄せている。そうした関心から、奈良時代に生まれたと言われる日本最古の和歌集である万葉集に意識が向かった。あるいは、それに導かれるものがあったと言える。

 

上記の文庫本は、万葉集の原典である全20巻4500首以上の和歌が納められているようである。特に私は、当時の時代の人々が旅を通じてどのようなことを思っていたのかを知る上で、「雑歌」のジャンルに着目したい。また、当時の人々の愛の姿を知る上では、「相聞歌(そうもんか)」のジャンルが参考になるだろう。そして何より、当時の人々の死生観を知る上では、「挽歌」のジャンルが参考になるに違いない。

 

「万(よろず)の言の葉」を集めた万葉集。一つ一つの言の葉は、その人の命の歌であり、そこに何か大切なものが今もまだ脈々と生き続けているような気がしてならない。フローニンゲン:2019/11/20(水)07:10

 

5217. 万葉集に体現された生命の流れを求めて:内なる芸術家を大切にする

シュタイナー教育

 

我が国最古の歌集『万葉集』について、まだ色々と思いを巡らせている。手元に実物がなく、それを読んだことがないので何もわからないのだが、万葉集の内側に流れている大切な何かを見出したいと思う自分がいるようだ。それは日本人古来の生命の流れのようなものである。

 

おそらく私が知りたいと思い、感じたいと思っているのは、古代日本人が持っていた生命のリズムであり、メロディーなのだと思う。おそらくそうしたものが万葉集に収められている歌の中に宿っているのではないかと思ったのだ。

 

きっとそうしたものがそこにあるに違いない。そのようなことを直感的に思う。

 

またもう一つ、万葉集に掲載されている歌を頼りに、日本全国を旅してみたいという思いがふと湧き上がる。日本全国をいつか旅して周りたいというのは以前からの思いであったが、万葉集の歌の舞台となった地を巡るということを行いたいという思いが芽生えたのは先ほど初めてのことだった。

 

万葉集の中に何かがある。そのようなことを思わずにはいられない。

 

このように万葉集と自分を繋げてくれたのが篠田桃紅先生の作品であった。それでは、篠田先生の作品と自分を結びつけてくれたものは何だったのだろうか。

 

それについてはよくわからないが、きっとそこには何かしらの導きがあり、縁があったのだろう。本当に全ては縁と導きによって成り立っているようだ。

 

昨日、シュタイナー教育に関する書籍を読んでいるときに、やはり今後も継続してシュタイナーの思想と教育実践方法、そして美学の探究を継続していこうと思った。シュタイナー教育の中で私が感銘を受けるのは、それはもちろん魂や霊性の次元まで見据えた教育実践がなされていることだが、それ以外にも、一人一人の人間に存在する「内なる芸術家」を大切にする思想が根付いていることである。

 

端的には、知識の量を増やしていくことを目指すような「ドクター(博士)」になるのではなく、内なる芸術家を育んでいくことがシュタイナー教育の核にある。現代の教育では、芸術を扱う科目は他の科目と分けられて教えられているが、シュタイナー教育では、芸術が全ての教科の隅々にまで浸透している。数学の授業や国語の授業においてもそうである。

 

そこでは絶えず、教師が芸術的な要素を取り入れており、各科目が絶えず芸術と結びついたものになっている。そうした授業を通じて子供たちは、自分の内側の芸術家を多角的に養っていく。

 

こうした教育のあり方は、子供の教育のみならず、成人教育においても重要だと思うのは私だけではないのではないかと思う。現在の成人教育や巷に溢れる書籍はどれも、ドクターになることを意図したようなものになっており、決して内なる芸術家を発見し、それを育むようなものになっていないのではないかと思われる。

 

身近に2人ほどシュタイナー教育を受けた友人がいるが、2人の生き方は芸術そのものであるように思える。おそらく2人は、シュタイナー教育を通じて、内なる芸術家を発見し、それを育み続けることができたのだろう。

 

子供時代に持っている魂の輝きを維持し続けること。そしてそれを育み続けることの大切さを思う。

 

シュタイナーは、幼少期の魂の輝きを「偉大な幼児性」という言葉で表現した。私たちは、偉大な幼児性を喪失していないだろうか。

 

自分の内側にある偉大な幼児性を再度見つめ直し、自らの魂の輝きを維持し、そしてさらにそれを輝かせていくこと。そこに魂の成熟過程としての大切な生き方があるように思える。フローニンゲン:2019/11/20(水)07:34

 

5218. 断食6日目の夢

 

時刻は午前7時半を迎えた。辺りの闇が徐々に晴れてきたが、その一方で、霧が深くなっているのを感じる。あるいは、霧はすでに闇夜の世界の中にあったのだろうか。

 

依然としてマイナス1度の世界がそこにある。闇と霧の黒と白のコントラストで彩られた世界を眺めながら、今朝の夢について振り返っておきたい。

 

夢の中で私は、小中学校時代を過ごした社宅の中にいた。そこで両親と会話を楽しんでいた。

 

私は新しいMacを購入したようであり、そのラップトップの電源コードについて、父からアドバイスがあった。何やら、電源コードを絶えず指したままMacを稼働させるのはお勧めできないとのことだった。

 

それはバッテリーの寿命に関する話ではなく、どうやら電源コードとコンセントを繋ぐ部分の劣化が早まるためとのことだった。コンセントの差し込み口を改めて眺めてみると、確かにそこに電源を繋ぎっぱなしでいると、電源の重さによって接続部分にぐらつきが生じそうな気がしていた。そして、実際に過去にそのようなことがあったことを思い出した。

 

そうした会話を父とした後に、母も会話に入ってきた。そこからは少しばかり面白い話となった。

 

:「毎回実家に帰ってきたら、お母さんのPCのクリーニングをしてあげてるんだよね。今回もPC内のゴミ箱の整理や余計なファイルデータを削除しようと思ってる」

 

:「助かるわ」

 

:「ゴミ箱のデータを消去するぐらい自分でできるんじゃないか?」

 

:「うん、普通はね(笑)」

 

そのようなやり取りがなされた後、まずは母が使っているインターネットブラウザからお気に入りとブックマークのデータを見た。すると驚くことが判明した。

 

:「お気に入りの数が4800個!ブックマークが2820個!」

 

:「それってお気に入りと言えるのか?笑」

 

:「しょうがないのよ笑」

 

そのような微笑ましいやり取りがあった後、私は母のPC内の余分なデータを含めて、色々と整理をした。やはりゴミのようなデータが溜まっていたので、それを除去し、PCの動作をより良くした。

 

それによって、母のPCはまるで健康を取り戻した人間のようになった。すると、夢の場面が変わった。

 

次の夢の場面では、私は実際に通っていた中学校の体育館脇にいた。どうやら今から校庭でサッカーをすることになっており、私の気分は高揚していた。

 

すると体育館脇に、人目を避ける形で二人の男女が立っていることに気づいた。一人は大学時代の女性友達(MI)であり、もう一人は小中高時代の男性友達(NS)であった。

 

どうやら男性の友人は、今から彼女に結婚の申し込みをしようとしているようだった。私はそれを邪魔しないように遠くから見ており、どうやらプロポーズはうまくいったようだった。それを見て私は嬉しくなり、当事者の二人もまた幸せそうな顔をしていた。

 

すると突然、激しい雨が降り始めた。これからサッカーをしようと思っていたのに、水を差される形となった。

 

雨の激しさは尋常ではなく、みるみるうちにグラウンドに水が溜まっていき、グラウンド一面が浸水してしまった。すでにグラウンドに出ていた何人かの友人たちは、膝まで溜まった水の中をなんとか歩いて進んでいる。

 

私たちは急遽、サッカーではなく、体育館の中でバスケをすることにした。全員無事にグラウンドから引き上げ、体育館の中に入った。

 

すぐに私は倉庫からバスケットボールを出そうと思ってそこに向かい、扉を開けたところ、なんとバスケットボールが特大のサツマイモになっていた。本当にバスケットボールと同じぐらいの大きさであり、形も丸いサツマイモがそこに無数に置かれていたのである。

 

ただしその形は、バスケットボールのように正確な球形ではなく、一つ一つ形の違うデコボコした形であった。「これではバスケはできないな」と思って倉庫の扉を閉め、コートの方を振り返った瞬間、コートの中央に、天井にまで到達しそうなゴミの山があった。

 

それらのゴミは全てパックに入っており、別に汚いものではなかったのだが、そのゴミの山は圧巻であった。コートの半分が完全にゴミの山で仕切られており、これでもうオールコートのバスケはできないと確信した。フローニンゲン:2019/11/20(水)08:03

 

5219. 白の世界の美しさの中で:書物と精神力

 

時刻は正午を迎えつつある。正午を迎えたからといって、今は断食中であるから別に昼食を摂るわけでもなく、淡々と時間の流れの中に佇む自分がいる。

 

早朝に引き続き、外の世界はまだほのかに霧に包まれており、太陽の穏やかな光が霧の世界に差し込んでいる。早朝の景色は素晴らしかった。白く美しい世界がそこに広がっていたのである。

 

しみじみとするような、それでいてたまらなく美しいと感じるような白い景色が広がっていたことを思い出す。空と霧が白色でつながっており、それはとても幻想的であった。

 

今日は午後に近くの運河沿いを散歩しよう。やはり運河沿いの方が歩きやすいことを考え、以前の考えを少しばかり修正して、今日からは再び運河沿いを軽くジョギングしたりウォーキングしたりする。その帰りにスーパーに立ち寄り、ハチミツと豆乳を購入しよう。

 

つい先ほど、協働者の方とのオンラインミーティングを終えた。現在協働プロジェクトの数は意図的に減らしており、その分一つ一つのプロジェクトを大切にする形で、協働者の方々とは大変良い関係性の中仕事を進めさせていただいている。

 

現在の領域で自分ができることをし終えるまでは、まだ完全に次の領域での仕事には移行しないだろう。なにせ、次に開かれつつある新たな領域は自分にとって未知なるものであり、その準備がまだ全くなされていないからだ。

 

もちろん、これまでの人生においてもそうだったが、準備というのは終わりがないため、結局は準備段階から新たな領域での活動をしていくことは確かだ。今、既存の領域での仕事を全うしながらも、着々と新たな領域での仕事に向けて人生が進行している。

 

少しばかりシュタイナー教育に関する書籍を読んでいると、書物との向き合い方について興味深いことが書かれていた。シュタイナー教育においてはもちろん知性を育むことを大事にするが、それ以上に感性を育むことを大切にしている。

 

あるシュタイナー教育者の発言の中で、「書物ばかり読んでいると精神力が非常に弱まってしまう」ということが書かれており、それは自分の経験上、とても納得のいくことだと思った。確かに書物は、私たちの内側の世界を広げてくれ、精神の養分になりうるものなのだが、それを過剰に摂取することは、逆に過剰な養分によって精神を腐らせてしまうことにもなりかねない。

 

私が一時期書物から離れ、今も書物と向き合う時間を最低限のものに留めているのは、そうした理由によるのだと思う。今朝方の日記で書き留めたように、知識の多寡を競うような「ドクター(博士)」になることを促すこの現代社会においては、どうしても書物との付き合い方というのは、知識を獲得する方向に向かいがちなのかもしれない。

 

仮に書物を読むにしても、自分の中の「芸術家」を目覚めさせるような形で書物を向き合うことが懸命なのではないだろうか。そして何より、書物を脇に置き、内外世界に向けて感覚を大きく開き、実際の事物をこの眼で見たり触れたりする中で、様々なことを内側で感じていくことの大切さを改めて問いたい。

 

そのようなことを考えていると、霧がだいぶ腫れてきた。今目の前には、穏やかな優しい昼の太陽光が地上を包む光景が広がっている。私はその光景そのものであり、太陽光そのものである。それでは書物を脇に置き、少しばかり散歩にでも出かけようか。フローニンゲン:2019/11/20(水)12:12

 

5220. 今宵、心の言霊の中で

 

こうして時は流れ、夜がやって来て、また夜が明けていく。日々の緩やかな進行。人生の緩やかな進行。

 

外はどこか硬質的な異郷風景が漂う。やはり自分は異郷の中に暮らしているのだろうか。

 

欧米で生活を始めてまだたったの8年なのだからそう思うのも仕方あるまい。そして、今後いくら欧米の地で暮らせども、この思いは変わりあるまい。そのようなことを窓の外の世界が語り、自分の心が語っている。

 

自分に残された人生は短いのか長いのかよくわらかない。それがいずれかであったとしても、いずれかを必ず超え出ていかなければならない。

 

今日を生きたという歌を作る。日々形になる曲はもうそれでいいのだと思う。

 

ただ、まだ全くもって自分の生命の内側に流れる音があるべき音になっていない。リズムも、メロディーも、ハーモニーも無茶苦茶だ。

 

小一時間ほど前に浴槽に浸かろうとした時、あるべき音との距離に幾分立ちくらみがしそうになった。随分と遠い。それは本当に遠いように思えたのである。

 

しかし、それがいくら遠かろうと、もうそこに向かって進んでいくしかないのである。

 

今日はあまりにも寒すぎた。早朝のみならず、夕方も白い霧の世界に包まれていた。事実今日は、最高気温が1度までしか上がらなかった。

 

今目の前に広がる世界。書斎の窓の向こうには、明かりのない深い森のような世界が広がっている。

 

実際にはそこには街灯が少しばかりある。だが今夜は、そうした明かりが消え失せてしまうかのような霧が立ち込めている。そうした世界にあっても、なんとか心の灯火だけは消さないようにしたい。

 

まだ生きたいと思う。生命の火はまだ燃えて切っていない。まだ進めると思って進みたい。進めるも何も、自分はまだ何も始めていないではないか。

 

そんな声がどこから聞こえてくる。その声は正しいかもしれない。

 

断食6日目がかくのごとき心境で終わりに向かっていく。明日が来るのであれば、それは明日であり、明日は断食7日目だ。

 

自分にとっての新しい一日。それは新しい生命の誕生。

 

そうか、自分は毎日新たな生命の誕生をこの目で目撃していたのだ。そして何より、自分がその新たな生命の体験者だったのだ。

 

新たな生命の誕生に立ち会い、立ち会いながらにしてそれを経験できること。それ以上に生きいている喜びはありえようか。それ以上のものはないのではないだろか。

 

私は今日も十全に生きたし、明日も十全に生きたいと思う。自分にできることはそれしかないのだ。十全に生きることしか残された道はなし。進むべき道もそこにしかない。

 

いずこに向かうのかわからない自分と、いずこに向かっているのかわからない自分。果たして自分の魂はそれを知っているのだろうか。

 

己がどこへ向かうのかを問うこともそれなりに大切なのかもしれないが、ひょっとすると、己がいずこからやって来たのかを問うことも大切なのかもしれない。なるほど、自分が万葉集や日本の古代の和歌に関心を持ち始めたのはそうした実存的要求事項によるのかもしれない。

 

万葉集の中に、自分の魂の原風景がありそうなのだ。万葉集を通して、そうした原風景が見えるのではないかという願いのような想いがある。

 

万葉集には、きっと古代日本人の言霊が宿っていて、それが自分の魂に響いてくるのではないか。そしてその響きをもとに、自分の音を生み出したい。それは言葉のない無言歌であり、そうした歌を作り続けていこう。

 

生きることは歌うこと。日々の瞬間瞬間に自分は確かに生きていたのだということを毎日歌い上げること。もうそれしか自分にはできない。

 

冷たく光る街灯。今宵は夜空に輝く星が見えない。

 

だが私は輝く星を自分の中に見出している。仮にそれが本当は見えていなくても、その光をうっすらと感じている。

 

まだ何一つとして魂の言葉と音が生み出せない人間がここにいる。その人間を安らかな気持ちにさせる言葉と音を生み出していけるように明日も生きよう。

 

大した形では生きられないが、自分にできる限りの形で明日も生きたいと思う。明日もまた生かしてもらい、生きることができるのなら、それに勝る祝福はない。フローニンゲン:2019/11/20(水)20:49

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