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5154-5156:フローニンゲンからの便り 2019年11月8日(金)


本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5154. 魂の原風景としてのイチョウの木〜幼稚園時代の記憶から

5155. ジャズピアノ:自己の物語を育むこと〜幼稚園時代の活動より

5156. 本日のボルダリングを終えて〜ヨガへの回帰の可能性

5154. 魂の原風景としてのイチョウの木〜幼稚園時代の記憶から

時刻は午前5時を迎えた。深き闇の世界の中で、一羽の小鳥がさえずっている。その他の小鳥たちはまだ寝ているのだろうか。彼らの声はまだ聞こえず、一話の小鳥だけが鳴き声を上げている。自分もまた一人でこの日記を綴っている。

ここ最近はめっきり冷え込んできたフローニンゲンだが、今日は快晴に恵まれるため、午後からボルダリングジムに行き、ひと運動してこよう。ジムまでの5kmの道を軽くジョギングすることもまた、自分にとっては大切な運動だ。

いよいよ明日はヴェネチアへ旅に出る。明日はゆったりと午前9時過ぎ頃に自宅を出発し、ゆっくりと中央駅まで歩いていく。

列車の出発時刻は09:48であり、スキポール空港には12:18に到着する。その時間に空港に着けば、ボーディングが始まる15時までラウンジでゆったりとした時間を過ごせるだろう。

ここ数日間は印象に残る夢を見ていたが、今朝方はあまり印象に残る夢を見ていなかった。今記憶を辿っているのだが、なかなか思い出せない。

起床してすぐに手元のメモに夢について何も書き留めていなかったことからも、今朝方は印象に残る夢を見ていなかったことがわかる。ぼんやりと覚えていることがあるとすれば、小中学校時代の女性友達の一人(AS)と会話をしていたことぐらいだろうか。

昨日の日記で書き留めた通り、夢の中にあって覚醒しているもの、覚醒の最中にあって眠っているものについて考えている。おそらくはそれに付け加えて、睡眠中も覚醒中も絶えず目覚めている何かを探ることもまた大切だろう。

そうしたことを考えていると、昨夜の就寝前に、夢中になれるものは魂の具現化されたものであるという考えに対して、また新しい考えが芽生えた。「夢中」という言葉が夢の中を指すのであれば、夢中になる形で具現化される魂は、夢の中に色濃く顕現するものなのではないかと思ったのである。枕元に置いたメモにそのような走り書きがなされていた。

夢というのは魂の現れなのかもしれない。魂の運動した痕跡なのかもしれない。

一昨日の夜に母にメールをして、吉祥寺に住んでいた頃に通っていた幼稚園の名前について尋ねた。三鷹に住んでいた時の幼稚園の名前は覚えていたのだが、吉祥寺の幼稚園の名前は忘れてしまっていたのである。

昨日、母からの返信メールが届いた。メールを開くと、吉祥寺で自分が通っていた幼稚園の名前は、「武蔵野市中央幼稚園」だと分かった。早速その場所と幼稚園について調べてみた。

場所に関しては、成蹊大学の近くであり、母や父と大学内のキャンパスを時折散歩していた記憶がある。調べてみて分かったが、三鷹の幼稚園と同様に、この幼稚園もまたキリスト教の精神に基づいて運営されているようだった。

それを知ってふと、自分が三鷹で通っていた幼稚園は特殊なのだと思っていたが、ひょっとすると幼稚園というのはそもそもドイツの教育哲学者フリードリヒ·フレーベルが発案したものであり、彼もまたキリスト教を信奉していたのではないかと思われるため、日本の多くの幼稚園がキリスト教の精神に基づいていても何ら不思議はないと思った。

そのようなことを思いながら幼稚園の写真を眺めていると、中央幼稚園を象徴するイチョウの木に目が止まった。校庭には20本もイチョウの木があるそうだ。

それを眺めていると、秋にイチョウの葉で埋め尽くされた校庭を思い出す。これはフローニンゲンの街に限ったことではないが、私は秋の季節に街中を歩いていてイチョウの木に出くわすと、どうも懐かしさを感じてしまう。それは、幼稚園時代の体験と記憶があったからなのかもしれないと思った。

ここ数年間を振り返ってみると、今から五年前に一年ほど住んでいた府中の街、観光で訪れたハーグ、そして現在住んでいるフローニンゲンの街でイチョウの木の前で足を止めていたことを覚えている。イチョウの木は、自分の魂にとっての原風景を象徴するものなのかもしれない。

そういえば、幼稚園時代に、秋の季節になると、父と銀杏を拾いに行き、ベランダでそれを干して、火で炙って食べていたような記憶がある。イチョウの木に自分が何か感慨深さを感じるのは、幼稚園時代の体験と記憶があるからなのだろう。ぜひとも、イチョウの木をモチーフにした曲を作ってみたいという思いが静かに現れる。フローニンゲン:2019/11/8(金)05:35

5155. ジャズピアノ:自己の物語を育むこと〜幼稚園時代の活動より

朝の雰囲気にふさわしいジャズピアノ曲を書斎に流している。これまで私は、ジャズピアノを聴くことはほとんどなかったのだが、食わず嫌いをせずにジャズの世界に触れてみることによって、音楽的感性の幅がより広がるのではないかと思う。

クラシックの世界にはない独特の響きがジャズの世界にはあり、二つの世界は共に一つの音楽宇宙にありながらも、どこか別の惑星のようで面白い。静かなジャズピアノの音に包まれながら、これから昼にかけて、自分の取り組みを前に進めていこうと思う。

それにしても、今日は本当に天気がいい。雲ひとつない快晴である。

現在の時刻は午前10時であり、朝日がとてもほのかであり、優しく輝いている。まるで朝日が紅葉しているかのようだ。

先ほど窓の外を眺めていると、自分の物語を自覚的に育んでいくことが、その人固有の発達の道を歩むことに他ならないという考えが芽生えた。それは以前から思っていたことではあるが、一つの明確な考えとして先ほど自分にぶつかってきたのである。

多くの人は結局のところ、他人の物語を知ることに躍起になるか、社会が築き上げた大きな物語に無自覚なままに従うかのどちらかの形で日々を生きている傾向が強く、自分の物語にはてんで無自覚なのではないか。自分がいかなる存在であるかを内省していないだけではなく、自らの物語が何であるのかに対しても無自覚なのである。

昨日、私が吉祥寺に住んでいた頃に通っていた幼稚園について調べていた。母から幼稚園の名前を教えてもらったことにより、その調査が可能になった。

幼稚園でどのような保育が行われているのかを調べてみたところ、そこで「リズム遊び」というものが行われていることに気づいた。私が通っていた頃にもこうした遊びがあったのかは定かではないが、もしあったのであれば、今の自分の作曲実践に少なからぬ影響を与えているように思えた。

リズム遊びについての説明として、「世界が音に満ちていて、音の美しさ·楽しさに気づいてほしいと思っています。耳を澄ましてまわりに響いている音を良く聴き、季節感や行事などを盛り込んだ音楽ゲームをしたり、動物になりきって動いたり、絵本の世界に入り込んで遊びます」ということが書かれていた。

世界が音に満ち溢れているということ、そしてそうした遍満する音は美しく、それを何らかの方法を通じて表現することの中に楽しさがあるということ。本当にその通りである。

説明の最後の箇所に、「絵本の世界に入り込む」というのも面白いと思った。そこでは絵本の物語世界に没入しながらも、そこでの遊びを通じて、独自の物語を育むことにつながっているのではないかと思われた。

単純に絵本の物語の中で生きるのではなく、それを通じて自らの物語を育んでいくということ。それは子供の発達にとって重要であり、この話は大人の発達においても大切な事柄が内包されている。フローニンゲン:2019/11/8(金)10:16

5156. 本日のボルダリングを終えて〜ヨガへの回帰の可能性

時刻は午後6時半を迎えようとしている。つい今し方、夕食を摂り終えた。

今日はボルダリングジムに行き、少し早めに戻ってくることができたので、夕食もいつもより少し早めに済ませた。ジムまでの往復の道を軽くジョギングし、ボルダリングで全身を動かすことによって、今日の夕食は一段と旨く感じられた。

改めて、日本の誇る発酵食品である味噌の味の深さに驚かされる。今日は味噌を茹でたジャガイモにつけて食べてみた。

以前試した時にこれが美味しいことはわかっていたのだが、いつもはパンプキンパウダー、マカパウダーを少々ふりかけ、その上に少し醤油をかける形で食べている。今日は運動をして塩分を欲していたのか、少しそこに味噌を足して食べてみたのである。それが実に美味であった。

前回ボルダリングをした時は、作曲実践の調子があまり良くなく、一方でボルダリングの調子が良かった。本日はその逆だったように思う。

本日ジムを訪れてみると、またしても課題が大幅に変更されていた。それはおそらく、ここ最近フローニンゲンのボルダリングジムの人気が高まり、どんどんと人がやってきて、彼らを飽きさせないための工夫だろうか。

それはそれで理解はできるのだが、前回かろうじて登れた課題を今日は復習したいと思っていたところ、それらの課題が全て張り替えられてしまっていて残念だった。子供たちがボルダリングを楽しめるように、小·中学生向けの体験会のようなものが本日開かれていた。前回ジムに行った曜日は違うのだが、前回もまたそのような体験会がなされていた。

子供たちがボルダリングを楽しむことは大いに推奨されるのだが、時に彼らのマナーがあまりよろしくなく、心を落ち着けて課題に向き合いたいこちらとしてはそれが少し残念だった。学校の授業の一環ということはないだろうが、インストラクターあるいは付き添いの大人が二人おり、1時間ほどしたらみんな帰っていった。

休日の午後も人が多く、平日の午後もかなり人が増えてきた今になって、ボルダリングを静かに楽しむのは少し難しくなってきてしまったのかもしれない。私としては、ボルダリングを単に身体を動かすスポーツのような形で取り組みたくはなく、自分の内側と向き合うことを必ず行いたいため、今後のボルダリングとの付き合い方を少々考えさせられるきっかけとなった。

とりあえず10回のパスがあと1回ほど残っているため、ヴェネチア旅行から帰ってきた次の週にもう一度ジムに行ってみるつもりだが、その後はどうするか考えたいところだ。せっかくボルダリングは長く続けられそうだと思っていたのに、思わぬ形で水を差されてしまった感がある。

次回は試しにもう一度休日の午後にジムに足を運んでみて、どれくらいの人がいるのかを確かめたい。あるいは、ジムのスタッフの話によると、確か火曜日の午後が一番人がいないということだったので、次回は火曜日に行ってみるのも悪くない。

次回どれだけ集中してボルダリングに取り組めるかによって、身体実践の再考を図りたい。帰り際、ボルダリングに代わる身体実践としてふと浮上してきたのが、ヨガだった。ヨガは毎朝行っているのだが、よりアーサナの数を増やし、強度を高める形のヨガを再び行って行こうかと思ったのである。

雨や雪の時はボルダリングジムに行けないのだが、ヨガであれば自宅で行うことができる。しかも自宅であれば、静かな環境の中、呼吸に意識を当て、身体をゆっくりと動かしながら自己に向き合うことができる。

毎朝のヨガに加えて、2日か3日に1回ほど、強度を高めたヨガの実践を午後に行ってみることを検討してみよう。時にゆったりとしたピアノ曲などをかけながら、シュタイナー教育のオイリュトミーのような身体芸術的なヨガをしてみるのもいいだろう。フローニンゲン:2019/11/8(金)18:51

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