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5135-5140:フローニンゲンからの便り 2019年11月5日(火)

November 7, 2019

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

5135. 今朝方の夢

5136. 歌への想いと自己解決運動をする問いについて

5137. 幽玄な境地を体現する横山大観の作品:荘厳な力の存在を示す夢

5138. あの頃の自分と今の自分

5139. "composition"の萌芽:仮眠中の知覚体験

5140. オランダの国獣と創造力の解放:成長に伴う痛みや苦しみの波

 

5135. 今朝方の夢

 

小鳥たちの鳴き声がいつも以上に美しく感じられる朝。時刻は午前5時半を回り、ゆっくりと6時に向かっている。

 

辺りの闇は深く、まだ世界は目覚めていないかのようだが、小鳥と私はすでに目覚めており、各々の仕方でこの世界を十全に生きている。

 

起床直後にヨガをしている際に、意識が深い瞑想状態になっていた。そこに小鳥の鳴き声が入ってくると、それはさらに深い意識の層に自分を促しているかのようであった。

 

いつでも耳を澄ませば聞こえてくる彼らの鳴き声を今日も聞きながら、自分のライフワークを前に進めていこう。

 

落ち着いた意識の状態の中、今朝方の夢を振り返っている。夢の中で私は、実際に通っていた中学校の教室にいた。それは校舎の二階にあり、階段を上がってすぐのところにあった。

 

私の左隣には、小中高と付き合いのある女性の友人(MH)がいて、授業が始まるまでの休み時間に彼女と少し話をしていた。その話はたわいもなく、先ほどの体育の授業が午前中の早い時間にあったため、10時半を迎える頃にはもうお腹が空いてしまい、どうしようかという話だった。

 

そういえば私はサンドイッチを持ってきていたことを思い出し、廊下のカバン置き場に置かれた自分のカバンの中からサンドイッチを取ってこようと思った。すると授業の開始のチャイムが鳴った。

 

しかし私は小腹が空いていたのでサンドイッチを取りにいこうとし、さらには喉が乾いていたので、コーヒーが欲しくなっていた。廊下に出ると、2人の友人(HY & NK)がそこにいた。

 

手前にいた友人(HY)に、オーガニックコーヒーが校舎で手に入らないかについて尋ねると、「確か保健室にならあったと思うよ」と教えてくれた。私も保健室でオーガニックコーヒーが飲めることはすでに知っていたが、それは紙コップでしか販売されておらず、しかも分量が少ない。

 

オーガニックコーヒーの飲める場所を教えてくれた彼には一応お礼を述べたが、私は保健室のコーヒーではなく、別のコーヒーが飲みたかった。

 

階段を降りて靴箱の方に向かうと、後ろから声をかけられた。振り返ると、先ほどコーヒーの場所を教えてくれた友人の隣にいた親友(NK)であり、そしてもう二人別の親友(HS & SI)がそこにいた。彼らもこれからコーヒーと軽食をどこかに買いに行くようであり、私も彼らと一緒についていくことにした。

 

しかし、親友の一人が、コーヒーだけなら私の分のコーヒーを買ってきてくれると言う。もう授業が始まっている時間だったので、私は彼の申し出を有り難く思い、彼にお願いをした。

 

私は靴箱から教室に引き返し、再度階段を上がっていこうとすると、先ほど私にコーヒーの場所を教えてくれた友人がいた。彼はニコニコしており、その理由を尋ねてみると、自分が運用する投資ファンドの成績がすこぶるよかったそうだ。

 

今年の利回りについて聞いてみると、98%とのことであり、それは異常に高いように思えた。先ほどコーヒーを買いに行ってくれた友人のうち、二人も自分のファンドを運用しているようであり、彼らもそこそこの運用利回りを見せていた。

 

階段の踊り場にある手洗い場で、三人の直近の運用成績を見せてもらったところ、確かにその友人の成績は良かった。だが、98%との利回りではなくて、実際には11%ほどの利回りであり、他の二人の友人は8%前後だった。

 

私は彼がどのような手法で運用をしているのか、そして彼があとどれくらいの期間投資ファンドを運用する計画があるのかを尋ねた。その背景には、彼に資産の運用を任せられないかを考えていたからである。

 

彼と話をしていると、もう教室の前に私たちはいて、彼は今後の投資スケジュールと投資に関する秘密事項が書かれた手帳を取りに隣の教室の自分の席に行き、私は自分の教室と彼の教室の間で立って待っていた。

 

自分の教室の方を眺めると、そこは中学校だったのだが、小学校六年生の時にお世話になっていた先生が教壇の椅子に腰掛けていた。まだ完全に授業が始まったわけではなく、生徒が宿題を板書している最中だった。

 

「今この瞬間に教室に入れば遅刻にならないのではないか?」と私は思い、手帳を取りに行ってくれている彼には申し訳ないが、私は自分の教室に戻ることにした。私の席は、窓際の左から二列目の真ん中辺りの席であり、先生に気づかれないように身を低くして自分の席に戻った。

 

だが先生は、すぐに私が遅れて教室に入ってきたことに気づき、私の名前を呼んだ。私は教壇にいる先生のところに行き、事情を説明した。その時私は、午前中の体育の授業では動き足りず、ちょうど今教室にいない友人たちと運動をして、それで喉が乾いてしまったので飲み物を買いに行っていたことを伝えた。

 

すると先生は、特段怒るわけでもなく、私の説明を聞きながら何か納得しているようだった。そうこうしているうちに、ちょうど三人の友人たちも教室に帰ってきた。そしてなぜだか、彼らの後ろからは三人の若いドイツ人たちがやってきて、彼らはサッカーチームのヴォルフスブルクのユニフォームを着ており、一階のバーでビールを飲みながらサッカーの試合を観戦していたら遅刻したと先生に述べた。

 

先生はそれを聞いて、幾分呆れ顔であったが、ドイツ人の彼らのそうした態度が微笑ましいと思ったのか、彼らの遅刻も許容した。すると、彼らはヴォルフスブルクの応援歌を突然歌い出し、私もそのリズムに乗りながら歌を歌おうとした。フローニンゲン:2019/11/5(火)06:08

 

5136. 歌への想いと自己解決運動をする問いについて

 

今朝は寒さがそれほどでもないが、昨日から家の中にいるときもヒートテックを履き始めた。足元をできるだけ暖かくして、何んとか暖房の温度を上げないように工夫をしたいと思う。足を温めながらも、頭は冷やし、自分の取り組みに集中できるような状態を整えたい。

 

書斎の外に意識を向けると、小鳥たちの澄み渡る鳴き声が聞こえてくる。それは自分の意識の奥深くに染み渡っていき、意識をさらに深めてくれるかのようだ。

 

先ほど今朝方の夢について振り返っており、夢の最後には、三人のドイツ人が現れ、彼らは応援するサッカーチームの応援歌を歌い始めたことを書き留めていたように思う。私も彼らの歌に合わせてリズムを取り、歌を歌おうとしていた。

 

歌。そう、それはここ最近の私の大きな関心事項の一つである。

 

自分が声を発して歌を歌おうというのではなく、作曲上において、歌の観点を大切にしたいと強く思い始めている自分がいるのである。どうやら私は、作曲を通じて自分なりの歌を歌いたかったのだと知る。

 

自分に対して、そしてこの世界に対して歌を歌いたかったのだ。だからここ最近は、旋律を重視するモードに焦点を当てて学習と実践を進めてきたのだと思う。

 

もともと音楽は歌に起源があるのではないかと思う。歌には魂が宿り、それが他者の魂と共振する。歌にはそのような性質があるのではないか。そうした歌の特性を持った曲を作っていきたい、というのがここ最近の私の思いである。

 

先日、フローニンゲンの街を散歩しながら、オランダ風の家々を眺めていると、「この景観とそれから喚起される自分の内側の感覚をどのようなモードで表現することができるだろうか?」という問いと向き合っていた。その時の私は、今自分がこの目で見ている景色と、自分がその瞬間に感じていることを歌としての曲を通して表現したかったのである。

 

さらには、この物理的な目だけではなく、心眼、あるいは魂眼とも呼べるもので知覚した事柄を歌としての曲を通じて表現したいと思った。その方法について問いを立てている自分がいた。

 

自分の問いが自分の内側から芽生えたのなら、何の心配もいらない。それはもう解決されたも同然だ。

 

問いは問われることで解決の道を自ずから歩いていく。問いのこうした力には、常々驚かされてしまう。

 

問いは自らにして自らを解決する。見方を変えれば、これが自らが自らを救うということなのかもしれない。

 

問いが解決されないことを憂いてはならない。それは時間の波に揺られながら、自ずから解決されていく。

 

憂うべきは、自分の問いが自分の内側から出てこないことであり、自分で自分の問いを生み出そうとしないその事態なのだ。

 

私にできることは、問いを立てるという運動の起点を生み出すことであり、問いの運動を見守りながらにして、その運動の流れの中に居続けることなのだろう。フローニンゲン:2019/11/5(火)06:24

 

5137. 幽玄な境地を体現する横山大観の作品:荘厳な力の存在を示す夢

 

時刻は午前6時半を迎えた。今日もまた、自分の取り組みを焦らず着実に前に進めていく。自分にできるのは本当にそれしかない。

 

毎日がそのために始まり、それを通じて進行し、それによって終わる。そしてまた幸運にも新たな日がやってくる。

 

いつかこうした時の流れのサイクルが自発的に運動をやめるその時まで、自分はこうした日々を淡々と過ごしていく。

 

昨夜、数年前に島根県の足立美術館で購入した横山大観の画集を改めて眺めていた。大観の晩年の作品を眺め、そこに体現されている幽玄の境地に思わず息を呑み、感嘆の声を上げた。

 

音楽を通じて、こうした幽玄性を表現するにはどうしたらいいのだろうか。それに関しては、技術的な側面も重要だろうが、兎にも角にも内面的成熟を第一要件とするように思える。

 

大観の作品群を眺めながら、そのようなことを考えている自分がいた。今夜もまた大観の作品を眺めよう。

 

それでは早朝の作曲実践に入る前に、今朝方の夢の続きについて振り返っておきたい。それは続きというよりも、順番としては、先ほど書き留めたものよりも前に見ていたものかもしれない。

 

夢の中で私は雪山にいた。どうやら吹雪が去った後のようであり、そこには美しい白銀世界が広がっていた。視界も良好であり、辺りはとても穏やかであった。

 

雪山の中腹あたりで、たくさんのライオンが休憩している姿を見かけた。子供のライオンの姿もちらほら見られ、とても可愛らしかった。

 

母ライオンと思えるようなライオンが常に子供のライオンのそばにいて、母ライオンの頭は白いことが特徴的だった。

 

ふと足元を見ると、なんとそこには実家の愛犬がそこにいて、尻尾を振りながら私の方を見ている。そして後方を見ると、そこには一匹の小さなハイエナがいて、ライオンと行動を共にし、彼らの狩りに便乗することを狙っているようだった。

 

足元にいた愛犬と私は、休憩しているライオンに襲われないように、そっとその場を後にしようと思い、歩き始めた。すると、小さなハイエナが私たちの後をつけ始めた。

 

しかし、ハイエナは別に私たちを襲おうと思っているわけではなく、ライオンと行動を共にしていたように、私たちとも行動を共にしたいのだと思った。とはいえ、愛犬が万一襲われてしまっては困ると思い、私たちは少し足早で歩くことにした。

 

すると、雪山の崖の部分に到着した。そこから先に進むのは困難のように思えたが、遠くの方から母の声が聞こえた。

 

私は声のする方向に向かって、愛犬を預かってもらうようにお願いをした。母はその申し出を快諾し、その瞬間、愛犬はリードごとフッと消えてしまった。

 

おそらく母の元に瞬間移動したのだろうと思い、後ろを振り返ると、そこにはもうハイエナの姿はなかった。そして私の目の前には、巨大なリフトがあった。それはスキーやスノーボード用のリフトに思われたが、どうやら雪山でクライミングをする人たちが乗るものらしかった。

 

リフトを動く滑車の速度は尋常ではないほどに速く、その速さに振り落とされないようにするためには、相当な筋力が必要であることが容易に想像できた。

 

ある外国人の男性がリフトに乗り、勢いよくリフトで移動している姿を目撃した。私の意識は、リフトを俯瞰的に眺める位置に移動し、改めてその速さと危険性を思った。

 

冬山でクライミングをしようと考えていたその時の私は、やはりそれは大きな危険が付きまとうのだと思い、雪山ではなく、引き続きジムでボルダリングをすることに留めようと思った。そこで夢から覚めた。

 

今このようにして夢を振り返ってみたときに、ライオンのシンボルが夢に出てくることはこれまでなかったように思えたため、ドリームディクショナリーを調べてみた。すると、ライオンのシンボルは、自分の内側の力強さや勇気などを象徴しているらしいことがわかった。

 

頭が白い母ライオンの存在が不思議に思っていたので、さらに調べてみると、白いライオンは、自分が荘厳な力を保持していることに突如気付くということを象徴しているらしいことがわかった。それが正しいのであれば、果たして自分はどのような力を保持しているのだろうか。

 

その気づきはまだやってきていない。だがなんとなしに、自分に備わっている不思議な力には最近自覚的になりつつあるように思う。フローニンゲン:2019/11/5(火)06:55

 

5138. あの頃の自分と今の自分

 

寂寥感を醸し出すこの寒空の下で、小学二年生の私であれば、どのようにこの情景を表現したであろうか。

 

この話はよく母から聞いており、先日も実家に帰った時に聞いたのだが、小学二年生の時の自分の日記の中に、朝登校中に浴びた太陽の光に関する描写があった。

 

その時の季節がいつだったのかは知らないが、記憶に残っている限りでは、春あたりから夏にかけての登校中の話だったように思う。

 

気温がこれから上がり始める季節において、朝日もまただんだんと眩しくなっていく。瀬戸内海を眺めながら登校しているその日の私は、燦然と輝く朝日を浴びていた。

 

おそらく、そうした朝日に注目する友人はあまりおらず、いたとしても、気温が上がってくる季節であったから、照りつける朝日を眩しく思ったり、うとましく思う友人さえいたかもしれない。そうした朝日に対して、私は日記の中で、「まるでスポットライトを浴びているかのように気持ちよかった」というような表現でその時の情景と自分の気持ちを描写していた。

 

大学生まで本など全く読まず、ましてや小学校低学年の時など1ページも本など読んだことのなかった自分が、そのような比喩的表現を用いて情景描写をしていたことに驚く。

 

毎朝先生に提出する日記が夕方の下校前に戻された時、なぜだかその比喩的な表現の箇所に赤ペンで波線が引かれており、花丸か何かが記されていて、そこに先生のコメントがあったように記憶している。私は純粋にその時に自分が見た景色と感じたことを言葉で表現しただけだったのだが、先生はそれを褒めてくれているようだった。そんなエピソードが幼少時代にあったことをふと思いだす。

 

あの頃の自分なら、今この瞬間の景色をいかように表現するであろうか。

 

太陽が全く見えないこの寒空。薄い霧がかかったような朝のこの雰囲気を、当時の自分であればどのように眺め、何を感じたであろうか。

 

当時の自分。そう、それは紛れもなく今の自分なのだ。

 

自我の同一性。今の自分はあの頃の自分であって、あの頃の自分は今の自分なのだ。

 

今自分が目の前の世界をどのように感じているかは、すでに表現し切ってしまった。それを改めて比喩で表現するというのは実に野暮ったく、当時の自分を思い出す過程の中で、それはもう表現しきれぬほどに表現し切ってしまったのだと思う。

 

過去の記憶の輪郭線をなどること。それによって表現されるものがあり、それによってしか表現されぬものがある。

 

あの頃の自分も今の自分も、眼前に広がる世界を絶えず愛でている。そうであれば、やはりこの瞬間の私は、この寒空の景色をあえて言葉で表現する必要などないのだと思う。

 

何を隠そう、それはもうすでに言葉で表現し切ってしまっているのだから。フローニンゲン:2019/11/5(火)09:36

 

5139. "composition"の萌芽:仮眠中の知覚体験

 

小雨降りしきる夜。つい先ほど夕食を摂り終え、取り止めもないことをぼんやりと考えていた。

 

ふと、そういえば自分は、小学生の時に日記を書く習慣があっただけではなく、中学生になってからは英作文が好きであったことを思い出した。そして、英作文、あるいは一般的に作文というのは、“composition”という単語が当てられることを思い出し、何か今の自分が作曲(music composition)に毎日従事していることの深層的な意味が見えてきていた。

 

“composition”というのは、組み立てること、あるいは構成することを語源に持っており、やはり私は自分の内側の感覚を素材として組み立てることが好きなのだろうと思われた。言葉や音というのはある意味、そうした素材を形にするための手段であり、素材は紛れもなく自分の内的感覚である。

 

作曲実践に絶え間なく従事している自分の特性というのは、もう遥か昔から自分の内側に萌芽として内在していたのである。そのようなことを思っていた。

 

夕方、近くの運河沿いのサイクリングロードを軽くジョギングした。毎日これが良い気晴らしになっている。

 

必ず毎日足腰を動かし、鍛錬すること。そして外の空気を吸うこと。それをこれからも続けていきたい。それが毎日の創造活動にどれだけ肯定的な影響を与えていることか。

 

とはいえ今日は、空気の綺麗さを考えると、運河沿いのサイクリングロードよりも、近所のノーダープラントソン公園内をジョギングした方が良さそうだということを思った。サイクリングロードは意外と大きな道路に近く、その道路は車通りが激しい。

 

また、サイクリングロードには時折、モータバイクが走り、それが通った時の排気ガスの匂いが気になってしまう。明日からは、木々が豊富なノーダープラントソン公園に繰り出して行こう。

 

いつもと同じように、今日も午後に仮眠を取っていた。今日の仮眠中では久しぶりに、全身がエネルギーの渦に包まれるという体験をした。その時に知覚されていた色はややオレンジがかっていたであろうか。

 

今回はあまりはっきりと色を認識することができなかった。こうした現象に怯えることは随分と昔に無くなり、今は全身が迸るエネルギーに包まれた際には、完全に自己をそこに預けるようにしている。

 

時にはそれは意識を、エネルギーが生まれてくる根源まで運び去ってしまうのだが、それに対しても今はあまり恐怖心を抱いていない。以前であれば、意識がエネルギー体と化してしまうことや、意識をエネルギーが生まれる場所に委ねてしまうと、どこか戻ってこられない場所に行ってしまうような気がしていたが、小さく実験を重ね、少しずつそうした現象に自己を委ねていくことを続けていると、今ではもうそうした現象が何ら怯えるものではなく、むしろ自分のエネルギーを根底から目覚めせてくれるかのような現象であると捉えるようになった。

 

そうした体験に加えて、今日の仮眠中には何かしらのビジョンを見ており、ビジョンが消え去り、完全なる無の世界が開けてきた時、しばらくその夢の世界に自己が浸っていたのを覚えている。そして目を開けたら、そこには寝室の天井があった。フローニンゲン:2019/11/5(火)19:20

 

5140. オランダの国獣と創造力の解放:成長に伴う痛みや苦しみの波

 

しとしとと雨が降りしきっている。今夜から明日の朝にかけて雨が降るようだが、明日は朝から比較的天気が良いとのことである。

 

明日は午後にでも、街の中心部のオーガニックスーパーに行き、ヴェネチア旅行前の最後の買い物に出かけたい。ジャガイモ、醤油、そして小さめの豆腐を購入することを忘れないようにし、あとは旅の初日の夜にでも食べる穀物クラッカーを購入しよう。

 

念のため、次の日の夜もそれを食べるかもしれないので、二つほど購入しておこう。もちろん、今回宿泊するホテルのすぐ近くのオーガニック専門店にもそれに類する食品はありそうなのだが、念のためにそれを持っていくようにする。

 

一日が終わりを迎えようとしている今になって、今朝方の夢に現れた白いライオンについて考えていた。そういえば、オランダの国獣としてのシンボルはライオンなのである。

 

自分がこの国に住んでいることと、今朝方の夢に現れたライオンは何か関係があるのだろうか。

 

もう一度繰り返すと、白いライオンは偉大な力を象徴する。今朝方見たライオンの中にいた白いライオンは、全身が白だったのではなく、頭部だけが白かった。しかもそれは母ライオンだった。

 

頭だけが白く、それが母ライオンであったことは、自分にとって何を象徴しているのだろうか。それについても考えが巡る。いずれにせよ私は、ライオンを国獣とするオランダでの生活を始めてから、誰しもの中にあって、自分の中にもある偉大な力、すなわち、生命力という名の創造的な力がますます育まれ、それが発露し始めているのを感じる。

 

仮にいつか国を離れる日が来るとするならば、それは自分の中の生命力を完全なまでに育み切った後なのではないかと思われる。生命力を完全なまでに解放し、自分の創造力を解き放つ日。そうした日が来れば、私はこの国を離れて、またどこか別の国で生活を始めるかもしれない。

 

今年一年間を少しばかり振り返ってみると、今年は成長における安産だったのかもしれない。安産であったのなら、それは真の成長と言えないのだろうか。そうとも言えないように思う。

 

確かに成長には大抵、それに伴う陣痛があるものだが、安産のような形の成長もあり得るのではないかと最近思う。

 

少し前の日記の中で、ゲーテが人間の成長を見事に言い表していた言葉を書き留めたように、成長が内側から起こる時に外皮は死に、そしてそれは剥がれ落ちていく。剥がれ落ちた外皮の中から力強く芽が出てくる。それが人間の成長である。

 

そこには必ず死という現象が不可欠なのだが、死というのも老衰的な穏やかな死もありえる。死が十把一絡げに辛く過酷なものとは限らないのだ。

 

思うに、死の本質には平穏さがあるのではないかと思う。死が純然かつ自然な死であるほどに、それは穏やかなものなのではないだろうか。

 

そのようなことを思うと、成長に伴う死というのも、少しばかり違う見方ができるように思う。いずれにせよ、今年自分の身に起こった成長というのは、どこか平穏なものであった。

 

成長に伴う痛みや苦しみにも変動性という波があるのであれば、来年のそれは高波かもしれないし、今年と同様に瀬戸内海のような穏やかな波であるかもしれない。成長する生命の成長という現象そのものが、もはや波を伴う生命であったか。フローニンゲン:2019/11/5(火)19:45

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