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5131-5134:フローニンゲンからの便り 2019年11月4日(月)


本日生まれた11曲

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タイトル一覧

5131. 活字情報を離れる習慣:今週末からのヴェネチア旅行について

5132. 今朝方の夢

5133. 開かれつつある新たな感性:一期一会としての音と「それ」の中に安らぐこと

5134. 魂の物語は永遠に

5131. 活字情報を離れる習慣:今週末からのヴェネチア旅行について

時刻は午前7時を迎えようとしている。今日はゆったりと午前6時に起床した。実際には午前5時に目を覚ましていたのだが、その直前に興味深い夢を見ていて、再び目を閉じればその夢の続きが見られるかと思い、再度小一時間ほどベッドの上で横になっていた。そのような形で今朝は目覚めた。

昨日は9時半過ぎには就寝に向かっていたことを考えると、今日は十分な睡眠を取ることができた。そのおかげもあり、今日もまた活力の漲った形で充実した一日を過ごすことができるだろう。

一時帰国から帰って以降は、毎晩就寝前に必ず誰かしらの画集を眺めることが習慣になっている。一日の最後に目を癒し、心を癒すかのようにして画集を眺め、そして就寝に向かうことができている。これは自分にとってとても良い習慣である。

日中はどうしても活字情報と向き合うことが多い。日記を書くにせよ、読書をするにせよ、そこで媒介されているのは活字である。

もちろん日中には、作曲実践を多くしているのだが、そこでも理論書を眺めながら作曲をしている場合には、どうしても活字情報が混入してきてしまう。どうやら文字を大きく離れて生活を送ることは、私たちにとって極めて難しいようだ。

今後はひょっとすると、作曲実践の際には、より純粋に音楽世界の中に浸りきることができるかもしれない。そこでは音楽言語というこれまた言語空間が存在しているのだが、活字が作り出す空間とは幾分あるいは随分異なるだろう。

一日の最後に活字空間から離れ、絵画の世界に没入することは、自分の内側に調和をもたらしている。一日の終わりにぼんやりと画集を眺めることは今後も続けていきたい。画集に加えて、楽譜を絵画作品と見立ててそれをぼんやりと眺めることも良いだろう。

今週の土曜日からは、いよいよヴェネチア旅行が始まる。結局4泊5日ではなく、5泊6日の旅行にした。自分がヴェネチアの街で見て回りたいものを計算すると、1日追加する必要があったのである。

幸にも旅行に出かける前日と当日のフローニンゲンは晴れであり、前日にボルダリングジムに行き、ボルダリングを楽しみたいと思う。旅行の初日の夜と翌日の朝に必要な食料は、フローニンゲンで事前に調達しておいてしまおうと思うため、その買い物は前々日に行っておく。その日は小雨が降るようだが、小雨が降りしきるフローニンゲンの街を歩くのもまた一興である。

ヴェネチアに向かう当日も晴れのようであり、とても助かる。欧州内での旅行はいつも荷物を最小限にしており、今回も荷物は最小限にする。

アムステルダムを出発するフライトの時間は午後3時過ぎであるから、フローニンゲンを出発するのはゆったりとでいい。午前中に出発し、昼過ぎに空港に到着して、3時間弱空港のラウンジでくつろぎたいと思う。

天気予報でヴェネチアの気温を確認すると、やはりフローニンゲンに比べて随分と暖かいようだ。とはいえ、ヴェネチアもすでに秋が深まっているようであるから、暖かい格好をしていこうと思う。

秋の深まるヴェネチアで、私は何を見て、何を感じるのだろうか。そしてどのような出会いがそこにあるのだろうか。フローニンゲン:2019/11/4(月)07:07

5132. 今朝方の夢

午前7時を迎えると、空がゆっくりとダークブルーに変わり始めた。時折、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。

それでは今朝方の夢について振り返りをしてから、いつものように早朝の作曲実践を行いたい。夢の中で私は、比較的大きな一軒家にいた。その家の畳部屋の中にいて、部屋に置かれた長机の傍に座っていた。

そこは畳部屋であったから、スリッパなど必要なく、靴下のままくつろぐことができ、私は畳の上に直接腰掛けていた。長机の隅っこにはお湯を沸かすポットといくつかの湯呑み、そして和菓子がカゴの中に入って置かれていた。

私は何をするでもなく、ぼんやりと畳の上に座っていて、しばらく時間を過ごしていた。すると部屋のドアが開き、数人の男性が入ってきた。

見ると、全員協働者の方々であり、プロジェクトはそれぞれ違うのだが、知った顔であった。その方たちが何をしに来たかが気になったので尋ねてみると、何やら私のセミナーに参加しに来てくださったとのことであった。

私はその時まで、今から自分がセミナーを行うことになっているとは知らなかった。そこからは私を含めて、4、5人で話を楽しんだ。

どうやらこの畳部屋は、セミナーの控室だったのだ。長机の置かれたポットを使ってお湯を沸かしてくださる方がいて、その方が私にコーヒーを入れてくれた。そして、カゴに入った和菓子を勧めてくれた。

私は普段、できるだけ自分が選んだ食べ物以外は口にしないようにしているのだが、その和菓子はその方が買ってきてくださったものとのことであり、コーヒーによく合うということをおっしゃっていたので、一ついただくことにした。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、私は大きな体育館のような空間にいた。そこには数多くの椅子が並べられており、フロアの真ん中に仕切り線があって、一方は男性が座る専用の椅子、もう一方は女性が座る専用の椅子が並べられていた。

そこで何が行われるのか定かではなかったが、私は男性が座る専用の椅子が並べられた場所に行き、前から三列目の席に腰掛けた。すると、私の真後ろに、高校時代の友人(SK)が現れ、彼は私のすぐ後ろの席に腰掛けた。

彼とは仲が良かったので、話をしようと思ったところで、後ろの女性専用の椅子の方から何か声が聞こえてきた。何やら選挙の投票のようなことを行っており、私の後ろに座った友人のどういうところが魅力的なのかについて一言で説明した紙を女性たちは投票ボックスに入れ、今まさにその投票結果が読み上げられ始めているところだった。

その結果、大半の女性たちが、その友人の魅力は優しさだと述べており、私はそれに大いに同意した。彼の優しさは私もよく知っている。彼はそうした評価に幾分照れ笑いを浮かべていた。

すると私の体は、学校の教室の中にあった。そこは学校の教室なのだが、席に着席しているのは全て大人だった。

私は教室の一番端の右列の真ん中よりやや後方の席に座っていた。教壇には、サッカー日本代表の小柄な選手(SN)が立っていて、彼がこれから宗教学及び神話学に関する講義をすることになっていた。

講義が始まってみると、みんな静まり返って彼の話に耳を傾けていた。だが、周りの人たちの表情を見ると、宗教学や神話学に関する話は彼らにとってあまり馴染みのないようであり、内容が難しいと感じているようであった。

一方で、講師を務めるそのサッカー選手は、聴衆の様子をあまり気にしていないようであり、引き続き自分のペースで話を進めていた。あるところから突然彼のテンションが上がりだし、奇声を交えながら講義を進めていく様子は滑稽であった。

教室の中ではおそらく私だけが彼の講義を楽しみ、そしてその内容を理解していたのだと思う。そう思っていると、講師の彼は私を指名し、巫女の誕生背景とその役割について説明するように促した。私はそれに対して、神話学の観点から自説を述べていった。

すると、私の回答は講師の彼の想定を超えたものだったのか、彼は笑顔を浮かべた後に黙ってしまった。すると突然、講師が変わり、ある協働プロジェクトでお世話になっている若い女性の方が教壇に立っており、国語の授業を始めた。

私の印象では、その方の性格は穏やかなのだが、授業が進むにしたがって、気性が荒くなり、言葉遣いが乱暴なものになっていった。私から見ると、その方は何かに対して怒りながら授業を進めているように思えたのである。

そこで私は、隣に座っている女性に、「講師の方は何を怒っているのでしょうかね?」と尋ねた。隣に座っている女性はその講師の女性と知り合いのようであったが、「さぁ、何に対して怒っているのでしょうねぇ」と笑みを浮かべながら述べた。

授業がいよいよ終わるという時になって、左横の列に座っていた何人かの女性たちが立ち上がり、廊下に出て行った。それを見た講師の女性は、「まだ授業が終わってないのに何をしているの!」と怒鳴った。私はそれを見て、女性の性格の変貌ぶりは恐ろしものがあるなと思った。

するとそこでまたしても講師が変わり、今度は小中高時代から付き合いのある友人(HY)が教壇に立っており、数学の授業を始めた。確か数学は彼にとっての苦手科目だったことを思い出し、案の定、彼の授業はいまいちだった。

授業はすぐさま終わり、ちょうど昼食どきを迎えたので、私たちは一緒に昼食を買いに出かけていくことにした。教室を出てすぐに気づいたが、そこは東京のオフィス街の一等地にあり、近くには日本を代表するメガバンクの本社があり、それらは全て地下鉄駅と直接繋がっていた。

友人と私は教室のあったオフィスビルから地下に行き、地下街のどこかで弁当を購入しようと考えていた。さすがオフィス街であるからか、弁当屋がずらりと地下街に並んでいて、どの弁当屋にしようか迷ってしまうほどだった。

しかしなぜか私は、近くにあったコンビニに立ち寄り、そこに置かれている弁当を吟味し始めた。それらに含まれる添加物や栄養の表示を眺めていると、やはり体にあまり良くないものしか置かれておらず、コンビニで弁当を買うことはやめて、ヘルシーな食材で作られた弁当をどこかの弁当屋で見つけようと思った。そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2019/11/4(月)07:42

5133. 開かれつつある新たな感性:一期一会としての音と「それ」の中に安らぐこと

こうしてヨーロッパのある国のとある街で暮らしを営んでいる自分。そんな自分について先ほどぼんやりと考えていた。

今日は月曜日とのことであり、新たな週の最初の平日を迎えたわけだが、フローニンゲンの平日はあいも変わらず穏やかである。時と空間の感覚質が穏やかなのである。

欧米での8年目の生活が、ゆっくりと折り返し地点に向かっている。欧米での生活を始めて、自分がどれほど変わったのかは定かではないが、そこには間違いなく変化があり、とりわけ内面の感覚の変化があった。その変化がどのような類のものであるのかについて先ほどぼんやりと考えていた。

いくつもの観点の中から直感的に選び出されたのは、対極的な文化の中に身を置くことによって、元いた文化的感性を発見し、それが育まれ、そして現在身を置く文化の感性を内在化させるというプロセスから、文化普遍的な感性に向かっていく変化があるということであった。

換言すれば、欧米での生活を始めたことによって初めて、自分の中にある日本的感性が目覚め、それが育まれていくというプロセスが始まり、それと歩みを共にして、欧米の文化的感性が自分の中に流入し、元々対極的であった二つの感性を超えた感性が芽生えつつあるというのが、今自分が体験している感性発達のプロセスなのではないかと思う、ということである。

赤レンガの家々にオランダ的感性、及びヨーロッパ的感性を見出すだけではなく、そこに日本的感性を見る。それができるようになってきた自分の存在は大きい。

日本の侘び寂びを思わせるかのような白銀色の曇った空が広がっている。それは紛れもなくオランダ上空の空なのだが、同時にそれは日本上空の空でもある。それは当たり前すぎるほどに当たり前である。心理的にもそれは正しく、物理的にもそれは正しい。

自分が生み出す一音一音の音が一期一会であるということ。そしてその一音の中に、その瞬間の自分が全て表現し尽くされているということに改めて驚く。

その発見を毎瞬噛みしめながら曲を作っていく。そのようなことを午前中に考えていた。

午前中は、転調を用いた作曲技術とモードを活用した作曲技術の双方を鍛錬していた。その過程の中で生み出された曲を聴いていると、確かに一音一音の中に自分がいるのがわかる。

一音が即自分という存在であるということ。それに驚く。

ということは、一音一音の連なりとしての一つの曲は、自分の存在がフラクタル状に具現化されたものなのかもしれない。瞬間瞬間の自分が通った跡、つまり生きた跡が一つの曲になる。

音を通じて自分の心を形にしていくという試み。その瞬間にしか現れない心の形がそこにあり、同時に永遠に現れ続ける心の形がそこにあると言うこともできる。

とりわけ旋律は、自分の心という生命が生きた跡である。生命が呼吸をした跡としての旋律を大事にしたい。

裸の街路樹に止まっている一羽の黒い小鳥がこちらを見ている。その小鳥を私も見ている。

では、小鳥が自分を見ていると思う自分と、自分が小鳥を見ていると思う自分を見ている自分とは一体誰なのだろうか。いや、そうした自分を生み出している「それ」に気づこう。そこに存在の真理が隠されている。

見られている自分と見ている自分を見ている自分が、「それ」の中に安らいでいる。フローニンゲン:2019/11/4(月)12:49

5134. 魂の物語は永遠に

——長い間、海岸を見失うだけの覚悟がなければ、新大陸を発見することはできない——アンドレ·ジッド

夕方買い物に出かけた時、まだ外は明るかったが、遥か彼方の空に、半月が浮かんでいた。それは地球から遠い太陽の光を反射して、白く輝いていた。

そんな月を見ながら、月旅行の実現についてぼんやりと考えていた。民間人が気軽に月に行けるまでにあとどれくらいの時間を要するのだろうか。

今から何十年も前には、人類が月に行くなんて考えられなかった時代もあったのだから、それを考えると、今から何十年か後、ひょっとするとそれよりも早くに、民間人が気軽に月に旅行に行ける日がやってくるかもしれない。

月から地球を眺めたら、一体どのような気持ちになるのだろうか。自分が生まれ落ちた惑星を外から眺めるという気分はどのようなものなのだろうか。

気がつけば、今日は11曲ほど作っていた。いずれも短い曲なのだが、その瞬間の自分の特定の側面をありありと映し出している。それは確かに側面の描写なのだが、自己の本質を映し出しているとも言える。

フランスの小説家アンドレ·ジッドが、自らの魂そのものと対話する魂の物語としての日記を綴り続けたように、己の魂と対話をするように日記を綴り続けていく。今日もそのような一日であったし、明日もそのような一日なるだろう。

それは日記の執筆のみならず、作曲についても当てはまる。つまるところ、日々の作曲実践は、自分の魂との対話なのである。そして一つの曲、そして無数の曲の総体が、魂の物語になる。

自分は自分の魂と一緒に、こうした物語を紡ぎ出していたのである。それは言葉と音を通じて、これからもなされていくだろう。

明日からもまた、魂のしなりを言葉にし、魂のしなりを曲にしていく。モンテーニュが「人間は揺れ動く生き物である」と表現したように、魂は揺れ動きながら成熟の歩みを進めていく。その揺れ、ないしはしなりは、言葉と音の形になることを待っている。

少し前に、コラージュ画家のニッサン·インゲル先生について言及していたように思う。インゲル先生が突き詰めていったコラージュ的な絵画創作方法を作曲に活かしていこう。

単なるごた混ぜではダメだが、例えば様々な民族音楽のリズムやメロディーをコラージュ的に組み合わせたりしてみよう。その他にも、様々なモードをコラージュ的に組み合わせたりすることを試してみる。

音楽上の様々な要素をコラージュ的に統合させていくようなことをいつか実現できたらと思う。そのための学習と実践を明日からもまた続けていく。

今夜もまだ時間があるから、その学習と実践を少しばかり前に進める。それは衝迫的になされるものではなく、楽しみと喜びの感情に縁取られた自発的な運動としてなされていく。私はその運動を行う者であり、運動を見守る者でもあり、運動を生み出すそれそのものでもある。フローニンゲン:2019/11/4(月)19:21

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