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5096-5101:フローニンゲンからの便り 2019年10月28日(月)

October 30, 2019

本日生まれた9曲

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タイトル一覧

5096. 聖なるもの(ヌミノーゼ)を求めて

5097. 共感と感動の源泉:バラになろうとするバラ

5098. 世界との交感と交流:今朝方の夢

5099. 深まりと終焉:今後訪れたいEU諸国

5100. 成長の等高線

5101. 魔神の温もり

 

5096. 聖なるもの(ヌミノーゼ)を求めて

 

昨日同様に、今朝も午前4時半に起床した。このくらいの時間帯に起きるのが今の私にとってはちょうど良いようである。

 

昨夜も画集を眺めた後に就寝に向かった。夜8時を過ぎてくると、もう活字も頭に入らず、日記を執筆したり、作曲したりする集中力もないように感じられるため、このところは8時を過ぎてからはゆっくりと過ごすようにしている。とはいえ、ついつい9時頃までは読書をしてしまったりするのだが、それでも9時には切り上げるようにしている。

 

昨夜は9時まで、ルドルフ·オットーの『聖なるもの』という書籍を読んでいた。これは先日実家に戻った時に、父の本棚にあったものである。

 

興味があったので手を伸ばして読んでみると、霊性や創造性に関して実に示唆に富む内容が書かれていたため、実家に滞在中も幾分書籍を読み進めていた。読み進めているうちに、これは父が購入したものなのか、それとも私が以前に購入して未読のまま父の本棚に入れておいたのか定かではない。いずれにせよ、何回も読み返したいような書籍であると直感的に気づいたので、本書をオランダに持って帰ることにしたのである。

 

オットーの言葉を用いれば、今の自分は、聖なるもの(ヌミノーゼ)を求めて、日々戦慄するような神秘に触れながら、魔神的な意志に基づいて創造活動に従事している、と言えるかもしれない。今日もそれが具現化された一日になるだろう。

 

たった今天気予報を確認したところ、大変驚いた。昨日の段階では、明日は最低気温が2度の予定だったのだが、なんとマイナス1度になるそうだ。さらに明後日の最低気温は0度である。

 

明明後日からはまた少し最低気温が高くなり、寒さが和らぐが、明日は10月にしては異常な寒さである。ちょうど明日は、かかりつけの美容師のメルヴィンの店に行き、メルヴィンに髪を切ってもらう予定である。いつも多様な話題で盛り上がるのだが、明日はまずはこの異常な寒さについて話題になるに違いない。

 

フローニンゲンの天気予報を毎朝確認することは日課の一つだが、ここ最近はヴェネチアの天気も確認し、両者を比較している。その背景には、再来週にヴェネチアに旅行に出かけるからである。やはりヴェネチアはフローニンゲンよりも暖かいようだ。

 

今回はヴェネチアでホテルと言うよりも、小さな宮殿のような場所に宿泊することにした。落ち着いた環境を求め、運河を眺められる条件を設けたら、その宿泊場所に行き着いた。

 

滞在先のスタッフから先日メールがあり、どうやらこの宿泊施設の中には受付がないらしく、鍵の受けた渡しが必要とのことであり——さらには直接会って歓待をしたいとのことであり——、空港に到着する時間を教えて欲しいと言われた。昨夜はそのメールに対して返信をしておいた。

 

こうした宿泊場所に泊まるのはおそらく初めてであるから、今から楽しみである。特にこの宮殿は1400年代に建築されたものであるから、外装や内装、さらには部屋の中にあるであろう種々の飾りや芸術作品をじっくり観察したいと思う。

 

真っ暗な早朝の世界を眺めながら、ヴェネチア旅行への期待感が少しずつ高まっていく。フローニンゲン:2019/10/28(月)05:31

 

5097. 共感と感動の源泉:バラになろうとするバラ

 

昨夜は、敬愛するニッサン·インゲル先生の画集と小松美羽さんの画集を眺めながら就寝までの時間を過ごしていた。

 

一昨日に近所のスーパーに向かって歩いている時に考えていたことを再び思い出す。そこでは、心眼や魂眼を用いて美を表現していた人について思いを巡らせていた。

 

インゲル先生にせよ、小松さんにせよ、二人がそうした眼を持ってこの世界を捉え、眼には見えない世界を描き出している点に多大な共感を覚えるのかもしれない。しかも、そうした世界が単に描き出されているだけではなく、そこに固有の美があるからこそ、私は二人の作品に共鳴するのかもしれない。二人とも作風は全く異なるが、自分が抱いているこの共感の念と、二人の作品を美しいと思う心がどのように生まれているのかは今後の探究テーマになるだろう。

 

心眼や魂眼を用いて美を表現していた画家としては、その他にオディロン·ルドンなども挙げることができるだろうか。幸運にも、昨年の夏にオランダのオッテルロー村にあるクレラー·ミュラー美術館にて、ルドンの企画展があり、そこでルドンの作品を数多く観た。

 

そこでいくつかの作品を取り憑かれたかのようにじっと眺めている自分がいたことを思い出す。その企画展に関する画集を美術館で求め、それを久しぶりに一昨日の夜に眺めていた。その前日はモネの画集であった。

 

モネの作品にも大変共感し、大きな感動をいつも与えてもらっているのだが、モネはどちらかと言うと肉体の眼を通じて、この実際の世界を描いていたように思える。そうであったとしても、やはり自分の内側には共感と感動がある。それらは上述の画家たちの作品がもたらす共感と感動と同質のものなのか異なるものなのかは定かではない。この辺りもまた自分なりに考えたいテーマである。

 

来週末に訪れるヴェネチアでは、どのような画家の作品と出会うだろうか。今からそれが楽しみである。きっと何かしらの出会いがそこにあるだろう。

 

ヴェネチアに到着した日はもう夕方のため、その日は宿泊場所の近場を散歩する程度に留める。その翌日からが実質上の観光のスタートであり、その日は小松美羽さんの作品が展示されているギャラリーに足を運び、その足で音楽博物館を訪れる。その翌日からは、毎日一つ美術館に足を運ぶ計画を立てている。

 

今回ヴェネチアに訪れることになったのもきっと何かの縁であり、何かからの働きかけなのだと思う。それは外側からの働きかけであるのと同時に、自分の内側からの働きかけだと感じている。

 

そのようなことを考えていると、昨日ふと、「はじめからバラであった私はバラになる」というような言葉が自分の中から生まれてきた。その言葉が出てきたことは覚えているのだが、それがどのように生まれてきたのかはわからない。

 

一輪のバラとしての自分は、今後より一層バラになっていくだろう。これが意味することは難しくない。

 

一輪のバラとしての自分は、究極的にバラになっていくことによって、バラ全体になっていく。それが人間の成熟過程だと言えるだろう。

 

シュタイナーは、「全ての成長は、生きたものが内部から外側に押し出されて死滅し、次第に外部の殻が剥げ落ちること」と述べている。内から外へ、そして外側での一旦の死滅を経て成長が起こるというのは、体験的にもうなづける説明だ。そしてこれは、バラがバラになる過程を的確に説明してくれてもいる。

 

縁と内外の働きかけにより、一輪のバラとしての自己は、今日もまたバラになろうと生命の運動を続けている。フローニンゲン:2019/10/28(月)05:51

 

5098. 世界との交感と交流:今朝方の夢

 

時刻は午前6時を迎えようとしている。外の世界はまだまだ暗く、そしてまだまだ寒い。

 

暗さと寒さに関しては、これからまだまだ深くなっていく。こうした暗さと寒さを待ち望んでいた自分がここにいる。冬の到来を嬉しく迎えようとしている自分がここにいる。

 

こうした暗さと寒さがなければ、自分の内側の魔神的な意志が目覚めないのではないかとここ最近考える。その意志は、創造活動に不可欠のものであり、この世界の神秘や美を捉え、それらに対して畏怖の念を覚えるためにも必要なものである。

 

私の心はいつでもどこでも陽気に笑っている。この世界に開かれ、世界にただあるということを楽しんでいるようなのだ。

 

こうした暗さと寒さに対して笑えるだろうか。笑えるのであれば、自己がこの世界にくつろぎ、この世界の中にただあることを楽しんでいるからなのだろう。そして何より、この世界に対して交感し、交流し合っていることの示唆になるだろう。

 

暗さと寒さに交感し、それらと交流する自己がここにいる。街灯の明かりしか見えない世界。無音という絶対音だけが鳴り響く世界。存在を濃縮してくれるほどの寒さに包まれた世界。そんな世界の中で私は毎日生きている。

 

今朝も筆が赴くままにつらつらと日記を書いている。これでいいのだと思う。

 

そろそろ早朝の作曲実践を始める前に、今朝方の夢について振り返っておこうかと思う。今朝方の夢はすでに断片的な記憶になってしまったが、一つ目の夢は、自分の中の破壊衝動のようなものが具現化されている夢だったように思う。

 

そこには温和な自分と溢れんばかりの攻撃性を持った自分がいて、後者の力を発露させている自分がいた。夢の中でどのような人物が登場していたのかは定かではないが、それは友人ではなく、見知らぬ人たちだったように思う。

 

その中に一人の男性がいて、最初私はその人と何かについて穏やかに話をしていた。ところがあるところから突如として、自分の内側の攻撃性が芽生え、その男性がもはや立ち上がれないぐらいにまで暴行を加えていた。

 

確か最初にその男性が私に肉体的な攻撃を仕掛けてきて、その攻撃があまりにも大したことがなかったため、「攻撃というのはこういうものを指すんです」と手本を示すかのように、その男性を殴打したのだと思う。

 

夢の中で攻撃性が発露される時には、たいていの場合、正義心と親切心に基づいていることが多い。今回は、親切心に基づいた行動だったと言えるかもしれない。

 

だが注意が必要なのは、そうした正義心や親切心の背後には、何か巨大でブヨブヨとした言葉にならない感情があるということである。今回もまた親切心の向こう側にあるそうした感情に基づいて、私はその男性を攻撃していたのだと思う。

 

そこで一度目が覚めた。目が覚めると午前2時頃であり、枕として用いている以外にクッション代りに使っている二つの枕に思いっきりエルボーを喰らわせている自分がいた。その動作は、夢の中で行っていたものと全く同じだった。

 

そこで一度トイレに行き、再度夢の世界に戻ってみると、今度は夢の中で、サッカー元日本代表の選手(HN)と以前会社に勤めていた時の女性の先輩の方と出会った。二人と遭遇したのは、実際に通っていた中学校のグラウンドに似た場所だった。

 

私は、グラウンドで行われているサッカーの練習試合を観戦しており、ちょうど今から自分も試合に混ぜてもらおうかと思っていたところだった。ところが偶然にも、グラウンドを横切っていく一人の男性がいて、誰かと思いきや、その方だった。

 

その方と私は知り合いのようであり、その方と偶然出会ったことを嬉しく思った私は、その方にすぐさま近づいていって挨拶をした。

 

自分の中の記憶では、先日お会いした時には二人で随分と話が盛り上がっていたのだが、この日はどうもその方のテンションが低いように思えた。逆に私はテンションがとても高かったようなので、その方は私の元気のいい挨拶を少々嫌がっているように思えた。

 

その方に挨拶をした直後、後ろから声を掛けられ、振り向くと、前職時代の先輩の女性だった。そこからは、グラウンドの隅っこに張られたタープの下で行われる食事会に参加した。

 

そこにはすでに5~6人の人がいて、全員がすぐにテーブルに着席し、そこからは楽しげな食事会が始まった。だが私は、サッカー元日本代表のその選手の方と改めて落ち着いて話がしたいと思い、食事会が始まった直後に、その方に再び声をかけに行った。フローニンゲン:2019/10/28(月)06:18

 

5099. 深まりと終焉:今後訪れたいEU諸国

 

時刻は午後の7時を迎えようとしている。今日もまた一日がゆっくりと終わりに近づいていく。それは小さな一歩だが、確かな一歩だ。それは成熟に向かう一歩であり、人生の終焉に向かう一歩でもある。

 

何かが深まっていくというのは、裏を返せば、終焉に向かっていく過程だとも捉えることができるのではないだろうか。深まりと終わりは表裏一体の関係にあったのだ。

 

何かが自分の中で深まること、そして自分自身が深まっていくことは、人生の終わりに向かっていくことでもあったのだ。それを悲壮がる必要は全くない。

 

深まった自己を持ってして開ける終焉の扉の向こうには、きっとまた何かが待っている。そのような死生観らしきものが芽生えてくる。そうしたものを芽生えさせ、育ませるような外部環境がここにある。

 

辺りはもう真っ暗である。自宅の前の道路を走る車の音が聞こえてくる他には、街灯のぼんやりとした明かりだけが見える。

 

夕方買い物がてら近所の運河沿いをジョギングしている際に、飛行機が空に向かって飛び立っている姿を見た。私はまだ一度しか利用したことがないが、おそらくフローニンゲン空港から飛び立った飛行機だったのだと思う。

 

飛行機が空に向かって上昇しているのを眺めていると、幾分不思議な恍惚的感情が芽生えた。天に向かっていく事物に対して芽生える独特な恍惚感だと言えるだろうか。

 

飛行機が雲に隠れるまで私はそれを眺めていた。視線を下に下ろすと、運河の水面が夕日で輝いていた。そして道端の落ち葉もまた光り輝き、木漏れ日が優しく体を包んでくれていた。

 

またしてもとっさの思いつきなのだが、改めてEU諸国を調べてみた際に、まだ足を運んでいない国々に近々行ってみようと思った。それらをざっと列挙すると、ブルガリア、クロアチア、キプロス共和国、チェコ、エストニア、ギリシャ、アイルランド、ラトビア、リトアニア、ルクセンブルグ、マルタ共和国、ルーマニア、スロバキア、スロベニアだ。

 

その他のEU諸国についてはすでに足を運んでいる。列挙した中でも、フローニンゲン大学でオランダ語のクラスを履修していた際に仲良くなった中国人のシェンがお勧めしていたように、バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアにはまず足を運んでみたい。

 

また、フローニンゲン大学の一年目にはルクセンブルグ人の友人もでき、彼の話をもとにすると、ルクセンブルクも面白そうな国だと思う。そういえば、オランダで生活を始めた最初の年か次の年に、夢の中で「リガ」という地名が出てきて、後々になってそれがラトビアの首都だということを知ったということがある。その夢については過去の日記で書き留めており、確か見知らぬ女性か友人の女性がその地名を出してきたのだと記憶している。

 

ラトビアの首都リガに何があるのだろうか。どのようなものがそこで私を待ってくれているのだろうか。そのようなことをぼんやりと考えさせてくれる闇夜が目の前に広がっている。今夜もまたあとしばらくしたら、闇夜のように深い夢の世界の中に落ちていく。フローニンゲン:2019/10/28(月)19:09

 

5100. 成長の等高線

 

—人は神を理解できないが、神を感じる——ルター

 

夜を迎えた今になって今朝方のことを振り返っている。こうした振り返りはあって良い。むしろそうした振り返りを行える時間的なゆとりがあることは幸せであり、その日を振り返ることができることもまた幸せなことなのだ。

 

今日という帰ってこない一日の味を再度噛み締める。それは何度噛み締めても充実感の果汁が溢れてくる。本当に充実した日々というのはそういうものだろう。

 

今朝は午前6時過ぎに小鳥のさえずりが聞こえた。昨日の朝には、小鳥の鳴き声が聞こえないことを残念がっていたのだが、今日は小鳥たちのさえずりが聞こえ、その美しい音の流れにただただ身を委ねていた。

 

白銀がかった旋律の流れがそこにあったのである。それはもう、耳を傾けた瞬間に一瞬にして観想的な意識にいざなってくれた。いやひょっとすると、それは非二元の意識に持っていく力さえあったと言えるかもしれない。

 

外の空気を吸いに出かけた夕方にも小鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえてきて、私はそれが聞こえた瞬間に立ち止まった。自分という存在がそこで立ち止まったのである。

 

理性を介さずして、感性を通じて深く内的にわかるということ。欧米での生活が始まって以降、そうした体験を頻繁にするようになった。

 

とりわけ欧州にやってきてからはその頻度が増すばかりである。もしかすると、日々そうした体験が身に起こっているかのようにすら思う。

 

忘我状態から忽然と溢れ出す感動の波。今日もそうした波の中にいた。

 

波の上にいたというよりも、波の中に入り込んで、波そのものと化していたように思える。心の中の呼び声がどこからともなく聞こえてくると、そこでハッとして、私は波の上に浮上してくる。すると私は、心の中の呼び声に立ち上がるのと同時に、波の上にも立ち上がる。

 

夕方、自己の成熟の歩みが等高線を形作っているように知覚された。それは成長の等高線であり、中心から外へ外へと、そして逆に見れば内へ内へと広がっていた。

 

今自分はその等高線のどのあたりを歩いているのだろうか。外から内へ、内から外へと広がっていく内的等高線をぼんやりと眺めていると、中心点と自己のお互いの目が合う瞬間があった。それは究極的な自己一致なのかもしれない。

 

人知を超えたものがこの世界に絶えず遍満し、揺らめいている。そしてそれは絶えず自己の周りを包んでくれているかのように思える。私はそれが何なのかを理解することはまだできないが、それを感じることならできる。フローニンゲン:2019/10/28(月)19:21

 

5101. 魔神の温もり

 

——魔神的なものとは、悟性や理性では解き明かし得ないもののことだ。それは好んで薄暗い時を選ぶものさ。ベルリンのような明るい散文的な都市に現れる機会は滅多にあるまいね——ゲーテ

 

イタリアで生まれたピアノ曲をイタリア人のとあるピアニストが演奏している音楽に耳を傾けている。来週末から訪れるヴェネチアでは、このピアノ曲集を静かに味わいたいと思う。

 

今日は気がつけば、9曲ほど小さなピアノ曲を作っていた。本当にピアノ曲を作って作り続ける日々が続いている。こうした日々がいつまでも続いてほしいと静かに願う。

 

本当は毎日10曲ほど作りたいのだが、今の自分の技量と集中力の容量ではそれは難しい。焦って10,000曲作る必要はない。

 

確かに10,000曲の習作を作って初めて、自分なりの作曲語法がようやく見えてくると思うのだが、そこに至るまでのプロセスを焦ってはならない。一つ前の日記で書き留めたように、成長の等高線上の歩みは緩やかなのだから。

 

夕方、曲を作っている最中にふと、作曲とは本当に音で空間を作っているのだとわかった。音は時間を常に包摂しており、時間と空間の関係上、曲を生み出すというのは単にそこに音を通じた時間を生み出すのみならず、音を通じた空間を生み出すことにもなるようだ。

 

音を聞きながら、私は何か特殊な空間知覚をしているのかもしれない。今後は、より一層空間造形としての作曲を意識してみよう。

 

そうなってくると、普段の生活の中では、建築物を意識的に観察してみよう。来週から滞在するヴェネチアでは、建築芸術をよくよく眺めてこよう。

 

これまで私は絵画芸術の観賞を好んできたが、これからは建築や彫刻のような空間造形的なものを意識的に鑑賞したいと思う。

 

そういえば、先日実家に戻ったときに、実家のリビングに大事そうに飾られている焼き物などを熱心に眺めている自分がいた。焼き物の味がようやくわかるような感性が育まれてきたのかもしれない。そうした感性が今日の夕方にふと、作曲実践を通じて上記の気づきを生んでくれたのだ。

 

あぁ、小雨がポツポツと降り始めてきた。冷たく真っ暗な世界に雨がしたたる音が響く。

 

ゲーテが述べているように、こうした暗い世界の中に魔神的なものが現れ、それが自分に迫ってくるのかもしれない。見かけだけ明るく取り繕った大都市の中で魔神を見かけることはなく、それを感じることもほとんどできない。私は魔神と出会うためにこの街で暮らしているのかもしれない。

 

自分が静寂さと平穏さに感謝をし、冷たく暗い世界の中で黙想的にただ独り座していると、魔神は静かに歩み寄ってくる。その歩み、そして魔神の温もりを感じることができる。

 

今外の世界に降り注いでいる小雨は明日には止むだろう。そしていつの間にか小雨の痕跡は跡形もなく消え去っているだろう。魔神の温もりが、小雨の跡を蒸発させるのかもしれない。フローニンゲン:2019/10/28(月)19:37

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