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4786-4790:フローニンゲンからの便り 2019年8月4日(日)


タイトル一覧

4786. 食生活の微修正

4787. ロシアを舞台にした夢

4788. 穏やかさ・優しさ・喜び・至福さ:5ヶ月前のパリ旅行を回想して

4789. 今朝方の夢の続き

4790.『インテグラル理論』オンラインゼミナールの第5回目のクラスを終えて

4786. 食生活の微修正

辺りはすっかり明るくなり、朝日が赤レンガの家々の屋根を照らしている。一切風がなく、穏やかな日曜日が静かに産声を上げた。

昨夜も冷え込んでおり、寝るときは窓を閉めるようにしていた。まだ8月も始まったばかりであるから、これからもう一度気温が上がる日も出てくるだろうが、季節が変わり目を迎えようとしていることを実感する。

昨夜は9時半を過ぎる頃になると、もう夕陽が西の空にほぼ沈みかけていた。そこからも日没時間が早くなっていることを実感した。季節の変わり目ゆえに、体調には気をつけていこうと思う。

今朝は早速、昨日購入したヘンプオイルをスプーン一杯摂取してみた。オメガ3脂肪酸とオメガ6脂肪酸が絶妙な割合で含まれているこのオイルを摂取することを続けてみて、自分の細胞の細胞膜がどのような質を持ち始め、どのような動きをするのかを自己観察していきたいと思う。

午前中に何を摂取するのかに関しては若干変化があり、ヘンプオイルを摂取する前に一杯の水を飲むだけではなく、オイルを摂取した後にもゆっくりと一杯の水を飲むようにし始めた。これまではすぐに小麦若葉を白湯もしくは常温の水に溶かしたものを飲んでいたのだが、昨日よりさらに一杯の水を飲むことにした。

午前中は身体がデトックスをする時間なのだから、身体がデトックスに集中できるようにしていく。つまり、午前中には果物以外の固形物を摂取しないということを徹底させていく。これについてはもう何ヶ月も、いや何年も行っていたことであるが、午前中に食べていたバナナに関しては、昼の時間あたりに摂取しようと思う。

午前中に関しては、小さなリンゴを2個食べるだけで十分だということが昨日からもわかり、それは前々から薄々気づいていた。とにかく午前中はデトックスを楽しみ、適度な空腹感を感じ、それを味わうようにして過ごしたい。

ここから一杯の水を飲み終えたら、小麦若葉ドリンク、大麦若葉ドリンク、ベジブロスと玄米味噌を用いた具なしの味噌汁、カカオドリンクと続いていく。それぞれを一つずつゆっくりと飲み進めていくため、一杯目のカカオドリンクを飲み始める頃には午前中も半ばを迎えており、続いて二杯目を飲み終える頃には昼の時間になっている。

カカオドリンクを飲む際の工夫としては、一杯目に関しては、カカオパウダー、カカオニブ、ヘンプパウダー、そしてハチミツを加えている。一方、二杯目に関しては、ハチミツの代わりにココナッツオイルを加えている。いずれの飲み物も全て良質なオーガニックなものを使っており、栄養が豊富なためか、午前中は空腹感を感じることはほとんどない。

上記で空腹感を味わうと書いたのだが、実際にはそれをあまり感じられないぐらいに、それらの飲み物の栄養価は高い。もちろん、午前中は果物以外に何も固形物を摂取しないので、腹が鳴るのだが、それと空腹感は別である。

昼に関しては一切何も固形物は摂っていない。これまでは、具なしの味噌汁を昼時に一杯飲むこともあったが、数日前からはそれもなくなった。必要であれば、味噌をスプーン一杯ほどすくって口に運ぶぐらいである。

早朝の味噌汁に用いるのは八丁味噌、昼にすくって食べるのは麦味噌、夜の味噌汁は玄米味噌を使っている。こうした食生活を送っていると、本当に心身の状態が良くなり、一日を最初から最後まで活力溢れる形で過ごすことができる。半年前やこれまでの食生活は一体何だったのだろうかと改めて思う。フローニンゲン:2019/8/4(日)06:52

No.2436: The Brilliant End of a Day

The twilight shows the brilliant end of today. Groningen, 20:22, Saturday, 8/3/2019

No.2437: Appreciation for Plenty of Geniality

The world in front of me is full of geniality. I just appreciate it. Groningen, 08:58, Sunday, 8/4/2019

4787. ロシアを舞台にした夢

とても穏やかな日曜日の朝の世界が目の前に広がっている。そっと佇む街路樹に一羽の小鳥が休んでいる。時折ぴょんぴょんと跳び跳ねながら場所を変え、小枝に止まって休んでいる姿は愛らしい。

今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、早朝の外の世界を眺めながら、覚えている範囲のことを書き留めておきたい。夢の中で私は両親と共にロシアにいた。ロシアの片田舎の町に訪れており、その町の駅で列車を待っていた。

その駅はとても小さく、無人駅である。プラットホームは二つしかなく、駅の向こうには傾斜のなだらかな山々の姿が見え、その手前側は野原になっていた。

プラットホームの脇にあった機械で切符を購入しようとしていると、すぐさま列車がやってきた。父が切符を持たずに列車に乗り込もうとしたので、私は父を止めた。

ひょっとすると列車の中でも切符を購入できるのかもしれないが、国によってはそれは違反であり、違反料金を追加で支払うケースがあることを知っていたため、一本列車を見送ってでも、切符をちゃんと購入してから列車に乗り込むのが賢明と思われた。しかも今私たちがいる場所はロシアであり、幾分この国には得体の知れなさがあったので、なおさら行動には注意が必要だと思った。

列車は思っていた以上に長くプラットホームに止まっており、素早く人数分の切符を購入すれば列車に乗れたかもしれないと思ったが、機械の前に並ぶ目の前のロシア人も観光客のためか、切符の購入に手間取っており、その間に列車は出発してしまった。

列車を見送ったことにより、逆に心にゆとりが持て、私は人数分の切符をゆっくりと購入した。するとちょうど良いタイミングで再び列車がやってきた。先ほどの列車と同様に、三両編成ぐらいのとても小さな列車であり、色は赤であった。

列車の停車位置が先ほどよりも少し後ろの方になってしまったが、私たちはプラットホームを少し移動して、無事に列車に乗り込んだ。すると、そこから瞬間移動をするかのようにして、気がつけば私たちはロシアの空港駅にいた。

先ほどまでは両親しかいなかったのだが、そこには母方の祖母の姿も見えた。どうやらこれから四人でロシア国内を飛行機で移動するのか、ロシアから別の国へ飛行機で移動することになっているらしかった。

祖母の手元を見ると、すでに航空券のようなものがあり、それをどこで入手したのか尋ねてみた。祖母の指差す方向を見ると、そこには列車のチケットを航空券に替えられる機械が置かれており、それを早速使って航空券を入手しようと思った。

機械の前に立つと、言語の種類を選ぶことができた。そこには日本語も選択可能であったが、たいていこういう場合英語を選択するようにしている。自分が日本人であることを隠すような意図が働いているのか、なぜか英語を選ぼうとする自分がいる。

英語を選択していざ航空券を入手しようとすると、突然機械の前に割り込んでくる人がいた。見ると、ロシア人の小学生らしい男の子だった。いや、よくよく見ると、ロシア人ではなく、中国人の男の子だった。

そばにいたその子の母親が何か中国語で話していたのだが、私にはそれは理解できず、ただし母親の口調や素振りなどを見ていると、「早く航空券に替えてしまいなさい」というような意味ではないかと推測された。

自分は先に並んでおり、すでに機械のボタンを幾つか押して交換手続きに入っていたため、中国人の男の子が私を押しのけて割り込んできたことに対してはいい気持ちには当然ならなかった。

一瞬私は、「社会正義的成敗」という名の下に、その子供にラリアットか何かを思いっきり食らわそうかと思ったが、今立っている場所がロシアの領土なのか中国の領土なのかによって法律が変わり、子供を殴ったら重たい刑罰に処されるかもしれないということが脳裏をよぎり、自分の心を落ち着かせた。

そうこうしているうちに、その子はすぐさま航空券を入手したようであり、私は再び平常心に戻って交換手続きを一からやり直すことにした。その時に、一度日本語のボタンを押したのだが、すぐにキャンセルをして英語のボタンを押した。そこで夢の場面が変わった。

上記の夢は何かと印象に残っている。ロシアを舞台にした夢はこれまであまり見たことがなかったように思う。

モスクワ旅行が実現しなかったハプニングについては以前の日記に書き留めたとおりである。実は昨夜、ロシアの作曲家ムソルグスキーの楽譜を30分ほど何気なく眺め、そこから就寝に向かっていたということがあった。

ひょっとすると、やはり自分の中にはロシアに惹かれる何かがあるのかもしれない。それが夢の世界に滲み出していたのかもしれないと思う。

また夢の最後の場面においては、日本語を用いることを頑なに拒絶する自分がいることもまた興味深かかった。夢の中の私の行動は、現実世界においても当てはまっており、公共交通機関のチケットの購入や美術館などでのチケットの購入、オーディオガイドなどに関しては、日本語があったとしても決してそれを選ばず、英語を選ぶ自分がこの8年間ほど存在している。

日本に一時帰国した時だけは、そうした場面において日本語を選んでいる自分がいるのだが、そうした自分の背景には何があるのかを探求してみるのも悪くないだろう。幾つか思い当たる節があり、それらを起点にして探求をしてみよう。

最後に、航空券の交換機の前で割り込んできた少年に対して、私は一切の危害を加えることもなく、その子に先を譲ってあげたという行動も興味深い。夢の中の自分は日常生活においては抑圧されている攻撃性を発揮することが多く、仮に割り込んできたのが大人であれば、有無を言わずに暴力を振るっていたように思う。表情は至って冷静のまま、まるで何も感情を抱かないような形で腕の骨を折っていたか、内臓が損傷するようなパンチを腹に入れていたように思う。フローニンゲン:2019/8/4(日)07:22

No.2438: Afternoon in a Cold Summer

I feel that this summer has been very cold. Groningen, 12:49, Sunday, 8/4/2019

4788. 穏やかさ・優しさ・喜び・至福さ:5ヶ月前のパリ旅行を回想して

昨日の夕暮れ時は実に華麗な姿がそこにあった。その様子を思い出しながら、今朝の爽快な空を眺めている。

欧州での生活が一日一日と進んでいくごとに、奇妙なのだが、生きていることの不思議さが強まっていく。この世界の中でこうしてこのように生きていることが不思議であるという感覚が日々強まっていく。それは決して存在の不安定感を示しているものではなく、むしろ存在の絶対的な安定感、ないし安住感が増していく感覚を伴っている。

思考を司る自己は、「いやはや、何でこんな世界に自分はこのように存在しているんだ?」と考え始めたりするのだが、いつもそれを超えた何らかの存在が微笑し、自己がその微笑そのものと同一化することによって、よく分からない不思議な安心感に包まれる。今この瞬間もそうした感覚に包まれているように思う。

今日はもう二時間ほどしたらオンラインゼミナールのクラスがある。このクラスに関しても、確かにそれはあるのだが、果たしてそれはあると言えるのだろうか、という問いが立つ。

存在証明なるものを実行することは難しい。あるのだがなく、ないのだがある不思議な世界で日々が過ぎていく。

あるのだがなく、ないのだがある世界の中で、私は自分にできるあるのだがなく、ないのだがあることをしていく。本当に毎日はそうした感覚の中で過ぎていく。

厳密には、そうした過ぎていくという感覚は超越されており、過ぎていくのだが過ぎていかず、過ぎていかないのだが過ぎていく感覚が絶えず自分の中にある。その感覚はどうやら「ある」と言えるようだ。

優しい黄色に輝く朝日がフローニンゲンの街を包んでいる。穏やかさと優しさ。穏やかさと優しさ。穏やかさと優しさ!!!

生きる喜びを超越した喜び。生きる喜びを超越した喜び。生きる喜びを超越した喜び!!!

この世界にあるのかないのか分からないが、それを超えたところにある絶対的な至福さ。絶対的な至福さ。絶対的な至福さ!!!

それらが全て今この瞬間の自分の内側の世界にある。願わくばそれが、自分の無限大に大きく小さな内側の世界を超えていき、外側の世界にあってもそうであってほしい。

先ほど今朝方の夢を振り返っている際に、ムソルグスキーについて触れていたように思う。昨夜は、一日の活動に区切りがついた後、書斎のソファーの上に積み上げられた楽譜群から何冊か楽譜を手に取り、それを一つずつ眺めようと思った。

真っ先に手に取ったのが5ヶ月前にパリの楽譜屋で購入したムソルグスキーの楽譜だった。その楽譜をぼんやりと眺めていると、ただ単に何気なく眺めていただけだったのだが、いろいろな発見があり、存在的な促しや励ましを受けた。

その楽譜に引き続き、パリ市内の楽譜専門店Ariosoで購入したムソルグスキーの別の楽譜を眺めていた。その楽譜屋では大量に楽譜を購入したため、随分と割引をしてもらったのを覚えている。その楽譜屋で購入した楽譜の背表紙を眺めると、我ながらいい買い物をしたと改めて思った。

ムソルグスキー以外の作曲家に関しては、今から330年以上も前に活躍したスカラッティが残した楽譜を眺め、大きな感銘を受けていた。楽譜を通じて、時空を超えて作曲家と対話のできる楽しみ。

依然として今の私は、楽譜から多くを汲み取ることができるほどに音楽的な知識はない。だが、これから着実に学習と実践を重ね、楽譜を通じた作曲家との対話を少しでも実りあるものにしていきたいと思う。

毎晩就寝前の一つの楽しみは、楽譜を眺め、作曲家と少しばかりおしゃべりすることである。この楽しみを続けていこう。

そしてそうした対話をもとに曲を作っていき、目標など掲げるつもりは毛頭ないが、まずは少なくても10,000曲を作ってスタート地点に立とうと思う。10,000曲を作って初めてスタート地点に立つことができれば、自分の楽譜が徐々に天高く積み上がっていく道を歩み始めることができるかもしれない。フローニンゲン:2019/8/4(日)07:47

No.2439: If Joyful, You Are Joyful

“If+adjective” = We are the adjective, which is a quite simple sentence, but it’s enigmatic for some people. Groningen, 14:45, Sunday, 8/4/2019

4789. 今朝方の夢の続き

書物を通じた学習が先ではなく、実践を先に持ってきてとにかく実践を重ね、ふと書物を通じた学習に戻ってくると、そこには深い学びがある。そのようなことを最近よく実感している。

日々作曲実践を積み重ねていくと、当然ながらうまくいかないことや、楽譜上において作曲者の意図が全くわからないことがあるのだが、それでも実践を重ね、ふと音楽理論や作曲理論の書籍に戻ってくると、そこで大きな発見と気づきを得ることがある。そうした大きな発見と気づきは、やはり自分の直接体験と結びついており、何かしらの直接体験がなければ得難いものなのだと思う。

今の私には書くことしかない。文章を書き、曲を書くことが全てであり、それ以外には何も目に入らない。いや目に入ることは沢山ある世の中に生きているため、何も目に入らないというよりも、書くこと以外は何も存在に入らないと述べた方がいいだろう。

いずれにせよ、今日も書くことによって一日が始まった。そして書くことによって一日が終わるだろう。

目的など持たずにとにかく書き続けること。逆にいれば、それが究極的な目的なのだろうか。

今日もゆったりとした気持ちの中で、落ち着きと激しさを伴わせて書くことに従事していく。

無風の世界に朝日が優しく降り注いでいる。黄色く、さざ波のような優しい朝日。

全く新しく目に映るこの朝日は一体なんなのだろうか。さざ波としての光がここにあり、踊り子としての光がここにある。至福さを運ぶさざ波と、至福さを滲ませる踊りがここにある。

早朝の作曲実践を始める前に、今朝方の夢の続きについて振り返っておきたい。夢の中の私は、ロシアの森の中にあるスポーツ施設で遊んでいた。そこはロシアの森を開拓し、基本的には子供たちが遊べるような様々な施設を持っていることで有名なようだった。

もちろん、大人も遊べるような施設がそこにはあるが、施設の全てはスポーツ関係のものである。私が遊んでいたのは、木と木の間にロープを張って、そのロープを滑車のように移動していくものである。この設備の名前については定かではないが、私はその遊びに興じていた。

これは子供時代にも行っていた遊びなのだが、そこに置かれていた設備は、子供には少々危険な高さを持っていた。そのため、子供たちはその設備で誰一人として遊んでおらず、実際のところはそれで遊んでいるのは私しかいなかった。

ロープに括り付けられた滑車のようなものを使って、下に落ちないように向こう側の木に辿り着いた時、誰かが私に声をかけてきた。周りにいたロシア人だろうか。声は日本語のように聞こえたのだが、結局誰が声をかけてきたのかわからないままに夢の場面が変わった。

最後の夢の場面では、知人が最近大学受験をしたそうであり、試験問題を見せてもらっていた。その知人はすでに京都大学を卒業しているのだが、再度京都大学を受験したそうだ。

まずは国語の問題を見せてもらった時に、特に古文の問題が独特であることが興味深く思った。また、現代文や漢文にせよ、設問文が全て古風な日本語で書かれていることも面白く感じた点である。

その知人は頭脳明晰であったから、今回の再受験も難なく突破できるだろうと私は思っていた。そんな知人であってもやはり国語の問題は難しかったのか、正答率はそれほど高くないことが解答集に書き込まれた彼の解答から伺えた。

私はぜひ数学と英語の問題も見せて欲しいと友人にお願いをした。そのお願いをしたところで夢から覚めた。目が覚めた時、そこには朝日がまさに昇ろうとしている輝きがあった。フローニンゲン:2019/8/4(日)08:12

No.2440: A Lingering Scent of a Dream

It is the afternoon that I feel a lingering scent of a dream. Groningen, 16:12, Sunday, 8/4/2019

4790.『インテグラル理論』オンラインゼミナールの第5回目のクラスを終えて

たった今、『インテグラル理論』を取り上げたオンラインゼミナールの第5回目のクラスを終えた。今日は日曜日クラスがあった。

クラス終了後、すぐに口からこぼれたのは、「ゼミナールに参加してくださっている皆さんからの話はなんて面白いのだろうか」というものだった。一人一人の方の話に固有の洞察と面白さがあるだけではなく、クラスの進行に応じてそれらが繋がってくることにも大きな面白さを感じていた。

今日のクラスでも改めて実感したのだが、やはりこちらから何かを話す必要などほとんどないのではないかということだった。もちろんクラスの中では、ゼミナールの主催者として、また講師の立場として話をすることはあるのだが、今日改めて思ったのは、一人一人の方の中に、次のステップに向かっていく答えないしは道筋がすでにあるのだということだった。

こちらの狭い度量衡で見出された道筋を示すのではなく、一人一人の方が自分なりに発見した道筋を場に共有してくださっていたことに改めて感銘を受けている。今日のクラスの中で取り上げられた論点はいずれも興味深く、それぞれに対する受講生の方々のご意見は非常に貴重であった。

私自身も今日のクラスの録音音声を改めて聞いてみようと思う。いや、今日のクラスのみならず、これまでのクラスの録音音声をゆっくりと聞き返したい。

多様な領域の探求者・実践者の方々とこうした場を通じて対話をさせてもらえるというのは、やはり私にとってもとても有り難いことなのだ。

おそらく今後は書籍の出版なども控えようと思っている都合上、次回のゼミナールの開催予定は今のところない。前回のゼミナールから今回にかけて二年ほどの期間が空いてしまったように、仮に次回ゼミナールをするとしても、今から数年後やもう少し先のことになってしまうかもしれない。

とはいえ今日のクラスのように対話の意義を実感すると、今後はゼミナールというまとまった回を持つ場ではなく、二、三回程度の一連のセミナーなどを開催してみるのも良いかと思った。そこでは今回のようにインテグラル理論と成人発達理論を中核的なものに据え、今回のゼミナールを踏まえて、さらに発展的・応用的な事柄も取り上げた内容にできればと思う。

気がつけば、時刻は正午に近づきつつある。眼前に広がる世界は優しさに満ち溢れており、ただただそれに感謝をする自分がここにいる。肌寒い夏のフローニンゲンの日曜日が、このようにして静かに流れていく。

自分にできることは、この人生を今この瞬間にこの場で生きているような形で生きて行くことだけなのだ。

一台の車が目の前の通りを過ぎ去り、また別の車が通り過ぎていった。一つのそよ風が街路樹をさすり、また別のそよ風が街路樹をさすって去っていく。来し方行く末を超えた今がこの瞬間に絶えず顕現している。フローニンゲン:2019/8/4(日)11:36

No.2441: A Calm Moment in the Afternoon

I’m enjoying a calm moment in the afternoon. I realize that today also approaches the end. Groningen, 16:55, Sunday, 8/4/2019

No.2442: The Sun That Doesn’t Set

I’m thinking about the sun that doesn’t set, seeing the sun that sets earlier. Groningen, 19:52, Sunday, 8/4/2019

No.2443: A Ring of Passion

A ring of passion shows up in the sky. Groningen, 20:28, Sunday, 8/4/2019

8月4日(日)に生まれた曲

本日の曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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