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4514-4520:フローニンゲンからの便り 2019年6月7日(金)


タイトル一覧

4514. 遅く起きた朝に:内省と無限

4515. 起業家ビザの申請に向けて:作曲実践に対する励まし

4516. 今朝方の夢

4517. 外国語と母国語、そして自己理解と自文化理解

4518. 今朝方の夢の続き

4519. 集中状態を作るための習慣の確立に向けて

4520. 久しぶりの雷雨と今朝方の夢の断片

4514. 遅く起きた朝に:内省と無限

時刻はちょうど午前6時を迎えた。今日の起床時間はとても遅く5時半であった。

ここ最近は2時半や3時半、遅くても4時までには起床していたため、5時半の起床がまるで寝坊のように遅く感じられる。就寝時間は毎日固定の10時であるが、実際に床につくのはもう少し早い。

寝る時間はいつも同じなのだが、起床時間が少し変動する姿を見ると、自分の内側では、自分にわからぬリズムで運動する何かがあるのだろう。今日の起床時間は5時半と遅かったが、目覚めた時にはすでに朝日が昇り始めており、明るい気持ちで起床することができた。

6時を迎えた今は、朝日が随分と昇っており、赤レンガの家々の屋根に黄金反射している。反射された光を通して、道路の街路樹が輝いて見え、木に止まる小鳥たちも幸せを感じているように思う。

そして何より、そうした光景全体を眺めている自分も幸福さを感じている。そうした状態にあるのが起床直後の今の自分の姿である。

今の気温は9度と少し肌寒いが、寝室と書斎の窓を開け、新鮮な空気を取り入れている。今日は昨日と異なり、風も穏やかであり、世界がまた新たに誕生したかのような雰囲気を発している。そうした中で、自分も今日からまた生まれ変わり、新たな一日を過ごしていく。

生まれ変わりの連続を通じて、自己が絶えず刷新されていき、どこかへ進んでいく自己と、どこかへ還る自己の双方がいることに気づく。進みながらにして還ることと、還りながらにして進むことの両事象が同時に内側に生起している。

明日からはまた最高気温が20度を下回り始めるのだが、今日は24度まで上がるらしい。今朝の様子だと、日中は暖かさを感じられるだろう。しかし夕方の5時以降から数時間ほど小雨が降る予報が出ており、今の外の様子からはにわかに信じられないが、今日の天気はそのようになるようだ。

今日は午後に、オランダに住む友人との交換セッションがある。5時まで天気が持ちそうであれば、そのセッションを終えた後にジョギングに出かけ、もし5時よりも早い時間帯に運動に出かけた方が良ければ、正午前後にジョギングに出かけていくようにしたい。このあたりは天気との相談である。

昨夜は就寝前にふと、日々を内省的に生きることについて考え、内省そのものについても考えていた。内省をするというのは、自己及び自分が生きる世界を万華鏡で覗くことに喩えられるのではないかと思えてきた。

自分の手を動かしながら万華鏡を覗くと、見えてくるものが変化する。これと同じように、内省における観点を動かしながら自己及び世界を眺めてみると、見えてくるものが変化する。

そして何より、観点というのは無限個存在しているのだから、内省を通じて見えてくる自己の姿と取り巻く世界の姿は無限の数あるということになるだろう。また興味深いのは、無限の観点から一つ選ぶと、「無限-1」となり、それは依然として無限であるということだ。

いかなる観点をいくつ採用して内省をしようが、自己及び取り巻く世界は絶えず私たちに無限の表情を見せてくれるのである。この点に内省の奥深さと不思議さを実感していたというのが、昨夜の就寝前のベッドの上の自分である。

今日もまた、いつものように、いや昨日よりも広く深く内省的に生きたいと思う。フローニンゲン:2019/6/7(金)06:20

No.2037: A Splendid Morning Dance

The world is doing a splendid morning dance, and so am I. Groningen, 11:58, Friday, 6/7/2019

4515. 起業家ビザの申請に向けて:作曲実践に対する励まし

数羽の小鳥たちが遠方より清澄な鳴き声を奏で、それがそよ風によって運ばれてくる。奏でられる鳴き声に耳を傾け、そよ風に揺れる街路樹を眺めているだけで、この世で生きていることの深層的な喜びを実感する。

その喜びは嚙みしめられるものというよりも、自己の奥底の深海に深く浸潤していくようなものである。そして、浸潤した喜びは、自分の内側で遍満し、それが再び自己の奥底へと浸透していく。

オランダでの滞在許可はこの8月17日に切れる。昨年一年間は、アメリカで言うところのOPT制度——オランダでは英語で“search year”制度と言う——を活用して、オランダの地に滞在していた。

オランダの大学や大学院を卒業するとこの制度が使え、一年間何もしていなくても滞在することが可能になる。その制度を活用した滞在許可がこの8月で切れてしまうので、そろそろ起業家ビザの申請に向けて準備をしたい。

もちろん、今のところ、将来的にはオランダで永住権を獲得しようと考えているが、とりあえず今は3年で更新を続けていく起業家ビザの取得を行う。すでに多くの人に知られているように、日蘭の関係性のおかげもあり、日本人はオランダで起業家ビザを取得することがかなり楽である。

私の場合、幸いにもオランダの大学院で修士号を二つ取得しているため、大学院での学びと申請する事業の内容を関係付ければ、ほとんど問題なくビザを取得することができるのではないかと思う。6月末から7月の初旬にかけて行われるモスクワ旅行から帰ってきたら、一気にビザの申請準備に取り掛かりたい。

7/6(土)は一日中時間があるために、そこで申請書に記載をし、オンライン上で申請ができるのであれば、その日のうちに申請を行っておく。また、すでに申請する事業の内容についてもアイデアがあるため、あとはそれらをワード数ページにまとめ、事業申請資料としていく。

昨年、search year制度を活用するために、オランダ政府のウェブサイトから申請を行ったのだが、何も問題なく申請ができ、滞在許可を得ることがスムーズであった。もちろん、今回は別の種類の滞在許可になるのだが、これまで二種類の異なる滞在許可を得てきた経験があるために、今回もさほど手こずることはないのではないかと楽観的な予測を立てている。

とはいえ、滞在許可が切れる直前で慌てて申請をしたくないため、余裕をもたせて7/6から申請手続きを始め、仮滞在許可書を早めに入手しておきたいと思う。

今日は、午前中のすべての時間を創造活動に充てることができそうだ。旺盛な作曲実践、そしてコード進行に関する理論書を紐解いていく。昨日と同様に、今回は一章一章を精読しており、そして夜寝る前にその復習を行うという望ましいサイクルが生まれている。今日もそうしたサイクルを回していく。

さらには、今日からは再び他の作曲理論書の再読を始めたいとも考えている。とにかく今の私には嬉しいことに、作曲上学ぶことが無限のようにあり、そうした無限の世界に向かっていくことの楽しみの中にいる。

先ほど、過去に作った曲をMusescoreのウェブ上でアップロードしようとしたところ、見知らぬ外国人から曲に対して好意的なコメントがあった。普段私はそうしたコメントをほぼ見ておらず、気にもしていないのだが、今朝は偶然にもそのコメントに目を通した。

こうした励ましのコメントをもらえるのは有り難いことである。その日のその瞬間の内的感覚を単に曲という形にしているだけなのだが、そのようにして形になったものに対して肯定的なコメントをもらえるというのは、作曲実践を続けていくことの一つの意義になる。

やはり今後は、他の諸々の活動を減らしていき、作曲実践と作曲に関する学習に専心していきたいと思うし、そうした生活を実現させる準備を着々と整えていこうと思う。フローニンゲン:2019/6/7(金)06:50

No.2038: A Poem at Noon

The peaceful afternoon came. I’ll devote myself to my lifework in the afternoon, too. Groningen, 13:25, Friday, 6/7/2019

4516. 今朝方の夢

時刻はゆっくりと午前7時に向かっている。もうこの時間帯になると、辺りはとても明るく、早朝の輝きに満ちた世界が広がっている。

今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、それについて振り返り、その後、早朝の作曲実践に取り掛かりたい。

夢の中で私は、見知らぬ街のビルの中にいた。そこは確かにビルなのだが、その最上階は、一軒家の屋根裏部屋のような作りになっていた。

その屋根裏部屋のような部屋は広く、そこでセミナーか何かができてしまいそうなぐらいだ。その部屋には、木で作られた長方形の大きな長テーブルが置かれていた。

見るとそこに、大学時代のゼミナールの恩師とゼミの友人が何人か座って話をしていた。私はすぐさまテーブルに向かい、全員に挨拶をして、話に混ぜてもらうことにした。

しばらく彼らの話を聞き、話の内容と流れを掴んだ後に、私も積極的に会話に入っていた。そこでなぜだか、一人の友人(TA)のニックネームをその場で“Adventure”とし、もう一人の友人(YN)のニックネームを“Bubble”とした。

すると恩師である先生が、「どういう意味のニックネーム?」と私に尋ねてきた。ニックネームをつけられた二人は、なんとなくニックネームの由来を理解しているようであり、またその由来は非常にしょうもないことであったから、先生にそれを伝えるのが気恥ずかしくなってしまった。そこで私は笑いながらごまかしたところ、夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、私は街とテーマパークが合成した不思議な場所にいた。テーマパークの定番である、ジェットコースターのような乗り物や、フリーホールのような乗り物がそこにあり、メリーゴーランドもそこにあった。

そうしたアトラクションを眺めながらしばらく歩いていると、特設の科学記念館のような場所に辿り着いた。私はそこで展示されているものに関心があったため、チケットを求めることにした。

するとチケット売り場で、突然、チケットを売っている係員の方から酵素ドリンクを渡された。なにやら、この科学記念館の中で以前はプロテインを無料で提供していたらしいのだが、そのプロテインには身体に良くない物質が入っていたらしく、今は身体に良い酵素ドリンクをチケット売り場で無料提供しているとのことであった。

私はドリンクを有り難く受け取り、早速一口飲んでみた。すると、その味は美味しく、大変飲みやすかった。とはいえ、一気に飲めるようなものではなく、またゆっくりと飲みたいと思っていたため、私はチケット売り場に立ちながら、酵素ドリンクをゆっくり飲んでいた。

すると私の横に、小中高時代の友人が二人現れ、酵素ドリンクを一気に飲み干し、「よし、今から館内を見学だ」と述べた。私は二人に、「よく一気に飲めるね」と一言だけ述べると、彼らは笑顔でうなづきながら、「うん、楽勝だよ」と言葉を残し、館内に颯爽とした足取りで入っていた。そこで夢の場面が変わった。

厳密にはこの夢の場面の前に、もう一つ場面が挿入されていたのをふと思い出した。そこでは、このテーマパークに隣接する形で、屋外の巨大なレクチャースペースが存在しており、私はそこで数学の講義を行っていた。

それは一人で行っていたのではなく、大学時代の友人の誰か一人、おそらく同じサークルに所属する一人と行っていた。講義を行っている最中、私は一般的なレクチャールームで講演や講義をする感覚で話をしていたのだが、そこは尋常ではない広さを持った屋外スペースであったから、おそらく後方にいる人には声があまり届いていなかったのではないかと思う。

講義を終えた私は、実際にそのような振り返りをしながら歩いていた。講義を終え、ホワイトボードの位置から100mほどのところまで歩いて行くと、そこに同じ小中学校に通っていた三人の女性がいた。

彼女たち三人は、学年の中で目立つ方ではなく、むしろ存在感がかなり薄い方であった。そんな彼女たちが、何かひそひそ声で話をしていたので、そばを通りかかる際にその内容に意識を向けてみた。

すると、やはり私の講義の声が後ろにはほとんど届いていないようであり、さらには、ホワイトボードに書いた文字もほとんど見えていないようだった。それを知った時、今後こうした巨大な屋外スペースで話しをする機会があれば、声を大きくし、文字を書く場合にはできるだけ大きな文字を書こうと思った。

そのような反省をした後に、テーマパークの数々のアトラクションが目に飛び込んできたというのが正しい流れである。今書き留めてきた一連の夢も、非常に示唆に富む内容のように思え、夢のシンボルの意味をまた考えてみようと思う。フローニンゲン:2019/6/7(金)07:15

No.2039: A Walk under the Cloudy Sky

It’ll be cloudy all day long today. Even so, I’ll enjoy taking a walk in the afternoon. Groningen, 08:22, Saturday, 6/8/2019

4517. 外国語と母国語、そして自己理解と自文化理解

「外国語を学ばない者に母国語は知りえない」というゲーテの言葉を昨夜就寝前にふと思い出し、「母国語を知りえない者に自己を知れない」ということをベッドの上で考えていたことを思い出した。

自分の日々の精神生活を改めて眺めてみると、確かに私は日本語で文章を書くことが多いが、読むものに関しては大半が英語である。そこにオランダ語や他の言語が入ってこないのは、私の外国語の読解能力の低さを如実に物語っているが、いずれにせよ、読書に関しては和書を読むことはこの8年間あまりなく、本当に自分の肥やしになるものだけを日本語で読むようにしている。

そのような生活を8年間ほど送ってみると、やはり国の外に出てまで思考空間を日本語に占拠させるというのは、国外で精神生活を営むことの意義を大きく去勢してしまう行為であると改めて思う。

それは冒頭のゲーテの言葉と、そこから得られた気づきにあるように、やはり国の外で生活することの一つの意義は、何よりも外国語の世界の中に自己を深く浸し、そこから自己理解および自己そのものを深めていくことにあるように思うからである。

国の外まで来て日本語優位の思考空間で日々を送ってしまうこと、外国語の書物を通じてその言語世界に深く入り込んでいくことをしないことは、自己を深めていく貴重な機会を無駄にしているように思えてくるのである。

ゲーテの言葉に戻ると、外国語を学ぶことによって初めて、母国語を真に客体化することができる。そして私はそこから発達論的に考えてみて、母国語を真に客体化して初めて、母国語で形成された自己及び自国の文化を客体化させることができると思うのである。

そしてそうした客体化がされて初めて、さらに成熟した自己が姿を現し始める。これはまさに、発達心理学者のロバート・キーガンが述べている「主体客体理論」の原理そのままなのだが、せっかく国外で生活をする機会を得たにもかかわらず、外国語の思考空間の中に入っていくことを怠り、日本語で思考をし続けるような状態にある日本人は多いように思う。

結局、物理的には日本の外にいたとしても、精神的な意味では日本の内にあり続けてしまうことによって、国外で過ごす体験が、自己を深めるものにつながっていないというのは本当によく目の当たりにすることである。

もちろん、外国語で日記や論文を書くことの効能は計り知れないが、そのハードルが高ければ、まずは和書から離れ、何か特定の外国語の世界に深く入っていくために、その言語で書かれた書物を継続的に読んでいくことが良いのではないかと思う。

欧米での生活も8年目を迎えようとしており、この8年間を通じてわずかばかり自己が深まっていたのであれば、それは外国語の世界の中に深く身を投げ入れ続けてきたからだろう。外国語の世界に深く入っていかない者に母国語は知りえず、母国語を知りえない者は、母国語で形成された自己と自文化を深く知りえないということを改めて肝に銘じたい。フローニンゲン:2019/6/7(金)07:56

No.2040: Rejoice in the Morning

It is the morning that I want to dance for joy. Groningen, 09:12, Saturday, 6/8/2019

4518. 今朝方の夢の続き

今日もなんという穏やかな一日だろうか。

早朝のそよ風は爽やかであり、街路樹の葉をひらひらと揺らめかせている。その揺らめきを眺めていると、自分の心まで心地良く揺らめくかのようである。

先ほど、カレースパイス味噌ベジブロスを飲んだ。それはほぼ、一気に飲み干したと言ってもいいだろう。一日の活動を本格的に始める前に飲むこの味噌汁は、格別の味であり、同時に活力を与えてくれる。

先ほどまで今朝方の夢について振り返っていたが、その後に見た別の場面について思い出した。夢の中で私は、大学にあるようなレクチャールームの中にいて、そこで大学時代の二人の女性友達のレクチャーを聞いていた。

その部屋はとても綺麗であり、巨大なスクリーンが前方にあって、そこに二人のレクチャーの資料が投影されていた。二人とも私と同じ学部に所属しており、専攻は経営学であった。

一人の友人はマーケティングのゼミに入り、もう一人の友人は経営戦略に関するゼミに入っていたのではないかと思う。そんな二人が、ある食品企業を取り上げ、その企業のマーケティング手法や経営戦略を分析するというような発表がそこで行われていた。

二人の話を興味深く聞いていると、二人は聴衆に対して、複数の植物が束になったものを渡し、それを各自見終えたら、順々に後ろの人に渡してほしいと述べた。なにやら、それらの植物は、今説明した企業の商品で使われている原材料とのことであった。

他の聴衆たちは、あまりそれらの植物の束に関心を示しておらず、中には受けっとすぐに後ろに回す人もいたほどである。だが私は、それらの植物に非常に関心があったので、手元にやってくると、まじまじとよく眺め、香りを嗅いだりしながら、様々な方法で観察をした。そこには、毎朝私が飲んでいる大麦若葉と小麦若葉があり、粉末になる前の彼らの真の姿を見ることができて、私は嬉しくなった。そうした嬉しさの気持ちを残したまま、後ろの人に植物の束を渡したところで夢の場面が変わった。

最後の夢の場面では、私はシャワー室の中にいた。そこはまるで、空港内のシャワー室のような作りであった。そこには洗面台やトイレがあり、総じてそのシャワール室はとても綺麗であった。

私はそこでシャワーを浴びてから、一日の活動を始めようと思った。服を脱ぎ、シャワーの栓を開くと、突然、シャワー室の扉をノックする音が聞こえた。

「今使っています」と私が述べると、「すいませんでした。いつ頃使い終わりそうですか?」という女性の声が返ってきた。それに対して私は、「5、6分、いえ、念のため10分いただいて、35分までには使い終わると思います」と述べた。

するとその女性は、「男性はシャワーが早くていいですね」と少し笑いながら述べた。そこまでやり取りをしたところで、私はその女性が、大学時代のゼミナールでティーチングアシスタントを務めていた中国人の女性だと気付いたのである。当時、その方は博士課程に在籍していて、いつもとても親切に接してくれていたのを覚えている。

その方の日本語は極めて流暢なのだが、生粋の日本人が話す日本語ではないことは確かだ。そうしたことから、シャワー室の扉をノックした女性がその方だと気づかせたのだろう。

その方に気付いてからは、シャワー室にいるのがゼミナールでお世話になった自分であることを伝える必要があり、私は扉越しに自分の名前を伝えた。すると、その方は初めてそこで私が誰だか気づいたようであり、驚いていた。もちろん、それは嬉しい驚きのようだった。

その方は私が誰だかわかると、卒業から今に至るまでの事柄を私に色々と尋ねてきた。それはそれで嬉しいことなのだが、私はシャワーを浴びている最中であり、またその方に10分以内にシャワー室を譲るとも述べていたので、シャワーを浴びながら彼女の質問に答えていた。

一向に体を洗い流すことが進まない状態であり、それに追い打ちをかけるかのように、その方は私にアンケートに協力してほしいと述べた。シャワー室を出てからでもよかったのだが、なぜだか私はその場でそれを引き受けてしまい、扉の外でその方がアンケート項目を一つ一つ読み上げ始めた。それに対して私は、1-5の数字で項目に対して答えていった。

その中の質問のひとつに、「あなたはどれだけの強度の運動を普段していますか?」というものがあり、私はそれに対して、比較的強度のある「4」という数字で答えた。すると、シャワー室の扉の外に、何人かの友人や知人が集まってきて、私のその回答に文句をつけ始めた。

彼らは皆アスリート気質であり、実際に私よりも何倍もの激しいトレーニングをしている者もいた。その中でも、190cmを越す知人が、「普段のそんなトレーニングで4を選ぶというのはありえないだろう」と笑いながら述べた。

彼の言い分を否定する気もなく、外で話されていることに気を散らせるのではなく、とにかく私はシャワーを早く浴び終えようと必死になった。シャワーを浴び終えると、もうシャワー室の外には友人も知人もいなくなっており、中国人の女性の方もいなくなっていた。

時計を確認すると、時計の針は45分を指しており、予定の時間よりもすでに10分ほどオーバーしていた。これでは高校で行われる数学の授業に大幅に遅刻してしまうと思ったところで夢から覚めた。

上記の夢も他の夢と同様に、そこには無数の示唆が存在しているが、最後の夢の場面においては、ひょっとすると、外界に注意を向けるのではなく、自分の内側、ないしは自分の取り組みに意識を向け続けることの大切さを伝えているのかもしれないと思わされた。

まさにこのテーマは、ここ最近何度も考えていたことであり、自分の取り組み、すなわちライフワークだけに専心する生活の実現に向けてあれこれと策を練ったり、実際にこれまでの習慣を見直し、新たな習慣を構築したりしていた。

やはり無意識の中の自分も、自らの取り組みだけに集中することを望んでいるようである。現在行っている良き習慣を今後も継続させていき、ライフワークだけに集中できるように、今頭の中にある打ち手を少しずつ実行に移していきたいと思う。フローニンゲン:2019/6/7(金)08:33

No.2041: A Sense of Merciful Celebration at Noon

It is noon that has a sense of merciful celebration. Groningen, 12:34, Saturday, 6/8/2019

4519. 集中状態を作るための習慣の確立に向けて

時刻は昼の12時半を回ったところである。ちょうど今しがた、ジョギングから帰ってきたところである。

今日は夕方から雨が降るとのことだったので、先ほど近くの河川敷に行き、適度な運動としてのジョギングを楽しんだ。いつも私はジョギングをする際に、息を切らせることなく、全て鼻呼吸で呼吸を行えるぐらいのペースで走っている。そうすると、黙想的な意識の中で静かに運動そのものと一体化できる感覚がある。

また何よりも、私は体力を増やそうとか、体重を減らそうとか思っているわけではなく、あくまでも適度な運動を通じて、健全な心身を維持していくことを心がけている。

今の季節であれば、15分や20分ほどジョギングをしても汗をかくことはなく、走るのにはうってつけの季節である。こうした季節の中で、適度な運動が完全な習慣になっているのは喜ばしいことである。

こうした習慣がひとたび確立されてしまえば、秋や寒さの厳しい冬においても、適度な運動を行っていくことができるだろう。

今日の午前中は、外の世界が華麗な舞いを踊っているかのようであり、自分も一緒になってそうした舞いを踊っているかのようであった。自己と世界が融和し、午前中の取り組みに集中をしていた。

「集中」ということに関しては、今後より一層工夫ができるかもしれないと思う。幸いにも、今現在、私は自分の取り組みに日々集中できている方だと思う。それは、無駄な人付き合いもなく、フローニンゲンという街、そして何より今の住環境の快適さのおかげもあって、自分の取り組みに日々邁進することができている。

一方で、よりミクロな観点から見れば、日々の取り組みをより集中して行っていく余地がまだまだありそうだというのも事実である。例えば、作曲をする際や読書を行う際に、ある意味自閉症的に行為に集中する、ないしは没頭するということが常に行なわれているわけではないことに気づく。むしろ、そうした没入状態にあることはまだ稀だと言った方がいいだろう。

自分がある実践活動に真に深く取り組んでいるのであれば、極度な集中状態、あるいは没入状態の中に自己があるはずであり、そうした自己がまだ常に現れていないことを見ると、ここに改善の余地がありそうだ。そこで今後は、没入状態に自己を導く儀式的な工夫、あるいは行為を取り入れたいと思う。

例えば単純に、作曲実践を始めるために楽譜を広げ、作曲ソフトを立ち上げた後に、いざ曲を作るという段になった時に、「集中」という題目を心の中で唱え、合唱をしてから作曲実践に取り組むというのも一つの方法だろう。それと同様のことを読書を始める際にも行ってみる。

そして、実践を始めてみて、どれだけその実践に集中できていたのかを振り返りをその実践後に行ってみるのも有益だろう。ちょうどこれから作曲実践を行うため、早速その儀式を行ってみて、集中状態・没頭状態にどれほど入っていけるのかを実験してみる。

外の世界の刺激を遮断し、楽譜の世界、音楽宇宙の中に入り込んでいく状態を作る訓練を積み重ねていく。それが後々習慣となり、他の実践に従事する際にも転用可能なものになるだろう。フローニンゲン:2019/6/7(金)12:57

4520. 久しぶりの雷雨と今朝方の夢の断片

時刻は午後の8時を迎えた。7時を過ぎた頃から雷が鳴り始め、今も雷を伴う激しい雨が降っている。厳密には、雷と激しい雨が降ったり止んだりを繰り返していると言った方が正確だろう。

久しぶりにこうした力強い雨の姿を眺めることによって少しばかり気分が高鳴る。これまでの季節においては、しとしとと降り続ける冷たい雨が降ることが多かったが、今この瞬間の雨は夏のそれである。

久しぶりにそうした自然の力強さ、逆に言えば、人間の力ではどうしようもない力の脅威を見せつけられたように思う。

今日は午後から夕方にかけて、オランダに住む友人と交換セッションを行った。今日はいつもと異なり、お互いにコーチングセッションをし合うというような形ではなく、お互いに共通する関心テーマについて話をした。

当初の予定では、いつものように2時間ほどの時間を使って対話をしようと思っていたのだが、結局3時間ほどの時間となった。前回に引き続き、食についてお互いの知見と経験を共有し、そこから食実践について理解を深めていくことができただけではなく、今回のセッションからは嬉しいことに、投資がテーマとなった。

食にせよ、投資にせよ、普段誰ともそれらのテーマについて話をすることがないので、友人との対話はとても貴重な機会となる。こちらの都合により、次回のセッションは少し期間を空けてもらったが、次回のセッションでもそれらのテーマについて意見交換ができることを楽しみに思う。

当初二人で行おうとしていた交換セッションの方法とは異なるかもしれないが、このように共通のテーマについて意見交換することはお互いにとっても意義があり、それがお互いの仕方での社会貢献に繋がっていけばと思う。

この時間帯になって、ふと今朝方の夢の断片について思い出した。今朝の起床は確かにいつもより遅く5時半であったが、それでも今から数えるともう15時間ほど前のことになる。その断片について覚えていることを書き留めておきたい。

夢の中で私は、小中高時代を通じて付き合いのある友人(SS)の相談に乗っていた。彼の父は自宅で塾を経営しており、私も中学校時代にお世話になっていた。

友人の父は大変気さくで、普段は親しみやすいのだが、怒ると非常に怖いことを私も知っていた。友人は、本当は自分にはしたいことがあるにもかかわらず、それを諦めて金融関係の会社に就職しろと父から言われていると私に相談を持ちかけてきた。

彼の目には少しばかり涙が滲んでおり、彼の顔には殴られたような痕があった。友人の話を聞くと、彼は以前から関心を持っていたプログラミング関係の仕事か科学的な研究の仕事をしたいとのことであった。

当時小学生であった1990年代の半ばからコンピューターに関心を持っていた彼は、非常に先見の明があり、実際にコンピューター関係の書籍を当時から読んでおり、コンピューターに関する学習に非常に熱心であったのを私は知っている。

私は、金融系の仕事に就くよりも、そして何よりも企業に勤めるよりも、プログラマーとして独立して仕事をしようとする彼の意思を最大限に尊重し、そちらの道に進むことを大いに励ました。すると彼は、涙をぬぐいながら、もう一度父に思いの丈を語ってみると述べた。

私は彼の目を見たときに、今度はきっとうまく彼の父を説得できると確信した。それが無理であれば、私は彼の家に殴り込んで行き、彼の父を罵倒するなり、殴りつけるなり、いかなる手段を使ってでも、彼の好きなように生きてもらうようにすると思ったところで夢の場面が変わった。

そのような夢を今朝方見ていたのを覚えている。この夢について思うことや言いたいことは多々あるが、夢の中の自分の行動を眺めていると、この件に関して自分がどのような考えを持っているかが明確であるため、それらについてあえてここでは書かない。フローニンゲン:2019/6/7(金)20:11

6月7日(金)に生まれた曲たち

Op.1230 早朝の華麗な舞い

Op.1231 正午の一編の詩

 
 
 

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