top of page

4445-4449:フローニンゲンからの便り 2019年5月27日(月)


タイトル一覧

4445. 静謐さと平穏さで満ちたフローニンゲンの朝に

4446. 食と投資に関する今朝方の夢

4447. 今朝方の夢の続き:発達研究に導いた原体験の断片

4448. カカオニブとカカオパウダーについて:その栄養や効能など

4449. 夕食に関する振り返りと今後の食実践

4445. 静謐さと平穏さで満ちたフローニンゲンの朝に

今朝はゆったりと5時半を迎えようとしているかというところで目を覚ました。その時間にはすでに小鳥たちが鳴き声を上げており、空も明るくなっていた。

昨日は夕方から雨が降り、就寝時にも雨がぱらついていた。幸いにも、今朝目覚めた時にはもう雨が止んでいた。

今この瞬間のフローニンゲンの空には、雲が多く見られるが、空が雲でびっしり覆われているわけではない。雲の隙間から朝日が差し込んできており、地上の世界は比較的明るい。

天気予報を確認すると、今日はこれから晴れに向かっていくようだ。とはいえ、今朝の気温は低く、換気のために寝室と書斎の窓を開けながらも、ヒーターのスイッチをオンにした。

明日はさらに気温が下がり、最高気温は14度、最低気温は4度とのことである。ただし、今週の土曜日からは暖かくなり、最高気温が20度を越す。天気予報で確認できるのは来週の月曜日までの天気だが、土日月と暖かくなりそうである。

このようにして書斎の机につき、窓の向こう側の世界を眺めながら小鳥の鳴き声を聞いていると、絶えず瞑想中の世界の中にいるかのような感覚になる。そこには静謐さがあり、平穏さがある。

今、差し込む朝日の光量が増し、それが赤レンガの家々の屋根に黄金色に反射している。

日々平穏さの中で自らのライフワークに専心しているのだが、今このようにして外の世界を改めて観察をしてみると、小鳥の鳴き声があり、そよ風があり、朝日の光があり、新緑の木々がありと、外の世界には随分と友がいることに気づく。また、彼らは絶えず変化する存在であるから、外の世界は随分と賑やかだということがわかる。

昨日、近所の運河沿いを散歩し、そこから近所のスーパーに向かっている最中にふと、「今のところ来年は、デン・ハーグに引越しを考えているが、もしフローニンゲンの今の住宅環境以上のものがそこになければ、無理に引越しをする必要などないかもしれない」ということを思った。それほどまでに、今のフローニンゲンの住宅環境は私にとって望ましいものなのだ。

確かに、デン・ハーグに引越しをすれば、オランダの国際空港のスキポール空港がとても近いため、より気楽に欧州各国に旅に出かけることができるだろう。しかし、仮に今の住宅環境以上の落ち着きや平穏さがその街になければ、無理をして引越しをする必要はないのかもしれない。

引越しをするにしても、それは来年の夏の話なので、まだまだ先のことではあるが。いずれにせよ、今後も引き続き、デン・ハーグの住宅事情について関心を持っておこうと思う。

そして来月の中旬あたりから、起業家ビザの申請に向けた資料作りをしておきたい。資料を作成することや申請書の作成にはさほど時間がかからないだろうが、その他各種の手続き(移民局へ行くこと、商工会議所へ行くことなど)もあるため、時間的にゆとりのあるときに申請の準備を進めていきたい。フローニンゲン:2019/5/27(月)06:10

No.1992: Under the Cloudy Sky

It becomes cloudy. Yet, I’ll take a walk to a neighboring riverbed from now. Groningen, 15:27, Monday, 5/27/2019

4446. 食と投資に関する今朝方の夢

野菜と果物のくずを使って作ったベジブロスに有機八丁味噌と各種スパイスを入れた味噌汁を飲んでいる。早朝のこの一杯の味噌汁は、その日一日の自分を支えてくれる不可欠な飲み物になった。

厳密には、この味噌汁を飲む前に飲んでいた、チアシードに浸された水に大麦若葉のパウダーを加えた飲み物もまた、自分の活力の源になっている。青汁の原材料でもある大麦若葉と、 数千年前からアステカ、マヤ、インカにおいて、生命の源として食べられていたチアシードの恩恵を授かっていることを実感する。

今日もまた今朝方の夢についてまずは振り返っておきたい。夢の中で私は、サッカー日本代表の選手の中でも、とりわけ食事に気を遣っている選手の自宅にいた。

気付けばその選手は、もう代表の中でも古株であり、ベテラン扱いされるようになっている。その選手と私は同世代ということもあり、いろいろと話が合うことがある。

その選手の自宅に招かれ、とても広く清潔なリビングで私たちは食に関する話をしていた。その選手の家族は、ちょうど昨日にピクニックに出かけたそうだ。

その選手は、「ピクニックから戻ってきたばかりで、片付いていなくてすいません」と私に述べながら、ピクニックから帰ってきての荷ほどきをしつつ私と会話をしていた。荷ほどきと言っても、持参した食べ物のカゴから各種食べ物を取り出し、それを冷蔵庫に入れたりする程度の作業である。

私はその選手に、どのような食べ物を持って行ったのか尋ねてみた。また実際に、残った食べ物にはどのようなものがあるかを見せてもらった。

すると、当然ながら全ての食材はオーガニックなものであり、色・艶・形など、どれも自然の美しさを持っていた。見ると、果物類や野菜類で残っているものがあり、決して体に悪そうではないパンやスイーツ類もあった。

竹細工でできたカゴと、その中に入った食べ物を見ながら、「どのような点に注意しながら食実践を行っているんですか?」と大変シンプルな質問をその選手に投げかけ、そこから話が膨らんでいった。そのような夢を最初に見ていた。

次の夢の中で私は、小中学校時代を過ごした社宅の食卓で、母と投資に関する話をしていた。自分の資産額について母に話をする必要などなかったのだが、ここ数年間の資産の変動額について話をした時、その金額の大きさに、母は一瞬驚いた表情を浮かべた。

それは一瞬というよりも、数秒、あるいは私が次の言葉を述べるまでの数十秒の間続いていた。私は別にマネーゲームをしているわけではなく、現在の資産の多寡や変動額などそれほど気にはしていないのだが、今後投資を通じても社会に関与していくということは確かであるため、その元手となるある程度のまとまった資金は必要である。

ちょうど一昨年に大きく資産が変動した時の話は、すでに母にしていたはずなのだが、夢の中の母は改めてそれに驚いており、見たこともない驚きの表情を浮かべていた。私はそれを見たとき、母がまだ金融資本主義的な呪縛に囚われながら生きているのだということを察知し、少々やるせない気持ちになった。

その点については、私の方から言葉を変え、言葉を和らげながら母に説明をしていった。すると母の表情が落ち着き、元に戻ったところでふと母が、「割り勘してよ」と述べた。

私はそれを聞いた時、思わず吹き出しそうになった。おそらくその言葉は、資産を分けてくれという意味で使われたのだと思うのだが、「割り勘」という言葉にはそのような意味はないはずなので、今の文脈でその言葉が用いられたことが滑稽であった。

私は母に、割り勘という言葉の使われ方がおかしいのと、そもそも資産を分配したところでそれを各種社会的な投資活動に回すのではなく、消費活動に回すのであれば全く意味はないことを説明した。そのような夢も今朝方に見ていた。

最初の二つの夢は、食と投資に関するものである。現在は食に対する関心は極めて強く、同時に投資に関する関心も持ちながら、探究と実践を緩やかに継続させている。そうしたことが今朝方の夢に形となって現れたのかもしれない。フローニンゲン:2019/5/27(月)06:47

No.1993: A Simple Song in the Early Morning

Various types of music come into being from myself at various periods of time in a day. Groningen, 08:30, Tuesday, 5/28/2019

4447. 今朝方の夢の続き:発達研究に導いた原体験の断片

早いもので時刻は午前7時に近づきつつある。今、一台の車が目の前の通りを走り去っていった。

自転車で通勤・通学に向かう人たちの姿も増えてきた。行き交う人々とは対照的に、フローニンゲンの街を微風がゆっくりと進んで行く。

今日もまた、フローニンゲンで過ごす一日がゆっくりと着実に進行していく。この人生の終着地に向かって、着実だが確実に固有の歩みが進んでいく。

先ほどまで、今朝方の二つの夢について振り返っていた。今朝方には、もう一つ夢を見ていたので、それについても振り返っておきたい。

夢の中で私は、旅館に併設されたフットサルコートにいた。そのコートには綺麗な芝が張られており、それは確かに天然芝ではなく、人工芝であったが、フットサルを楽しむには十分な質を持つ芝であった。

コート上を見ると、そこには小中高時代の友人と先輩の姿があり、今から二チームに分かれて試合をすることになった。ウォーミングアップもそこそこに、私たちはすぐさま試合を始め、ゆっくりと試合をしながらそれをウォーミングアップ代わりにしようとしていた。

相手チームには、中学校時代のバスケ部の先輩であり、なおかつサッカーもうまかった先輩がいた。その先輩と私は、試合の途中で終始会話をしていた。もっぱらフットサルの技術的な事柄に関する話だったように思う。

その先輩が私にマンツーマンでついてきたので、フリーな状況を作るのはなかなか難しかったが、ある時、友人が後方から浮き球のボールを私に出してくれ、私はそれを右足でボレーした。スパイクの真芯でボールの真芯を捉えるという二つの真芯の重なりのためか、未だかつて聞いたことのない轟音を発するボレーシュートが繰り出され、それは私から見てゴールネットの右隅に突き刺さった。

その場にいた一同は唖然としていたため、一応私は今のシュートの轟音と威力については、二つの真芯の重なりによるものであると冷静に説明を加えた。すると、その場にいた全員は、「そ、そうかぁ・・・(そうだとしても、尋常じゃない音だったぞ)」とつぶやきながら、そこからまた仕切り直して試合をすることにした。

そこから試合は進み、試合の後半では、サッカーがあまりうまくない小中学校時代の友人(MS)が少し自信なくプレーしているのがわかったので、私は彼にコーナーキックを任せてみることにした。その前に私は彼に、自信を付けてもらうような言葉掛けをし、いざ彼がコーナーの隅にボールをセットした瞬間に、これまた自分でも聞いたことのないような大きな声で、私は叫ぶようにして自分に向かってボールを蹴れと彼に要求した。

声の巨大な波動によって、その場の全員の体が滞ってしまうぐらいに、私は大きな声を出していたようであったが、彼は見事にボールを蹴り、それは私の頭の高さに飛んできた。私はそれをヘディングし、ゴールに入るかと思われたが、右上のポストを叩いた。

彼が最高のボールを送ってくれたにもかかわらず、ゴールを決めることができなかったのは残念だったが、今のコーナーキックによって、友人は自信をつけたようだった。それを証明するような彼の表情を見て、私は嬉しくなった。

そこから自陣に戻る前に、私は彼にゆっくりと近寄り、肩をポンと叩いて、さらに励ましをした。その後しばらくして試合が終わると、試合の振り返りをみんなでしようということになった。

なぜかその場で振り返りを行うのではなく、フットサルコートに併設されている旅館のセミナールームで振り返りを行うことにした。そこには、どういうわけか私の父がいて、父もその振り返りに参加することになった。

昔からそうであるし、今もそうなのだが、父には何に対しても深い考察力と洞察力が備わっており、さらには、実に幅広い領域に関して一家言持っていることを私は尊敬している。

先ほどまでフットサルコートにいなかったはずの父は、私たちが振り返りをする過程でどのような試合をしていたのかの情報を共有すると、その限られた情報を元に、次から次へと洞察に溢れる質問や意見を述べ始めた。私はそれに嬉しくなり、父の質問や意見に対して、次から次へと自分の考えを共有していった。

その場にいた友人や先輩たちは、話に全くついていけていないようであったが、私はそれに気付きながらも、お構いなしに父と対話を続けていった。さすがに、父と私だけで意見交換がなされていることに問題を感じたのか、父はあとは私たちで振り返りをするようにと述べて、その場を去っていった。

その場に残された私たちは、再度気持ちを新たに振り返りを始めた。ちょうど私の眼の前に、高校時代にサッカー部に所属していた友人がいた。彼は、偏差値的な学力はそれほど高くなかったが、偏差値では決して図ることのできない知力は極めて高かった。

そんな彼がおもむろに口を開き、彼の意見に耳を傾けていると、それは実に面白く、そこで私はまた、彼に色々な質問を投げかけ、振り返りを深めていくことを行った。今朝方はそのような夢を見ていた。

夢の中で父が現れ、父と対話をしていたことも興味深いが、夢の中の最後に現れた友人が象徴することも興味深い。上述のように、その友人は、偏差値という単一的な基準が支配的な我が国の教育においては、どうしても見逃されてしまうような知性を持っていた。

振り返ってみると、確かに日本全国の小中高においては、偏差値(「偏差値」と呼ばないにせよ、テストの単一的なスコア)という構成概念が地下茎のように跋扈しており、子供たちの知性の健全な発達に必要な水分と養分を奪っているように思うが、私が過ごした小中高時代には——いや高校時代は大学入試という徴兵試験を受けることを決意したため、高校時代は除かなければならない——、偏差値の支配力はそれほどまでに私の精神を毒していなかったように思う。

実際に、身近で接している友人たちには、学校のテストでは測りきれないほど多様かつ豊かな知性があると常々思っていた。ひょっとすると、そうした幼少時代の体験が原体験となって、知性の発達に関する探究を始め、それを長く続けているのかもしれないし、現在の教育を取り巻く悲惨さに対して何か関与していこうと活動を進めているのかもしれない。そのようなことを思わせてくれる夢だった。フローニンゲン:2019/5/27(月)07:32

4448. カカオニブとカカオパウダーについて:その栄養や効能など

時刻は午前11時を迎えた。早朝の空を覆っていた雲は随分と晴れ渡り、今は太陽の光が地上に降り注いでいる。それに加えて、心地よいそよ風が、フローニンゲンの頬を撫でている。

今、カカオパウダー、カカオニブ、ココナッツオイルを混ぜたものを飲みながら、くつろいだ気持ちで活動に従事している。私は以前から、カカオパウダーやカカオニブを摂取していたが、先日のバルセロナ・リスボン旅行をきっかけに、再び高カカオチョコレートを食べるような日々が続いていた。

その背景として、旅行の最中は、カカオパウダーやカカオニブを摂取することが難しく、その代用品として高カカオチョコレートを求めたということが挙げられる。旅行中には、オーガニック食品店に足を運び、そこで99%の高カカオチョコレートを購入することを絶えず行っていた。

しかし、フローニンゲンでの生活が再び落ち着き始めると、そうした高カカオチョコレートを食べる必要はないのではないかと思っている。その理由としては、確かに高カカオチョコレートには優れた栄養があるのだが、そもそも高カカオチョコレートの原料になっているカカオニブの方がより栄養があるからである。

99%の高カカオチョコレートというのは、ほとんどピュアに近いが、1%の部分に砂糖やミルクなどがやはり含まれている可能性があり、そうしたものが私の身体にとっては好ましくないものであるように思っている。

そうしたことから、今後は高カカオチョコレートを摂取するのではなく、その代わりにカカオパウダーとカカオニブの摂取量を増やしていいかと思う。わざわざ加工費によって価格が高い高カカオチョコレートを購入するよりも、そちらの方が経済的でもある。

以前にもカカオニブとは何かについて言及していたように思うが、改めてそれについて言及したいと思う。端的にカカオニブとは、カカオ豆をくだいてフレーク状にしたものを指す。つまり、カカオニブは100%カカオだけで構成されている。

私が毎日摂取しているのは、このカカオニブと、カカオパウダーであり、カカオパウダーとはカカオマス(カカオ豆を発酵・乾燥させてから、皮と胚芽を取り除き、焙煎・摩砕して練り上げたもの)からカカオバター(カカオマスに含まれる脂肪分)を抽出した後の搾りかすを乾燥させたもののことを指す。

カカオニブにせよ、カカオパウダーにせよ、カカオの栄養素が詰まっており、改めてその栄養と効果などについて調べていた。カカオニブは栄養価が高いことで知られているが、特に、食物繊維や鉄分、マグネシウムのほか、抗酸化作用のあるポリフェノールが豊富である。

さらには、カカオニブには、幸福感をもたらす神経伝達物質、アナンダミドという物質が多く含まれている。アナンダミドは別名「至福物質」と呼ばれており、脳を活性化させる働きや、精神を落ち着かせる働きがあるとのことである。

最後に、カカオニブやカカオパウダーは、大腸内で短鎖脂肪酸を大量に生み出す善玉菌を増やすという研究成果がある。この善玉菌は、長寿の人の腸内に多く存在することが確認されており、腸内に短鎖脂肪酸が増えると、ぜん動運動を活発化し、腸内環境の改善につながっていくとのことである。

カカオニブやカカオパウダーを毎日摂取することによって、腸内環境の改善を実感しているのは、こうした点にもその要因があるだろう。またそもそも、両者に含まれる食物繊維は、不溶性食物繊維の一つであるリグニンを含んでいる。

リグニンの特徴としては、それは消化酵素や腸内細菌で分解されず、便のかさ増し効果をもたらし、整腸作用を促すことである。

調べば調べるほどに、カカオという植物が持つ力に驚かされる。一方で、これは多くの食材に当てはまるが、カカオを摂取することによる否定的な側面に関する情報がほとんど無いことには注意を要するかもしれない。フローニンゲン:2019/5/27(月)11:39

No.1994: Where and How Are We Going?

Where and how are we going in this modern era? Groningen, 10:15, Tuesday, 5/28/2019

4449. 夕食に関する振り返りと今後の食実践

時刻は午後の7時半を迎えた。今日の早朝は曇り空であったが、この時間帯は少しばかり西日が照っている。

今日も起床からこの時間帯まで、非常に充実した一日を過ごしていた。教育哲学者のザカリー・スタインの書籍“Education in a Time Between Worlds: Essays on the Future of Schools, Technology, and Society (2019)”の再読を早速始め、順調に再読が進んでいる。再読は明日中に終わるであろうが、それが終わり次第、すぐさま三読目を開始し、今度はさらに精読を行っていきたいと思う。

今日は早朝にふと、私たちは未来においてではなく、今この瞬間において救済をもたらされるべき存在であり、同時に私たちの日々の一つ一つの行動や選択は、未来の人間の救済に結びついたものである必要性を感じていた。

おそらくそれが、本来私たちの行動の倫理的な原理としてあるべきもなのではないかと思う。今この瞬間の私たちの救済を未来に引き延ばすのではなく、今この瞬間に救済を得ること、そして未来の人々が将来のある瞬間において救済されるために、私たちは現在の行動と選択を行っていく必要があること。私はできるだけ自らにそれを課そうと思う。

今日の夕食は、見た目としては質素でありながら、非常に満足のいくものであった。有機玄米味噌とマカパウダーを混ぜた味噌汁、有機豆腐にアマニ油を小さじ一杯かけたもの、大きなトマト一個、そしてサツマイモ一本を茹でたものである。

サツマイモのおかげか、いつもそれを夕食に食べると、随分とお腹が膨れる。下手をすると、今後はサツマイモを摂取する必要もないのではないかと思っているが、一昨日にサツマイモを幾つか購入しているので、とりあえずそれを食べきるまではサツマイモを夕食に食べる。

本当に今少しずつ、無駄に固形物を摂らないような食実践が実現されようとしている。よくよく考えると、私たちはそもそも乳幼児期には固形物を摂取することなく栄養を摂取していた。

確かに歯が生えることによって、固形物を摂取することが可能になるわけだが、歯が生えることが即、固形物を摂取しなければならないということを意味していないとふと思ったのである。もちろん、歯を使って固形物を咀嚼することによって、身体上便益になることはあるらしい。

今後どのような食実践になるかわからないが、もちろん私も、果物、トマト、豆腐などは引き続き摂取していこうと思っているため、完全に固形物を摂取しないわけではない、だが、大量に固形物を摂取することによって栄養を確保しようとし、結果それが胃腸の負担になり、それによって様々な身体機能の低下や病気につながるのであれば、それは本末転倒ではないだろうか。

そのようなことを考えながら、自分の胃腸の様子を見て、固形物の量を減らしていき、その代わりに液体として各種の栄養素を摂り入れることによって、どのような身体上の変化が見られるのかを観察していこうと思う。

その中でも、味噌汁は非常に大切な栄養補給源であり、その他には各種の植物性のパウダーも重要な栄養補給源となる。今日はまた試しに、以前注目していたカボチャシードのパウダーを購入してみた。

植物の特徴として、種や根には栄養が豊富に含まれていることを知り、そうした部位を用いたパウダーに着目をしている。だが、それがどのように製造加工されたかによって、種や根に含まれている本来の栄養が台無しになってしまう可能性もある。

また、それらを固形物で摂取した時と、パウダーを液体として摂取した時を比較してみた際に、栄養面や機能面において同様の働きをするのかどうかも確認する必要がある。そうした観察や検証を経て、自分なりに確信が持てたのであれば、こうした各種植物性のパウダーを核とした食実践を継続していくことになるだろう。フローニンゲン:2019/5/27(月)19:39

5月27日(月)に生まれた曲たち

Op.1182 みなぎる活力

Op.1183 静謐さの泉

Op.1184 虚空へ

Op.1185 曇り空の下で

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page