タイトル一覧
4438. 日曜日の早朝に
4439. 今朝方の夢
4440. 真の教育的権威の体現者:制約と自由
4441. 今朝方の夢の続き:大学時代の先輩との再会と感動
4442. 食に関する両親とのつながり
4443. 筋骨隆々なゴリラとたんぱく質について
4444. 「説明責任」という名の下に:人財育成施策の短絡的な効果測定
4438. 日曜日の早朝に
時刻は午前5時を迎えた。昨日は午前3時に起床したが、今朝は4時半を迎える前の起床だった。その頃にはもう小鳥たちが鳴き声を上げ始めていた。
昨日の土曜日が終わり、今日からは日曜日を迎えた。日曜日の朝はとても穏やかであり、まだ日は昇っていないが、徐々に辺りが明るくなってきている。
昨日、一つ興味深いメタファーが自分の内側に浮かんでいた。それは、現代の社会の様々な領域に存在する構造的なバグを発見し、それを修正・改善していくプログラマーのような存在を示唆するものであった。
現代社会が変容を遂げていくには、そうした存在が各領域、さらには領域横断的に、もっと言ってしまえばメタ領域的に必要なのだと思う。バグを発見するためには、そもそもバグとそうではない健全・正常なものとを識別するための観点が必要であろう。しかもその観点には、広さと深さが求められる。
さらにはバグを発見し、それを修正・改善していく段階においては、技術が求められる。そこにおいても学習と実践の積み重ねによって十分に鍛錬された実務的スキルというものが要求されるのは言うまでもない。そのようなことを昨日はぼんやりと考えていた。
監訳書の出版まであと3週間ほどであるが、一昨日にそれがようやく落ち着いた。三校のレビューと修正を無事に編集者の方に提出し、残すところは念校を確認する程度である。
今年度の仕事にはどのようなものがあるかをざっと確認してみると、来月から動きだす大きな協働プロジェクトが2件、そしてこの夏から動きだす大きな協働プロジェクトが1件ほどあり、その他にも協働研究プロジェクトが1件、比較的小さな協働プロジェクトが1件ほどあることに気づく。
それに加えて、昨年から話があった協働プロジェクトが1件新しく始まるかもしれない。今は動き出しているプロジェクトに集中し、一つ一つのプロジェクトを着実に進めていこうと思う。
よく私は、教育哲学者のジョン・デューイが提唱したプロジェクト学習を行っているように思えることがあるが、プロジェクトを通じて学ぶ事柄は本当に多いということを教えられる。
教育哲学者のザカリー・スタインが“Education in a Time Between Worlds: Essays on the Future of Schools, Technology, and Society (2019)”の中で主張しているように、私たちは、この現代社会の個別具体的な課題と向き合い、その解決に向けて力を発揮していく際に深い学びが得られる。これはまさに、スタインが師事をしていた発達科学者のカート・フィッシャーが実証的に明らかにした事柄でもある。
いずれにせよ、今後もこの現代社会の課題と向き合い、その解決に向けて尽力をしていくというスタンスを持ち続けたい。絶え間ない社会関与と絶え間ない学習及び発達というのは密接に関係しているのだから。フローニンゲン:2019/5/26(日)05:18
No.1987: A Walk in the Afternoon
I’ll take a walk after I read the rest of “Education in a Time Between Worlds: Essays on the Future of Schools, Technology, and Society (2019)” by Zachary Stein. Groningen, 13:19, Sunday, 5/26/2019
4439. 今朝方の夢
今、昨夜作ったベジブロスに有機八丁味噌と各種スパイスを入れた味噌汁を飲んでいる。先日、街の中心部のオーガニックスーパーで話しかけた男性が述べていたように、この八丁味噌は実に美味い。彼はマイルドな味だと表現したが、私はかなり濃厚な味噌だと思う。
日本の伝統的な発酵食品である味噌を朝に摂取することから一日を始められることが、これほどまでに自分にとって嬉しいものであり、なおかつ活力を自分にもたらしてくれるものであるとは思ってもみなかったことである。
一杯の味噌汁から一日を始め、また一杯の味噌汁で一日を終わる。そのような日々がこれから続いていくだろう。
本日の活動に本格的に入る前に、今朝方の夢について振り返りをしておきたい。
夢の中で私は、見覚えのない場所のホームセンターにいた。そこでは日曜大工の様々な製品が売られており、ここに来れば揃わないものはないというぐらいに品が充実している。
私はそこで買い物を終えたようであり、ホームセンターとその外にある駐車場の間に立っていた。一般的な店で見られるように、店と駐車場の間にはベンチがあったり、自動販売機があったりするかと思う。そうした場所に私は立っていたのである。
見るとそこには自動販売機らしきものがあり、さらにはスピード写真の機械も置かれていた。それを見たとき、ここは日本なのではないかと一瞬思ったが、その場の雰囲気から察すると、そこはオランダとベルギーの国境付近のように思えた。
私はその場に立ち止まり、四方をゆっくりと眺めていた。するとそこに、著名な発達科学者のポール・ヴァン・ギアート教授が現れた。
ヴァン・ギアート教授は、発達科学者のカート・フィッシャー教授と親交が厚く、二人は長年にわたって良き協働研究者であった。二人は共に現役から退いているが、ヴァン・ギアート教授に関しては、まだ学会でゲストスピーカーとして講演をすることなどがある。
また何より、ヴァン・ギアート教授は、私がフローニンゲン大学で所属していた学科のトップを長く勤めていたこともあり、とても親近感のある存在である。ヴァン・ギアート教授と偶然その場で出会い、私たちは少しばかり話をした。
ヴァン・ギアート教授はベルギー人であり、オランダ語、フランス語、英語を流暢に話すことができる。以前アムステルダムの学会でお会いした時には、英語で話をしていたのだが、夢の中ではなぜか日本語で話をしていた。
どのような話の流れでそうなったのかは不明だが、私はヴァン・ギアート教授にお金を渡した。どうやらヴァン・ギアート教授に代わりに買い物をしてもらっており、目的の品の代金をその場で支払っているようだった。
私はすぐに計算ができずに、面倒臭いので少し多めに9ユーロを渡した。すると、ヴァン・ギアート教授はお釣りとしてコインを1枚手渡してくれた。
そのコインを見ると、「10DY」という数字が彫られていた。「DYというのは一体どこの通貨なのだろうか?」と私は疑問に思ったが、どうやら今自分がいるオランダとベルギーの国境近辺の場所ではその通貨が使えるらしく、オランダでもベルギーでもそれを使うことができるのだと察した。
それについてヴァン・ギアート教授に確認すればよかったが、私はそれをしなかった。
実は、ヴァン・ギアート教授からお釣りを受け取った時、私はその金額が少し少ないのではないかと思った。いやそもそも、「10DY」というのがどれほどの価値を持つのかが全くわからなかった。
とはいえ、購入した品の金額、さらには、ヴァン・ギアート教授に手渡した9ユーロというのも大した金額ではなかったため、私はそれ以上お釣りを気にすることはなく、ヴァン・ギアート教授に別れの挨拶をしてその場を立ち去った。フローニンゲン:2019/5/26(日)05:52
No.1988: Scintillation in the End of a Day
It began to rain.
Today is also approaching the end.
The essence of tomorrow will be the same as that of today, which is scintillation. Groningen, 20:21, Sunday, 5/26/2019
4440. 真の教育的権威の体現者:制約と自由
時刻は午前6時を迎えた。今日もこの時間帯は、空にうっすらとした雲が見える。どうやら今日は、一日を通して曇りらしいが、午後には近所のスーパーに買い物がてら散歩に出かけたいと思う。
今日もまたいつもと同じように、作曲実践を中心とし、それに並行する形で読書を行っていく。ここ数日間、ザカリー・スタインの最新刊“Education in a Time Between Worlds: Essays on the Future of Schools, Technology, and Society (2019)”を食い入るように読み進めている。
本書から得られること、考えさせられることは多岐にわたっており、一読するだけでは勿体無い稀有な書籍である。昨日は計画以上に本書を読み進めており、今日は第4章の残りと第5章を読み進めていこうと思う。
すでに第6章は読んでいるため、本日中に初読が完了するだろう。普段は初読から再読に少し時間を空けることが多いが、今回はそのようなことはせず、明日から再び本書を読み返していく予定だ。
スタインの思考過程を何度も辿りながら、現代社会を包括的に捉える眼を涵養していき、自らの実践にそれを役立てていく。
以前に、作曲上における制約について話をしていたように思う。制約には様々なものがあり、それは音楽理論という文法に内包されたもの、作曲上の自分の癖、ないしは感性そのものが制約になりうる。
そうした制約から完全に逃れることはできないし、それをすることは必要でもない。重要なことは、いかなる制約を自分が抱えているのかを認識することである。
また何よりも、現在の制約が将来の自由につながるかという観点を持って制約と向き合うことも大切だろう。この点に関しては、スタインの書籍からヒントを得たように思う。
仮に現在自由気ままに曲を作り、それが将来のより大きな自由につながらないのであれば、現在の自由勝手な作曲実践にはほとんど意味がない。構造的には、随分と前にフリースクール運動が米国で広がり、そこでは子供たちに自由が与えられたのだが、それが失敗に終わった事例と似ている。
フリースクール運動の失敗の根幹には、制約というものに対する考察の欠如があり、将来のより大きな自由につながらない現在の狭い自由を子供たちに与えてしまったことが要因としてあった。例えば、子供たちが読み書きや計算をすることを嫌った場合に、彼らに野放しの自由を与えて、そうした能力を身につける機会を一切与えなくていいのだろうか。
教育哲学者のデューイは、このの問題を見事に見抜いていた。「子供たちの興味関心の赴くままに自由に学ばせる」というのは聞こえがいいのだが、そもそも世界を見通す観点の幅と深さが未熟な子供たちに短期的な自由を与えてしまうことが、結局彼らの長期的な自由を奪いかねないことには注意が必要である。
上述の例に戻ると、例えば読み書きや計算ができるというのは、この現代社会において健全な市民生活を送る上では不可欠な事柄であり、それらの能力が未成熟であることは、職業を通じた社会参画の機会や、それと合わせて生活の糧を得る手段を喪失してしまうことにもなりかねないのである。
まさに、短期的な自由ではなく、さらに大きな将来の自由を子供たちが獲得できるように寄り添い、彼らを正しく導く存在というのが、健全な、あるいは真の教育的権威(teachery authority)の体現者だと言えるのではないかと思う。
そのようなことを考えながら、自分の作曲実践について考え直していた。私は、物理的な肉体を持ついかなる師にもついていない。
そうしたことから、作曲に関して自分を導いてくれる真の教育的権威はいないと言えるため、自らがその役割を果たしていく必要がある。それを行うのは簡単ではないが、現在自分が自由に曲を作ろうとしている意図が働けば、そこにあえて待ったをかけ、将来のより大きな自由、すなわち自由自在に自分の内的感覚を曲として表現することに対して、今その瞬間の自由なるものが本当にそこに結びつくのかを考えたい。
そして、あえて様々な制約条件を自らに課していき、そうした制約を鍛錬を通じて一つ一つ乗り越えていく過程を通して、広大無辺な自由な作曲の境地に向かっていきたいと思う。フローニンゲン:2019/5/26(日)06:21
No.1989: Full of Energy
I can feel that I’m filled with energy.
The sky starts to become clear. Groningen, 08:39, Monday, 5/27/2019
4441. 今朝方の夢の続き:大学時代の先輩との再会と感動
先ほど今朝方の夢について振り返りをしていたが、今朝方はもう一つ全く別の夢を見ていたことを思い出す。夢の中で、ある日本企業との協働プロジェクトがひと段落し、無事に世の中に開発したプログラムを提供できることになった。
その日はちょうど、開発したサービスのレビューの機会、あるいは報告会のようなものがあり、私は東京にある協働先の会社のオフィスに足を運んだ。成人発達理論をもとにしたそのプログラムは、企業人の内省及び自己変容を支援することを目的にしており、そのパイロット版を、日本を代表する商社の一つの中堅メンバーの育成を目的に提供していた。
その日の報告会には、実際のプログラムを受講した商社の方たちも参加しており、その数はおよそ15名から20名ほどだった。オフィスに到着し、報告会が行われるセミナールームに到着した私は、スクリーンが見やすい位置に席を確保し、飲み物を飲みながら報告会の開始の時間を待っていた。
ほどなくして、協働先の会社の方たちも続々とセミナールームに集まり、報告会が始まった。まず最初に、アイスブレイク的な意図があったのか定かではないが、プログラム受講中の参加者を撮影した録画がスクリーン上に映し出された。
厳密には、映画『ゴッホ~最期の手紙~』のように、プログラム受講者が全て絵コンテ、あるいは油絵のような形で描かれており、その絵がアニメーションのように動くような映像が映し出された。受講者一人一人の姿形や表情などが見事に描かれており、最初は本物かと思ってしまうほどであった。
その場にいたプログラム受講者も驚いており、ときに笑いが起こり、場は非常に和やかなものになった。場の雰囲気がとても良くなったところで、本題に移っていった。
最初に、プログラム受講者の方一人一人に、今回のプログラムに対する率直な感想を教えてもらうことになった。協働先の会社のある女性の方が会の進行及びファシリテーションを行ってくださっており、その方がプログラム受講者に感想を聞こうとしたところ、会場の中で一人の男性が手を挙げた。
その男性を見ると、その方は私が大学時代に所属していたサークルの一学年上の先輩だった。その先輩は、大変知的であり、日常の振る舞いや言動が大変落ち着いており、入学時から非常に尊敬していた方である。
確かに私は、今回のパイロット版をその商社に提供した際に、先輩がそこで働いていることを知っていたが、まさかこのパイロット版のプログラムを受講しているとは思っておらず、さらには今日の報告会に参加していることにも気づいていなかったので大変驚いた。
私は、先輩がどのような発言をするのかを注意深く聞こうと意識を集中させた。
先輩:「今回のプログラムは、確かに女性の企業人を対象にしていますが、端的には男性にとっても非常に意味のあるものだと思います。とりわけ内省をする機会や、内省能力をより高めていくための体系的な手法を学び、それを習慣化させて活用することを実現させてくれた点に大きな価値を見出しています。また、このプログラムが加藤先生の協力の下に〜」
私は、先輩が今回のプログラムを大変肯定的に評価してくださっていることを嬉しく思った。そして、言葉の途中で私のことを「加藤先生」と読んでくださったことがなぜだかとても琴線に触れた。
ふと、大学時代に先輩と過ごした時間のことを思い出したのである。二人で一緒に勉強したことや、私の家で一緒にテレビゲームをして遊んだ時の光景などが思い出され、そうした思い出が、セミナールームにいるその瞬間の自分と深く繋がっていることになんとも言えない感動を覚えていた。
感動の感覚が内側を駆け巡った時、目が覚めた。目を開けた瞬間に、一羽の小鳥の鳴き声が、天高く舞っていく姿を見た。フローニンゲン:2019/5/26(日)06:57
4442. 食に関する両親とのつながり
時刻は午前11時を迎えた。今日は少々風が強く、新緑をつけた街路樹が風に強く揺られている。気温も少々低いが、なんとかヒーターをつけることなく過ごしている。フローニンゲンに夏がやってくるのはもうしばらく先のようである。
昨日、母よりメールをもらった。そのメールを読むと、父と私の共通点に驚いたというものだった。
なにやら、父は昨年の退職以降、食生活を改めて、何をどのように食べるのかに非常に気をつけているのとことであった。より具体的には、スロ-ジュサ-を購入して、毎朝野菜ジュ-スを飲んだり、ベジブロスを作って味噌汁も毎日食べているようだ。
私は野菜をジュースにしていないが、それは一度考えたことがあり、まだジューサーを購入してはいないが、近々購入しようかとも考えていた。有機野菜の酵素を摂取するには、やはり生で野菜を食べるのが一番良いのだが、その場合、野菜の細胞壁の硬さゆえにうまく酵素が摂取できないために、ジュースにするというのは良い方法だと思う。ジュースを作った際に出た野菜くずはベジブロスに活用することができるため、一石二鳥のように思える。
母のメールにあるように、父もベジブロスを作り、さらにはそれを味噌汁の出汁にしているということを知って驚いた。父と私が食生活に関して行っていることは本当にそっくりである。
母もその共通性に驚いたらしいが、私もそれを驚き、父がそのように食生活を改めたことをとても嬉しく思った。食生活を変えたおかげで、父も母も腸内環境が良くなってきたとのことであり、老後を謳歌するためには心身の健康が何よりも重要だと考えていた私は、二人がそのような状態に向かっていることを嬉しく思ったのである。
実は前々から、二人の健康状態については心配をしていた。幸いにも、二人とも死に直結するような大病は患っていないが、小さな病気を抱えていたことは間違いなく、それが治らない限りは、真に老後を楽しむことは難しいのではないかと思っていた。
心身の健康を改善していくきっかけを他者から与えるというのは難しく、やはり自分でそれに気づいていくしか方法はないのではないかと思う。仮に私から父や母に食生活の改善や生活習慣の見直しなどをどれほど丁寧に伝えたところで、本人に自覚や危機意識がなければ行動変容を促すことは難しいと思っていたのである。
そうしたことから、今回両親が自らの気づきをもとに食生活を改善してくれたのは本当に嬉しい知らせであった。あとは生活習慣として、激しい運動は必要ないので、毎日愛犬の散歩にでも出かけ、歩くという運動を生活に取り入れてもらえればと思う。
ここのところ思うのは、食習慣にせよ、生活習慣にせよ、そこには在り方や生き方などを含めた思想的なものが滲み出すということである。
この秋に二、三週間一時帰国することにしたが、その際に実家にどれだけ滞在するかを正直なところ迷っていた。というのも、食生活が極端に異なっている場合、実家で生活することに居心地の悪さを覚えるのではないかと思ったからである。
だが、昨日の母からのメールを読むと、それが杞憂に過ぎない可能性があることを嬉しく思った。母からのメールの最後に、帰国した際に食について色々と情報交換ができることが楽しみであるという文章が書かれていた。私もそれが今から楽しみである。
両親の食生活が変わったのであれば、おそらく生き方に関する思想も変容したのだろう。そうしたこともあり、私は実家に滞在させてもらう期間を少し伸ばそうと思った。フローニンゲン:2019/5/26(日)11:31
4443. 筋骨隆々なゴリラとたんぱく質について
母からのメールを受けて、再度食について考えていた。ここのところ、各種の植物性のパウダーを水や白湯に溶かして摂取することが中心であり、固形物の摂取量を減らし始めてから、心身の調子が非常に良い。
植物性のパウダーとして購入しているのは今のところ、大麦若葉、ヘンプ、クロレラ、マカ、カカオ(パウダーではないがカカオニブも購入している)である。それらはどれも多様な栄養が豊富に含まれており、野菜や果物を物理的に摂取していてはなかなか摂取しきれない栄養の種類と量を確保してくれている。
「バランスよく様々な食品を摂る」という言葉をよく耳にするが、仮にバランスよく様々な加工食品を摂取してしまった場合、結果として様々な方面から、人体に悪影響を及ぼすことになるのではないかと危惧している。
「バランスよく様々な食品を摂る」という言葉に踊らされ、身体に害のある多様な食品を体内に取り入れてしまうというのは本末転倒だろう。また、様々な食品を固形物として摂取するのもきりがなく、限界があるということにもすぐに気づく。
3月にパリに訪れた時の体験以降、食生活を見直し始めてまず実践してみたのは、身体に良い野菜や果物を日々数多く摂取してみるということであったが、それにはやはり限界があった。
以前にも言及したように、食材の組み合わせが持つ力はまだまだ解明されていないことが多々あるだろうが、逆に言えば、多様な食材を組み合わせることが調和を生み出すこともあれば、混沌を生み出すこともあるということであり、多様な食材を用いることの難しさを実感する。
そうしたこともあり、今の私は、自分の身体が本当に必要とするもの、さらには自分の身体に合ったものを必要な量だけ摂るように心がけている。一見すると、現在の私は様々なものを日々摂取しているように思うかもしれないが、栄養が十分摂取できていながらも、できるだけシンプルな食生活を心掛けている。
口に入れるものは全てオーガニックなものであり、上述の植物性のパウダー、味噌、各種オイル(アマニ油、オリーブオイル、ココナッツオイル:今後はアマニ油に変えてヘンプオイルを使用する)、果物(リンゴ、バナナ:時々アボカドやイチゴなど)、豆腐、野菜(生トマト、茹でたサツマイモ:これまで二日に一度味噌汁に入れていた、ニンジン、玉ねぎ、ニンニクを今後食べるのにかについては考え中)ぐらいである。
肉や魚は一切摂取しておらず、たんぱく質は、肉や魚以上に豊富なヘンプやクロレラで十分摂取できている。それにもかかわらず豆腐を二日に一度食べているが、それはたんぱく質を摂取するという目的以外にもあるため、今のところ今後も豆腐は継続して食べていこうと思う。
たんぱく質の話と関係して、少し前に、種々の仮説をもとに、筋骨隆々の動物について調べていた。特にゴリラの食事について着目してみたところ、ゴリラはなんと肉を一切食べていないことに気づかされたのである。
彼らの主食は植物や果物であり、肉を一切摂らないのにあれだけの筋力をつけていることに驚かされた。これもやはり、彼らは植物や果物をたんぱく質に変えるような腸内環境を持っているからだろうか。あるいは、果物にはほとんどたんぱく質は含まれていないはずので、たんぱく質が豊富に含まれる植物を食べているからなのかもしれない。
現在私は植物性のたんぱく質しか摂取していないが、以前よりも筋力がしなやかかつ力強いものになってきているように感じる。植物性のたんぱく質を摂る際には、良質な食材を当然ながら摂取するようにしており、特にヘンプには良質なたんぱく質が豊富に含まれている。
また、今朝方改めて手持ちのカカオパウダーを調べてみると、そこにもササミ以上のたんぱく質が含まれていることがわかったので、やはりヘンプパウダーとカカオパウダーは今後も私の身体を支えるものになると思われる(何よりも両者の味が美味しいことは嬉しい)。
上記の中に少し飛躍のある仮説があったので、再度調べ直してみた。それは、ゴリラに当てはまることが単純に人間に当てはまるのかという点に関してである。
すると、確かに先住民の中には肉食に適した腸内環境を持っているものもいるが、南洋の島に住む先住民の中には、タロイモなどの植物性の食物しか食べていないのに筋肉隆々な人たちがいることも分かった。
腸内環境によって、そしてたんぱく質が豊富に含まれる植物を食べていれば、筋肉を落とすことなく健全な身体が作れそうであるという考え方をもとに、ここからも様々な実験と考察を進めていこうと思う。フローニンゲン:2019/5/26(日)12:11
No.1990: The Fountain of Tranquility
Fountains of tranquility are omnipresent in this reality. A fountain that I’m seeing right now is one of them. Groningen, 09:44, Monday, 5/27/2019
4444. 「説明責任」という名の下に:人財育成施策の短絡的な効果測定
少し前から雨が降り始めた。それは激しい雨ではないが、幾分強い風と共にフローニンゲンの街に降り注いでいる。
雨が降り始める前に散歩に出かけて正解であった。散歩に出かけた際は、気温も比較的暖かく、散歩をするにはもってこいであった。
このように雨が降り始めてしまうと、夕方のこの時間帯には小鳥たちの鳴き声を聞くことができないのは残念だ。ただし、久しぶりに雨を見たようにも思うので、今は天から降り注ぐ雨を眺めることを楽しんでいる。
数日前から読み進めていた、ザカリー・スタインの新刊書“Education in a Time Between Worlds: Essays on the Future of Schools, Technology, and Society (2019)”の初読が終わった。久しぶりにこれほどまでの良著を読んだように思う。再読をするだけではもったいなく、ここから3回、4回と繰り返し本書を読んでいくことになるだろう。
本書を読んでいると、本当に多くのことを考えさせられる。例えば、発達理論と企業における人財育成に関して以前よりなんとかならないかと思っていたテーマについても、また一つ考えを深めるヒントを得られたように思う。
近年、企業の人財育成の現場において、成人発達理論の枠組みを活用することに関心が集まっている。しかしここで常に問題になるのは、「説明責任」という名の下に、人財育成の効果がすぐさま客観的に把握可能な数字、しかもそれが金銭的な数値と結びついた形で明らかにされることが求められることである。
端的には、企業の人財育成の現場で頻繁に見られる発想は、「社員が発達したらどれだけ利益が上がるんですか?」「社員の発達と利益との相関関係はどれほどあるのでしょうか?」という質問に代表されるものである。
確かに、企業活動を営む上で、利益(ないしはキャッシュフロー)は血液のようなものであり、それを考慮することは重要なのだが、全てを利益に還元して発想してしまうというのは問題があると言えないだろうか。
例えば、人財育成施策の効果をすぐさま血液としての利益に還元して測定しようとしまうことは、例えば身体の病気(あるいは心の病でもいい)に対する改善策の効果を測定する際に、血液に対する影響しか見ないのと全く同じではないだろうか。
身体の健康において血液しか見ないということはありえないのと同じように、他の側面から人財育成施策の効果を捉えていくことを忘れてはならないのではないだろうか。
とにかく、説明責任という観点において、何かを説明する際にそれを金銭的なものとすぐさま結びつけてしまうような無意識的な発想や慣行を見直す必要があるだろう。そうした発想や慣行が存続し続ける限り、組織内の構成員が健全な発達を遂げていくことはないだろうし、結果として組織としての血液循環(利益)も改善されることはないだろう。
人財育成施策の効果を測定する際、そして説明責任を果たす際には、金銭的尺度以外の様々な尺度が存在するという実にシンプルな事実を忘れてはらない。そうした多様な尺度は、インテグラ理論の言葉で言えば、全象限的・全レベル的に存在しているのだ。フローニンゲン:2019/5/26(日)17:05
No.1991: Toward the Empty Space
All existences are going to the vast empty space and returning from there to here. Groningen, 12:25, Monday, 5/27/2019
5月26日(日)に生まれた曲たち
Op.1179 穏やかな波
Op.1180 昼下がりの散歩
Op.1181 一日の終わりのきらめき