タイトル一覧
4428. 早朝に思うこと
4429. 投資家として
4430. 大切な存在者との対話
4431. 今朝方の不思議な夢の世界
4432. 昼下がりの外出より
4428. 早朝に思うこと
今朝は午前3時半に起床した。そこからいつものように、早朝の口内環境を整えるために、真っ先にココナッツオイルでオイルプリングを行った。
オイルプリングを行っている間に、書斎の机につき、今朝方の夢を裏紙に書き出していた。夢を裏紙に書き出した後、早朝の日課であるヨガを行った。
先日に数種類ほどアーサナを加え、現在はそのセットを行うことを楽しんでいる。一つ一つのアーサナを深い呼吸とともに行っていると、起床直後という時間帯もあってか、意識が深い層に入っていきやすい。
眠りから覚めた意識を、覚醒意識の状態からさらにもう一度深い状態に戻すことによって一日の活動を緩やかに始めた。ヨガを終え、スプーン一杯のアマニ油を飲み、そこから大麦若葉を飲み始めているのが今の状態だ。
4時を迎え、辺りはまだ真っ暗だが、小鳥たちの鳴き声が聞こえ始めている。小鳥たちの中でも早起きなものがいて、彼あるいは彼女が今鳴き声を上げ始めている。
今、小鳥のことを「それ」と表現しようとしたが、「彼あるいは彼女」と表現することにした。小鳥たちの鳴き声から性別を判断することは可能なのだろうか。今の私には、そうした知識がなく、それはほぼ不可能である。
ここでも知識の有無によって世界の見え方が変わってくるという示唆がある。仮に鳥の性別ごとの鳴き声の特徴に関する知識があれば、今鳴き声を上げている小鳥たちの性別がわかるかもしれないのだ。
それがわかれば、また世界が異なって見えてくるのではないかと思う。そして、世界が異なって聞こえてくるのだろう。
世界が絶えず発する豊かな色や音を、その豊かさのままで理解したいと思う。そうした色や音に直に触れてみたい。
そのためには、この世界に遍満する多様な色や音に関する知識をできるだけ獲得していく必要があることを感じる。知識を獲得するだけではダメであり、その知識を通じてこの世界と触れ合っていくこと。そうした交流を通じて徐々に世界はその豊かさを開示してくれるのだろう。
早朝の3時台に起床すると、辺りは圧倒的な闇と静寂さに包まれており、独りの内面世界に浸っている感覚があり、それはそれで良いのだが、小鳥たちが現れてくれることによって、伴奏者を得た気分である。やはりこの人生においては、自分が本当に必要とする伴奏者だけはそばにいてくれた方がいいのだろう。
今、辺りにどのような風が吹いているのかは見えない。近くの街灯の光はオレンジ色をしており、赤レンガの家々の近くの街灯は白色を発している。そうした光の背後に街路樹が見える。
どうやら少しばかり風が吹いているようだが、それはとても穏やかだ。
幸いにも、今日の最高気温は19度と暖かいので、今日も午後に、近所の河川敷にジョギング兼ウォーキングをしに外出したい。気がつけば今日は金曜日であり、今週も終わりに向かっている。
来週の火曜日からはまた気温が下がり、気温を見る限りだと、就寝中に湯たんぽがあった方がいいかもしれないと思うぐらいだ。来週からはもう6月に入るというのに。
しかしこうした気温であっても、いやこうした気候だからこそ、私はフローニンゲンを愛しているのかもしれない。昨日の日記で書き留めたように、この街から滲み出す「時空間的なゆとり」というものを私は心底気に入っているのだろう。フローニンゲン:2019/5/24(金)04:28
No.1979: Rhizome
My internal rhizome is extending its roots. Groningen, 17:04, Friday, 5/24/2019
4429. 投資家として
今朝も昨日に引き続き早起きをすることができたので、一日がまた充実したものになるだろうと、この時点で実感している。
昨日の夕食前に入浴をしている時に、改めて今後の自分は一つ投資家としての側面を持つだろうと予感した。これまでの自分の人生において、私は知識も技術も何も持っていない時に、随分と多くの人たちから投資を受けてきたのだということにはたと気づかされたのである。
それは金銭的な投資だけを指すわけではないことは言うまでもない。有形無形の投資——それは「支援」と述べた方が正確かもしれない——を絶えず受けてきたことによって、何もない自分が今このようにして日々を生きているのだと実感させられる。
社会正義について優れた考察をしている哲学者のジョン・ロールズが述べるように、最も身近の人たちの立場に立ち、今後仮に何かしらの投資を行うのであれば、それが彼らにどのような影響を与えるか、その影響が彼らにとって最善のものかどうかを判断したい。
意志ある者への投資、そして意志なき者への投資の双方を実現させていく。
人生のフェーズが変化しているのを実感する。様々な観点において投資家になろうとしているのもそのためだろう。
前述の通り、それは金融的な投資家という側面だけではなく、教育的な側面も多分にあるだろうし、そうした側面がなければならないだろう。投資については今後も学習と実践を続けていく。
教育的な投資を行っていく土台、あるいは準備として金融的な投資に関する知識と技術、さらには感性というものを育んでいく。それに向けて幾つか仮説的な考えがあり、行っていくべき実験が無数にあるのを知っている。
昨日は、現在手持ちの金融ポートフォリオを見直し、銀行に預金していてもしょうがない余剰資金を投資に回した。その投資先には以前から資金を入れていたのだが、今回改めて追加の出資を行った。
長期的な視点を持って、その投資先が今後どのように、かつどのような社会貢献を果たしていくかを判断した結果、改めて追加投資を行った。過去に、長期的な視点を持って自分に対して有形無形の投資を行ってくれた人たちがいたように、私も同じスタンスで今回の投資先の活動を見守っていきたいと思う。
現在も確かに、労働呼んでいいのかわからないが、労働を通じて収入を得ているというのは事実である。だが今後は、種々の観点における投資家としての活動も一つのライフワークとなり、労働収入を求めることはなくなってくるだろう。
金融的・教育的な投資については、着実に知識と技術を涵養していく。大学時代に熱心に金融論を学んでいたというのも、きっとそのためなのだろう。
自分の人生における役割の一つにそうした投資活動というのがあり、それをロールズが述べるような社会正義の観点から行っていくこと。さらには、人間発達の観点からそうした投資を行っていくということが自分の役割の一つのように思えてくる。
今、人生が新たな節目に入ってきており、これまでの学びや経験が一つの輪のように結びつき始めているのを実感する。多様な領域を知らず知らずに行き来していたこれまでの自分がやってきたこと・学んできたことが、緩やかに結びつき始めている。
投資と作曲というのは一見すると奇妙な組み合わせだが、それらの実践は今後一生涯行っていくものになるだろう。フローニンゲン:2019/5/24(金)04:47
No.1980: In the End of a Week
This week is also approaching the end.
It seems that tomorrow will be Saturday. Groningen, 21:05, Friday, 5/24/2019
4430. 大切な存在者との対話
慈しみに満ち溢れた新たな一日が始まった。時刻は午前5時を迎えようとしており、小鳥たちの優しい歌が早朝の世界に溢れている。それは一日の始まりを間違いなく祝福している。
この時間帯になってくると、辺りは徐々に明るくなってきている。夜明けの中で小鳥たちの鳴き声に耳を傾けながら、早朝の一杯の味噌汁を飲んでいる。
昨夜ベジブロスを作り、その出汁に八丁味噌を加え、種々のスパイスを振りかけた。静けさの漂う早朝の世界の中で、数々の生命の連鎖が産み出した一杯の味噌汁を飲めることにただただ感謝の念を持つ。
手持ちのオーガニックのカレースパイスには、様々なスパイスがブレンドされており、今後も各種のスパイスが含まれているカレースパイスを早朝の味噌汁に入れていこうと思う。今の私には、早朝にカレースパイスを摂取することが合っているのだと思う。
夜の味噌汁に関しては、昨日試してみたように、マカパウダーを振りかけたいと思う。アンデスの過酷な環境の中で育ったこの植物にも感謝の念を捧げ、栄養豊富なマカの恵みを夜にいただくことにしている。夕食の味噌汁にマカを入れることは今後の習慣になるだろう。
3時に起床した際には、まだ小鳥たちの鳴き声が聞こえてこなかったので、ピアノ曲を書斎の中に流していた。バルセロナ・リスボンの旅が始まる前あたりから昨日まで、スペインやポルトガル出身の作曲家のピアノ曲ばかりを聴いていたのだが、昨夜からグレン・グールドが演奏するバッハを聴き始めた。
このピアノ曲集を何度繰り返し聴いたかわからないが、今朝もそれを聴いていた。時刻が4時を過ぎてからは小鳥たちが鳴き声を上げ、今はもうその声が随分と鮮明に聞こえ始めたので、グールドの演奏を一旦止めて、書斎と寝室の窓を開ける形で小鳥の鳴き声を聞くことにした。ここから一、二時間ほどは、小鳥たちの鳴き声に包まれる形で過ごしていきたいと思う。
今日も昨日に引き続き、作曲実践に並行して、哲学者ザカリー・スタインの“Education in a Time Between Worlds: Essays on the Future of Schools, Technology, and Society (2019)”の続きを読んでいく。本書に掲載されている洞察及び示唆から得られることは本当に多い。
人間発達の観点、教育の観点、さらにはより巨視的かつ構造的な観点で社会を捉えていくことを手助けしてくれるような考察が本書には詰まっている。おそらく今日と、明日明後日の土日を活用すれば、本書の初読が終わり、再読に入ることも可能かと思う。
昨日の日記でも書き留めたが、ウィルバーや他の発達論者以上に私に影響を与えてくれたのは、そして今もなお影響を与え続けてくれているのはスタインであり、本書も繰り返し読んでいきたいと思う。今日の読書から得られた事柄は、本日の日記、さらには今後の日記の中で何かしらの形となって現れてくるだろう。
小鳥たちやスタインと間接的かつ直接的な対話を日々行えるということ以上に嬉しいことはなく、今後も自分にとって大切な存在者との対話を継続させていきたい。フローニンゲン:2019/5/24(金)05:13
No.1981: At the Beginning of a New Day
A new day just began peacefully.
Today also will be active for me. Groningen, 06:15, Saturday, 5/25/2019
4431. 今朝方の不思議な夢の世界
今朝は早朝から青空が広がっている。時刻は午前5時半を迎えようとしており、もうすっかりと明るくなった。
街路樹の葉の動きを注意深く眺めてみると、微風がフローニンゲンの頬を撫でているのがわかる。赤レンガの家々の近くの街路樹には、ピンク色の花が咲いている。あれは一体なんという名前の木なのだろうか。
数ヶ月前と比べて、いやバルセロナとリスボンへの旅に出かけた一ヶ月前と比べて、書斎の窓から見える景色は随分と彩り豊かになった。そうした多様な色に包まれながら、今日も充実感と幸福感を感じながら生きていくことができるだろう。
今朝方の夢の内容は、起床してすぐに裏紙に書き留めている。今改めてその裏紙を眺め、文章として形にまとめておきたいと思う。
夢の中で私は、見慣れない砂浜にいた。そこは、私が長らく親しんだ山口県光市の室積の砂浜でもなく、虹が浜の砂浜でもない。
どこかそこは、一つ学年が上の私の幼なじみが東京から引っ越した先の千葉の砂浜ではないかと思う。小学校6年生ぐらいの時に、彼の家に遊びに行ったことがあり、その時に海でも遊んだのを覚えている。あの時足をつけた砂浜が夢の中に現れていたように思う。
その砂浜で私は、米国の人気連続テレビドラマ『ハンニバル』の主人公を演じたマッツ・ミケルセン氏と出会った。ミケルセン氏と私は初対面であったが、そこでの関係性は、「ハンニバルとその親友」というものだった。そのため、そこで私は彼のことをハンニバルと呼んでいた。
ハンニバルは、どうやら何人かの人たちに追われているらしく、私と一緒に逃走することを持ちかけてきた。私は特に逃げる意味がなかったのだが、彼の申し出に同意をして、砂浜を一緒に小走りし始めた。
すると突然ハンニバルが、「君は自分と同じ匂いがする。美しく人を殺し、そこに美を見出すことができる」と述べた。彼はどうやら私に共感の念を抱いているらしかったが、その共感の念が生まれている特性というのは、サイコパス的なものであり、果たして自分が美しく人を殺し、そこに美を見出すことなどできるのか疑問であった。
私が彼の発言に疑問を持つと、ハンニバルは、「ならばそれを証明してあげよう」と述べた。すると、彼を追ってきていた人物が目の前の砂の中から手を出してきて姿を見せはじめた。
現れた手を見てみると、兵隊服のようなものを着ていることがわかり、どこかの国の軍隊がハンニバルを襲おうとしているのがわかった。するとハンニバルは、砂の中に潜り、その兵隊を何らかの方法を用いて爆死させた。
そしてそこからは、今走ってきた海岸を逆戻りするような形で砂の中を泳いでいき、後ろから追ってきた兵隊たちを次々に爆死させていった。彼の姿は依然として砂の中であり、数人ほど兵隊を殺し終えた後に、再び砂浜に姿を現した。
彼が次々と兵隊を殺していく姿は、ある意味芸術的であり、「美しく人を殺し、そこに美を見出す」という意味がなんとなくわかってしまう自分がそこにいた。そうした自分に気づいた時、私はハンニバルを追いかける一人の人物になっていた。
しかし私は兵隊ではなく、警官でもなく、一般市民として、あるいは彼の親友のままで彼を追いかける人物としてそこにいた。ハンニバルは不敵な笑みを浮かべ、私に追いかけられることを幾分喜んでいるかのようであり、同時に、私に彼を捕まえることができるのかを試しているようにも見えた。
ハンニバルは砂浜の上で一旦立ち止まり、私の方を振り返って、右手の4本の指を根本からクイクイと折りまげる形で、私を手招きした。それは、「捕まえられるものなら捕まえてみな」という意思表示のように見えた。
それは挑発的というよりも、彼にとっては一種のゲームのようであり、私もそれは緊張感が漂いながらもゲームのように思えた。私は彼を捕まえる決心を固め、前方にいる彼のところに向かって一気に走って行った。
するとハンニバルは再び逃走を始め、海岸線に駐車してあった救急車に飛び乗った。私はなんとかその救急車に捕まろとしたのだが、もう車が発車しようとしており、ダメかと思った。
するとその救急車の背後に、日本人の著名なお笑い芸人風な芸能人がいて、彼が救急車の背面にぺたりとへばりついた。救急車はそのまま出発し、私はその場に取り残されることになったが、救急車が動き出すと、私はその芸能人と体が入れ替わったかのようであった。
厳密には、その芸能人は引き続きハンニバルに気づかれないように救急車の背面にぺたりとへばりついたままなのだが、私はその芸能人の背後霊のような形で後ろにいた。そうした状態がしばらく続き、ハンニバルが運転する救急車はかなりのスピードでどこかに向かっていった。
辺りの様子から察すると、それは東京の街のように見えた。しかも、それは都心であり、これから向かっているのは高速道路のインターチェンジであることがなんとなくわかった。
首都高のインターチェンジに直前に下り坂があり、坂の一番下には信号機があった。救急車はその信号機で一旦捕まり、そこから右折をしてインターチェンジへと入っていった。
すると、後ろから一台のバスがやってきて、救急車を運転するハンニバルに止まるように合図を送った。救急車の背面にへばりついていた芸能人と私は後ろを振り返ると、バスを運転する黒人の運転手が私たちに気づき、私たちの存在をハンニバルに伝えようとしていることがわかった。
バスの運転手は、私たちの身柄をハンニバルに明け渡すという意図を持っていたわけでは決してなく、あくまでも親切心から、私たちが車の背面にへばりついているのは危ないという理由でハンニバルにそれを伝えようとしているようだった。
そこでハンニバルはようやく私たちの存在に気づき、彼は隠し持っていたピストルを懐からさっと出し、銃口を私たちに突きつけた。その瞬間に、私はもうダメかと思ったが、突然私たちの周りを警官隊が取り囲み、私たちに降伏するように訴えかけてきた。
警官隊の数は数十人ほどであり、私たち三人ではなんとかなるほどの人数ではないのだが、ハンニバルは最後の最後まで何かを考えているようであった。つまり、何人までの人数を相手にするのであれば、自分一人で殺せるのかということを考えているようであった。
しかしさすがの彼もこの大人数を相手にするのは分が悪いと察したようであり、ピストルを地面に投げ捨て、降伏の合図をした。警官隊は、私たち三人に対して、地面に付し、手を後ろに回すように述べた。
私たち三人は身柄を拘束されたのだが、手錠をかけられた時に私はふと、「この芸能人の方と私はいったい何か悪いことをしただろうか?」とふと思った。しかし私は、この機会に刑務所の中がどのようになっているのかを知りたいと思い、何ら抵抗感を示すこともなく、自らの無実を主張することもなく、刑務所に行くことにした。
不思議なことに、警官隊の一人は、先ほどまでハンニバルが運転していた救急車の運転席に座り、私たち三人を救急車で刑務所まで搬送した。
救急車に乗っている間の記憶はなく、私たちは気づいた時には刑務所の前にいた。刑務所を見ると、それは随分と綺麗かつ立派な施設であり、外観上は刑務所に見えなかった。
刑務所に到着すると、時刻は昼食の時間のようであり、私たち三人は、巨大な食堂に通された。そこでいきなり記憶が巻き戻り、先ほどハンニバルに銃口を突きつけられたのは、高速道路のインターチェンジ前の場所かつこの食堂だったのだと気づいた。
説明が難しいが、インターチェンジ前の高架橋の下にこの巨大な食堂があり、そこのホールに私たちはいて、そこで三人は実は互いに銃口を突きつけあっていたことを思い出したのである。厳密には、ハンニバルは私に銃口を突きつけ、芸能人の方と私はハンニバルに銃口を突きつけていた。
その場面に警官隊が駆けつけ、私たち三人がピストルを持っていることから三人を捕まえたのだということに突然気づいたのである。その記憶が蘇ると、再び記憶が前に動き、その記憶はなかったものになってしまったかのように、私たち三人は巨大な食堂のホールにいた。
そこで私たちはランチを食べさせてもらえることになり、昼食はビュッフェ形式だった。その食堂は、どこかハリーポッターの映画に出てくるような豪華な作りになっており、食堂内はとても明るかった。
いざ昼食を取りに行こうとしたところで、ふと食堂の出口から外に出て行くハンニバルの姿を見つけた。私もぶらりと外に出て、ハンニバルに話しかけてみた。
先ほどまでは、追いかけ追われるような関係にあり、さらには銃口を突きつけあっていたはずなのだが、やはりそうした出来事が記憶の波によって洗い流されてしまったかのように、私たち二人の関係は、最初に砂浜で出会った時のように友人関係のようだった。
私:「ランチ食べないの?」
ハンニバル:「あぁ、今は食事を食べる気がしないんだ」
ハンニバルは神妙な面持ちでそのように述べた。そんな彼の表情を見て、私は彼をそっとしておこうと思った。精神的な休憩が彼には必要だと思ったのである。
「ちょっと休みなよ」とハンニバルに述べると、彼は「ありがとう」と言わんばかりの表情を浮かべ、右手をスッとあげてお礼の意思表示をした。それを見て、私は再び食堂に戻ろうとした。
すると突然、食堂の出口から二人の男性が出てきた。見ると彼らは、高校時代の同級生であった。
彼らは何か文句を言いながら食堂から外に出てきた。彼らに何があったのかを尋ねてみると、「いや〜、新入生が騒がしくて困ったもんだね。あれじゃ、落ち着いて食事を楽しめないよ」と同級生の一人が述べた。
何やら、食堂内には大学に入学したばかりの学生で溢れており、彼らが騒がしくしているとのことであった。私はそれを確かめに、そして自分の食事を取りに行くために食堂の中に再び入っていた。
食堂の中に一歩足を踏み入れると、そこは先ほどのような豪華な食堂ではなく、ロックコンサートか何かが行われるようなコンサートホールになっており、部屋全体がとても暗く、ステージ上だけに照明が照らされていた。
まだコンサートは始っていないようだったが、ものすごい数の学生がそこにいて、異様な熱気を放っていた。コンサート前の今、そのロックグループの曲がBGMのように流れており、その音と学生たちの興奮した話し声に耳が痛くなりそうだった。
私はコンサートホールの左側の壁際をたどっていくかのように歩き、その先にある食堂に向かって歩いて行った。壁際を歩いていると、私は一人の女子大学生に話しかけられた。
というよりも、なぜだか私は上半身裸で壁際を足を引きずりながら歩いており、その女子大生は私の上半身を見て、「腕が細すぎる」と述べた。現在自分はトレーニングをしており、細すぎるということはないと思いながら、彼女を相手にすることなく、食堂に向かって引き続き歩いて行った。
コンサートホールの後ろの扉を開けると、そこには食堂が広がっていた。ただし、先ほどの食堂とは様子が違い、もう少しこじんまりとした、ホテルのレストランの食堂のようであった。
ようやく食事のある場所に行き着いたと思った私は、早速大きな皿を手に取り、これからビュッフェを楽しもうと思った。そこで周りを見渡すと、その場には小中高時代の友人、そして大学時代のゼミナールの友人が何人かいて、知った顔がそこにあることに伴う安心感のようなものがあった。
その場はなごやかな雰囲気であり、私はその雰囲気に包まれながら、早速皿に一つ目の品を盛ろうとした。正直なところ、私はそこに置かれているものを選り好みなどせず、全て皿に盛ろうと思った。
現実世界では摂取することがなくなった牛肉や豚肉を使った料理がそこにあり、夢の中の私はまずそれらから皿に盛ろうとした。いや私は迷わずそれらをすでに皿に盛っており、それを見た小中高時代の友人が、「やめとけばいいのに。いつものにしなよ」と述べた。
彼は私が肉類をもう摂取していないことを知っていたのか、そのようなことを述べた。そこで私はハッとして、牛肉を使った料理、豚肉を使った料理を再び元の場所に戻し、サバか何かの魚を使った料理も元の場所に戻した。そして、野菜を豊富に使ったサラダが置かれている場所に向かっていった。
友人から「いつものにしときなよ」と言われ、「それもそうだな」とすぐに思った自分がそこにいたことは興味深い、と思いながらサラダが置かれている場所に到着した。そこには何種類かのサラダが置かれていて、どれも新鮮な野菜を豊富に使っているようであり、私を喜ばせた。
早速一つのサラダに手を伸ばした時、先ほどハンニバルと銃口を向け合った食堂の中の光景を思い出した。ハンニバルに銃口を突きつけた時には、生死をかけた緊迫感がそこにあったのだが、実は私はその時、ハンニバルだけを見ていたわけではなく、ハンニバルの背後も見ていた。
厳密には、背後のテーブルに置かれた食べ物を見ており、そこにはコンビニなどで売られているような、パッケージに包まれたサンドイッチが置かれていたのである。私はそれらを見て、とても体に悪そうな食べ物だなと思っていた。
「あのサンドイッチの中には人工調味料、人工保存料がふんだんに使われているに違いない」というようなことを考えながら、ハンニバルに銃口を向けていた。そのようなことを思い出してから、目の前のサラダを取ることにした。
すぐに目に付いたのは三種類ほどのサラダであり、そのうちの一つのボールにはもうサラダがほとんどなく、私はそのサラダをボールごと食べようと思った。残り少なくなったそのボールに、別のサラダを入れて、近くの空いているソファに腰掛けて一人で昼食を食べようと思った。
隣に置かれていたサラダにはひじきとアボカドが入っており、それらが美味しそうに思えたため、それらをボールに入れていった。すると、小中高時代の友人の一人(SS)が私に向かって、「サラダ取りすぎやし!俺もそれ食べたかったのに」と述べた。
「ひじきならまだあるよ」とそれが入っていたボールに指を差すと、友人は「良かったぁ〜」と述べて嬉しそうにひじきを取り始めた。そんな彼の姿を見届けた後に、ドレッシングをかけることにした。
だが、油には人一倍気を遣っており、良質な油と劣悪な油がどのようなものであるかを知っている自分にとっては、基本的に市販で売られているドレッシングなど使えようがなかった。
そこで、その場に置かれているドレッシングを注意深く見ると、「ah」という青いマークが全てに入っていた。「ah」というマークを見て、すぐに私は、それはオランダの有名なチェーン店スーパーの「Albert Heijn」のものだとわかった。
つまり、そこに置かれていたドレッシングはどれも、Albert Heijnのプライベートブランド商品であり、私は一瞬それに身構えた。普段使っているような、自分で選んだ良質なオイルをサラダにかけたいと思っていたが、Albert Heijnのドレッシングの成分表示を見て、その中でも体に害がなさそうなものを選び出し、それを少々サラダにかけることにした。
そして、近くのソファにどかっと座り、これからいざサラダを食べようとしたところで夢から覚めた。フローニンゲン:2019/5/24(金)06:47
4432. 昼下がりの外出より
時刻は午後の4時を迎えた。つい今しがた、ジョギングとウォーキングを兼ねた運動を終え、自宅に戻ってきた。
今週のフローニンゲンは、日中に暖かさを感じさせることが多く、外に出かけるにはとてもよい。ここから9月まではこうした日々が断続的に続いてくれるのではないかと願う。
先ほどは、近くの河川敷に出かけていた。これまでは、サイクリングロードを走ったり歩いたりすることが多かったが、つい最近のことなのか、河川の堤防の草が刈られており、そこを走ったり歩いたりすることができるようになったことは嬉しいことである。
今日のような天気の良い日には、河川に船やボートが出ているのを見かけることができる。今日も一艘ほどの小型の船を見かけ、家族四人でどこかに向かっていく姿を見た。
それを見かけたのは午後の3時半あたりであり、この時間は我が国の一般的な企業人たちは働いているような時間であり、在宅勤務でもしない限り、家族と時間を一緒にすることなどほとんど不可能だと思うが、その船では家族四人が楽しげに同じ時間を共有していた。
どちらの国の働き方・生き方もリアルなものに違いないが、私は先ほど目撃した働き方・生き方をより本来の人間らしいものだと見なしているのだと改めて思った。
今日の青空は、本当に自己の存在を飲み込んでしまうかのようだ。それはとても肯定的な意味においてである。
昨日と同様に、今日も正午過ぎに仮眠を取っていた。今朝は3時に起床し、そこから正午まで自分の活動に従事していたのであるから、仮眠のタイミングは早いものではないだろう。
本日のビジョンの内容は食に関するものであり、またしてもサンフランシスコの街が舞台になっているように思えた。サンフランシスコで2年半ほど過ごした体験が、食に関する何かしらの原体験となっているのかもしれない。
ビジョンの中で語られていた内容は何も覚えていないが、ビジョンそのものに重要性を感じており、ビジョン内のイメージにも自分にとっての重要性があったためか、仮眠から覚めてもベッドの上でしばらく静かに横たわっていた。
興奮した血流が穏やかな流れになっていくのを待つかのように、ビジョンの重要性が自分の中で穏やかに流れていくのを待っているような感覚で私はしばらく仰向けになったままでいた。
仮眠中のビジョンも夢と同様に、鮮明に覚えているもの、感覚として強いものなど、いろいろな種類があることはやはり興味深く、今後も何に活用するかはさておき、とりあえず覚えている範囲のことを書き留めておきたいと思う。フローニンゲン:2019/5/24(金)15:58
No.1982: The Stagnant Reality
This reality is constantly changing.
At the same time, it is always stagnant. Groningen, 10:14, Saturday, 5/25/2019
5月24日(金)に生まれた曲たち
Op.1170 広がる青空の極点の向こう側
Op.1171 午後のひととき
Op.1172 リゾーム
Op.1173 ある週の終わりに