タイトル一覧
4333. 新緑の現れるフローニンゲン:今後の旅の計画について
4334. 天からの贈り物を楽しみにする毎朝
4335. 今後の旅に関する追記と今朝方の夢
4336. 仮眠中のビジョン
4337. 非日常的なリズムから日常的なリズムへの移行
4333. 新緑の現れるフローニンゲン:今後の旅の計画について
バルセロナとリスボンの旅からフローニンゲンに戻ってきての二日目の朝を迎えた。今朝の起床は午前5時であり、起床した時にはすでに小鳥たちが合唱を始めていた。それはまだ第一楽章のようであり、激しさはなく、澄み渡る心地よい音が静寂な世界にこだましていた。
5時半を迎えようとしている今もまだ小鳥たちは優しい歌を奏でている。それにしても、12日間ほどの旅に出かけていると、街路樹の変化が随分と進んでいることに気づく。
木々は力強い新緑をつけており、その鮮やかな緑色は生命力を感じさせてくれる。フローニンゲンの長く厳しい冬を乗り越えた街路樹たちが、今新たな姿で再誕生しようとしている。
そよ風に揺れる新緑の葉を今眺めている。その姿もまた合唱を奏でているかのようだ。
それは決して耳に聞こえるような音を発していないのだが、そよ風に揺れる新緑の葉の姿そのものが音楽的であるかのように目に映り、それが心に音楽を奏でる。フローニンゲンの街のこうした落ち着き、そして新たな季節の到来を予感させるような景観は、本当に私を和ませる。
一方で、気温に関しては以前と低いままだ。5月も第2週を迎えたが、書斎と寝室ではヒーターをほぼ一日中つけっぱなしにしており、昨日は湯たんぽを使ってお腹と足先を暖めながら就寝した。過去2年間の日記にあるように、5月末までは本当にこうした肌寒さが続く。
6月になると湯たんぽを使う必要はなくなるが、日中にヒーターをつける日があったように思う。7月と8月だけヒーターをつける必要がなくなり、9月からはまたヒーターが必要になるというような環境の中に、この3年間の私は身を置いている。
物理的な環境として、特に気候に関しては厳しい場所で今後も生活を続けていこうと思う。先日までの旅の中で書き留めたが、私の根幹的な性分を考えると、決して暖かい南国で生活を営んではならない。それは自らの精神を鈍感にさせ、腐敗させていく。
精神が圧縮され、鋭敏になるような気候的厳しさが私には必要だ。陽気さとは対極にあるような過酷な気候を求める。そうしたことから今の私はフローニンゲンで生活をしているのだろうし、今後の生活拠点の一つとして北欧諸国、特にノルウェーとフィンランドを考慮に入れているのだと思う。
バルセロナとリスボンを訪れた旅の余韻が残る中、そして旅で得られた経験をゆっくりと時の発酵過程にさらしながら咀嚼している中、これからの旅について少し考えている。
6月の中旬あたりに、ジョージア人の友人がいるトビリシに足を運び、数日間ほどその街に滞在したい。友人は、ジョージアの自然を勧めていたが、今回の旅ではジョージアの自然を満喫することは難しいかもしれない。
7月の中旬頃には、ロシアのモスクワに行く。目的は、スクリャービンとチャイコフスキーの博物館に行くことであり、その他には特に目的はない。
いや、その他に挙げるとするならば、モスクワにあるプーシキン美術館やトレチャコフ美術館には関心がある。ジョージアにせよ、モスクワにせよ、今回の旅のように一日のスケジュールには余裕を持たせ、午前中いっぱいはホテルの自室でライフワークに打ち込み、午後の数時間を使って一箇所だけ観光に出かける。
今回の旅を通じて気づいたが、今後は丸一日ホテルで休憩するような日を設けてもいいかもしれない。名所を巡る際に気をつけなければならないのは、そこで得られた事柄を適切に咀嚼・吸収していくことであり、決して過食のようにそれらの場所から得られる事柄を貪り食うことではない。
8月はもしかするとどこにも旅に出かけないか、ロシアの旅を8月の初旬に持ってきてもいいだろう。9月の末には、久しぶりに日本に一時帰国し、岐阜県の二つの美術館に足を箱ぶ。
東京にはできるだけ滞在しないようにし、数日間滞在する際には神保町の古書店を巡るのと、銀座で新しいパソコンや衣服を購入する。必ず守るべきこととしては、とにかく東京では人に会わないようにし、静かに訪れ静かに去ることを心がける。
東京に数日間滞在した後に岐阜に行き、岐阜でも数日間滞在した後に、そこから仕事の関係上、大阪に移動して、二日ほど大阪に滞在する。大阪での仕事が終わり次第、山口県の実家に移動する。そのような旅を9月末から10月初旬に行う。
11月には、ノルウェーかフィンランドに再度訪れ、今回は現代的な都市を観光することなどせずに、オーロラを見ることだけを目的にする。この旅を終えて、年内最後の旅としては、年末年始をマルタ共和国で過ごす計画を立てている。
およそ一ヶ月に一回ほどのペースで旅に出かけていくことが今の私にはちょうど良いようであり、そうした旅を必要にしているようだ。かかりつけの美容師のメルヴィンも、一ヶ月に一度、一週間ほどの休みを設けるようにしているようであり、その時に短い旅に出かけるようであるから、毎月髪を切ってもらう時は、お互いの旅行の報告会になるだろう。フローニンゲン:2019/5/9(木)05:58
No.1928: On a Listless Afternoon
I feel listless this afternoon. Groningen, 15:25, Thursday, 5/9/2019
4334. 天からの贈り物を楽しみにする毎朝
一昨日までの旅を通じて、様々な考えが芽生えており、それをワードにメモしているのだが、それがかなり溜まっており、そのほとんどがまだ文章の形になっていない。これからしばらくは、旅で得られた事柄をゆっくりと咀嚼・吸収していく期間になるだろう。
脈絡のないメモを見ながら、脈絡を見つけ出し、あるいはそれを生み出し、言葉の形にしていくということをこれから少しずつ行っていく。
今朝目覚めた時には、いつもと同じように、今日の作曲実践への期待感が募っていた。作曲に関する学習を行い、作曲実践をするために毎日起床しているような生活が続く。
喩えるのが難しいが、毎朝起床するときの私は、幼少時代のクリスマスの朝のような感覚、つまりサンタクロースからのプレゼントを開けることを楽しみに起床する子供のような心を持って目覚めていると言えるかもしれない。
作曲に関する学習と作曲実践は、そのような気持ちを喚起させてくれるがゆえに、天からの贈り物であるように思える。厳密には、それは作曲のみならず、日記を執筆することに対しても同様の気持ちを持つ。
すなわち私は、未だ形にならない未知なる自分の言葉と音楽を生み出すことに楽しみを見出す形で毎朝起きていると言える。とにかくこれからも日記を執筆することと、作曲に関する学習と実践を継続させていく。
その他のことは一切望まない。強いてあげるとするならば、健全な食生活が担保され、落ち着いた生活環境が確保されていることだけだ。煩わしい人付き合いは、ほぼ完全にゼロにしていき、正しく自分の人生を生きて行く。
今日も数曲ほど曲を作っていきたいと思う。その過程においては、絶えず実験を行い、新たな発見を得るようにする。
今の私は、数学の学習で言えば、数学的基礎力を付ける段階であり、もう少し計算問題を多く解くような鍛錬を自らに課した方が良いかもしれず、公式を活用した基礎問題を解く数を増やした方が良いかもしれない。
そうなってくると、毎日3つから4つほどの曲を作るというのでは、数が絶対的に不足している。そうした鍛錬をより真剣に行うのであれば、もう少し数が必要になるだろう。
だが仮に、計算も公式の応用も丁寧に進めていくことに主眼を当てるのであれば、今のペースで作曲実践を進めていくのも悪くはないだろう。計算と公式の応用の双方が含まれる数学の良問を一日に三、四題じっくり解くような意識で形で曲を作っていく。
それ以下では話にならず、それ以上の場合は、鍛錬過多に陥ってしまうかもしれない。毎日少なくとも二曲、多くて五曲作ることが今の私には合っているようだ。
一曲しか作らないというのは怠惰さの表れであり、六曲作るのは過食的な馬鹿げた行為である。そうした考えを持って、今後の作曲学習と実践を進めていく。フローニンゲン:2019/5/9(木)06:13
4335. 今後の旅に関する追記と今朝方の夢
時刻は午前6時半を迎えようとしている。今、書斎の机の上で一杯の具なしの味噌汁を飲んでいる。旅の最中においては、この有機八丁味噌で作った味噌汁が恋しく、今このようにして早朝に一杯の味噌汁を飲めることに至福さを感じる。
先日の日記で書き留めたように、食生活に対する見直しと検証が今も絶えずなされており、有機野菜をふんだんに使ったサラダにナッツ類を和えたものを食べる日と、サラダを食べず、玉ねぎと椎茸、そしてニンニクを入れた味噌汁と、デザートとして茹でたサツマイモを一つだけ食べる日を交互に繰り返していく。
昨日は野菜サラダを食べたので、今日はサラダを作らず、玉ねぎ、椎茸、ニンンクを入れた味噌汁とサツマイモだけを食べる。もしかすると、いつも食前にデザート代わりに食べている大きめのトマト一個を食べるかもしれない。その判断は夕食時に行う。
先ほど、今年の旅行計画について簡単に書き留めていたが、11月に北欧にオーロラ観測旅行をした後に、年明けの2月か3月にも再度北欧に足を運び、再びオーロラ観測をしたという思いがある。秋に見るオーロラと冬に見るオーロラの比較をしたい。
その際には、オーロラを観測できる静かで小さな街に滞在したいと思う。そこでは毎日観光に出かけることなどせず、基本的にはホテルでゆっくりする計画を立てている。
二回のオーロラ観測旅行を是非実現させたいと思う。年明けの北欧旅行をいつにするのかよって計画を変更する必要があるが、2月か3月、あるいは4月にはベルギーにも足を運びたい。その際には、これまでの旅と同様に、美術館や博物館を訪れることがメインになるだろう。
今後も自分を呼ぶ場所にだけ足を運ぶような旅を継続していきたい。自分を呼ばないのであれば旅などには出かけない。
基本的に私は旅をするよりも、落ち着いた自宅にいることを好む。だが、自分を呼ぶ場所がある限り、そこに出かけていこうと思う。
今から今朝方の夢について振り返りを行い、それが終わったら、早朝の作曲実践に取り掛かりたい。夢の中で私は、小中高時代の女性の友人(YY)と一緒に将棋を楽しんでいた。
彼女は学業が極めて優秀であり、将棋にはこれまでそれほど親しんでいなかったようであるが、ひとたびルールを覚えると、メキメキと力を付けているようだった。私は彼女と対局をし始めたのだが、最初の盤面の駒の並び方が少し変わっていた。
自分の左側に強い駒が偏っており、彼女の側にはあまり強い駒が並んでいないようだった。それは中盤か終盤の局面のように思えたが、対局はまだ始まっておらず、最初の盤面がそのような形であった。
とりあえず私はそれを気にせずに、初手を打った。初手を打つ際に、香車を動かすか、銀を動かすかを迷った。
私も将棋には精通していないため、念のため銀が動ける方向を再度確認し、その結果として私は銀を初手として打った。すると、彼女はその手に一瞬驚いたようであるが、再び冷静な表情に戻り、その手に応じる一手を考え始めた。
彼女が次の一手を考えている間に、私は席を立ち、近くで行なわれている他の対局を見て回ることにした。その場所では様々な対局が行われていたため、他の人の様子を見るにはもってこいであった。
居酒屋の個室のような場所が延々と続いているような会場の中、一つの個室で対局をしている男性の背中が見えた。その方の背中を見たときに、大学時代に所属していたフットサルサークルの先輩であることがわかった。
その方は、私が入学したときにはすでに大学四年生であった。その先輩の対局の様子を観察しようと思って近寄ってみると、そこで行われていたのは将棋ではなく、別のボードゲームであった。
その先輩は、真剣な表情でそのゲームを行っていたため、私は話しかけるのをやめ、後ろからそのゲームの進行を見つめていた。フローニンゲン:2019/5/9(木)06:47
4336. 仮眠中のビジョン
つい先ほど仮眠から目覚めた。旅の最中においては正午前に仮眠を取ってから日中の観光に出かけていたが、旅から戻ってきてからの二日間は、旅の最中よりも30分ぐらい早い時間帯から仮眠を取っている。
これはもしかすると、リスボンとフローニンゲンの時差が一時間ほどあることに関係しているかもしれない。今日は夕方から雨が降るようだが、今この瞬間のフローニンゲン上空は晴れており、雨が降るような様子はない。
街路樹の新緑に溢れる木々の葉は、相変わらずそよ風に揺れている。その姿を眺めていると、ひどく心が落ち着く。
先ほどの仮眠中においては、いつものようにビジョンを見ていた。何層にもわたる塔のような建物の中に私はいた。
その塔の各階層には絵画や芸術作品が所蔵されており、私は一つ一つのフロアに足を運び、作品を鑑賞していた。この美術館のような建物の中には、観光客らしき人たちが何人かいた。
外国人が少々、そして日本人が少々いた。日本人の観光客の中には私の知り合いも混じっていた。確か、大学時代のサークルの先輩もそこにいたように思う。
この建物に関して印象に残っているのは、建物の中が灰色がかった青色で包まれていたことである。空気の色、あるいはその場の気の流れがそのような色であった。
少し陰鬱な色がその場を支配していたのを覚えている。ビジョンの最後の方においては、私は知人と一緒に、一階のフロアの上をスライディングのような形で滑ってふざけていた。
一階のフロアのある箇所がよく滑ることに気づき、その上をスライディングのような格好で滑っていくのはとても気持ち良かった。今その場面について書き留めたところで、一つ思い出したことがある。
そのような遊びを一緒に行ったのは知人というよりも、中学校の時に私と同じバスケ部に所属していた友人(KS)だった。彼と私はスライディングをしてフロアを滑ると、そこで立ち上がって、先日学校で行われたテストについて話をし始めた。
なぜだか彼が私のテストを採点してくれたようである。テストの科目は国語であり、主要科目の中では私が一番苦手にしているものだった。
とはいえ私は、100点中、少なくとも97点ぐらいは点数が取れただろうと思っていた。しかし、彼から答案を渡された時、84点という恐ろしいほどに低い点数を見て、私は相当に驚いた。
それは何かの間違いだろとすぐに思い、赤でばつ印が付けられた箇所を真っ先に見ていった。すると、正解だと思われるような答えにもばつ印が付けられており、私は彼にその理由を聞いた。
すると、彼は明確な理由を答える前に、私の答案を裏返し、裏に書かれた様々な音楽記号の解説を始めた。厳密に述べると、答案の裏には大量の数式と楽譜が書かれており、彼は私が答案に書いた音楽表現は正しくないと述べ始めた。
テストの科目は国語だったはずなのだが、問題の幾つかには作曲を要求するものがあり、私が回答のために作った曲には誤りがあることを友人は指摘し始めた。私はそれは誤りではないことを主張し返し、彼は私の主張を聞くたびに、自分の誤りを認め、ばつ印を丸に変えていき、私のテストの点数はみるみるうちに上がっていき、93点ほどになった。
それでも自分が思っているよりも低い点数であったから満足できず、私はあまり良い気分ではなかった。そこでテストの話はその辺にして、もう一度フロアを滑って遊ぶか、それともこの建物から外に出て遊ぶかのどちらかにしようと提案した。
そこでビジョンから覚めた。フローニンゲン:2019/5/9(木)12:46
4337. 非日常的なリズムから日常的なリズムへの移行
時刻は午後8時半を迎えた。この時間帯のフローニンゲンはまだ明るく、太陽は完全に沈んでいない。日没まであと一時間ほどだろうか。
早朝と同様に、この時間帯にも小鳥たちの澄んだ鳴き声が聞こえる。それを聞く私は早朝の私と異なるためか、そして小鳥たち自身も変化しているためか、同じ鳴き声のように思えながらも、そこに差異を見出すこともできる。
早朝の小鳥たちの鳴き声の意味と、暮れゆくこの時間帯の小鳥たちの鳴き声の意味にはどのような違いがあるだろうか。そのようなことをぼんやりと考える。
本日は旅から戻ってきての二日目であり、まだ旅の感覚が残っているかのようである。旅の非日常的なリズムから日常的なリズムに完全に戻るのは、明日以降になるだろうか。
ひょっとすると明日もまだ非日常的なリズムが自分の内側に残っているかもしれないので、焦ることなく日常に戻っていこうと思う。何事においてもそうだが、移行期間というものを大切にせねばなるまい。
新緑をつけた街路樹の葉が、夕暮れ時のそよ風に優しく揺れている。つい先ほどまで雷の音が聞こえ、数秒ほど雨が降っていた。それが嘘のように今は静かになり、ゆっくりと一日が終わりに向かっていく。
今日はまだ日常のリズムを完全に掴んでおらず、探究活動と創造活動についてはできる範囲のことを行っていた。写経実践については比較的順調に進み、手持ちの音楽記号・用語辞典に掲載されている譜例を全て写経するのもあとわずかである。
今夜はまだもう少し時間があるので、残りの譜例についてこれから写経を行っていきたい。可能であれば、明日か明後日からは、ウォルター・ピストンの“Harmony (1978)”に対して写経実践を行っていく。
その際には、理論的な観点を獲得していくために、譜例を写経する際にはやはり解説も読んでいこうと思う。理論的な観点を掴んでおかなければ、実際の作曲実践の中でそれを活用することはできないだろう。
特に、垂直方向の性質を持つハーモニーに関しては構造的な側面が強く、それは理論的に説明できる事柄が多いため、ハーモニーについてはできるだけ頭も活用しながら理解を深めていく、一方、水平方向の性質を持つメロディーに関しては、理論的な側面も当然ながら大切であるが、感覚を養うことがより重要のように思える。メロディーに関しては、それを生み出す理論的な観点が少ない印象を受ける。
ハーモニーにせよ、メロディーにせよ、どちらも共に認知的理解と感覚的理解の双方が大切であることを忘れないようにする。それを絶えず念頭に置きながら、明日からの学習と実践を進めていく。フローニンゲン:2019/5/9(木)21:00
No.1929: A Pleasant Flow
I’m spending wonderful time, feeling a pleasant flow in the morning.
I want to continue to feel the same sensation in the afternoon. Groningen, 10:58, Friday, 5/10/2019
5月9日(木)に生まれた曲たち
Op.1119 新緑溢れる朝に
Op.1120 青空のダンス
Op.1121 物憂げな午後に