
タイトル一覧
4315.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボン滞在四日目の朝に
4316.【バルセロナ・リスボン旅行記】オーケストラに所属し、脱退する夢
4317.【バルセロナ・リスボン旅行記】仮眠中のビジョン
4318.【バルセロナ・リスボン旅行記】ファド博物館を訪れて
4319.【バルセロナ・リスボン旅行記】作曲上の写経実践と大学入試数学の学習との類似性
4315.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボン滞在四日目の朝に
昨夜は珍しく、夜の10時を過ぎても調べ物をしており、就寝が11時になってしまったので、今朝の目覚めは4時とゆったりとしたものだった。リスボン滞在の四日目はゆったりとした起床から始まり、今日もゆっくりとした時の流れの中で過ごしていくことになるだろう。
ゆっくりとした起床と言っても4時に起き、今このようにして速やかに一日の活動を始めることができたのであるから、今日も自分のライフワークに十分に取り組みながら、それでいて旅を満喫することができるだろう。
確かに私は今、旅の空の下にいるのだが、もはや旅をしているという感覚はさほどない。確かに旅が持つ非日常性というのは常に存在しているが、旅と日常生活の境界線が溶解し始め、両者が調和をし始めているように感じる。
旅が非日常性を有しながら日常生活になり、日常生活は日常性を維持しながら非日常になる。そのような変化が見られる。今日も午前中いっぱいは、フローニンゲンでの生活と何ら変わらず、自分のライフワークに取り組んでいく。
昼前に仮眠を取り、目覚めてから、ファド博物館とシアード美術館に足を運ぶ。以前ファドについて簡単に触れたが、ここで再度触れておくと、ファドとは、ポルトガル発祥の民族歌謡である。
リスボンの街を歩いていると、レストランの看板などにファドの絵や写真が飾られており、食事を楽しみながらファドの演奏を聴くことができる店をよく見かける。ファドは19世紀前半にリスボンで生まれたらしく、今でもそれは演奏され続け、人々に親しみ続けられている。
音楽学的な観点からすると、ファドは一般的にドリアンモードとアイオニアンモードを活用することに特徴があるそうだ。独特のポルトガルギターやクラシック・ギターを使う音色、そしてそこに人の歌声が乗せられたファドの音楽とはどのようなものかを、博物館に足を運ぶことによって深く知りたいと思う。
そもそも「ファド」という言葉は、「運命」や「宿命」を指しており、今回私がファドに関心を示したのも、何かの運命であり、宿命だったのかもしれない。ファド博物館を訪れたら、その足で近くのシアード美術館まで歩いていく。
シアード美術館は、近代から現代にかけてのポルトガル出身の芸術家の作品を中心に所蔵しているが、それだけではなく、ロダンの彫刻といった作品も見どころとして挙がっている。夕方までシアード美術館でゆっくりと過ごしたら、今日からはもうビュッフェ形式のレストランに行くのではなく、オーガニックスーパーで果物とサラダを購入して、それをホテルの自室に持ち帰って夕食にする。
気がつけば早いもので、リスボンに滞在するのは実質上あと二日となり、夕食を摂るのは今日と明日の二回だけとなった。今日の夕食は、イチゴと豆腐サラダにしようかと考えている。
ビュッフェ形式であれば様々な野菜を摂ることができるのは良いが、これまで足を運んできた店の野菜はおそらくオーガニックではない点と、やはりビュッフェ形式のためか食べ過ぎてしまうので、今日からはオーガニックスーパーで購入したものをホテルの自室でゆっくりと味わう。
レストランで早めに夕食を摂っても、少々食べ過ぎてしまうことから、ある程度食べ物が消化されてからいつも入浴するようにしていた。それが結果として入浴を遅らせてしまうことにつながっていたので、今日からは再び、夕食前に入浴し、入浴を終えてからホテルの自室でゆっくりと持ち帰った果物とサラダを食べるようにしたい。
リスボンで迎える日曜日がゆっくりと始まろうとしている。リスボン:2019/5/5(日)04:44
No.1917: A Dance in Lisbon
In the afternoon, I’ll visit the Calouste Gulbenkian Museum, the Jerónimos Monastery, and the Belém Tower.
I look forward to the sightseeing on the last day to stay in Lisbon. Lisbon, 08:32, Monday, 5/6/2019
4316.【バルセロナ・リスボン旅行記】オーケストラに所属し、脱退する夢
リスボン滞在の四日目は日曜日である。時刻は四時半を過ぎ、今ホテルの自室の窓を開け、小鳥の鳴き声に耳を傾けている。
昨日は土曜日であったからか、就寝前まで近くのレストランから音楽がかすかに聞こえてきて、少し賑やかな印象を持った。だが幸いにも、私が就寝する時間を迎えると、ピタリと音楽が止み、今日も良質な睡眠を取ることができた。
ここ最近は夢を振り返るのが起床してからしばらく経ってからになっているので、今日は今から夢の振り返りを行っておきたい。夢の中で私は、学校のような建物の屋上にいた。
その日は晴天であり、屋上には多くの外国人の学生がいて、全員でオーケストラの練習をしていた。私もオーケストラの一員のようなのだが、楽器の演奏経験などまったくない私がオーケストラなどにいて大丈夫かと少し心配になっていた。
だが、周りの学生たちが楽しそうに練習をしている姿を見ると、仮に音楽経験が一切なくても、この場にいることに対して不安になる必要などないと思い始めた。しばらく学生たちだけで練習をしていると、途中から、中学校時代にお世話になっていた音楽の先生が姿を現した。
いや、よくよくその人を見ると、お世話になっていた先生とは微妙に違う人であった。どことなく見覚えのあるの顔なのだが、その人の名前を思い出すことができなかった。いや、記憶の中の誰か二人の女性教師が混ざり合い、それが一人の人間として今自分の目の前にいるように思えた。
その先生らしき人がやってくると、オーケストラのメンバーは一旦演奏を止め、先生の話に耳を傾けた。その後、最初のパートから練習しようということになった。
私が担当していた楽器は、布団である。それは文字どおり、「布団(ふとん)」である。
厳密には、ベッドを立て掛けたものに布団が敷かれており、その布団を叩いて打ち鳴らすのが自分の役割だった。
今改めて思うと、随分と珍妙な楽器(?)だと思うが、夢の中の私、そして他の学生たちはその楽器に対して何もおかしさを感じていないようだった。
演奏の練習が再開されると、私はどこでどのように布団を打ち鳴らしていいのかが全くわからなかった。そもそも、私たちの前には楽譜がなく、仮に楽譜があったとしても、曲が楽譜のどこを進行しているのかを私は理解できないであろうから、楽譜の有無はさほど重要ではないと思うのだが、いずれにせよ、自分がどこでどのように布団を叩けばいいのかがわからないことはもどかしかった。
結局、私は立て掛けられたベッドを支えたまま、一度も布団を打ち鳴らすことなく演奏が終わった。演奏を終えると、先生は他の学生たち全員に向かってねぎらいの言葉を投げかけた。
その後、後ろを振り返り、私に向かって、「そういえば、加藤君の布団の音が聞こえなかったわね」と微笑みながら述べた。その先生は確かに優しい人だと思ったが、私はこのオーケストラに所属していることがあまり心地良くなく、そもそも楽器を演奏する関心も意欲もほとんどなかったため、私はオーケストラをやめることにした。
オーケストラへの参加は、音楽の単位と紐付いたものであり、オーケストラを止めることは即、音楽の単位を落とすことを意味していた。先生は私に対して、「それともう一つ、前回の課題の提出が今日までだけど、加藤君の課題がまだ提出されていないようよ。今日中にアシスタントに課題を提出しておいてね」と述べた。
課題に取り組むこと、そしてそれを提出することがひどく面倒くさく思われたため、昼食を摂り終えたら、音楽のクラスの履修を撤回しようと思った。そこで夢から覚めた。
上述の夢以外にも、学校のトイレの中にこもる夢の場面があったのを覚えている。それは確かに学校のホテルなのだが、オフィスビルにあるような比較的綺麗なトイレであり、最初私は、空いている個室がないかどうかを確かめるために、その場にかがみこんで、人の足が見えるかどうかを確認していた。
すると、全ての個室が空いており、私は自分が最も良いと思う場所の個室に入って便座に腰掛け、しばらく考え事をしていた。そのような夢も見ていたことを覚えている。リスボン:2019/5/5(日)05:11
No.1918: Heavenly Lisbon
Today is the last day when I can spend blissful time in Lisbon.
Thus, I’ll enjoy doing some sightseeing as possible as I can. Lisbon, 11:08, Monday, 5/6/2019
4317.【バルセロナ・リスボン旅行記】仮眠中のビジョン
時刻は間もなく正午を迎える。リスボンの気温は今日も暖かく、良い天気の中を観光できることを有り難く思う。
今日の最高気温は23度、最低気温は13度の快適な天気に恵まれている。
つい今しがた仮眠を取り終えた。仮眠中、今日は全身の身体エネルギーが活性化する現象に見舞われていた。
それは金縛りにあったような感覚を伴い、全身が黄色に輝く電気エネルギーに包まれるような体験である。これは時折早朝早く起きた時や、午前中に脳をよく使った際に見舞われる現象である。
仮眠中の意識においても、この現象が生まれる直前に、この現象の訪れを感じており、充満する電気のようなエネルギーが流れ始めた時は、それに抵抗せず、ただその感覚の中に浸るようにしていた。ちょうどこの現象が生まれる前後にはビジョンを見ていた。
前半のビジョンは、私がどこかの部屋のベッド——おそらく高校時代に住んでいた社宅の自室のベッド——の上に横たわっており、幽体離脱するところを描いたものだった。ビジョンの中の自分の身体は、微細なエネルギー体と化し、それは黄色から白色に変わり、色が変化した瞬間に、私の意識と身体エネルギーは肉体から抜け出した。
しばらく空中に浮かんだ身体エネルギーの中に自分の意識があり、それが収まるまで静かにしておいた。
次のビジョンにおいては、私はリスボンの街を歩いているようだった。パリやコペンハーゲンとは異なる性質を持つ石畳の美しい街並みを、私はゆっくり歩いていた。
天気は本日のように晴れであり、とても平和な雰囲気が辺りを包んでいた。散歩をしていると、途中で私は歩みを止めて、一軒の楽器屋に入っていった。
そこで見たこともないような楽器を手にし、その音を奏でてみた。そこで奏でられた音も未だかつて聞いたことのないようなものだった。
私はしばらくその楽器を演奏し、音の世界に魅了され、その世界の中に浸っていた。すると私の意識は楽器屋にはなく、再びリスボンの街中にあった。
ちょうど目の前には古代の建築様式で建てられた歴史を感じさせる駅があり、それを眺めながら私はその場に佇んでいた。今日はそのようなビジョンを見ていた。
ビジョンの中では、確か小中高時代の女性の友人(YY)が現れ、彼女は、これから私が参加する予定のイベント会場の場所を私に教えてくれた。だが、口頭の説明だけではよくわからなかったので、彼女が途中までついてきてくれるとのことであった。
その親切心に感謝しながらも、彼女が出発に向けて携帯か財布か何かを近くの家に取り入った時、私は彼女を待たずしてその場を出発してしまった。その他にも、リスボンの街の市場で買い物をしていた場面があった。
そこではオーガニック食品が扱われており、二人の女性店員がオランダ語を話していたので、彼女たちがオランダ人であることに気づき、オランダ語で話しかけ、果物か何かを一つ購入したのを覚えている。
今日はこれから最寄り駅からメトロに乗り、ファド博物館に足を箱ぶ。その後、シアード美術館までゆっくりと歩き、この美術館を堪能したい。
今、海に近いリスボンの街にカモメの鳴き声が響き渡った。本日街中を歩いている最中に、ひょっとすると、先ほどビジョンの中で見ていたような景色と遭遇するかもしれない。リスボン:2019/5/5(日)12:03
4318.【バルセロナ・リスボン旅行記】ファド博物館を訪れて
時刻は午後の六時を迎え、先ほどホテルの自室に戻ってきた。リスボン滞在四日目の観光も実に充実していた。
正午に仮眠を取り、午後からはファド博物館に足を運んできた。最初私は、事前情報をもとに1.5時間ほどの所要時間を見積もっていた。しかし、博物館の中に入ってみると、とても小さいことがわかり、見積もりの所要時間もかからないのではないかと思った。
チケットはオーディオガイド込みで5ユーロと安く、館内は小さくてもオーディオガイドをゆっくり聴くことによって少なくとも1時間はかけて鑑賞しようと考えた。ところが館内に入ってオーディオガイドを聴き始めてみると、これまで馴染みのなかったファドに対して関心の目が一気に開かれ、結局私は当初の見積もり時間を大幅に超えて2.5時間ほどこの博物館にいた。
ファドの歴史に始まり、ファドがリスボンを拠点にしてポルトガル社会の中でどのように浸透・発展して行ったのかに大変興味を持った。また何よりも、オーディオから時々流れてくるファドの音色がクラシック音楽にはないような魅力を持っており、自分の作曲に活かすという観点から、オーディオを隅から隅まで聴いていった。
館内の途中には、有名なファド歌手の録音演奏を聴けるスペースがあり、そこでも何曲かに耳を傾けていた。そうこうしている間に随分と時間が経ち、最後は館内の小さな映画館のようなスペースで上映されていた、ファドに関するドキュメンタリー番組を見た。
この番組は、ファドの歌手、そしてファドの研究者にインタビューをする形式で構成されており、一人一人のファドとの出会いや思想についての話が面白く、一度席に座ると、最後まで見なければ席を立てないほどに私の関心を引いた。
数人のファドの歌手が共通して述べていたのは、歌を歌う際に、ギターの演奏者、そして聴衆及びその場と一体になるというある種の超越体験ないしは宗教体験をしたことがあるという話であった。これはもちろんファド固有の体験ではないが、クラシックコンサートのように、ステージと観客席とに別々の結界のようなものが生まれ、二つの結界間に音が行き来することによって生まれる一体感とはまた別の一体感がファドの演奏にはあるのだろう。
今回は、レストランなどでファドの生演奏を聴く機会はなさそうだが、また次回リスボン、あるいはポルトガルの他の街を訪れた際には、ファドの生演奏を聞きたいと思う。
私はもちろんクラシック音楽を好んでいるが、ブラジルのサンバやアルゼンチンのタンゴのように、大衆的な場所に発生の起源を持っているファドには固有の面白さがある。生活から生まれた音楽には、教会や宮廷などに発生の起源があるクラシック音楽とはまた違った魅力があり、その魅力によって受けた刺激をもとに自分の曲作りに活かしていきたい。
ファドを通じて、音楽は私たちの生活の中に絶えず存在しているということを教えてもらったような気がする。
館内をくまなく見た後に、ギフトショップに立ち寄ると、そこに幸いにも、ファドの楽譜がたくさん置かれていた。およそ50種類ぐらい楽譜が置かれてあり、ピアノ曲にアレンジできそうな楽譜をいくつか見つけ、結局七冊ほど購入した。
リスボンに滞在できるのは今日と明日の二日間、そして明後日の朝だけとなったが、その期間に是非とも、本日購入した楽譜をもとに作曲を行いたい。リスボン:2019/5/5(日)18:24
4319.【バルセロナ・リスボン旅行記】作曲上の写経実践と大学入試数学の学習との 類似性
時刻は午後の九時を迎え、リスボン滞在の四日目が静かに幕を閉じようとしている。つい今しがた、本日を締め括る写経実践を行った。
今回の旅の友は、メロディーに関する理論書“Melody Writing and Analysis (1960)”の一冊のみであり、今回の旅の始まりに合わせて写経実践を開始した。計画通り、明日中に本書に掲載されている全ての譜例の写経実践が終わりそうだ。
もし明日に終わらなければ、明後日フローニンゲンに戻る際の移動時間にも実践を行っていきたい。作曲上の写経実践をしていると、大学入試に向けた数学の勉強のことを思い出す。
私は一応日本の教育においては文系に括られ、文系の大学に進学したが、高校時代に最も好きな科目は数学であった。入試に向けた勉強の息抜きや楽しみとして、数学の問題を解くことがあった。
作曲上の写経実践は、当時数学の問題を解いていた頃を懐かしく思い出させる。今私が思うのは、おそらく数学の問題を解くこと以上に写経実践が面白いということである。
その背後にはもちろん、この写経実践がこれからの自分の作曲技術の土台を構築していく上で非常に重要な役割を担っているからであり、同時に、数学の問題を解くこと以上に、実際に曲の断片が姿を現し、そこから身体感覚を強く刺激する実際の音が生み出されることに楽しさや喜びを見出していることが挙げられる。
ただし繰り返しになるが、成人になった現在行っているこの写経実践に伴う喜びと楽しさは、高校時代に数学の問題を解いていた時に味わっていたものと非常に似ているということだ。そうした共通点に気づかせてくれたのが写経実践だった。
この実践のアイデアは以前から生まれていたのだが、それを行う必要性を強く感じ、本格的にそれを始めたのはほんの先日のことである。そのため、今は色々と模索しながらこの実践を行い、実践から得られた気づきをもとに色々と工夫や修正を施している段階である。
作曲の技術を高めていく学習やトレーニングと、大学入試に向けた数学のそれらは少しばかり違いがあるのは確かだ。そもそも作曲の技術を高めるための理論書や実践書は、日本の大学入試における数学の参考書や問題集のように多くない。
というよりも、日本語文献においてはほとんど良いものがなく、英語に関してもそれほど数は多くない。しかし現在手持ちの理論書を眺めてみると、大学入試に向けて数学の学習を進めていた方法を応用させることが十分に可能であると遅まきながら気づいた。
私は過去に高校生一年生から三年生に塾で数学を教えていたことがあり、その時の経験も活用しない手はない。私の受験生時代からあった『青チャート』は、現在手持ちの書籍で言えば、ウォルター・ピストンの“Harmony (1978)”に対応するように思う。
『青チャート』は、網羅性のある問題集として定評があり、上述のピストンの書籍もハーモニーに関して網羅性がある。厳密に言えば、ピストンの書籍はハーモニーしか扱っていないため、数学で言えば微積分やベクトル、あるいは確率などの一単元しか扱っていないようなものなので、二つの書籍を直接結びつけることはできないが、書籍の分厚さと例題(譜例)の豊富さが似ているように思う。
フローニンゲンに戻ったら、まずは『青チャート』に例えられるピストンの書籍の譜例を徹底的に写経していこうと思う。一つ悩みどころとしては、チャート式の例題を理解しながら解いていくように、解説を読みながら譜例を写経していくのが良いのか、それとも一周目は解説を読むことなしに、作曲ソフト上に音符を打ち込み、それを何度も繰り返し聞くだけに留めて、頭をできるだけ経由せずに身体感覚を通じて学習していくことの方が良いのかどうかという点である。
これはどちらも一長一短あり、判断が難しいので、実際にフローニンゲンの自宅に帰って本書を開き、二つの案をどちらも試してみようと思う。
ピストンの上述の書籍の譜例に対する写経が全て終わったら、もちろん何度も繰り返し同じ数学の問題を解いて数学力をつけていくのと同様に、本書の譜例に関しても繰り返し写経をしていく予定なのだが、より専門的な単元を扱う書籍に対しても写経を行っていく。
例えば、チャイコフスキーのハーモニーに関する書籍“Guide to the practical study of harmony (2005)”は、ピストンの書籍よりも解説が少なく、少し応用的であるように思われるため、ハーモニーの発展学習として取り組むのが良いだろう。
また、対位法に関するピストンの書籍“Counterpoint (1947)”やヨハン・ヨーゼフ・フックスの古典的名著“The Study of Counterpoint: From Johann Joseph Fux’s Gradus Ad Parnassum (1965)”は、整数問題の対策に使っていた名著『マスター・オブ・整数』に対応するように思える。
さらには、アルフレッド・マンが執筆したフーガに関する書籍“The Study of Fugue (1958)”やマックス・レーガーが執筆した転調に関する書籍“Modulation (2007)”も『マスター・オブ・整数』ないしは、『1対1対応の演習』の各単元に該当するような応用的なものだと言えるだろう。
その他には、ショーンバーグが執筆した作曲理論全般に関する“Fundamentals of Musical Composition (1967)”は、『良問プラチカ』に対応すると言えるかもしれない。いずれにせよ、そうした作曲の理論書を繰り返し写経する際には、音楽生成上のパターンを身体に染み込ませ、身についたパターンを自由自在に組み合わせながらその場で自由自在に活用できるようにしていきたい。
明日からの写経実践においてもその辺りを常に意識する。リスボン:2019/5/5(日)21:47
5月5日(日)に生まれた曲たち
Op.1107 リスボンの日曜の朝の落ち着き
Op.1108 清らかな流れ