タイトル一覧
4301.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボンで見舞われた異常知覚
4302.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボン滞在の二日目の計画
4303.【バルセロナ・リスボン旅行記】浄福さの中へ溶け出して
4304.【バルセロナ・リスボン旅行記】死の連続性の証明について
4305.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボンに対する既視感
4306.【バルセロナ・リスボン旅行記】国立古美術館を訪れて
4307.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボン海洋水族館に向けて
4308.【バルセロナ・リスボン旅行記】絶え間ない勉強:就寝前に思い出す今朝方の夢
4301.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボンで見舞われた異常知覚
「よく寝たな」と思って目覚めてみると、深夜12時だった。就寝したのはその二時間前の午後10時過ぎであったから、二時間弱しか寝ていないことになる。
さすがにそれでは睡眠が少ないだろうと思って再度寝ると、今度もまた「よく寝たな」と思って目を覚ました。すると、深夜一時半であった。それ以上寝る必要性を一切感じなかったため、そこで起床することにし、今は午前二時を迎えようとしている。
今回のバルセロナ・リスボン旅行においては断食をしているわけではないのだが、端的に述べれば、知覚が異常である。特に昨日から今日にかけての知覚は異常であり、体験したことはないのだが、覚せい剤や向精神薬を摂取したのではないかというぐらいに中枢神経系が高ぶっているのを感じる。
脳内の何かしらの物質が異常に分泌されているのを感じ、今朝も目覚めの前に多種多様なイマージュが知覚されており、目を閉じたまましばらくそれを観察していた。
実は深夜12時に目覚めた時に、そうした異常な知覚現象を冷静に受けて止めており、デスクの上に置いておいた裏紙に走り書きをしておいた。部屋の明かりを点けることなく、暗闇に包まれた部屋の中でそのメモを書き、今改めてそれを眺めている。
メモによると、「千変万化するビジョンが怒涛の流れとうねりを持ち、それが自分の内側に流れ込んでいる」という体験をしていたようだった。そしてその一行の下に「⇩」のマークがあり、補足説明がなされている。
それを読むと、「ガウディ、ピカソ、ダリ、ミロのXX(識別不可能)、そしてバルセロナ、リスボンのXX(識別不可能)が流入」と書かれている。識別不可能な文字に関して少し考えてみると、おそらく意味合いとしてはどちらも共に、「固有の感覚」という言葉が当てはまるのではないかと思う。
言い換えると、上述の芸術家の固有の感覚と、バルセロナとリスボンの街の固有の感覚が、全て一つの統合的なまとまりになることに向けて、一旦ごちゃごちゃに混ざり出し、その混ざりが激しく進行している様子が怒涛の流れとして知覚されているのではないか、ということである。この説明はおそらくかなり正しい。
それらの芸術家と両都市の固有の感覚が、一旦自分の内側で全てごたまぜになり、それが一つの統一的なものに向かって動き始めている激しい運動を感じる。自分の内側に起こっているのは、この激しい運動なのだ。それを理解した時、今朝方の体験が単なる異常な知覚現象ではないことに安堵する。
これは決して自我が肥大化した形で述べているわけではないが、私は多分に知恵遅れな点がありながら、時々自分の脳が通常の働きよりも体感覚として1万倍ほど早く回転しているような感覚に陥ることがある。今朝の早朝未明もまさにそのような現象だった。
この感覚は表現しにくいのだが、仮に目の前に現象Aが起こったのを知覚すると、そのAという現象を生み出したこの現実世界の無限の因果律をどこまでも広く深く一瞬にして辿っていくことが可能になるような感覚がするのである。
例えば、自分の腹が鳴ったら、実はそれは鎌倉時代の自分の先祖が屋根の瓦で足を滑らせたことが原因だったというように。一見すると、両者の現象間に因果関係を見出すのは荒唐無稽なことのように思えるのだが、よくよく因果律を辿ってみると、今この瞬間に自分の腹が鳴っているのは、本当に先祖が鎌倉時代に家の瓦で足を滑らせたことに原因の一端があることが直感把握されるような感覚がするのである。
これは一例にすぎないが、こうした因果律や論理の把握のみならず、他の実践活動においてもこうした異常な感覚が何かしらの形となって現れることが時折ある。今朝の異常知覚も、今回の旅がこれまでの自分の蓄積と出会い、それを刺激することによって生み出されたものなのかもしれない。
今日はこの感覚をもう少し観察する必要がありそうだ。リスボン:2019/5/3(金)02:04
No.1911: Elementary Geometry
When I got up 2:30AM, I thought that I would learn and apply elemental geometry to my music composition. Lisbon, 05:48, Saturday, 5/4/2019
4302.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボン滞在の二日目の計画
時刻は早朝の二時を迎えた。この時間帯はとても静かである。リスボンの街の落ち着きは、バルセロナ以上であり、とても好感が持てる。
今、ホテルの自室には、ポルトガル生まれの作曲家が作ったピアノ曲が流れている。リスボンの街の陽気さとは少し異なる感覚をこれらの曲は持っており、どちらかというと優しさのような感覚を内包している。
聴いているCDのタイトルは、“Portuguese Piano Music”というものである。ピアノ演奏は、Sofia Lourencoというピアニストが務めているようだ。
リスボンに滞在中に、ぜひとも街の楽譜屋に足を運び、ポルトガル出身の作曲家の楽譜を購入したいと思っていた。しかし残念ながら、リスボンの街には楽器屋はたくさんあっても、楽譜を扱っている専門店はないようである。バルセロナとリスボンの街に残念さを感じるのはこの点だろうか。
一昨日、昨日と、人間を屑や家畜とみなすような趣旨の日記を書き留めていたように思う。その観点で言うと、現在宿泊しているホテルに滞在している客はどれも、自らを屑や家畜のような人間だと自覚している人たちのように思える。
そうした冷静かつ謙虚な判断のできる知性を持った人たちが宿泊しているためか、このホテルではとても静かな生活を送ることができている。もちろん、このホテルの防音対策がしっかりしているというのも一因だろうが、騒音で目が覚めるということがないことは有り難い。
バルセロナで宿泊したホテルもリスボンのホテルと同じく四つ星のホテルだったのだが、そこの宿泊客は上記のような自覚がないのか、低音がやたらと響くロック音楽を深夜にかけている輩がいたし、私が起床する深夜3時ぐらいに、上機嫌に大きな声で歌を歌いながら廊下を歩く輩もいた(この輩には申し訳ないが、彼の行為は人様に迷惑をかけているため、知性の欠落した人間だと思った)。
現在のリスボンのホテルにはそうした輩が宿泊しておらず、とても落ち着きのある快適な滞在が確保されている。これについては何よりも感謝をしたい。
リスボン滞在の二日目の今日から本格的な観光を始める。今日の観光の主たるものは、国立古美術館を訪れることである。
この美術館は、17世紀に建てられた宮殿を改装し、1884年に設立されたポルトガルを代表する歴史ある美術館とのことである。館内は広く、12世紀から19世紀にかけてのポルトガル芸術の作品が充実しており、大航海時代にポルトガルが世界各国から集めた品々が展示されているとのことである。
一つ一つの作品をじっくり味わいたいと考えていることと、今日も最高気温が28度に達するとのことなので、ジェロニモス修道院やベレンの塔といった世界遺産に足を運ぶのは今日ではなく、最終日の月曜日にしようと思う。
国立古美術館へ行く際にメトロが使えるのか調べてみたところ、メトロの駅はそれほど近くになく、バスで移動することになりそうだ。リスボンはバスやトラムが発達しており、メトロに乗るカードでそれらの交通機関も利用できる。
ちょうど昨日、リスボンの国際空港の駅で切符を購入した時、それらの交通機関を利用できるスイカのようなカードを購入することになった。今日の午前中はホテルの自室で過ごし、作曲実践と写経実践に力を注ぎ、一旦仮眠を取ってから昼過ぎにホテルを出発したい。
一日一食生活を旅先でも行っていることもあり——果物だけ朝に食べているが——、多くの観光客が昼食を摂っている間に観光できるというのは何かと便利である。美術館を巡る際にも不要な混雑を避けながら鑑賞することができる。
今回リスボンで訪れる美術館の中でも、今日訪れる国立古美術館の所蔵作品の数は多いようであるから、昼過ぎから夕方にかけてゆっくりと作品鑑賞を楽しみたいと思う。こうしたこともあり、今日はやはり世界遺産に足を運ばない方が賢明であろうと判断した。
美術館に行く前に、まずは最寄りの地下鉄駅に行き、スイカのようなカードであるViva Viagemにチャージする。チャージできる金額は3、5、10、15、20ユーロ(それ以上の金額もある)から選べる。
残りの滞在期間に何回交通機関を利用するつもりなのか、しかもそれは地下鉄を利用するのか(1回1.5ユーロ)、バスを利用するのか(1回2ユーロ)を考慮してチャージの金額を決めたい。
今のところ、今日はバスに2回乗り(合計4ユーロ)、明日はメトロに2回乗り(合計3ユーロ)、明後日はメトロに1回乗り(合計1.5ユーロ)、明々後日はバスに2回乗り(合計4ユーロ)、最終日は最寄駅から空港駅までにメトロを1回乗るため(合計1.5ユーロ)、全て合わせると合計で14ユーロであるため、15ユーロほどチャージすればいいだろう。
カードへのチャージが終わり次第、国立古美術館に向かい、そこで作品を十分に観賞した後、昨日偶然発見したビュッフェ形式のレストランにバスで向かい、今日も夕食をそこで摂り、腹ごなしとしてレストランからホテルまでは歩いて帰る。リスボン:2019/5/3(金)02:54
No.1912: Sunbath in the Early Morning in Lisbon
I’m sunbathing in the early morning in Lisbon. It is very pleasant, and it stimulates my vital energy.
I’ll go to the Lisbon Oceanarium in the afternoon. I look forward to the encounter with various marine species. Lisbon, 07:40, Saturday, 5/4/2019
4303.【バルセロナ・リスボン旅行記】浄福さの中へ溶け出して
時刻は午前七時に近づきつつある。先ほどホテルの自室の窓を開けた時、小鳥の鳴き声が一斉に部屋に流れ込んできた。私の全身は小鳥たちの鳴き声にただちに包まれ、浄福さの中に溶けていった。
本当に幸せだ。今、このようにしてリスボンの街でこのように生きているというただそれだけのことが、本当に幸せだと感じさせてくれる。
このように毎日を生きていけばいいのだ。このようにして自分の人生の一瞬一瞬の瞬間を生きていけばいいのだと感じさせてくれる。
「このように人生を生きていいのだろうか?」と問うと、目の前の世界が静かにうなづいているかのようである。そのように生きていいのだ。
このようにして毎日を、日々の瞬間瞬間をこのように生きていいのである。
リスボンの街は、自分の現世的な活動における励ましと促しをもたらしてくれるのみならず、浄福さを通じて、超越的な世界と絶えず自分を結び合わせる形で毎日を生きるきっかけを与えてくれたように思う。
繰り返し何度でも述べておきたい。今、この瞬間の私はこれ以上にないほどに幸せだ。
起床直前から起床後にかけて現れた異常知覚の余韻はまだあるものの、それは随分穏やかなものになった。ひょっとすると、先ほどの異常知覚は、幸福さへの入り口、ないしは絶対的必要条件なのかもしれないと思わされた。
今ここという瞬間に浄福さを見出し、浄福さの粒子の中に存在を溶け込ませていくためには、あの異常な知覚を通じてこの現実世界を見通す必要があるのではないかと思わされたのである。ここではもちろん、幸福さを感じるためにあのような異常知覚がなければならないと述べているのではない。
ただし、幸福さのベールに包まれた究極的な幸福さの核に至るためには、あのような異常知覚を用いて、ベールを、ないしは幸福の核を覆う殻を打ち破っていく必要があるのではないかと思う。人間にとってそれを行わなければ、究極的な幸福感、あの世の中に溶け出し、あの世を超えて、あの世からこの世を生きようとする瞬間に生まれるとろけ出す浄福さを感じるためには、今朝方のような異常知覚の矢が必要であり、同時にそれは人間であれば誰でも獲得することができるものなのだと思う。
リスボンに滞在することになった目には見えない目的は、それに気づくことだったのかもしれない。そしてそれに気づくだけではなく、直接体験として、異常知覚を通じて浄福さの核の中へと溶け出していくことだったのかもしれない。
とにかくその計らいと導きに感謝をしたい。そして、今この瞬間のいかようにも表現できぬ浄福さに感謝の念を捧げたい。
リスボン滞在の二日目にして、私は早速この土地の土着神から貴重な贈り物を受け取ったように思う。リスボンという街は、私にとって何か特別な存在に思えてきた。
今日もこの街をゆっくり歩くことによって、この街と自分自身との深層的な関係を少しでも紐解きたい。私はこれからの人生をもしかすると、オランダ、ノルウェーかフィンランドの森の中、そしてリスボンという三つを生活拠点にして生きていくかもしれない。
この人生は、それらの場所に行き着き、それらの場所の往復によって生涯を閉じる運命にあったのではないかと思わされる。リスボンの早朝に小鳥たちの清らかな歌声が、いと高きところに向かって上昇し、そしてそれが地上に届けられる。リスボン:2019/5/3(金)07:09
No.1913: Lisbon After Sunset
The third day to stay in Lisbon is now approaching the end.
I didn’t go to any museums today, but instead I visited an aquarium that gave me a different type of stimulus. Lisbon, 21:09, Saturday, 5/4/2019
4304.【バルセロナ・リスボン旅行記】死の連続性の証明について
実は今日は起床直前に、死の連続性について考えていた。結局私たちは、死というものを生の一瞬一瞬と切り離すことはできず、そうであるならば、死が訪れる瞬間から今にかけての瞬間は連続的な一つの流れであり、生は即死となり、死は即生になるという関係性があるのではないか、という考えが芽生えていた。
確かに、物理的に脳の活動停止や心肺機能の停止などによって死の瞬間を同定し、その前後をもって生きている状態と死んだ状態に分けることは可能かと思う。だが、死の本質は何かそのように明確な区切りを設けることによって定義されるようなものではなく、「非定義化」を進めていくことによって定義されるものであるように思う。
それはまさに自己を定義付ける際に行われるのと同じ方法が必要とされることを意味している。私たちが自らの自己を定義しようとするとき、「私は〜な人間である」といくら述べても、究極的な定義には至らない。
A. H. アルマースが開発した、霊性の探究手法であるダイアモンド・アプローチにおいて、“Who are you?”という問いを何度も繰り返し、その問いに言語を用いて回答を続けていくと、ある時点で回答がピタリと止まる瞬間がある。
その瞬間、私たちは言語では捉えられない自己の本質に触れ、静謐さの中にくつろぐ。まさにここで行なわれていることは、言語が持つ分節化機能を極限まで活用し、その機能が麻痺した瞬間に立ち現れてくるものが自己の本質であるという証明方法なのだ。
ダイアモンド・アプローチにはその他にも自己探求的方法が無数にあり、私がジョン・エフ・ケネディ大学に在籍していた頃は、この手法に関するクラスを履修し、その時の体験をふと今思い出したのである。
言語の分節化作用を麻痺させ、それによって自己の本質を明るみに出すという証明方法と同じことが、死の本質に至ることにも転用できるということにハタと気づかされたのである。死の本質というのも、自己の本質と同様に、言葉ではいかようにも擬似的定義を施すことができる。
だが、それをいくら行ったとしても、それは究極的な定義に至ることはできず、定義の中に自己が溶け出し、死の定義と自己が一体化することはない。森羅万象の本質的な定義を見出すとき、私たちはほぼ間違いなくその定義と同一化する。
その感覚が得られなければ、見いだされた目の前の定義はまやかしであり、幻影である。そのようなことが言えるかと思う。
早朝の2時頃に目覚めた今日の私は、なぜ起床直前から死の連続性について考えていたのだろうか。その理由は全くもって定かではない。
リスボンでの滞在は、やはり自分にとって何か大きな意味を持っているようだ。
リスボンの二日目の早朝はとても穏やかであり、小鳥たちの鳴き声が美しく街に鳴り響いている。それは街のみならず、私の心の湖面にも響き渡っており、この人生における瞬間瞬間を生きるために不可欠な、優しい波紋を湖面に生み出している。リスボン:2019/5/3(金)07:25
4305.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボンに対する既視感
時刻は午前九時を迎えた。今日もリスボンは晴天に恵まれ、初夏のような一日になるようだ。
早朝に感じていた浄福さがまだ内側に残り続けている。このような浄福さを感じられること、この感覚の中に自分が生まれてきた意味と生きる意味を見出すことができるかもしない。
そのようなことを考えていると、こうした浄福さを感じさせてくれるために自分を産んでくれた両親に、今途轍もなく大きな感謝の念を抱きざるをえない。これまでの人生にあったこと、これからの人生にあるであろうことなど関係なしに、生の絶対的な肯定がこの浄福さの中にある。
この浄福さの中で日々を生きていけばいいのである。それが自分という一人の人間の究極的な生き方なのだと気づく。
このように人間としてのつかの間の儚い人生を生きられることに最大限の感謝をしたい。今はそうした感謝の念で一杯だ。
リスボン上空の太陽が地上に優しい光を届けている。今日はこれからこの太陽の光がより強さを増していくであろう。
昨日も感じていたことなのだが、リスボンで滞在している現在のホテルの部屋に入った瞬間と、自室から街を眺めた瞬間に、既視感(デジャビュ)があった。そうした既視感は今でもまだ続いている。
私は前世かどこかでリスボンに来たことがあったのだろうか。あるいはこの街に住んでいたことがあるのだろうか。そのようなことを思わざるをえない。
今日はこれから再び作曲実践をして、それに合わせて写経実践も行っていく。二つの実践は毎日着実に進行していく。
そうした進行に合わせて、作曲技術および自己自身を深耕させていく。浄福さの中でそうした深耕を水の流れる如く進めていけばいいのである。
そうした生き方に絶対的な幸福感と安心感を見出している自分がいる。ここに自分の人生があり、自分の人生に対する絶対的かつ無条件的な肯定感がある。それを元に今日からまた毎日を生きて行く。
旅行中はミネラルウォーターを買って良く飲んでいるためか、いつも以上に肌の調子が良い。確かにフローニンゲンでの生活においても、毎日水を十分に飲むようにしている。
その際は浄水ではなく、BRITAを使った水を飲んでいるが、旅行中の肌の調子の良さを考えると、今後はより水を飲む量を増やしてもいいかもしれないと思う。フローニンゲンに帰ってからは、これまで飲んでいたココアやヘンプパウダードリンクなどの色の着いたものを飲む量を少し減らし、もう少し水を飲む量を増やしたい。旅を通じて自分の身体の様子を観察していると、そのようなアイデアが浮かぶ。
これから新たに一曲を作ったら、ホテル近くのバス停から国立古美術館までの道筋を確認し、さらには国立古美術館から昨日訪れたビュッフェ形式のレストランまでの道筋を確認し、それらの地図をPDF化しておきたい。レストランからホテルまでの道筋は複雑ではなく、もう頭に入っているため、そのための地図は必要ない。
正午過ぎにホテルを出発し、まずは最寄りの地下鉄駅で公共交通機関を利用するためのカードを15ユーロ分チャージする。その後、バスに乗って美術館に向かう。
美術館で三時間から四時間ほど過ごしたら、レストランに向かい、早めの夕食をゆっくり摂る。そしてレストランからホテルに戻ってくる帰り際に、ホテル近くのスーパーに立ち寄って、1.5Lのペットボトルの水を2本ほど購入したいと思う。
今日もまた充実感と幸福感に満ち溢れた日になるだろう。リスボン:2019/5/3(金)09:22
4306.【バルセロナ・リスボン旅行記】国立古美術館を訪れて
リスボン滞在の二日目が幸福感のうちに終わりに向かっている。リスボンで味わっているこの幸福感を形容するふさわしい言葉は何かないかと模索しているのだが、それが見つからない。
見つけようとすると、その幸福感が言葉を避けるかのように、いや言葉よりも素晴らしいものがあるということを私に教えようとせんばかりに、幸福感が自己を溶かしていく。
時刻は午後の七時を過ぎた。リスボンの太陽はまだ沈まない。
今日は計画通りに、正午過ぎにホテルを出発し、国立古美術館を訪れた。道中バスで海岸の方向に向かっていく際の景色は格別であった。
昨日に引き続き、初夏のような今日の太陽は、海面を輝かせ、その輝きは実に眩しかった。
国立古美術館に迷うことなく到着した私は、すぐにチケットを購入した。リスボンは物価が安く、それが美術館の入場料にも反映されており、大人のチケットはわずか6ユーロであった。
地下階も合わせると、全部で四階のフロアからなるこの美術館はなかなかの見ものであった。ただし、所蔵作品の半数は、中世のポルトガルの絵画や彫刻などを扱っているため、キリスト教系の芸術に関心がなければ、少し物足りなさを感じるかもしれない。
私自身も、なんとか自分の関心の幅を広げようと思って宗教芸術などに接してみようとするのだが、中世の宗教芸術はどうしても存在の奥にまで入っていかない。後光の差す人間や天使などは、シンボルとしては面白いのだが、それらに存在が鷲掴みにされるかというと私は全くそうではない。
そうした作品はあまり真剣に向き合う気にもなれず、無理をして真剣に向き合う必要もないと思うので、鑑賞する足取りを少しゆっくりにする程度にして、そうした作品を一瞥していった。
宗教芸術の作品に対して感銘を受けることはほとんどなかったが、他のジャンルにおいては私を強く引きつけた作品群があった。それはポルトガルと貿易をしていた日本に関する所蔵品であり、桃山文化の屏風絵が飾られている部屋ではソファに腰掛けて、じっくりと所蔵作品を見ていた。
その他にも、今回私が意外にも強い関心を示したのは中国製の陶磁器であった。陶磁器というものがここまで美しいものだとはこれまで認識しておらず、今日陶磁器に対する目を見開かせてくれたような体験を積ませてもらった。
そうしたことから、一番私が時間をかけて鑑賞していたのは、桃山文化の屏風絵や陶磁器が置かれた二階の作品群だったと思う。
絵画作品で一点だけ強い感銘を受けたのは、オランダの画家ヒエロニムス・ボス(ボッシュ)の『聖アントニウスの誘惑』という作品である。これはどこか、人間の無意識の世界から汲み取ったものを見事に表現しており、バルセロナで見たピカソ、ダリ、ミロなどの作品を数百年ほど先取りしたようなものではないかと思わされた。
この美術館についてはその他にも書き留めておきたいことが幾つかあるが、作品を鑑賞している最中、私はやはり人間が絵画や陶磁器、さらには装飾品を含め、見事な形を生み出すことについて関心を持っていた。人は何に魅了されて形を生み出すのか。その点に関心の焦点が向かっていた。
またそこから派生して、形あるものを鑑賞する中で、音楽的なものがアフォーダンスされてくることにも気づき、今後私はやはり、形ある芸術作品から喚起される音楽的なものを何としても自分の曲として形にしたいと思った。
今日はこれからゆっくりと入浴をし、その後作曲上の写経実践に打ち込みたい。リスボン二日目はまだ終わらない。リスボン:2019/5/3(金)19:35
4307.【バルセロナ・リスボン旅行記】リスボン海洋水族館に向けて
今日は正午に国立古美術館を訪れた時、時間が時間だけに、館内は混んでおらず、非常に落ち着いて所蔵作品を眺めることができた。もちろん美術館によりけりだと思うが、明日からもランチタイムのあまり人がいない時に館内に入場して落ち着いた鑑賞をしていこうと思う。
明日ものんびりと昼過ぎにホテルを出発し、リスボン海洋水族館へ行く。バルセロナとリスボンの今回の旅のみならず、基本的に私が旅をする際には、美術館や博物館を巡ることが多く、たまには生物を見たいという思いが高まっていたため、今回はリスボンの海岸沿いにある大きな水族館に行くことにした。
今朝方この水族館について何気なく調べていたところ、世界水族館ランキングなるものがあり、何とこの水族館は数年間連続して首位を取得しているようなのだ。この水族館には、およそ500種類ほどの海の生き物たちがいるらしく、様々な海洋生物たちに必ずや癒されるだろう。
ふと気づけば今日は金曜日らしく、明日は土曜日とのことなので、水族館が混むことが予想される。明日の早朝に、オンラインを通じて事前にチケットを購入しておきたいと思う。
明日は正午までホテルの自室で作曲実践と作曲に関する学習に励み、さらにはバルセロナで購入した画家の文献資料の再読を行っていく。こうしたことを行っていると早朝の三時あたりに起床してもあっという間に昼の時間になる。
だが、早朝から昼まで八時間ほど自分の勉強や実践に充てることができていることは本当に充実感をもたらしてくれ、昼以降からの生活にゆとりがもたらされる。今習慣化されている時間帯にこれからも起床し続けることができるのであれば、365日旅をしていても仕事には支障が出ない。
もちろん、今後も自分を呼んでくれた場所にだけ旅に出かけていくことにしていくが、どこで生活をしようとも母国と関連のある仕事はできるし、自分のライフワークに取り組むこともどこにいてもできる。そのようなことを改めて感じる。
今日は国立古美術館を訪れた後に、昨日訪れたビュッフェ形式のレストランに早めに行った。午後三時前にレストランに入り、早めの夕食を食べることにした。
時刻はまだ午後三時前だったのだが、レストランの人気ぶりは凄まじく、少しだけ待ったが、比較的速やかに席に案内してもらった。そこから私は一時間以上の時間をかけ、野菜を中心に一日一食の夕食を満足のいくまで食べた。
ほうれん草のスープから始まり、様々な野菜をたくさん食べることができ、非常に満足している。レストランからホテルまでは歩いて30分弱かかるのだが、食べてひと休憩して、そこからいつもより遅く歩きながら腹ごなしの散歩を楽しんだ。
その時間帯の西日は強く、途中、木陰で休みながらホテルに向かっている最中も、なんとも言えない幸福感が私を包んでいた。
リスボンには光で作られた道が無数にある。そのようなことをふと感じさえてくれる木漏れ日が、木陰に差し込んでいた。
明日は水族館を十分に堪能し、夕食は今日よりも一時間遅く午後四時頃から食べ始め、五時過ぎまで時間をかけながらゆっくりと食べようと思う。
明日はどのような海洋生物に会えるのか、今からとても楽しみだ。リスボン:2019/5/3(金)19:54
4308.【バルセロナ・リスボン旅行記】絶え間ない勉強:就寝前に思い出す今朝方の夢
時刻は午後の九時半を迎えた。リスボン滞在の二日目が今終わりを迎えようとしている。
リスボン初日と同様に、今日もまた非常に充実した一日だった。これは何も旅という非日常的な生活空間の中で生きていることからもたらされたものではなく、いついかなる時も日々を充実した形で過ごすことができるようになっていること。その事実に目を向けていく必要がある。
今、作曲上の写経実践を終えた。今回の旅の最中の隙間時間を使って、“Melody Writing and Analysis (1960)”の譜例を作曲ソフト上で再現するという写経実践を行っており、明後日あたりに全ての譜例を写経し終えることができそうだ。
旅から帰ったら、同様の実践を他の理論書に掲載されている譜例に対して行っていく。これは何も作曲に関することだけではないが、一に勉強、二に勉強という姿勢をこれからも持ち続けていく。
私はまだ何も深く学んでいない。学べば学ぶだけ対象領域の深さを思い知り、同時に気がつけば対象領域が拡張されていくという日々を毎日生きている。
幅も深さも際限がないことを知っているが、それを知っていたとしても、あるいは知っているがゆえに、いついかなる時も絶えず勉強をし続けていこうと思う。
そういえば今日は、今朝方の夢について振り返っていなかったように思う。昨夜は十時過ぎに就寝し、深夜二時ぐらいに起きたため、夢という夢を見ていなかったように思うし、また夢を見ていたのは随分と前のことであるから、覚えている範囲のことを書き留めたいと思う。
夢の中の私は、おそらく小中学校時代の親友の誰かと話をしており、その中で親友が私に何か助言を求めていた。それが何に関するものかは覚えていないが、助言の対象領域は私の専門とも重なっており、あながち見当違いな助言はしていなかったように思う。
だが一方で、その助言がどれほど有益だったのかについては定かではない。もう一つ覚えているのは、夢が夢としての形を取る前のモワッとしたビジョンの塊を見ていたのを覚えている。
それはこれから夢になろうとしている原形であり、無数のビジョンがうようよと動いているような姿をしていた。それは実に様々な色とイメージで構成されており、その塊を額あたりの通称「第三の眼」と呼ばれる部分を通じてぼんやりと眺めていたのを覚えている。
今朝方の夢について覚えているのはそのくらいだ。今日は明日に備えてそろそろ就寝に向けた準備をする。
明日の起床前には何かしらの夢を見るであろうという予感があるため、夢を書き留めるメモを準備しておきたい。
明日の明け方に見る夢、そして明日そのものに対して期待感がある。そうした期待感と共に就寝し、明日も充実した一日としたい。リスボン:2019/5/3(金)21:42
5月3日(金)に生まれた曲たち
Op.1101 リスボンの早朝からの贈り物
Op.1102 リスボン劇場
Op.1103 リスボンの光道