タイトル一覧
4284.【バルセロナ・リスボン旅行記】屑的・畜生的な人間で溢れるこの世界の中で
4285.【バルセロナ・リスボン旅行記】人間が救われる必要性と救われうる存在である可能性について
4286.【バルセロナ・リスボン旅行記】ふとした気づき
4287.【バルセロナ・リスボン旅行記】騒音と今朝方の夢
4288.【バルセロナ・リスボン旅行記】バルセロナ滞在六日目に見た夢の続き
4289.【バルセロナ・リスボン旅行記】バルセロナ滞在六日目の計画
4290.【バルセロナ・リスボン旅行記】ミロ美術館を訪れて
4291.【バルセロナ・リスボン旅行記】バルセロナ滞在の最後の夜に
4284.【バルセロナ・リスボン旅行記】屑的・畜生的な人間で溢れるこの世界の中で
今朝も午前三時半過ぎに起床し、シャワーを浴び、今は午前四時を迎えようとしている。
今朝は一度午前二時あたりに目覚めた。その時、現代社会、いや人類の歴史が始まって以降に人間に共通する性質に対して新たな共感の念を持った。
それは人間は太古から現在にかけて、屑であり、どこまでも畜生、ないしは畜生以下であるということへの理解から生まれた共感であった。もう少し厳密に言えば、人類史において、なぜある人間たちが別の人間たちを屑や畜生のように扱おうとするのかという点についての理解、さらには、別の人間たちを屑や畜生のようにみなす屑かつ畜生的な人間の心の内側が突然に理解できたような感覚があったのである。
実は昨日もバルセロナの街中を歩いている最中に、現代社会がこうも屑や畜生のような人間を大量生産するのはおかしいと思っていた。そして、そうした屑や畜生のような人間を生み出そうとする屑や畜生のような人間がこの社会にいるという当たり前のことにはたと気づかされたのである。
確かに私は幾分厭人的な性質を持っているが、人間の真の良さや人間として生きることの少なからぬ喜びを見出しながら毎日を生きているつもりである。だがそうは言え、この世界の有り様は無残であり、屑と畜生のような人間たちばかりで溢れる世界に生きることに対しては幾分厭世的にならざるをえない時がある。
昨日バルセロナの街中を歩いていた時にそのような気分に陥った。また、そうした感覚が就寝中の自分の中で再度湧き上がり、深夜未明にも同種の思いと考えが芽生えて一度目を覚ました。
以前日本に一時帰国した際に、ある知人の方から仏陀の考え方で興味深いものを聞いた。それは、上座部仏教と大乗仏教の違いに関する話から派生したものであった。
厳密には仏陀の考え方というよりも、それは知人の解釈なのだが、一つ興味深い考え方があり、それは上記の点と関係しているように思う。その方曰く、仏陀が生きていた時代に定められた戒律に則った教えを守ることに主眼を置き、衆生ではなく、行を積んだ一部の人間しか人間の苦しみから救われないとする上座部仏教の教えを見ると、仏陀も人間というのは所詮屑であり畜生のような存在とみなしていた可能性が高く、全ての人間を救うことなど不可能であることを見抜いていたのではないか、というものだった。
この指摘は大変興味深く、上座部仏教の教えのように、利他の行いによって全ての衆生を救おうとするというのは表面的には大変素晴らしいものだが、現実のこの世界の有り様を冷静に眺めてみると、その実現は甚だ不可能であることがわかる。
今の私は、もし仏陀が本当に全ての人間を救えると考えていたのであれば、つまり大乗仏教の教えにあるような考え方を持っていたのであれば、それには反対である。一方で、仏陀がこの世界に生きる人間は本質的に屑や畜生であり、屑や畜生が新たな屑や畜生を生み出し続ける仕組みが存在していることを見抜き、全ての人間を救うことなどできはしないと見抜いていたのであれば、仏陀のそうした考え方に賛成である。
屑と畜生の螺旋というのも無限に続き、屑や畜生を生み出す、屑的・畜生的な人間の存在を理解する屑的・畜生的な人間がさらに存在し、その階梯はまだまだ続いていく。人間はどこまでいっても屑であり、どこまでいっても畜生の域を出ないのだろう。
正直なところ、屑や畜生の方が人間よりも尊い存在であるとさえ思えてきてしまう。そうした厭人的な考え方が、昨日、そして先ほどの早朝未明に芽生えたところでバルセロナ滞在六日目が始まった。
今日もまた、一人の屑な人間、畜生のような人間として、屑と畜生のような人間の溢れるこの世界の中で生きていく。バルセロナ:2019/5/1(水)04:19
No.1903: In the Evening on the Last Day in Barcelona
The last day to stay in Barcelona is now approaching the end.
I want to digest what I experienced in this city. I’ll leave Barcelona tomorrow for Lisbon. Barcelona, 18:41, Wednesday, 5/1/2019
4285.【バルセロナ・リスボン旅行記】人間が救われる必要性と救われうる存在である可能性について
今、ホテルの自室のバルコニーにつながるドアを開け、換気を始めた。早朝の四時半を迎えようとしている今の気温は肌寒く、辺りはまだ闇に包まれている。
先ほど、この世界に溢れる屑や畜生のような人間について、あるいは、そもそも人間というのは本質的に屑や畜生のような存在であるということについて書き留めていたように思う。
発達理論というのは、その適用において、大乗仏教的な考え方に則って理解・活用される場合と、上座部仏教的な考え方に則って理解・活用される場合に分かれる。基本的にそれらのどちらかの考え方が採用され、それらの考え方を折衷したり、止揚したりするものはほとんどないように見られる。
どちらの考え方もある側面においては正しく、ある側面においては正しくないという難問がつきまとっていることが容易にわかる。おそらく世間一般に聞こえがいいのは、大乗仏教的な考え方を採用した場合であろう。
そうした考え方に基づいて発達理論を理解し、適用しようとする人たちは、仮に上座部仏教的な考え方を採用してしまった場合に、一部の人しか救われないというその一部の人間に自分が入れないかもしれないという隠れた恐れを抱いている傾向があり、それを心の闇として持っている傾向にあるように思う。
一方、上座部仏教的な考え方を発達理論に適用してしまうと、優生学的な発想や選民思想的な発想に陥りやすいという危険性がある。どちらも本当に頭を悩ます問題である。
昨日バルセロナの街を歩いていた時に感じていたこと、そして今朝方未明に考えていたことをもとにするならば、確かに以前の私は大乗仏教的な考え方に基づいて発達理論を理解しようとし、それを適用しようとしていたが、現在はどちらかというと上座部仏教的な考え方に寄っているように思う。
しかしここでそもそも、上記のような問題がどちらの考え方にもあるのであるから、何か別の発想が必要なのではないかと思ったのである。どちらの考え方も共に、全ての人間なのか一部の人間なのかという区別があるものの、人間が救われることを目指している点では共通している。
そこで私の中でふと、そもそも人間というのは救われる必要があるのか、そして人間とはそもそも救われうる存在なのかという問いが芽生えたのである。この問いが芽生えた時、ひょっとすると、人間というのはそもそも救われる必要もなく、最初から救われえない存在なのではないかという考えを持ったのである。
確かに、発達理論の根幹に規範的な側面を据えて、それを単なる科学的な枠組みではなく、単なる形而上学的な枠組みでもなく、この現代社会に何らかの関与をしていくための規範的枠組みを示し得る実践的な理論体系として機能する必要性は感じているが、出発点として、そもそも人間というのは果たして救われる必要があるのか、そして人間は救われうる存在なのかについても考えていかなければならないと思ったのである。
バルセロナ滞在の六日目の朝は、随分と悲観的かつ厭人的な考え方が色濃く自分の内側に芽生えているように思うが、この世界に生きる誰一人として私は救われえないという考えを今この瞬間に持ってしまっている。
「持ってしまっている」という表現の中に、そうであってほしくないという希望のようなものが見える点に、まだ人間の可能性を信じているのか、はたまた人間の可能性を過信しているのかもしれない。
人間が畜生であれば、それは救われる必要性と救われうる存在であるという可能性はあるかもしれない。だが仮に人間がそもそも屑であれば、救われる必要性も救われうる存在であるという可能性も全くないように思えるのは私だけだろうか。
早朝の四時半を迎えたバルセロナ・サンツ駅の通りには、徐々に人の姿が見える。そして、駅近くの通りの交通量も少しずつ増えてきた。
今私の目に映る人々は、救われる必要性と救われうる存在である可能性を内包しているのだろうか。そして彼らを見ている自分自身にも、救われる必要性と救われうる存在である可能性が内包されているのだろうか。
仮に畜生であればYesかもしれないし、屑であればもはやNoなのかもしれない。バルセロナ:2019/5/1(水)04:39
No.1904: In the Morning to Leave Barcelona
Finally, the day to leave Barcelona came.
I’ll arrive at the Barcelona–El Prat Josep Tarradellas Airport around 9AM and have a relaxing time in a lounge, composing music. Barcelona, 05:42, Thursday, 5/2/2019
4286.【バルセロナ・リスボン旅行記】ふとした気づき
一昨日の夜、バルセロナ滞在の四日目にして初めて、ホテルの自室に冷蔵庫が備え付けられていることに気づいた。冷蔵庫の中には、サービスのミネラルウォーターが二本備え付けられており、大変感謝をした。
これまでリンゴを机の上に常温保存し、カカオ100%のチョコレートも同じように保存していたのだが、やはりそれらは冷蔵庫に保管していた方が良く、机の下の冷蔵庫の存在に遅れはしたが気づいてよかったと思う。
最初それは金庫のようなものだと認識していたのだが、金庫はクローゼットの中にもあり、二つあるのはおかしいなと思って、実際に机の下の物体の扉を開けてみたところ冷蔵庫だった。紛らわしいのはその色と外側につけられた鍵だった。
鍵をかけられる冷蔵庫など見たことがなかったため、今回のようなことが起きたのだと思う。ただし、なんでもそうであるが、何かに気づくことは大切であり、確かにそれが手遅れになることもあるが、今回は四日目に気づいたとはいえ手遅れではなく、それ以降の滞在においてこの冷蔵庫は十分に活躍してくれている。
今もリンゴとチョコレートを冷やしているし、夕食のサラダを購入して自室に持ち帰った時にはこの冷蔵庫に保存させてもらっている。
昨日、一日の観光をすべて終え、夕食前に浴槽にゆっくりと浸かっていると、あることに気づいた。普段フローニンゲンで生活している時にも浴槽に毎日浸かっているのだが、この二ヶ月間ほどはココナッツオイルを浴槽に垂らして湯船に浸かるということを行っていた。
こうした風呂の入り方に伴って、化学物質が含まれているシャンプー、洗顔、ボディソープなどを一切使わなくなった。この効果については自分でも驚いている。
というのも、確かに私は最初から抜け毛も白髪も少なかったのだが、抜け毛はさらに減り、白髪も減少してきたのである。どちらもココナッツオイル風呂による効果だけではなく、食生活の抜本的な見直しの方が大きな影響を与えているかもしれないが、一つ言えるのは、シャンプー、洗顔、ボディソープなどを使わなくても、体の汚れは十分に落ちるということであり、逆にそれらの化学物質まみれの商品なるものを使ってしまうことによって、皮脂が落ちすぎてしまい、外側の刺激に対して皮膚が弱くなってしまうのではないかと思う。
昨夜の気づきはその点にあったわけではなく、ひょっとすると、今後はココナッツオイルを湯船に垂らす必要もないのではないかと思ったのである。お湯だけで十分に身体の汚れが落ちることを、今回のバルセロナ滞在期間中に実感している。
備え付けのシャンプーやボディソープを一切使っていないのだが、身体の汚れは十分すぎるほどに落ちている。フローニンゲンに戻ってからは、ココナッツオイルを湯船に垂らすことを控えたいと思う。
これによって、湯船をオイルで汚さないことにもつながるであろうから、掃除もさらに楽になるだろう。そのようなことを考えていたことをふと思い出す。バルセロナ:2019/5/1(水)04:57
No.1905: A Cold and Soft Rock Surface
I’ll start to pack my staff shortly for check-out. Barcelona, 06:29, Thursday, 5/2/2019
4287.【バルセロナ・リスボン旅行記】騒音と今朝方の夢
今朝方の深夜12時に、ホテルの廊下で誰かが大きな声で歌を歌い始めたために目を覚ましてしまった。今回宿泊しているホテルはそれなりのホテルなのだが、こうした他人に迷惑をかける客がいることが残念でならない。
また、この六日間の滞在中、昨日を除いて、夜から深夜にかけて、下の階か、それまた下の階の滞在者が大きなロック系の音楽をかけているような騒音がかすかに聞こえて来る。私は生まれた時から音に敏感であり、そのかすかに聞こえる騒音、特にその不快なビートが大変心地悪い。
今朝も深夜三時半に目覚める直前までそのビートの振動が私の部屋まで伝わっていた。深夜2時に目が覚めたのも、実はそのかすかな音と振動が原因によるものだったのではないかと思う。
周りの人たちがそれに気づいていないはずはないだろうし、不快に思っていないはずはないと思うのだが、なぜ苦情を申し出ないのか不思議である。私であれば真っ先にロビーに申し出で、即そうした迷惑行為をやめるように注意してもらうのだが。
仮に今の自分の部屋から、その騒音がどの部屋から特定できれば、ロビーに伝えるのだが、それが特定できないのは残念だ。
欧米での生活も八年目を迎えようとしており、ここ最近思うのは、私は随分と言葉で自らの意思をはっきり相手に伝えるようになったということだ。こうした苦情に関しても、以前であれば言語的コミュニケーションの面倒臭さ、そして日本人特有の社会性と、言わなくても伝わるだろうという以心伝心的なコミュニケーションスタイルがあったため、言葉を使って意思表示をそれほどしない傾向があったが、今はとにかく思ったことや感じていることを速やかに言葉にするようになっている。これは良かれ悪しかれそうである。
上記の一件に関係した夢を今朝方見ていたことを思い出した。夢の中で私は、小中学校時代を過ごした社宅の中にいた。
ちょうどリビングには、父と母がいて、普段通りに和気藹々とした会話を楽しんでいた。すると突然、私は「しっ!静かに」と人差し指を顔の前に立てて二人に述べた。
それに続けて、「ほらっ、聞こえるでしょ?」と私は述べた。すると父が、「ん?何も聞こえないよ」と述べ、それに対して私は、「上の階からロック系のビート音が聞こえてきてるでしょ」と述べた。
そこで両親と私はさらに息を潜めて静かにしていると、三人とも上の階から響いてくる騒音に気づくことができた。そこで父が、「これはちょっと迷惑だな」と述べた。
少し前までは、私たちが住む部屋の上には、前職時代のアメリカ人の同僚が住んでいて、彼は先日引越しをしてしまった。彼が住んでいる時はとても静かであり、このような騒音が聞こえてくることは一切なかった。
そんな彼が引越しをし、アメリカに戻ってしまった後に新しく引越しをしてきたのは、日本人の家族だった。その家族は、一見すると全員おとなしそうだった。
二人のお子さんがいて、一人は中学生の女の子、もう一人は小学校高学年の男の子だった。二人の子供の年齢を考えると、両親は40代の前半か半ばであった。
その二人の両親は穏やかそうで、決してロックなどを聞くような人間には見えないのだが、確かに上の階から騒音が聞こえてくる。そこで私は、「上の階の人にうまく伝えてくるよ」と父と母に述べ、そこで夢から目覚めた。
目覚めると、現実世界のホテルのベッドの上でうつ伏せになって寝ている私の耳に、下の階のどこからか聞こえてくる騒音と振動が小さく聞こえてきた。この騒音の出処も屑か畜生のような人間の所にあるのだと私は思った。バルセロナ:2019/5/1(水)05:24
No.1906: Relaxation at the Sala VIP Pau Casals Lounge
I’m relaxing at the Sala VIP Pau Casals Lounge in the Barcelona international airport.
The boarding time will come within an hour. I look forward to visiting Lisbon very much. Barcelona international airport, 10:59, Thursday, 5/2/2019
4288.【バルセロナ・リスボン旅行記】バルセロナ滞在六日目に見た夢の続き
時刻は午前六時を迎えた。今朝方の夢について先ほども振り返っていたが、もう少しその続きを振り返って起きたい。夢の中で私は、海底に潜っていくタコを観察していた。
すると不思議なことに、途中から私は観察対象のタコそのものになった。タコそのものになってみて初めてタコの気持ちがわかり、タコがどのような気持ちで海底に潜っていくのかが理解された。
タコになった私は、最初一匹のカニを捕まえて食べた。すると今度は、さらにゆらゆらと海底に潜って行き、他にカニがいないかを探し始めたのである。
海底にたどり着いたと思ったら、その瞬間に私の意識は再びタコを観察する人間に戻った。タコが海底に到着すると、そこは実際には海底ではなく、広大な海底迷宮のような場所だった。
海底迷宮の中には海水が浸っておらず、そこには空気があった。するとまたしても、私はタコの中に意識が入って行こうとしているのを感じたが、タコの中に意識が完全に入る代わりに、海底迷宮に人間としての私がいた。
そこはどこか、山口県の秋吉台の鍾乳洞を思わせるような場所だった。中はひんやりとしていて、他の生命の気配が最初全くなかった。
しかし、よくよくその場所を歩き回ってみると、人々が生活をしていることに気づいたのである。私はそこで生活をしている人々の中から悪人を見つけ、彼らを成敗する役割を担っていることに気づいた。
ここでいう悪人というのは、そこで暮している人々を抑圧する存在であり、ここで暮している人々の格好は縄文時代か弥生時代の人々のような衣服を着ているのだが、彼らを抑圧する人々はスターウォーズで出てきそうな宇宙服を着ていた。
そうしたことから、誰が悪人かは一目瞭然であり、私は善人に対しては、自分の手のひらから発せられる治癒と変容のエネルギーを送り、悪人に対して、相手を吹き飛ばすことのできる攻撃的なエネルギーを手のひらから発していた。
鍾乳洞のような場所をしばらく歩いていると、突然視界が開け、そこには現代的な街が広がっていた。ただし、そこには人がほとんどおらず、「人間が消えた街」と形容できるような殺伐とした雰囲気が漂っていた。
すると、そこで私は自分が夢を見ていることに気づいたのである。そこからは少し明晰夢の意識のような形で夢を見ていた。その街に小中学校時代の友人が数人現れ、そのうちの二人は親友(HS & AF)であった。
そのうち、私は一人の親友に肩車をしてもらうことになり、街の向こう側がどのようになっているのかを眺めた。景色は今いる場所とほとんど変わらず、遠くの方も殺風景であった。
私たちは、近くにあった映画館のよう場所に行き、そこでは何も上映されていないにもかかわらず、スクリーンのある部屋に行くために、チケット売り場でチケットを購入するための列に並んだ。ここでも不思議なのは、チケット売り場には誰も係員がいないのにチケット売り場に行ったこと、列など誰も作っていないのに、あたかもそこに見えない人間たちが並んでいるかのように見なしながら列を待っていたことである。
そんな奇妙な行動を私たちが取っていると、私に話しかける人がいた。振り向くと、ジョン・エフ・ケネディ大学時代に知り合ったプエルトリコ人の友人のダニエルだった。
ダニエルは突然私に神妙な顔で、「ヨウヘイの研究を手伝いたい」と述べた。私はダニエルと仲が良く、彼に研究を手伝ってもらえるのは嬉しかったが、彼が私に話しかけてきた時の神妙な顔が気になった。
とはいえ、それは気のせいだろうと思い、私はダニエルの申し出を有り難く受けた。そして一旦ダニエルと別れ、誰も待っていない列をゆっくりと先に進み、いよいよチケットカウンターにたどり着いたと思った時に、再びダニエルが後ろから私に話しかけてきて、「ヨウヘイ、すまない。研究を手伝う際にかかった費用はどれくらい申請できる?」と私に尋ねてきた。
そこで私は、「かかった分だけ全て申請できるから何も心配しなくていいよ」と述べた。そこで夢から覚め、研究費用の項目のうち、何かの作業は一人の被験者につき2ドルだったのを覚えている。バルセロナ:2019/5/1(水)06:25
No.1907: The First Impression of Lisbon
I came to Lisbon from Barcelona in the afternoon.
I have been already fascinated by the attractiveness of Lisbon. Lisbon, 21:05, Thursday, 5/2/2019
4289.【バルセロナ・リスボン旅行記】バルセロナ滞在六日目の計画
時刻は午前六時半を迎え、バルセロナの街も少しずつ明るくなってきた。バルセロナの今日の最高気温は19度であり、最低気温は12度とのことであり、春秋用のジャケットを羽織って丁度良いような気温である。
バルセロナ滞在中には幸いにも天気に恵まれ、一度も折り畳み傘を使う必要がなかった。今日もそれを使う必要がなさそうであり、明日から訪れるポルトガルのリスボンにいたってはジャケットさえ不要な暖かい日が滞在期間中ずっと続くようだ。
サッカーの街バルセロナに滞在しているということもあり、また私がサッカーの盛んな欧州で生活をしているということもあり、現在も毎年欧州チャンピオンズリーグについては気にかけている。
高校時代のように、全ての試合を見ているわけではなく、現在はもう決勝戦ぐらいしか見ていないのだが、今大会においては、オランダの名門チームアヤックスが準決勝まで勝ち残っているという快挙を成し遂げ、昨日の準決勝ではイングランドの名門トットナムを相手にアウェーで勝利したというニュースを先ほど知った。
オランダに住んでいるためか、アヤックスには是非とも決勝まで勝ち残ってもらいたいと思う。そして今日行われるバルセロナ対リヴァプールの勝者に勝利して、歴史的な優勝を獲得してもらえればと思う。
アヤックスは確かに名門だが、近年のチャンピオンズリーグにおいてオランダのチームがここまで躍進することはなかっために、驚きがあり、同時にこの躍進を準決勝の2試合目と決勝でも続けて欲しいと願う自分がいる。
いよいよ今日が実質上バルセロナ滞在の最終日となる。最終日の今日は、これからまず早朝の作曲実践を行う。
早朝に少なくとも二曲ほど作り、時間を見て、ウィルバーの監訳書の注釈のレビューに取り掛かる。注釈のレビューについてもすでに作業量と作業時間についての見積もりが頭の中にあり、今日中にそれを終えることができるだろう。
結局私は、編集者の方が指定したレビュー期限の一週間前に再校のレビューを終えることができそうだ。レビューを進め、九時半を回ってから、まずはホテルの近くにある楽譜屋に立ち寄る。
バルセロナ市内には楽譜屋はそこしかなく、昨日の段階では、今回の旅においてわざわざ楽譜屋に立ち寄る必要があるかのかと疑問に思ったが、せっかくなので足を運んでみたいと思う。この「せっかくなので」という言葉によって導かれるアクションが、往々にして意外な出会いをもたらすことは、数日前のガウディの建築物を見学した際にも感じたことである。
楽譜屋で何か良い楽譜が見つかれば、それを購入したい。できればスペイン出身の作曲家の楽譜を購入したい。
楽譜屋を訪れた後に向かうのは、ミロ美術館である。ミロ美術館は、滞在二日目に訪れたカタルーニャ美術館の近くにあり、行き道についてはもう頭の中にある。
今回のバルセロナ滞在通じて、カタルーニャ地方出身の三人の偉大な芸術家、アントニ・ガウディ(1852-1926)、ジョアン・ミロ(1893-1983)、サルバドール・ダリ(1904-1989)と接近できたことは嬉しいことであった。
ミロの作品もゆっくりと堪能し、ギフトショップではミロに関する文献資料を購入したいと思う。ミロ美術館を訪れた後に、一旦ホテルの自室に戻り、荷物を置いて少し休憩をする。
おそらく昼過ぎか午後二時までにはホテルに戻れるだろう。そこで時間を見て仮眠を取り、仮眠後はここ連日お世話になっているオーガニックカフェのBONに散歩がてら歩いて行き、そこで夕食のサラダを今日も二つ購入する。
ホテルに戻ってきてからは、監訳書のレビューの続きを行い、それが終わり次第作曲実践をするか、今日購入する予定のミロに関する画集を眺めたいと思う。バルセロナ滞在の最終日もきっと充実した一日になるだろう。バルセロナ:2019/5/1(水)06:55
No.1908: A Gift from the Early Morning in Lisbon
The second day to stay in Lisbon began.
I’ve already had a feeling that I received a precious gift from the early morning in Lisbon. Lisbon, 03:38, Friday, 5/3/2019
4290.【バルセロナ・リスボン旅行記】ミロ美術館を訪れて
つい先ほどミロ美術館からホテルの自室に戻ってきた。昨日のダリ劇場美術館に匹敵するぐらいの促しをミロの作品から受けた。
今日は予定通りに、午前九時半にホテルを出発し、まずはバルセロナ市内の楽譜屋に足を運ぼうとした。携帯の地図を確認しながら歩いて行き、楽譜屋があるはずの場所に辿り着いてみると、そこに楽譜屋はなかった。
もしかすると、この楽譜屋はもう経営をしていないのかもしれない。楽譜屋がそこにないこともまた何かの縁であり、運命なのだろう。
そのように思いながら気を取り直し、楽譜屋からミロ美術館に向かった。今朝のバルセロナは爽やかであり、早朝の太陽の優しい光とそよ風がとても心地良かった。
20分ぐらい歩くと、ミロが若手の芸術家のために建てたと言われる美術館が見えてきた。小高い丘の上にあるこの美術館の周りは緑に満ち溢れており、美術館の周辺は春のこの時期において大変清々しい。
生命力に溢れる緑を眺めながら、受付に行き、チケットを購入しようとしたところ、私にはチケットを購入せずとも先日カタルーニャ美術館で購入した美術館パスポートがあることをふと思い出した。危うくチケットを購入し直すところだったが、直前でパスポートの存在に気づくことができてよかった。
オーディオガイドの分だけ別料金を払い、オーディオガイドのヘッドホンを当てながら、一つ一つの作品を見て回り始めた。このオーディオガイドはマルチメディア式になっており、単に作品を音声解説するだけではなく、ミロにゆかりのある作曲家の演奏や、ミロと日本との関係を示す動画、ミロが実際に作品を制作している動画などもあり、非常に充実していた。
音楽に関して印象に残っているのは、武満徹がミロのために作ったと言われる曲と、ドイツの現代音楽の作曲家シュトックハウゼンがミロのために作ったと言われる曲だった。
館内に所蔵されているミロの作品は、昨日訪れたダリ劇場美術館に所蔵されている作品に負けないぐらいの霊感を私にもたらしてくれた。具体的にどのような作品から影響を受けたのかは事細かく紹介しないが、とりわけ作曲上のヒントのようなものを与えてくれる作品がいくつもあったことを書き留めておく。
ミロの作品のみならず、オーディオガイドの動画の中で紹介されていたように、私はミロが実際の作品を描く前に残していたスケッチに関心を持った。中には、「これが私が実現させたい夢の色である」というメモが添えられた青いシンボルが小さくスケッチとして描かれていた。
それをそのスケッチを描いてから数十年後に実際の作品として描くなど、ミロが残したスケッチは、時の発酵過程にさらされることによって、大きく育ち、実際の作品に結実していったのだと知り、大変感銘を受けた。
その他にも幾つかのシンボルがどのようのプロセスを経て実際の絵画として具現化されるのかを垣間見て大きな刺激を受けた。
私は普段作曲をするときに、試したいことなどを作曲ノートにメモしているが、これをより発展させていけば、ミロのように、時の発酵過程にさらしながらそのアイデアを発展させていくことができるかもしれないと思った。
ミロの作品を十分堪能した後に、ギフトショップで、ピカソとダリと同じシリーズのミロに関する文献資料と、ミロ美術館のガイドブックを購入した。
今日はこれから、30分ほど仮眠を取り、オーガニックカフェのBONまで散歩し、夕食のサラダを購入したい。散歩から帰ってから、作曲実践をし、その後、今日購入したミロに関する二冊の文献を食い入るように読んでいきたいと思う。
今回バルセロナに滞在することによって、様々な過去の偉大な芸術家と深く出会い、彼らが私に大きな影響を与えてくれたことに感謝をしたい。バルセロナ:2019/5/1(水)13:24
No.1909: A Life Theater of Lisbon
The city of Lisbon is the apotheosis of life theater. Lisbon, 04:24, Friday, 5/3/2019
4291.【バルセロナ・リスボン旅行記】バルセロナ滞在の最後の夜に
時刻は午後の九時を迎えつつあるが、バルセロナの太陽はまだ沈まない。バルセロナの滞在も今日で最後であり、明日からはリスボンに五日間ほど滞在する。
明日は、午前八時をめどにホテルを出発し、空港には早めに到着したい。バルセロナの国際空港からリスボンの国際空港へ向かう飛行機の便は正午なのだが、空港のラウンジに早めに着き、二時間半ほどラウンジでゆっくりしようと思う。
バルセロナ・サンツ駅から空港までの移動時間には過去の日記の編集を主に行い、ラウンジでは作曲実践を主に行う。それと並行して作曲上の写経実践を行っていく。
バルセロナからリスボンまでのフライトは二時間ほどあるが、機内では楽譜を広げるスペースがないため、フライト中は写経実践と日記の執筆や編集を行いたい。幸いにも昨日の段階で、ウィルバーの監訳書の再校に対するレビューが終わった。
念のため、先ほど自分が執筆した「はじめに」と「解説」の部分を再度読み返し、修正依頼事項を編集者の方に送った。これにて無事に、バルセロナ滞在中にレビューを終えることができた。
三校からはもうほとんど修正はないことが予想され、こちらでレビューをする際にも、今回までのように一言一句見ていくのではなく、全体の体裁を確認することにとどまるだろう。とりあえず、再校のレビューが旅の前半に終わったことを嬉しく思う。
六泊七日のバルセロナの旅も終わりを迎えようとしているが、ここで得られた様々なことは、これからゆっくりと時間をかけながら咀嚼・吸収していきたい。それぐらいに、今回のバルセロナ滞在では得られるものが多かった。明日からのリスボン滞在においても同様の体験を積めることを願う。
今日は午後に仮眠を取った後に、オーガニックカフェのBONに足を運んだのだが、今日はLabor Dayということで店が閉まっていた。Google Map上においては今日も開いているような表示だったのだが、残念ながら閉まっていたため、その代わりにオーガニックスーパーに行って、十分な量のサラダを購入してきた。
サラダを購入してみて気づいたが、わざわざレストランで夕食を摂るよりも、オーガニックスーパーでサラダを購入した方が様々な種類のものを手頃な値段で食べられることにふと気づいた。
明日からはリスボンに滞在し、リスボンの街にあるオーガニックレストランとオーガニックスーパーについてはすでに調べているが、リスボンの時間の流れが緩やかなためか、どのレストランも大抵ディナーに合わせて店が開くのが午後七時以降と遅いこともあり、明日からの夕食はオーガニックスーパーで購入しようと思う。その方が様々な食品を安上がりで食べることができるだろう。
明日ホテルを出発する時間はそれほど早くないが、今日は少し眠くなってきているため、もうそろそろしたら今日は早めに就寝しようと思う。おそらく明日も三時半か四時に起床するだろう。
出発の準備は明日の朝に行うことにする。バルセロナの滞在を思う存分満喫し、一切の悔いなくリスボンに向けて出発することができそうだ。バルセロナ:2019/5/1(水)20:58
5月1日(水)に生まれた曲たち
Op.1094 バルセロナ滞在の六日目の早朝
Op.1095 感傷的な渦の中へ
Op.1096 バルセロナ滞在最後の日の夕方に