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4225-4232:フローニンゲンからの便り 2019年4月24日(水)


タイトル一覧

4225. 身体、心、精神、魂の浄化と包括的な変容

4226. 所与ではない縁の産物への感謝の念

4227. 対象観察を通じた自己の変化の観察と共鳴的変化

4228. 魂を虜にした街フローニンゲン

4229. 今朝方の夢

4230. メールからの解放に向けて

4231. 仮眠中のビジョンと夕食までの活動

4232. 作曲技術を高めるための「写経実践」の開始

4225. 身体、心、精神、魂の浄化と包括的な変容

今朝は三時半に起床し、四時あたりから一日の活動を始めた。不思議なことに、一日一食生活を始めた当初は睡眠時間はこれまでと変わらず、毎日七時間半から多いときは九時間ぐらい寝ていたのだが、今は睡眠のサイクルが減り、六時間ほどの睡眠時間となっている。

睡眠のサイクルが減ったにもかかわらず、睡眠の質が良くなったからなのか、心身の調子がとても良い。これはおそらく、一日一食生活に慣れてきて、さらにはその期間に二回ほど断食を行うことにより、身体、特に胃腸を含めた消化器官が浄化されたこととも関係があるだろう。

それらの器官が本来の働きができるようになり、食事の消化がこれまでよりも良くなったことが、睡眠の質の向上と睡眠時間の減少を引き起こしたのではないかと思う。もちろん、この世界における因果関係というのは、それほど単純ではなく、上述の他にも季節的な要因というのも挙げられるかもしれない。

だが、一日一食生活と断食の実践というのは、これまでの生活上における新たな変数であり、それらを導入したことによる変化だと見てもそれほど筋は悪くあるまい。

昨夜の夕食は日記にも書き留めていた通り、かなりの量の野菜を食べた。もしかしたら1kgぐらいかそれ以上の野菜を食べていたように思う。

大きな皿に山盛りになったサラダを食べている途中、全て食べきれるか心配だったのだが、前菜としての豆腐、デザートとしての茹でたサツマイモと合わせて、それらを全て意外にもあっさりと平らげることができた。

食べ終えた後も全く満腹ではなく、ちょうどよい腹の状態であった。食事を完全に食べ終えてから三時間は時間を空けて就寝することが理想とされているが、昨日は食後二時間半強ほどの時間を経て就寝することになった。

野菜の消化というのは、肉類や米やパンなどと比べて消化がいいのか、一時間半もすれば消化が随分と進み、寝る直前には食べる前のような腹の状態になっていることに気づき、二時間半強ほどの時間でも全く問題なく就寝することができた。

とはいえ、昨日は少し野菜を多く食べ過ぎていたかもしれないという考え方があったため、睡眠中に消化運動を行う必要があるかと思い、睡眠時間がその分増えるかと想像していたのだが、実際には三時半に起床したように、全くそうではなかった。

昨日の体験を踏まえ、やはり今の食生活が自分の心身にとっては最適であり、毎日を充実したものにしてくれるものだと言える。昨日、そして今日と明日は、金曜日からのバルセロナ・リスボン旅行に向けて食材を全て食べきる必要があるため、夕食のサラダは少々量が増えるが、旅行から戻ってきてからはその量をもう少し考えたいと思う。

一昨日の日記にも書き留めていたが、食生活の抜本的な完全が、身体の排水管としての消化器官を浄化し、健全なものにし始めていることに加えて、それは心の排水管や精神、さらには魂の排水管にまで良い影響を与えているように思う。すなわち、自己が様々な次元において浄化されているのを実感しているのである。

身体、心、精神、魂のそれぞれの次元が浄化され、一本の巨大なエネルギーで貫かれ、それがますます健全なものになり、包括的な形で変容しようとしているのを実感する。フローニンゲン:2019/4/24(水)04:21

No.1887: The Early Morning After a Thunderstorm

It was a thunderstorm last night, but this morning is so peaceful.

I’ll devote myself to my lifework, feeling this peacefulness. Groningen, 07:32, Thursday, 4/25/2019

4226. 所与ではない縁の産物への感謝の念

時刻は早朝の四時半を迎えつつある。今日は三時半に目覚め、すでに一時間弱の時間が経とうとしているが、まだ小鳥たちの鳴き声は聞こえてこない。

小鳥たちよりも早起きをしている自分がいるというのは少々驚くが、彼らもあと少ししたら起床し、いつものように美しい鳴き声を上げてくれるだろう。

今、私は彼らがいつものように美しい歌声を早朝の朝に響かせてくれることを所与のものとみなすようなことを書いたが、よくよく考えてみれば、それは地上における一つの奇跡であり、そうした現象と毎日遭遇し、それに浸ることができていることへ深く感謝せねばなるまい。

小鳥たちがそこにいるということ、彼らが美しい鳴き声を上げてくれているということ、そしてそうした美しさに気付ける自分がその瞬間にいるということ。それらは当たり前なことではなく、そこにも地上における尊い縁があり、そうした縁がそれらの現象を顕現させてくれているのだ。

だから毎日小鳥たちの鳴き声に感謝をし、その鳴き声に感動する自分がそこにいることへも感謝をしよう。小鳥たちが目覚める前の早朝に、ふとそのようなことを考える。

起床直後に天気予報を確認してみると、今日も昨日に引き続き、フローニンゲンは初夏のような一日になるようだ。最高気温はなんと25度まで達し、最低気温は10度とのことである。

昨日は、午後に街の市場に散歩がてら買い物に出かけ、春秋用のジャケットを羽織っていたのだが、自宅に戻ってくる頃には随分と暖かく感じ、長袖でも十分だったかもしれないと思った——実際に街には半袖の人も多かった。

今週金曜日から始まるバルセロナ・リスボン旅行においては、まずはバルセロナに六泊ほどする。ちょうど滞在期間中の六日分の天気予報を確認することができ、それを眺めてみると、本来はバルセロナの方がフローニンゲンよりも暖かいはずなのだが、六日間は全て最高気温が20度を下回る。

それを考えた時、やはり春秋用のジャケットを持っていくのが賢明だろう。幸いにもバルセロナに滞在期間中は、日曜日の数時間だけ雨が降る程度であり、あとは天気に恵まれそうだ。

リスボンには五泊ほどする予定になっており、そこでの天気は今調べてもあまり意味がないだろう。

当初、フローニンゲンを出発する金曜日の早朝は小雨がぱらつく予報だったのだが、今確認してみると、曇りでしのげるようで安心している。金曜日以降は、バルセロナと同様に、フローニンゲンは再び肌寒くなるようであり、やはり旅行期間中においては、バルセロナの方がフローニンゲンよりも暖かいようだ。

明日は出発の前日であり、明日の夜には短い旅用の小さなスーツケースに荷物を詰めようと思う。今回も旅先で足を運ぶ美術館や博物館で画集等の資料を購入するであろうから、行きはとにかく荷物を最小限にする。

スーツケースに詰める書籍類は楽譜一冊だけにし、リュックサックに入れる書籍は薄めの作曲理論の専門書にしようと思う。

四時半を迎えた今、小鳥たちが鳴き声を上げ始めた。昨夜からはスクリャービンではなく、モーツァルトのピアノ曲を聴き始めていたのだが、モーツァルトの音楽を一旦止めて、小鳥たちの鳴き声だけにしばらく耳を傾けたい。そのような気分だ。フローニンゲン:2019/4/24(水)04:38

No.1888: In Front of the Door of the Truth

Doors of the truth always exist in front of us.

I’m facing one of them right now. Groningen, 12:17, Thursday, 4/25/2019

4227. 対象観察を通じた自己の変化の観察と共鳴的変化

早朝の四時半から鳴き声を上げ始めた小鳥たちにも、その日に固有の気分や体調というのものがあるのか少し気になった。小鳥たちも人間と同様に躍動する生命なのであるから、気分や体調の変化は当然あるだろう。

それがいかように彼らの鳴き声に反映されているのかに関心が湧く。ここから毎日そうしたことを意識して小鳥たちの鳴き声を聞いていれば、いつかそうした微細な変化に気づくかもしれない。

そしていつかは、小鳥たちの鳴き声から意味を汲み取り始めるようになるかもしれない。まさに現在の自分が夢から意味を毎日汲み取っているように。

私たちが生きる世界には絶えず意味が生成され、それが充満している。自然が生み出す意味を少しでも汲み取るように努めること。そこに真に自然と共に生きるということの意味があるのではないか、という意味が汲み出される。

それをもたらしてくれたのは、早朝のこの静けさであり、その静けさの大海の中に波紋のごとく響き渡る小鳥たちの鳴き声である。

自己の変化というものを私たちはいかように認識すればいいのだろうか。その方法は無数にあるが、例えば、一つの対象を継続的に観察してみるというのは一つの手だろう。

先日、街の中心部に訪れた時、市場の向こう側には、フローニンゲンの街を象徴するマルティニ教会がある。三年前にこの街にやってきてから、いやこの街を始めて見学に来た四年前から考えると、この教会を四年間ほど眺めてきたことになる。

マルティニ教会を眺めることを一つの手段として、教会から喚起される印象がいかように変化したのかを観察することを通じて、私はこの四年間の変化を観察することができると考えるようになっている。これはもちろん、マルティニ教会だけに限らず、日常定期的に観察をしている対象であれば何でもよく、それこそ、私が毎日なぜだか関心を向けてしまう小鳥たちの鳴き声だっていい。

ある対象を継続的に観察する際には、その対象物の外的な変化、例えば教会の表情の変化や小鳥たちの鳴き声の音の変化などだけに注目するのではなく、そうした外的な変化に合わせて、己の内側の変化を見なければならない。そうでなければ、対象観察を通じて自己の変化を捉えることができなくなってしまう。

今後も私は、人間が作り上げた何かしらの構築物(それはマルティニ教会のような建物であったり、モーツァルトのある曲かもしれない)と小鳥たちの鳴き声といった自然を対象に、自己の変化を捉えていきたいと思う。

それらの対象を観察するとき、観察から得られることが変化するというのは、単に観察対象そのものの外的側面が変化しただけではなく、観察をしている当人の自分も変わったのだ。ケン・ウィルバーが提唱したインテグラル理論で言われているように、内外の変化は常に共鳴的に起こるのである——多少の時間差はあったとしても。フローニンゲン:2019/4/24(水)05:01

4228. 魂を虜にした街フローニンゲン

時刻は午前五時を迎えた。今、濃厚な有機八丁味噌で作った具なしの味噌汁を飲んでいる。

闇に包まれた世界を眺め、辺りに響き渡る小鳥たちの澄んだ鳴き声を聞きながら、この一杯の味噌汁を飲むことはこの上ない至福感を私にもたらす。濃い味わいのこの味噌汁は、一日を至福さを通して始めさせてくれる必須のものとなった。

至福さで始まり、自らのライフワークに取り組むことによってもたらされる充実感を経由して、再び至福さで終わる一日。私は毎日、この北欧に近いオランダの街でそのように日々を生きている。

昨日、近所のコピー屋に足を運んだ時、その店の若い店主と少しばかり雑談をしていた。彼はおそらく私よりも若く、なぜ彼がコピー屋というビジネスを始めたのかわからないが、彼と最初に出会って二言三言言葉を交換した時に、彼が異常に高度な知性を持っていることがすぐにわかった。

確かに彼の言葉の世界は幾分直線的なのだが、一本一本の線が極めて精巧であり、そうした線が編み出される速度が異常なほど早く、そうした特性を持つ彼に、私は親近感を抱いていた。昨日彼の生い立ちを尋ねてみたところ、彼はフローニンゲン生まれでフローニンゲン育ちとのことであった。

私はフローニンゲン大学の大学院に所属していた時に、友人のオランダ人たちの生い立ちについて尋ねてみると、コピー屋の店主と同様に、フローニンゲン生まれでフローニンゲン育ちの人が随分と多いことに気づかされた。

自分の生まれた場所から離れずに生活を営んでいくというのは、私にとって縁のないことであるため、彼らの生き方には興味がある。気がつけば早いもので、私のフローニンゲン生活も、あと少しで四年目を迎える。

最初は、この街には一年間ほどしかいない予定だった。だが、以前の日記でも書き留めているように、どうやら完全にフローニンゲンに捕まったようなのだ。

もちろん、今のところは来年の夏にデン・ハーグに引っ越しをしようと考えているが、フローニンゲンは私の魂を虜にした街であり、魂の安住地となった。自分の魂に遍歴性があるというのはこれまでも言及してきた通りであるが、そうした自分の魂が、今フローニンゲンという街で静かにくつろいでいる。

おそらくそれは必要な休息であり、このひと休憩が終わったら、私の魂は再び遍歴の道を歩むだろう。もちろん、住む街を変えることなく、内的な遍歴を続けるかもしれない。それは今の私にはわからないことであり、魂のみぞ知ること、あるいは魂でさえもわからないことかもしれないと思う。

昨日は、ふとしたきっかけで、母校一橋大学の入試問題を眺めていた。確か作曲技術の向上についてあれこれ考えている時に、古典的かつ害悪があるかもしれないが、ハーモニーやメロディーなどのドリル的なテキストを活用することも一つの手かと思い立ち、それは数学でいうところの問題演習に該当するのではないかと思い、懐かしの『大学への数学』や『青チャート』という数学の問題集が思い出された。

以前塾で小学生から高校生までを相手に数学と理科を教えていたことがあり、そうした経験も相まってか、上記の問題集を解きたくなることがふとした時に訪れる。昨日もそうした感覚が訪れ、そこから母校の近年の数学の入試問題を調べてみたというのが流れである。

そこから私は数学においては、問題文を読み、解法の初手から数手までを考えていた。そして数学のみならず、世界史の論述問題を眺め、国語の現代文と現古融合文ではどのような問題が出題されているのかを眺め、英語に関しても取り上げられている二つの文章を読んでいた。

そのようなことをしていると、随分と時間が経ってしまい、計画をしていたチャイコフスキーの書籍を昨日中に再読できなくなってしまうほどであった。母校の入試問題を眺めることによって得られたことは多かったが、今日はそうしたことにならないように、読書と作曲実践に集中していきたい。

それに並行して、明日の午前中に行われる協働先企業との合同イベントに向けた準備をすることと、キャリアコンサルタントの資格試験に向けたテキストの原稿を完成させ、今夜先方に送りたいと思う。フローニンゲン:2019/4/24(水)05:32

4229. 今朝方の夢

気がつけば起床してから二時間が経とうとしているが、そういえば今日はまだ、今朝方の夢について振り返っていなかった。今朝方も確かに夢を見ていたのだが、今日の夢はそれほど印象に残っているものではない。

ここ最近は、午後の仮眠中に見るビジョンが鮮明になってきており、今朝方の夢の印象が薄い分、今日の仮眠中のビジョンがどのようなものになるのかは関心がある。夜に見る夢と日中のビジョンとの間にはどのような関係があるのかという点も、一つの観察ポイントである。

それでは今朝方の夢について振り返ってみると、夢の中で私は、オリンピックの選手選考会の会議に参加していた。私はスポーツの専門家でもないのだが、知性発達学の外部専門家として選考委員に選ばれ、その会議に参加することになった。

会議中にどのような競技のどのような選手について話し合われていたのかは覚えていない。覚えているのは、会議の場は和やかであり、話も非常に生産的に進んでいたということである。

次の夢の中で私は、アメリカで有名なスーパーの系列店の一つ、「トレーダー・ジョーズ(通称「トレジョ」)」のある店の中にいた。店内の雰囲気は、私が西海岸のアーバインという町に住んでいた時によく訪れていたトレジョに似ている。

店内の照明は明るく、トレジョの店員はホスピタリティ研修をちゃんと受けているためか、大体どの店員も気さくで親切だ。特に多くのものを購入しようと思っていなかったのだが、私はカゴではなく、最初カートを取りに行った。

だが、やはり考え直して、カートではなく、普通の赤いカゴを手にし、それを持って店内を歩き始めた。すると、私が通っていた高校でひときわ学業優秀な女性の知人(AK)と店内で偶然にも鉢合わせた。

私は彼女がここにいることに驚き、向こうも私がここにいることを驚いていた。高校を卒業して以来の再会であったから、久方ぶりであり、私たちはそこで少しばかり立ち話をした。

そして私は、オーガニックの野菜売り場に向かっていった。私がジョン・エフ・ケネディ大学の大学院に留学していた時、同大学院のホリスティック健康学科のアメリカ人の友人から、アメリカの食品表示について話を聞き、果物・野菜に貼られているシールの数字の先頭が「9」であればオーガニック食品、「4」であれば農薬を使用した通常の(?)食品、それ以外の数字は遺伝子組換え食品であるということを教えてもらった。

以降その知識は非常に役に立ち、トレジョにおいては、さすがに遺伝子組換え食品は置かれていないが、「4」の果物や野菜は普通に置かれている。私は「9」で始まる数字が付された野菜を幾つか手に取り、それをカゴに入れていった。

そこで私はふと、「もう少し質の良い野菜はないだろうか?」と考えた。「9」の野菜はオーガニックなものであるから、質は非常に良いのだが、どうやら私は、市場などで生産者から直接購入する野菜の方が良いと思ったようであった。

生産者の顔を見て、彼らと言葉を交わし、一つ一つの果物や野菜の中に、自然のエネルギーのみならず、作り手である彼らのエネルギーが込められているということ、そして彼らと言葉を交わし、直接彼らの手から食べ物を手渡しで受け取ることによって、それらの食べ物に込められたエネルギーがより大きくなるのではないかと思っていたのかもしれない。

結局私は、カゴに入れた食材を全て元の棚に戻し、何も買わずに店を後にした。今朝方はそのような夢を見ていた。

現在の私の関心の一つは、やはり食であり、その関心は無意識の領域にまで浸透しているようだ。そうした関心は、午後の仮眠中のビジョンの中にも表れており、今日の仮眠中にも食に関するビジョンを見るかもしれない。フローニンゲン:2019/4/24(水)05:53

4230. メールからの解放に向けて

時刻は午前八時半を迎えた。今朝は早朝の三時半に起床していることもあり、八時半の段階ですでに五時間ほど活動できていることが驚きである。

この時間帯のフローニンゲンは、うっすらとした雲に覆われており、今日は朝日が強くない。新緑をつけた街路樹がそよ風に揺れている。

つい先ほど、チャイコフスキーがハーモニーについて解説した“Guide to the practical study of harmony (2005)”の再読を終えた。本書は今後も繰り返し読むことになるだろう。

次回本書を読む際には、チャイコフスキーが提示している課題にゆっくりと取り組んでいき、本書の内容理解をさらに深めていこうと思う。今日はすでに早朝に一曲ほど曲を作っているが、これから再び曲を作る。

早朝と同様に、ラモーに範を求めて曲を作る。その後は、シュタイナーの音楽理論と意識の形而上学を掛け合わせた良書の“Expanding Tonal Awareness: A Musical Exploration of the Evolution of Consciousness (2014)”の再読を行う。

本書のタイトルにあるように、この書籍を読むことを通じて、調性に対する意識を拡張させていき、それぞれの調に対する感覚を養っていく。本書の中には時に、音の発生に関する物理学的な細かい解説があり、それらがあまりにも細かいと判断すれば読み飛ばすが、基本的には最初から最後までをゆっくりと読み進めていく。

この読書がひと段落したら、キャリアコンサルタントのテキストに掲載される予定の原稿をレビューし、追加修正を加える。それに合わせて、先方へメールをする際のドラフトも作成しておく。

今週の金曜日からバルセロナ・リスボン旅行が始まる。基本的に私は毎晩メールの返信はしているが、旅行中は旅に集中し、旅を通じて得られたことを日記にまとめ、曲として形にすることを最優先にするため、メールの返信は極力控えようと思う。

金曜日の早朝にフローニンゲンを出発し、そこから六日間バルセロナに滞在した後に、リスボンに移動する際にそれまでのメールを返信するようにしたい。あるいは、バルセロナ滞在中の夜によほど時間が余っている場合は、その時にメールの返信をしていく。

だが私はメールを返信するために生きているわけでは決してないので、メールの返信は極力控えることが賢明だ。現代人はメールに毒されており、このツールのほぼ奴隷なのだから、そうした状態から解放されるためには、メールというツールに対して自覚的になり、メールとの付き合い方というものを見直していく必要があるだろう。

メールの活用および返信というのも悪習に変わりやすいものであるため、今回の旅をきっかけにメールそのものについても改めて検証を加える。私はいつか、メールを一切活用しない日々を生きてみたいと思うのだが、それは現代社会においてはなかなか実現させるのが難しそうだ。

それが難しくても、一年ぐらいメールを見ない期間を設けるのも良いかもしれない。まさに断食を定期的に行うかのように、四年に一回、その一年間は全くメールを見ないというような生活である。

実はそうした生活の実現に向けて水面下ではゆっくりとだが着実に準備を始めている。フローニンゲン:2019/4/24(水)08:38

4231. 仮眠中のビジョンと夕食までの活動

つい先ほど午後の仮眠から目覚めた。今朝は早朝の三時半に起床し、そこから午後の二時半まで自分のライフワークに取り組んでいた。具体的には、日記の執筆、作曲実践、読書、協働プロジェクトの四つである。

これから夕食まで時間があるので、作曲実践や読書を行っていきたい。先ほどの仮眠中においてもやはりビジョンを見ていた。

だが、断食の最中ほど強烈な印象を持つものではなく、そこで展開されるイメージは少し薄い。とはいえ、覚えている範囲のことを書き留めておきたい。

一つ目のビジョンは、私がそのイメージの世界の中にいたのではなく、イメージを観察する自己としてそこにいた。イメージとして立ち現れたのは、草花がたくさん咲いた野原だった。

私の視点は、野原を俯瞰するような場所にあり、野原をゆっくりとスキャンするように視点が移動していった。すると、野原の上に白人の男性が目をつむって仰向けになっていた。

その男性の表情は青白く、少し薄気味悪かった。即座に私は、その人は死んでいると思った。私の視点はその男性の顔をズームアップし、すると突然、その男性がカッと目を見開いた。

私はそれに驚き、私の視点はその男性の顔から足先へと移動し、あたかもその男性から目を背けるように、視点は再び花々が生き生きと咲く野原に移っていった。一番印象に残っているビジョンはそのような内容であった。

あと二、三ほどビジョンを見ていたのだが、それらを思い出すことは難しくなってしまっている。その他のビジョンの中には間違い無く、自分が登場人物として現れているものがあったことだけは確かだ。

午後三時半を迎えようとしている現在、フローニンゲン上空には雲が少しばかりあり、太陽が時々それらの雲に隠れる瞬間がある。早朝の四時半から鳴き声を上げ始めた小鳥たちは、まだ近くで鳴いている。それを考えると、小鳥たちも随分と働きものだと感心する。

今日はこれからスクリャービンに範を求めて作曲をする。その際には、現在頻繁に取り入れている教会旋法を活用する。今活用しているのは七つの教会旋法であり、一つの調を選んだ後に、教会旋法を用いて音色を変えていくような形でそれらを活用している。

調性には固有な重力場があることを以前の日記でも指摘しているが、教会旋法を使い分けていくことによって、曲の重力の上げ下げが可能になるのを実感する。それは転調とはまた違う重力変化であり、そのあたりの感覚差についても今後の探究の余地があるだろう。

スクリャービンに範を求め終わったら、午前中から再読を始めた、“Expanding Tonal Awareness: A Musical Exploration of the Evolution of Consciousness (2014)”の続きを読み進めていく。こちらは大きな版の書籍であり、なおかつ文字が小さいため、午前中のかなりの時間を本書の読書に充てていたが、ようやく半分まできたところである。

本日中にどこまで再読できるかわからないが、できるだけ読み進め、少なくとも明日中に再読を完了させておきたいと思う。フローニンゲン:2019/4/24(水)15:27

4232. 作曲技術を高めるための「写経実践」の開始

時刻は夕方の五時を迎えた。今日は時折雲が空に現れ、太陽の光を遮ることがあったが、今は強い西日が地上に降り注いでいる。

今日は午後にふと、プログラミング言語の習得と作曲技術の習得との関係性について考えていた。このテーマは以前にも何回か自分の中に現れていたものであった。

私はプロのプラグラマーになろうと思ったことは一度もないのだが、科学研究を行う際にRというプログラミング言語を用いることがよくあり、その際にコードを書いていた。そこでの体験は非常に肯定的なものであり、コードを書く喜びのようなものを味わっていたのを覚えている。

そうした経験を基にして、プログラミング言語を習得していくプロセスと、作曲技術を習得していくプロセスには似たような点が多々あり、学習方法に関しても似たものがあるのではないかと思ったのだ。

そこで第一線級のプログラマーがどのような学習をしてプログラミング技術を高めたのかを調べてみたところ、作曲技術を高める学習に大いに参考になることが書かれていた。そのアイデアは、前々から自分でも良いものだと思っていたのだが、私の工夫が足りず、継続性がなかった。

その方法とは、端的には「写経」である。まずプログラミング言語の学習における写経というのは、ソースコードをキーボードを通じて入力する行為を指す。

それを作曲学習に当てはめてみると、私はPCを用いて作曲をしているので、理論書の譜例をキーボードを通じて入力する行為を指すことになる。両者はともにそっくりであることに気づく。

プログラミングにおいても作曲においても、とにかく手を動かすことが学習上鍵を握る。また、それらの領域において技術を深めていくというのは、反射的・自動的に行える事柄が拡張されていき、自分が表現したいことを自由自在に行える境地に近づいていくことを意味することも非常に似ている。

写経の実践をすることにより、譜例として取り上げられている音楽的パターンを身体知にしていき、将来的には何も見ずしてそれを再現できるようにしていく。

今日から意識的に行っていくのは、単に作曲理論の解説書を黙読するのでは決してなく、理論書に掲載されている譜例をとにかくPCのソフト上で再現していくことである。それによって、実際に手を動かしながら音を創造する訓練にもなるし、紙に記載されている譜例の音を実際に聞くことができる。

この実際に自分の手を動かし、実際の音を聞いてみるということがどれほど大事なことか。これもまさに立派な経験学習である。

キーボードを通じてソフト上で音を並べてみないとわからない発見というのが多々あるのだから、そうした発見を蓄積していくという意味で、とにかくこの写経実践を習慣にしていこうと思う。メロディー、ハーモニー、フーガの技法、対位法、12音技法等々に関する理論書の譜例をもとに早速写経実践を習慣化させていきたいと思う。

当面は起床してからの作曲実践の前後にこの実践を行い、その他には、これまで単に理論書を黙読していた時間を全てこの実践に当てる。それ以外には、他の実践の合間に息抜きとして行ったり、旅行中においては移動中などに行うようにする。

そうした隙間時間などを活用することを通じて、写経の実践を真に自分の習慣とし、「作曲勘」を鍛えていく。早速今から、ショーンバーグが執筆した“Fundamentals of Musical Composition (1967)”に掲載されている譜例を写経していく。

譜例を参考にしたら、正の字を入れていき、今後何回繰り返し写経をしたのかを記録していくようにする。また譜例を参考にした都度、できるだけ解説を読み、その理論的背景を知ろうと思う。

この実践が真に習慣になった時、作曲技術がまた一段と大きく飛躍するような予感と期待がある。フローニンゲン:2019/4/24(水)17:20

4月24日(水)に生まれた曲たち

Op.1077 早朝の銀河の入り口

Op.1078 常なる慈しみ

Op.1079 小悪魔の行進

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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