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4216-4224:フローニンゲンからの便り 2019年4月23日(火)


タイトル一覧

4216. 小鳥たちよりも早く起きた朝に

4217. インドの伝統音楽への関心の高まり

4218. 食生活の改善による心身の調子の良さ:今朝方の夢

4219. 数学空間と音楽空間:自らの学びを生み出し、導くもの

4220. 母校一橋大学の入試問題を久しぶりに眺めて思うこと

4221. 鮮明さを増すビジョン

4222. 初夏のような陽気さに包まれたフローニンゲン:時間感覚の変容と発達

4223. 日本アニメの到着

4224. 今日の夕食と学びに伴う喜びについて

4216. 小鳥たちよりも早く起きた朝に

時刻は午前四時を迎えた。今朝の起床時間は午前三時半過ぎであり、その時間はまだ小鳥たちも目覚めていないようだった。

今日は小鳥たちよりも早く目覚め、新たな出発を迎えることになった。自己としての新たな出発。それを今日も行う。

小鳥たちが鳴き始めるのはもう少し後になるだろうか。それまでの時間は、早朝の静けさの中でスクリャービンのピアノ曲でも聴こうと思う。

数日前の日記で書き留めたように、スクリャービンの音楽のみならず、彼の生き方や思想にまで関心が及び始めている。先日の日記に書き留めた書籍は、ぜひとも近日中に購入しておきたい。

今週の金曜日から始まるバルセロナ・リスボン旅行から帰ってきてからそれらの書籍を読み始め、この夏にモスクワに足を運び、スクリャービン博物館など、スクリャービンにゆかりのある土地を訪れることによって、彼の音楽及び生き方や思想に対する理解がさらに深まるだろう。そしてそれは、必ずや自らの肥やしになるだろう。

今朝は三時半過ぎに起床したこともあり、今日の活動は充実したものになりそうだ。今日の予定としては、これから夢日記を書き留め、その後、作曲実践を行う。

昨日の作曲実践を通して、これまでの自分の曲は、和音が動きすぎていたということに気づいた。つまり、和音の変化が激しく、和音が作り出すリズムが全く考慮に入れられていなかったのである。

それに気づかせてくれたのは、ウォルター・ピストンの“Counterpoint (1947)”という書籍であり、再読後しばらく経って入浴している時にふとそれに気づかされた。曲の水平構造に関しては、どうしてもメロディーの形だけに注目してしまいがちだが、そこには様々なリズムがあり、そのうちの一つに和音が作り出す隠れたリズムがあることを忘れてはならない。今日の曲作りは、特にその点に意識を向けようと思う。

早朝の作曲実践が終わり次第、今日はチャイコフスキーが執筆したハーモニーに関する書籍“Guide to the practical study of harmony (2005)”と、シュタイナーの音楽理論と意識の形而上学を架橋している興味深い書籍“Expanding Tonal Awareness: A Musical Exploration of the Evolution of Consciousness (2014)”の再読を行う。

どちらの書籍も二回以上目を通しているのだが、最初から最後まで一字一句読んだというよりも、関心のある箇所をつまみ食いする形でこれまで接してきた。だが今回の再読は、最初から最後まで可能な限り丁寧に読んでいきたいと思う。

チャイコフスキーの書籍に関しては、今週からのバルセロナ・リスボン旅行に持参しようかと思ったが、旅行の時はメロディーに関する書籍か、バルトークの作曲書法に関する書籍を持っていこうと思う。

“Expanding Tonal Awareness: A Musical Exploration of the Evolution of Consciousness (2014)”を読む際には、特に自分の調性感覚を養っていくことを心がける。まさに本書の主眼はそこに置かれている。

シュタイナーや著者の独特な調性感覚を参考にしながらも、自分なりの調性感覚を育んでいくことが肝要だ。こうした読書に並行して、作曲実践を適宜行っていき、今日は午後から近所のコピー屋に行き、バルセロナ滞在中に参加するコンサートのチケットをプリントアウトする。

そしてその足で、街の中心部の市場に行き、旅行前最後の食料の調達を行う。今日も新鮮な果物と野菜を豊富に購入し、ナッツ類も合わせて購入しようと思う。

先日購入し忘れてしまった、玉ねぎと大根(大根の代わりにラディッシュでもいい)を忘れずに購入したい。今日はいつもより早いスタートを切ることができたため、今日もまた非常に充実した一日になるだろう。フローニンゲン:2019/4/23(火)04:31

No.1884: The Entrance of the Galaxy of the Early Morning

I have a feeling that the entrance of the galaxy of the early morning is open. Groningen, 06:58, Wednesday, 4/24/2019

4217. インドの伝統音楽への関心の高まり

今、ココナッツオイルを白湯に溶かしたものをゆっくりと飲んでいる。いつもはこれを一気に飲み干しているのだが、今日はゆっくりと味わいながら飲んでいる。

時刻は午前四時半を迎えたが、小鳥たちはまだ目覚めていないようだ。少しばかり友の不在感を感じるが、小鳥たちは今日も目覚め、あの美しい鳴き声を上げ始めるだろう。その始まりが今から待ち遠しい。

今日の天気を確認すると、曇りとのことであり、昨日までの夏のような太陽の光を期待することはできない。とはいえ、気温が再びぐっと下がるかというとそうでもなく、二、三度ほど下がる程度のようだ。

明日と明後日は再び晴れ、旅行の出発日は気温が下がり、どうやら午前中は小雨が降るようだ。そこからはフローニンゲンはまた肌寒い日に戻るようである。

今回まずはバルセロナに六日ほど滞在するが、幸いにも最初の五日間は晴れのようである。気温も20度前後であり、大変過ごしやすいことが予想される。

春の快晴のバルセロナの町をのんびりと散歩しながら観光できることは嬉しい。

今、最初の小鳥が鳴き声を上げ始めた!時刻は4:40である。

書斎で鳴り響いているスクリャービンのピアノ曲を一旦止めて、ここからは小鳥の鳴き声にしばらく耳を傾けていたい。スクリャービンの音楽との対話も良いが、今鳴き声を上げ始めた小鳥と対話がしたいのだ。

いつもながら突飛な思いつきだが、近々インドに行ってみようと数日前に思った。インドにはまだ足を運んだことがなく、前職時代にインド人の仲の良かった同僚がいて、彼からインドに関する様々な話を聞いており、インドには前々から興味はあった。

しかもここ最近は、音楽の観点からもインドへの関心が高まっている。特に、インドの伝統音楽だ。

インドの伝統音楽は、西洋音楽に劣らないほどの理論体系を持っているとのことであり、その点にまず関心が向かった。インドに実際に足を運び、インドの伝統音楽に触れることができれば理想であり、それが無理であったとしても、インドのなんたるかを直接体験を通じて少しでも感じたいと思う。

ここ最近の日記で書き留めていたように、書物やインターネットの情報などを通じて頭だけで物事を理解しようと思っていては決してならず、自分の身体を通じた直接体験を積みながら対象を理解していくことが何よりも大切だ。それが深い理解をもたらし、それは即深い自己理解を生むきっかけとなっていく。

インドの伝統音楽は、ラーガ(音階・旋法の理論)とターラ(拍節周期・リズムの理論)で構成されているようであり、両者を共に学びたい。早速参考図書を調べ、興味深い書籍を四冊ほど見つけた。

それら四冊を全て購入するのも良いが、もう一度吟味し、少なくとも二冊ぐらいは手始めに読み進めていきたいと思う。書籍の吟味は、バルセロナ・リスボン旅行から帰ってきてからにする。

インドの伝統音楽に惹かれたのは、その理論体系の精緻さだけではなく、思想的な面においてもである。インドの伝統音楽で大事にされているのは、演奏者の観点においては即興性であり、同時に個我を超えた演奏である。

つまり、インドの伝統音楽の底に流れているのは、梵我一如の思想であり、インドの哲学と密接に関係しているのだ。試しに一昨日、インドの伝統音楽のピアノ曲を聞いてみたところ、やはりそこには人間の表層的な感情を超えた平穏さがあった。

こうした平穏さは、おそらく個我を超えた先に獲得されるものなのだと思う。偶然にも、昨日の午後に仮眠を取っている最中に感じた涅槃的な感覚とも似ている。

インドの伝統音楽ではその他にも、音楽は宇宙の超越的な波動とみなし、音楽家は自らの音楽を表現するというよりも、そうした波動を媒介する存在であると見なされているのが大変興味深い。

シュタイナーで言うところの「音の海」、武満徹で言うところの「音の河」というのは、そもそも個を超えた宇宙的な音楽空間のことを指しており、そうした空間内で生起する音楽的なものを自己表現として捉えるのではなく、音楽家はそれをこの地上に形として具現化させる媒介者であるというのはとても納得のいくことであり、そうした思想には大変共感する。そうしたこともあり、インドの伝統音楽に関する探究もゆっくりと始めていく。フローニンゲン:2019/4/23(火)04:56

No.1885: Everlasting Mercy

Everlasting mercy is falling from the sky. Groningen, 09:06, Wednesday, 4/24/2019

4218. 食生活の改善による心身の調子の良さ:今朝方の夢

時刻は午前五時を迎えようとしており、真っ暗な闇の世界に、小鳥たちの清澄な鳴き声がこだましている。その音の響きを全身を通じて味わっている。

もう少ししたら白湯を飲み干すので、早朝の味噌汁を一杯飲もうと思う。それにしても、一日一食生活を始めてから、毎日の夕食があまりにも美味しく感じられ、いつも途轍もない幸福感に満たされる。

昨日もそうであった。また、果物と野菜を豊富に取り、肉類は基本的に一切摂らない食事をすることによって、ここまで心身の調子が良くなるとは思ってもいなかった。

正直なところ、これまで肉を食べなければならないと思い込んでいた自分がどれほど馬鹿であり、肉に含まれる栄養など大豆食品や野菜で十二分に補えることを考えると、とんでもない食生活をこれまで送っていたのだとわかる。

以前アメリカに四年ほど生活をしていた時に、実験として最後の二年間は昼と夜はカレーだけを食べ続けるということを行っていた。実験の焦点は、カレーに入れる具材、特に肉の種類を変えることによって心身にいかほどの変化が現れるかというものだった。

そこで得られた観察結果についてはこれまでの日記でも触れることがあったが、やはり肉の種類によって身体感覚が軽くなったり重くなったりし、それが精神に影響していることがわかったのである。だがその時の私の考察はそこで止まり、そこから一歩先に考えを進め、そもそも肉類を食べなかった場合にどのような心身の状態がもたらされるのかというところまでは検証していなかったし、当時の私ではそれはできなかったのだとも思う。

というのも、多くの現代人と同様に、肉を食べることに身も心も毒されており、肉類を食べないことがある種の恐怖感を与えていたからである。ひるがえって今は、食に関する社会の思想及びシステムを客体化する観点が獲得され、そうした恐怖感を乗り越え、ようやく人間らしいまっとうな食生活が始まった。

そこに至るまでに30年以上の時間が必要だったというのは皮肉な話であるが、逆に30数年で気付けて良かったのだとも思う。

今、有機八丁味噌で作った具なしの味噌汁を飲み始めた。その濃厚な味噌汁が体全体に染み渡っていく。

味噌汁の酵母が本当に生きているかのように見える感覚があり、それは自分の身体の中に取り入れられることによって、私自身になっていく。そうなのだ、食物とは文字どおり、何を食べるかがその人そのものを作っていくのである。身体も心も精神も、そして魂も、それらを作っていく大切な要素の一つとして、何を食べるかということがあるのだ。

小鳥の鳴き声に耳を傾けながら、ゆっくりと味噌汁を味わっていると気付いたが、今朝はまだ夢についての振り返りを行っていなかった。今朝方も幾つか夢を見ていたのだが、印象に残っているものは一つしかなく、しかもそれは極めて短い。

夢の中で私は、見慣れない一軒家の中の一室にいた。そこはどうやら地元にある家のようであり、その家主が個人で塾か何かを開いているようだった。

私は塾の教室がある部屋にいて、一番前の席に座っていた。席と言っても椅子があるわけではなく、背の低い幾つかの長机の一つを前にして、カーペットが敷かれた地べたに座っていた。

そこで私は数学の試験を受けているようであった。後ろには、小中高時代の親友(AF)がいて、彼もこの塾で試験を受けているようだった。

そこは個人塾であり、進学塾のような厳しさは全くなく、ある意味私たちにとってはコミュケーションの場、悪く言えば遊びの場でもあった。

私の前方には黒板があり、試験時間が表示されている。よくよく表示されている時間を見ると、数学の試験は「16:10~16:90」と書かれており、「16:90」というのは「17:30」という意味なのだろうかと考えさせられた。

そもそも、始まりの時刻の表示もおかしく、試験の終了時間が「16:10」になるはずだった。手元の時間を見ると、試験時間が残りわずかとなっており、私はあと数問ほど問題を解かなければならなかった。

最後に残っている問題は、私が最も好きな単元であった関数であり、時間に追われてはいるものの、なんとか問題を全部解けるだろうと思った。だが突然、猛烈にトイレに行きたくなり、そこで目覚めた。

実際に目覚めた私は、本当にトイレに行きたくなっており、すぐにトイレに駆け込んだ。今朝はそのような起床をしていた。

昨夜は寝る前に水分を摂り過ぎていたのかもしれない。フローニンゲン:2019/4/23(火)05:24

4219. 数学空間と音楽空間:自らの学びを生み出し、導くもの

時刻は午前七時半を迎えた。この時間帯になると、辺りはすっかり明るくなっている。

天気予報では今日は曇りのはずだったが、嬉しいことに、今は雲ひとつない快晴の空が広がっている。そよ風が早朝のフローニンゲンの街を吹き抜けている。

窓の外を見ると、新緑の濃さが昨日よりも増しているように思える。早朝のこの爽やかさはなんとも言えない心地良さを持っており、それを存分に楽しみたい。

昨日、自分が作った拙い曲を聞いてくれた知人の方から連絡を受けた。その方曰く、曲に私の人柄が良く表れているそうだ。

曲を作る際には視覚的感覚などに頼らず、より感覚の内部に入っていくことを要求されるため、曲は裸の自分を表現するものなのかもしれない。そこには言葉では汲み尽くせないような自分の人間性が滲み出る。

それは良かれ悪しかれ、丸裸に表れてくるものなのかもしれない。一人の人間の内側には多様な側面があり、それには幅も深さもある。

今後も作曲実践を通して、自分の内面世界をさらに深く見つめていきたい。それは、さらに深い人間理解につながるだろう。

時刻はまだ八時を迎えていないが、早朝の感覚をすでに二曲ほど形にしている。今日はこれから、チャイコフスキーがハーモニーについて解説した専門書を読む。

数学の学習と同様に、作曲においても学習を基礎から積み重ねていくことが大切だ。私の夢の中には時折数学が出現するが、ここのところ、数学と音楽の関係について考えている。

それはありふれたテーマではあるが、やはり自分を惹きつける何かがそこにある。数学空間の深遠さには驚かされてばかりであり、それと同様に、音楽空間にも途轍もない深遠さがある。

確かにどちらも人間が産み出した抽象的な空間なのだが、それを突き詰めていけば人知をはるかに超えていく超越的な世界が広がっている。作曲に関する学習の一つ一つはとても地味であり、様々な曲を聴いたり、楽譜を眺めたりしながら多様な音楽パターンを獲得していくことも地味なのだが、おそらくそした地味な鍛錬の先に、超越的な世界が待っているのだろう。

数学空間と同様に、音楽空間にも抽象的な階層構造があり、その階梯を一つ一つ登っていくようにしたい。そのためには、日々の学習と実践をおろそかにすることはできない。

おそらく、そうした学習や実践というのも、基本的には誰からも教わることなどできないのではないかと思えてくる。少なくとも学校では教えてくれない。

もちろん、体系だったカリキュラムに組み込まれる形でそれなりの学習と実践を積み重ねていくことはできるのだが、それをもってして超越的な世界に参入できるかというと、全くもってそうではないように思う。

この話題と関連して、酷な話かもしれないが、自分にとって本当に大切な事柄は、誰かに教えてもらうようなものではなく、また学校で学べるようなものでもなく、自ら学んでいくしかないのではないかと思うのだ。

霊性や創造性、学びや人間発達に関して、さらには食や投資に関して、学校ではそれらを教えてくれないと嘆くのではなく、自ら学んでいくことが大切なのだと思う。

今、小鳥たちの歌声が聞こえてくるが、小鳥たちは学校にせっせと通ってあのような美しい鳴き声を身につけたのではいない。彼らは自ら自分の歌声を身につけたのである。

私たち人間が真に自分にとって大切なことを学ぶ際には、自分を揺さぶるような体験や辛い体験が不可欠となるように思える。自らの過酷な体験を通して何かに気づき、その気づきをもとに学んでいくしかないのだ。

そして、そうした体験と気づきは、私たちが何をどれほど学ぶかも規定していく。そよ風に揺れる新緑の街路樹を眺めながら、そのようなことを思う。フローニンゲン:2019/4/23(火)08:04

No.1886: A March of an Imp

This afternoon looks as if an imp started a march. Groningen, 16:05, Wednesday, 4/24/2019

4220. 母校一橋大学の入試問題を久しぶりに眺めて思うこと

つい先ほど、ひょんなことから、母校一橋大学の入試問題を久しぶりに見てみた。まず数学の入試問題を見てみると、過去に高校生を相手に数学を教えていたこともあり、幾つかの問題は標準的に思えたが、やはり文系の学生にとってはなかなか歯ごたえのある良問が多いように思えた。

そして次に私が高校時代に選択していた世界史の問題を見たときに、今も昔もよく練られた問題が出題されていると感銘を受けた。一橋大学の世界史の入試問題は全て論述形式であり——英数国も記述中心である——、こうした形式を採用している大学は日本でも極めて数が少ないのではないかと思う。

2018年の問題を見てみたところ、第1問は、11〜13世紀のヨーロッパで見られた「空間革命」が取り扱われており、出題資料を通じて「空間革命」の概念を把握した上で、「空間革命」が起こったきっかけ、その結果として生じたヨーロッパの経済・社会・文化上の変化について論述するというものであった。

そして第2問は、歴史学派経済学と近代歴史学の相違とその背景について取り扱っているものであり、上原專祿先生の資料が提示され、それをもとに、歴史学派経済学と近代歴史学の相違とそれが生じた背景について、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ論述するというものである。最後の第3問は、三・一独立運動と五・四運動が取り上げられ、両運動の背景、展開過程、意義を論述するというものであった。

このような問題が出題され、各問400字(原稿用紙1枚ほど)で回答させるというものである。今でさえ抽象性が高いテーマだと思うぐらいなのに、高校時代の私はよくこんな問題を解こうとしていたなと思う。

もちろん、当時の知識量では十分な回答をすることなどできなかったと思うが、こうした論述問題に立ち向かっていく過程の勉強が面白かった。単に歴史的事実を暗記するだけではこうした論述問題に回答することなど到底不可能であり、当時の勉強を通じてもしかすると、複数の事実の関連性を考えたり、歴史的事象の構造を把握することが訓練されていたのかもしれないと思う。

私は今、欧州の地で生活をしており、過去にはアメリカで生活をしてきたが、そうした異国の地での生活体験が積み重なっていくことを通じて、世界史を再度学び直したいという思いが芽生えている。入試問題を解こうとか、そうしたことを考えているわけではもちろんないのだが、過去に母校で出題された問題を眺めてみると、世界史を学び直していく——むしろ継続的に学んでいく——ことへの思いが強くなる。

直近三年で出題されている問題としては、「価格革命とスペインの盛衰、それらがもたらすヨーロッパ経済への影響」「中世ヨーロッパの都市とギリシアのポリスの相違:聖トマスとアリストテレスの都市国家論の違いより」「ベルリンの2つの聖堂建設の宗教的・政治的背景」「朝鮮戦争が中国・台湾の政治に与えた影響」というような問題があり、それらの問題は今の私も深く知りたいと思わせてくれるようなテーマである。

大人になっても好奇心を掻き立ててくれる問題を入試に出題するような大学だからこそ、自分は一橋大学に進学を考えたのだと改めて思う(それを決断したのは、一橋大学の名前など全く知られていない山口県の田舎で生活をしていた小学校三年生の終わりの時だったことを今でも覚えている)。

ちなみに、現在の自分の専門と関係するであろう倫理の入試問題を眺めてみると、ちょうど2ヶ月前の入試では、「フロイトにおける『自我』や『超自我』による規範的統制について説明しなさい」(200字以内)という問題が出題されていた。

また、昨年においては、私が欧州に渡る直前あたりから関心を持ち始めた哲学者のパースが取り上げられており、彼のプラグマティズムとデカルトの方法的懐疑を対比して、彼らの知的探求の出発点がどこかを明確に示して論述する問題が出題されていた。

こうした問題を眺めた時、やはり出題される問題を通じて、母校がどのような人財を求め、どのような教育を実現させようとしているのかの意図が見えてくるように思う。英数国社の全ての入試問題を通じて、とにかく文章を書かせることを要求している母校に対して、改めて共感するものがあり、毎日こうして徒然なるままに文章を書いている自分の特性に合致した大学だったのだとつくづく思う。

母校の入試問題を懐かしく眺めていると、随分と時間が経ってしまった。これから、早朝から読み直しているチャイコフスキーがハーモニーについて解説した理論書“Guide to the practical study of harmony (2005)”の続きをもう少し読み、スクリャービンに範を求めて一曲作りたい。

曲を作り終えたら、近所のコピー屋に行って、バルセロナのカタルーニャ音楽堂で行われるコンサートのチケットをプリントアウトし、街の中心部の市場で果物と野菜を購入するために散歩がてら出かけようと思う。今日も本当に良い天気だ。フローニンゲン:2019/4/23(火)10:55

4221. 鮮明さを増すビジョン

たった今、仮眠から目を覚ました。今日の仮眠中も幾つかのビジョンを見ており、仮眠から目覚めようとしている時に、「これこそが創造の源なんだ」と直感的に理解した。

時に奇想天外なシンボルが、脈絡もないようようなストーリーによって展開されるビジョンが立ち現れる不思議さを思うとき、ここに人間がそうしたシンボル的な何かを生み出そうとする創造性の源があるのだと気付いたのである。

散歩に出かける前に、今見ていたビジョンを書き留めておく。最初のビジョンでは、ある漫画の女性キャラクターが格闘ゲームの中に現れ、強そうな男性キャラクターと闘っていた。

その女性キャラクターは、相手の攻撃を巧みにかわしている点は素晴らしかったのだが、攻撃が足払い一辺倒であり、しかもその足払いの高さも同じであったから、あまり効果的でないように思えた。すると、ゲームの2Dの世界から、ビジョンの世界が3Dになり、二人は大きなコロシアムのような場所で格闘を続けていた。

次のビジョンでは、私は中学校時代を過ごした社宅のリビングにいた。ソファには母が腰掛けており、録画したテレビドラマを今から一緒に見ようとしていた。

ところが、録画の機器が新しかったからか、母は操作に不慣れであり、なかなかドラマが再生されなかった。そこで私は、「代わりに自分がやろうか?」とコントローラーを渡してもらうと思ったが、母は自分でやると述べた。

しばらくしても一向に録画が再生される様子がなく、私は、テレビ台の横にある家具の上に置かれた時計の針が進むのを眺めていた。その後も幾つかのビジョンが続いていた。

その他に印象に残っているビジョンとしては、仮眠から目覚める直前に見たものだろう。最後のビジョンの中で私は、見知らぬ小さなセミナールームにいた。

そこは20人ぐらいを収容できるような部屋であり、これからセミナーが開催されるようだった。私はそのセミナーの登壇者の一人であり、セミナールームに続いている休憩室で休憩を取ってからセミナーを行おうと思った。

休憩室に到着した時の私の格好はとてもラフであり、パジャマ姿であった。しかも、長袖長ズボンではなく、半袖半パンの姿であった。

休憩室にはもう二人ほど見知らぬ人がいて、彼らも今日の登壇者のようであり、三人で雑談をしていた。するとあっという間に時間が流れ、セミナー開始の1分前になっていた。

そのような直前になっても私はまだスーツに着替えておらず、あまりにも呑気であった。セミナー会場の方にちらりと目をやると、前職時代の上司が来ており、一瞬目があったように思った。

すると、突然会場にBGMが流れ、他の登壇者はそのBGMに合わせてセミナールームに登場した。登場に合わせて、会場からは大きな拍手が沸き起こった。

すると、司会の女性の方が、「加藤さん、それではご登場お願いします」と元気よく述べたのだが、私は、「すいません、まだパジャマのままでした」と述べて、一瞬会場の方々に姿を見せると、会場中が笑いに包まれた。

私は、壁にかけてあったイタリア製のビエレッシのチャコール色のスーツを取りに行こうとし、すぐに着替えようと思った。そこで仮眠から目覚めた。

今日も早朝の四時あたりに目覚め、そこから活動をしていたからか、午後の時間までに活動上のいろいろな蓄積があり、それと自分の無意識の中に堆積しているものが混ざり合う形でこのようなビジョンを見させていたのだろうか。

早朝に見る夢の鮮明さは日ごとに増すばかりであるが、それに負けず劣らず、日中の仮眠時に見るビジョンの鮮明さも増すばかりである。フローニンゲン:2019/4/23(火)13:03

4222. 初夏のような陽気さに包まれたフローニンゲン:時間感覚の変容と発達

時刻は午後の三時を迎えつつある。結局今日は、一切曇ることなく、初夏の陽気を感じさせてくれる素晴らしい天気が朝からこの時間帯までずっと続いている。

仮眠を取り終えた後、近所のコピー屋に行き、今週の日曜日にバルセロナのカタルーニャ音楽堂で開催されるコンサートのチケットを印刷した。おそらくEメールの画面を見せれば中に入れると思うのだが、念のため、物理的なチケットも手元に持っておこうと思って印刷をした。

コピー屋の店主と少しばかり雑談した後、その足で街の中心部にあるオーガニック食品店に行き、八丁味噌、豆腐、カカオパウダーを購入した。そこから市場に行ってみると、今日は火曜日だからか、金曜日や土曜日ほどの混み具合ではなく、とても快適に買い物ができた。

目当ての果物と野菜を全て購入してもわずか18ユーロほどであり、一日一食かつ果物・野菜中心の食事に切り替えてからは、本当に食費がかからなくなった。これから初夏を迎える時期に言うのもなんだが、仮に大雪の日や寒さが厳しい日に市場に行くのが億劫であり、仮に食料が切れていても、正直なところそうした日は断食をすればいいと割り切れるようになっている。これもまた不思議な感覚である。

目当ての果物と野菜を購入した後、オーガニックナッツを専門に扱って出店にも立ち寄り、そこでローストされたアーモンドとくるみをそれぞれ150g購入した。旅行までの残り三日で食べきれない量をあえて購入したのは、バルセロナ滞在中に食べるためである。

バルセロナには六泊するため、さすがにリスボンに行く頃にはもうナッツ類はなくなっているだろう。

買い物を無事に終えた私は、帰宅することにした。市場から自宅までの途中、小さな運河を越えていく必要があり、運河を架ける橋がちょうど上がっているタイミングだった。

こうした天気の良い日は、船を持っているオランダ人は、運河を下って優雅にどこかに行くことを楽しみにしているらしい。これから夏にかけて、そうした光景を多く見かけることになる。

三年前にオランダにやってきて、運河を架ける橋が上がり、ゆっくりと船が通り過ぎていくのを待っている時間が時にもったいないように思えることがあった。オランダに来る直前は、ちょうど東京に住んでおり、東京の時間感覚が私の内側に染み付いていたためにそのようなことを思っていたのだと思う。

だがそうした毒素のような時間感覚は徐々に自分の内側から抜けていき、運河をゆっくりと進んで行く船を微笑ましく眺められる心のゆとりを持った自分が現れ始めた。そこから三年経った今、自分の時間感覚は随分と変容を遂げた。

以前の日記で書き留めたように、人間の発達とは時間に埋め込まれたものであり、発達と時間感覚は深い関係にある。そうしたことを考えてみると、時間感覚の変容の中に自己の変容を見て取ることができる。

自宅に到着し、購入した果物と野菜をゆっくりと冷蔵庫や暗所にしまい、今はルイボスティーを淹れてくつろいでいる。

今日は平日の火曜日であるということが信じられないぐらいだが、こうした日々をこれからも過ごしていく。そうした生活の中に、人間本来の感覚とゆるやかに人生を深めていく道がある。フローニンゲン:2019/4/23(火)15:09

4223. 日本アニメの到着

時刻は夕方の四時を迎えた。フローニンゲンのこの時間帯は、一番日差しが強くなり、気温が最も上がる。

午後に街の市場で購入したしいたけを、今天日干ししている最中である。天日干しをしたしいたけは美味であり、前回は試しに少しだけしいたけを購入したのだが、今日からは食べる量を少しばかり増やすことにした。

買い物から帰ってくると、アメリカのアマゾンに注文していた日本アニメのDVDとブルーレイに関する不在通知が入っており、隣の家のニコさんが預かってくれているようだった。すぐにニコさんから品を受け取った。

ここ最近は、夕食後にメールを返信し、その後には読書や作曲を行う集中力はあまりないので、休憩としてアメリカドラマのブルーレイを視聴している。現在毎晩楽しんでいるのはBlacklistというものであり、今のところ全てのシーズンのブルーレイを持っている。

現在は一日二話ずつ視聴しており、ちょうど明日に現在のシーズンを全て見終えることになる。

本日届いたアニメは非常に楽しにしていたものなのだが、バルセロナ・リスボン旅行の前日からそれらを見始めるよりも、区切り良く、旅行から帰ってきてから視聴を始めたい。むしろ前日の夜は旅の支度を最優先するべきだろう。

日本アニメをわざわざ英語や他の言語で吹き替えられたものを視聴する意図は、継続的に外国語を学習するためでもあり、話し言葉の次元においても意識的に外国語空間に浸る時間を増やし、母国語で構築された自己を客体化する機会を増やすためでもある。

また、そもそも今回アメリカドラマではなくアニメを購入したのは、もちろん純粋に日本アニメを楽しむためでもあるが、アニメの中に潜む物語構造を神話学や発達理論の観点から紐解いていきたいという考えがあったからである。

今回はかなり大量にブルーレイとDVDを購入したため、旅行から帰ってきてからしばらくの間はそれらの視聴を楽しめるだろう。今回はアメリカのアマゾンを経由して注文をしたために、予想以上に関税がかかってしまった。

一つ一つの品に関しては、アメリカのアマゾンの方がイギリスのアマゾンよりも安いのだが、関税を考えると、イギリスのアマゾンを経由した方が良かったかもしれないと思う。今回購入したアニメは長編のものが多く、まだまだ購入していないストーリーがあるので、今後はイギリスかドイツのアマゾンを経由して購入をしていきたいと思う。

今日はこれから、ラモーに範を求めて作曲実践を行う。ここ最近は、ラモーの曲を参考にしてばかりである。

ラモーはバロック時代のかなり昔の作曲家だが、彼の曲には喚起される何かがあり、彼の曲を参考にするたびにいつも多くのことを学んでいる。今週の金曜日からバルセロナ・リスボンへ旅行に行く際には、ラモーの楽譜ではなく、当初の計画通り、ハイドンの楽譜を持っていくことにしたい。

旅を通じて得られる感覚と、ハイドンの曲に内包されているものを通じて開かれる感覚の双方が混じり合う時、どのような曲が生まれるのか今からとても楽しみである。フローニンゲン:2019/4/23(火)16:24

4224. 今日の夕食と学びに伴う喜びについて

時刻は午後の七時半を迎えた。つい先ほど今日の夕食を摂り終えた。

午後に市場で購入した新鮮な野菜を早速使って、野菜豊富のサラダを食べたところ、その味に今日も感動した。水菜を切っている最中、とても小さなミミズみたいな虫が生きて動いており、野菜の新鮮さを思って嬉しくなった。

今週の金曜日からバルセロナ・リスボン旅行があるため、それを考慮して野菜を購入したが、それでも普段食べている量よりも幾分多く食べ、野菜を食べきる必要がある。今日はいつもよりも1.4倍ぐらいの野菜サラダを作り、それはおそらく、店で出される三人前から四人前ぐらいのサラダの分量だと思う。

それを作り終えた時、その量と重さに満腹になってしまうかもしれないと思ったが、野菜の消化の良さもあってか、意外とあっさり平らげ、結局腹72-73%ぐらいであった。確かにいつもは腹六分から七分の間であるから、今日の夕食は多い方だが、時にはそれくらいに野菜を摂ってもいいだろう。

旅行までの残り二日間は新鮮な野菜をふんだんに使ったサラダを食べ、旅行から戻ってきたら少し量を減らしたサラダを食べるようにする。

夕食をゆっくり食べることは良いことだが、今日は昨日と同じ時間に食べ始めたにもかかわらず、豆腐、サラダ、デザートの茹でたサツマイモを食べるのに50分ぐらいかかり、昨日よりも15分ほど多く夕食に時間を充てていたように思う。別に私は食事の時間を切り詰めようなどとは全く思っておらず、むしろ時間をかけて食べたほうがいいと思っているのだが、観察データとして記録しておきたかった。

今、夕日が西の空に沈んでいこうとしている。その光は穏やかであり、今日一日の平穏さを象徴しているように思える。

今日は午前と午後に分けて、チャイコフスキーが執筆した“Guide to the practical study of harmony (2005)”を読み進めていった。驚いたことに、その内容が随分と理解できるようになっていたのである。

一年前まではほとんど何もわからなかったことが記憶に新しく、まさかここまで内容に踏み込んでいって理解が進むとは思ってもいなかった。この一年間、他の学習や実践、そして協働プロジェクト関係の仕事の合間に、少しずつ音楽理論や作曲理論の学習を進めていった成果を見て取ったように思う。

その足取りは本当にゆっくりとしたものであったが、自分は着実に学習を深めていたのだと改めて知った。それを知った時、学習に伴う喜びを再度強く実感した。

まさに発達理論を手探りでもがきながら学習を進めていき、人間発達に関する理解が徐々に深まっていった時の喜びを感じていたあの頃のように、これまで全くわからなかったことがわかってくるという学習の喜びを今日実感することができたことは本当に幸いである。

そうした喜びを得られるというのは、学習の醍醐味であり、それは幾つになっても、難解に思えるどのような領域の学習を進めていても味わえるものなのだと改めて実感した。とはいえ作曲に関しては、学習と実践を開始してからまだ一年半しか経っておらず、小学校入学から始めたと置き換えると、まだ小学校二年生の途中レベルである。

作曲に関しては本当に、ひらがなをようやく学び終えたところであり、これから本格的な学習と実践が始まることを予感する。ここからの学習と実践もまた困難の連続だと思うが、同時に学びに伴う喜びが絶えずそこに待っているだろうとも思う。フローニンゲン:2019/4/23(火)19:55

4月23日(火)に生まれた曲たち

Op.1073 朝の気持ち

Op.1074 独りの気持ち

Op.1075 流れゆく思い出の群像

Op.1076 心地よい夕方のリズム

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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