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4209-4215:フローニンゲンからの便り 2019年4月22日(月)

April 24, 2019

タイトル一覧

4209. 小鳥たちとの生活

4210. 排水管が教えてくれたこと

4211. 溢れる活力と精神の高揚

4212. 旧友たちとインテグラル理論に関する読書会を列車の中でする夢

4213. 印象に残る今朝方の夢の続き

4214. 涅槃に至る仮眠中の体験

4215. 夏のような午後の雑記

 

4209. 小鳥たちとの生活

 

ここ最近は四時過ぎに起床しており、今朝の起床も四時を少し回ったところだった。この時間に起床することができれば、十分な活動時間がその日にもたらされるため、私としては嬉しい限りだ。何より、創造活動に適した朝の時間を十分に確保できていることが有り難い。

 

食生活を見直すことによって、諸々の小さな悪習が見つかり、それらを良い習慣に変えていくようになった。例えば、メールを確認するのは昼ではなく、夕食を食べ、そこから一日を振り返る日記なりを執筆した後に初めてその日のメールを確認するようにしている。

 

創造活動に適した朝の時間帯にメールを開くというのは愚かな行為であり、さすがに以前からもそれはしなかったが——早朝にオンラインミーティングなどの仕事が入っている時は確認のためメールを開かざるをえない時もあるが——、昼過ぎにメールを開いてしまうことがあった。

 

だが今は、もうそのようなことは一切なく、夕食を終えて一日の全ての活動を終えてからメールを確認するようになっている。食べ過ぎないこと、良質なものを適量食べることと同様に、不要にメールを確認するのではなく、メールは夜に確認することが習慣になったのは本当に喜ばしい。

 

今朝もまた満月が空に浮かんでいる。毎日その表情が異なるばかりか、満月が最初に見える位置も幾分異なっている。

 

満月の表情が異なって見えるのは、満月の側だけに理由があるのではなく、おそらく昨日の自分と今日の自分が変化しているからだろう。

 

自らの変化を内外の変化を通して見つめていくこと。外側の世界の変化の中に自分の変化を見て、内側の世界の変化の中に新たな自分を見る。そうしたことをこれからも行っていく。

 

今朝もまた小鳥たちは早起きだった。どこか私は、小鳥たちと一緒に暮らしているのではないかと思われるほどに、お互いの起床時間はほぼ同じだ。

 

私が目覚めた頃に小鳥たちも目覚めている気配がある。だがその時はまだ小鳥たちは鳴き声を上げず、静かにしている。

 

私が早朝の諸々のルーティンワークを行って、いざ一日の活動を始めようという時になると、私の背中をそっと支えるように、小鳥たちが美しい鳴き声を上げ始める。

 

小鳥たちと一緒に生活を営んでいること。それは何にも増して大きな幸福感を私にもたらす。

 

ここ最近は、早朝にいきなりピアノ曲をかけるのではなく、換気のために窓を開け、窓から新鮮な空気と一緒に流れ込んでくる小鳥たちの鳴き声に耳を傾けるようにしている。一時間、ないしは一時間半ほどは、パソコンから流れてくるピアノ曲ではなく、窓から流れてくる小鳥たちの声に耳を傾けることも新たな習慣になった。

 

人はこのようにして、諸々の悪しき習慣を見直し、それらを良き習慣に改めていくことによって、新たな自己と世界の新たな側面を発見し、人生を充実させていくのではないかと思わされる。

 

私たち及び私たちの人生そのものは、本当に習慣の産物なのだと思う。いかなる習慣を構築していくか、そこに人としての、そして人生としての大切な何かがあるように思う。フローニンゲン:2019/4/22(月)05:20

 

No.1880: A Morning Feeling

 

A gentle breeze is blowing through Groningen. 

 

It seems to me that the color strength of fresh verdure increases. Groningen, 06:46, Tuesday, 4/23/2019

 

4210. 排水管が教えてくれたこと

 

数日前に七日間の断食を終えたが、それはどこか遥か昔の出来事に思えてしまうから不思議である。さらには、すぐにではないが、また断食をしてみたいという思いがあることも不思議である。

 

断食というのも一つの実践であって、定期的に行っていくのが望ましいだろう。次回の断食は七日間ほどのものにするのか定かではないが、仮に三日間のものであっても十分ではないかと思う。

 

目安としては二、三ヶ月に一度の断食を行っていく。その際に、断食の期間に関しては、もうその時の心身の状態と心身からの要求によって決まるとしか言えない。

 

とにかく重要なことは、断食についての理解を今後も深めていき、定期的に実践をしていくことである。断食は、間違いなく自分の人生を変え、人生の質を深めてくれた実践のうちの一つであるから、今後もこの実践を大切にしていきたい。

 

一日一食生活、しかもそのうちの一食は、果物と野菜を中心にしたものにすることによって、様々な変化が起こっていることは一連の日記に書き留めたとおりである。だが、それらの変化を全て書くことは当然不可能であり、自分が認知したものに限って書き留めているだけでもある。

 

昨夜就寝前に洗い物をしている時、この洗い物が格段に楽になっていることにふと気づいた。以前であれば、洗剤を使って皿やスプーンなどを洗う必要があったが、果物と野菜を中心にした食生活になってから、洗剤など一切使う必要がなくなった。

 

そもそも皿が汚れておらず、スポンジに水を含ませてさっと洗うだけで十分なのである。もちろん火を通さなければ食べられない食べ物や料理が存在していることは確かだが、今の私は火を使うことは一切ない。

 

基本的に生で食べられるものを生のまま食べるということを意識している。これは私の内側の感覚だが、火を通して酸化させたものを食べるということ、あるいは本来生きていたものをわざわざ火にかけて死滅させることによってそれを食べるというのがどこかおかしいように思うのである。これは感覚的な違和感である。

 

そうしたことから火を使った料理は一切しなくなり、サラダにオリーブオイルと味噌を和えるが、必然的に油を加熱することなどはなくなったため、洗い物が非常に楽だ。そこからさらに大きな気づきを得た。

 

それは、排水口周りが綺麗になり、推測するに、仮にこうした状態が最初から実現されているのであれば、さらには今後もこの状態が維持されているのであれば、排水管は詰まりようなどなく、綺麗なままであろうということだ。

 

この気づきが重要なのは、それが単に排水管の問題ではなく、私たちの身体に拡張適用される点にある。私たちの身体の特に消化器官というのは、ある意味排水管であり、私たちを死に至らしめる現代の主要な病のほとんどは、消化器官の問題、つまり排水管の詰まりが原因なのではないかと思ったのである。

 

そして実際に調べてみると、どうやら本当にそういうことらしい。その他の細々とした病気や症状、アトピー性皮膚炎や喘息、ニキビなど、それらも全て結局は、排水管の汚れや詰まりがもたらすものであることが見えてくる。

 

ギトギトした油を排水管に流した時、それが排水管を汚してしまうというのは、少し想像力を働かせればわかることではないだろうか。そこからさらに想像力を少しだけ働かせれば、排水管を汚し、詰まらせるようなものを料理に使い、それを身体の排水管である消化器官に流し込んでいるというのがおかしなことだということにも気づくのではないだろうか。

 

これは油だけに限らず、手に触れた時にベトベトとする清涼飲料水の類やスナック菓子などにも当てはまることである。

 

どうやら現代人は想像力というものが相当に欠如しているようであり、私も想像力の欠如から、上記のようなことにこれまで気づかなかった。とにかくこれからは想像力を働かせて、諸々の事物の関係性を見出していくこと、そして身体の排水管として重要な役割を担う消化器官が詰まることはおろか、できるだけ汚さずにするような食生活を行っていく。フローニンゲン:2019/4/22(月)05:41

 

No.1881: Feeling of Being Alone

 

Although the weather forecast says that today will be cloudy, the crystal-clear sky is showing up. 

 

I want to enjoy morning refreshingness. Groningen, 07:29, Tuesday, 4/23/2019

 

4211. 溢れる活力と精神の高揚

 

自分でも幾分異常だと思うほどに調子が良い。むしろこれが生き物として正常な人間の本来の姿なのかもしれない。

 

身体からは活力がみなぎり、精神は生き生きと高揚している。これまで三食食べていた際には、だいたい午前9時にリンゴを一つ食べ、10時にバナナを食べるようにしていた。

 

朝に食べるのはそれらのフルーツだけであったから、それを朝食と呼べるのかは定かではないが、いずれにせよ、そうしたものを食べていた。今は朝に果物を食べることはなくなった。

 

というのも、朝の時間帯は本来、排泄に集中する時間帯であり、食べ物を身体に取り入れると排泄ではなく消化に向けて身体が動き出してしまうからである。もちろん、上述の果物であれば逆に排泄を促せるのだが、それでも朝に固形物を口にしたくはなく、起床直後には白湯にココナッツオイルを溶かしたもの、早朝の一杯の味噌汁、ヘンプパウダーとココナッツオイルを白湯に溶かしたもの、カカオパウダーとカカオニブを白湯に溶かしたものを飲むことにしており、果物を朝に摂ることなくそれらで十分に排泄が促される。

 

今は果物として食べているのは、引き続きリンゴを毎日食べ、時々イチゴを食べるようにしている。フルーツというのは食後ではなく、食前に食べなければほとんど意味がないということは以前の日記に書き留めたとおりであり、リンゴは午後4時頃に食べるようにし、その二時間後の午後6時から夕食を食べるリズムが生まれている。

 

一日一食の分、夜に食べる野菜の量はかなりのボリュームなのだが、それもあっさりと食べてしまい、それでいて腹六分に抑えられているのは、大変良い傾向だ。腹六分が今の年齢及び身体の状態における最適な量であるということが見えてきている。

 

そして、それぐらいの量が最も幸福感を自分にもたらすことが見えている。まさに足るを知るという状態であり、腹六分で十分に食欲が満たされる。

 

野菜を豊富に食べた腹六分というのは、消化においても良い側面があり、夜10時の就寝前にはすでに消化活動がほぼ終わっており、熟睡がもたらされ、これまでよりも睡眠サイクルが一回減り、六時間ほどの睡眠で十分になった。

 

そうしたことがここ最近4時過ぎに目覚めていることにつながっている。本当に夕食に何をどれだけ食べるのかは重要であり、ここでもこれまでの観察をまとめてみると、現代人は朝昼食べることによって、消化運動に疲弊し、日中の仕事で疲弊し、それらの疲弊を癒すために食べていると思っている夕食の質と量によってさらに疲弊し、睡眠の質がままならないというような悪循環に陥っているのではないかと思う。

 

これまでの自分自身の睡眠の質を考えてみたときに、やはり寝る前にまだ消化運動が落ち着いておらず、睡眠の時間を消化に当ててしまっていたことが睡眠時間の無駄な長さを生み出していたのだと思う。とにかく足るを知り、食事も心身も軽い生活を実現させていこうと改めて思う。

 

辺りはゆっくりと明るくなり始め、満月の光が薄暗い世界を照らしている。フローニンゲン:2019/4/22(月)05:59

 

No.1882: Passing Recollections

 

After I take a nap, I’ll go for a walk to the market at center of the city. 

 

Today is also ideal for taking a walk. Groningen, 12:01, Tuesday, 4/23/2019

 

4212. 旧友たちとインテグラル理論に関する読書会を列車の中でする夢

 

時刻は午前六時を迎えた。二種類の小鳥たちの合唱は止むことを知らず、その演奏の美しさは私の心を喜びで満たしてくれている。

 

今朝方は大きく分けて二つの印象的な夢を見ていた。それぞれを振り返り、夢から得られる気づきを書き留めておきたい。

 

夢の中で私は、ある列車の中にいた。列車の中の雰囲気からすると、それは都会の列車ではなく、地元を走っている車両の少ない列車のようだった。

 

見るとそこには、小中学校時代の友人が男女数名ほどいて、皆席に腰掛けていた。隣同士で座っている人はお互いに話をし、中には一人離れたところに座っている友人もいた。

 

もちろん、列車の中には私の友人以外にも人はいたのだが、彼らの存在があまり目に入らないほど少なく、列車の中はどこか小さな同窓会が行われているかのような雰囲気であった。私はドアからすぐ近くの席に座り、友人たちが何の話をしているのかを理解しようとまず務めた。

 

すると興味深いことに、親友の一人(AF)が、アメリカの思想家ケン・ウィルバーが提唱したインテグラル理論の書籍を鞄から取り出し、「今からインテグラル理論についてみんなで話そう」と述べたのである。

 

正直なところ、私たちが暮らしている田舎の町でインテグラル理論を知っている人など一人もいないであろうから、親友がいきなりその話を切り出した時には心底驚いた。それと同時に、私は心底嬉しくなったのも確かである。

 

:「えっ、その本持ってたん?」

 

親友:「うん、先日購入したんっちゃ」

 

親友は笑顔でそのように述べ、私に書籍の背表紙を見せてくれた。嬉しいことに、それは自分が監訳した書籍であった。

 

すると、その他の友人たちが続々と鞄から同じ書籍を取り出し、「俺も持っとるよ」「うちも」という声が聞こえてきた。

 

別の友人:「せっかく監訳者がおるんやけぇ、かっちゃんから色々教えてもらおうやぁ」

 

そのようにある友人が述べ、私もみんなと書籍を通じてインテグラル理論を学ぶこと、そして何より、一つの書籍を通じて対話を深めていくことができることを心底嬉しく思った。私は興奮を抑えるようにして、ファシリテーター役を担うことにした。

 

列車の中は、読書会会場になり、活発な議論を通じてたちまち賑やかになった。

 

私は彼らに、どういうきっかけでインテグラル理論を知ったのかを聞くことはしなかった。後から思えば、それは気になることであり、本来であれば、そうしたきっかけの背後にその人固有の学習動機があり、それを見つけ、それを育んでいくことが深い学びにつながっていく。

 

だがその時の私は、そうした問いを投げかけることが不要のように思えたし、友人たちがすぐにインテグラル理論に関するかなり突っ込んだ質問をしてきたことも、彼らにインテグラル理論との出会いのきっかけを尋ねることをあえてしなかった理由である。

 

私の真向かいに座っていたのは女性の友人(MH)であり、私の左横に座っていたのは別の女性の友人(NI)であった。彼女たちから質問を受け、それに対してこちらの回答を述べた後、私の右横に座っていた、学生時代には影が薄かった女性の友人(TO)がかなり突っ込んだ質問をしてきた。

 

質問の内容は、フロイトの自我発達理論であり、自我、超自我、エスの三要素がなぜ人間の中に分かれて成立しているのか、フロイトはそもそもそれらをどのように発見したのかに関するものだった。私はその問いに一瞬戸惑ったが、直感的に筋の良さそうな回答が即座に思いついたので、それを彼女に伝えた。

 

すると彼女は納得の表情を浮かべ、私にお礼を述べた。そこで親友の一人が口を開いた。

 

親友:「そういえば、かっちゃんは本持っとらんのん?」

 

:「えっ?あぁ、そういえば今は手元にないみたいやわ」

 

親友:「本を見ずによくそんなにスラスラ質問に答えられるね。ぶちすげぇっちゃ」

 

:「本の内容が本当に身についてたら、いらんのんやない(笑)」

 

親友:「わやしか言わん(笑)じゃけど、確かにそうかもね」

 

その後も列車の中での読書会は盛況であり、非常に楽しい時間が続いた。そこで夢の場面が変わった。

 

この夢を見た後に、一度目が覚めたのを覚えている。その時、目覚めた自分の内側にはまだ、読書会中の楽しさや喜びが残っていた。

 

現実世界においては、友人たちがインテグラル理論に関する書籍を手に取ることはないと思うのだが、あのような読書会が本当に実現されたらさぞかし楽しいだろうと思う。

 

多くのことを与え続けてくれた友人たちに対して、これから自分は一体何ができるのだろうか。フローニンゲン:2019/4/22(月)06:32

 

4213. 印象に残る今朝方の夢の続き

 

新緑の葉を実らせた街路樹が、早朝のそよ風に優しく吹かれてたなびいている。その街路樹は確かにいつも生きているのだが、そよ風によって揺れる葉のおかげか、街路樹の命の動きがより鮮明に伝わってくるかのようだ。

 

世間ではどうやら今日は月曜日らしく、そしてオランダにおいては今日は祝日とのことである。いかなる曜日であっても、世間が祝日であろうとも、自分の人生における自らの取り組みは何ら変わることがない。

 

この世界で自らの生を十分に生きること。自分という小さな人間にできることは、本当にそれぐらいしかないのだろう。

 

先ほど、今朝方の夢の一つ目について振り返っていた。もう一つ印象に残る夢を見ていたので、それについても書き留めておきたい。

 

夢の中で私は、牧場のような場所にいた。そこは広い放牧地帯であり、柵に囲まれた広大な区画がいくつもあり、そこには牛や馬などがいた。

 

だだっ広い牧場を散歩していると、ある区画とある区画の間にある小道の脇に川が流れていた。それは小川だと形容できるが、すぐ近くからは途端に中規模の川に変わっていた。

 

私は何気なく小川の方に目をやると、何とそこに、一人の女性がぐったりとして横たわっている姿が目に飛び込んできたのである。私はすぐさまその女性のところに駆けつけ、「大丈夫ですか?」と声をかけた。

 

その女性は特に外傷はなかったが、とてもぐったりしていた。「ええ、大丈夫です」と、女性は今にも消え入るような声で一言だけ述べた。

 

その女性がなぜ川のすぐそばで倒れていたのかその原因がわからず、対処しようがないと思っていると、突然私の父が現れた。そして父は、その女性を病院へ連れて行こうと提案した。

 

すると、何とその女性は突然巨大な牛に姿を変え、父はその牛の背中に乗ってその場から猛スピードで去っていった。私は父と牛の後ろ姿を眺めており、父は私の方を振り返ることはしなかったが、「心配ない。この牛を無事に病院に送り届ける」と言わんばかりに、左手を牛の背中から離し、左手の拳を天に突き上げて、私を安心させようとした。

 

すると突然、牛が足を滑らせてしまい、転倒し、足を骨折してしまったようだった。私はそれを見た瞬間、この牛は今すぐに死んでしまうと思った。

 

案の定、牛はみるみるうちに弱っていき、それに合わせて牛の体は再び人間の姿に戻っていった。そして牛が転んだのは、どういうわけか、先ほどの小川の近くであり、牛は苦しみながら小川の方に転がっていった。

 

私はすぐにそこに駆け寄って行き、見ると小川には、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』で描かれているヴィーナスのような裸の女性が川に浮かんでおり、川に浮かぶ格好は、ミレーの作品である『オフィーリア』の女性のようだった。

 

先ほどまでは川の流れは緩やかだったのだが、徐々に流れが強くなり、ヴィーナスのような女性の体は下流ではなく、上流の方へ流されていった。

 

その場で私にできたことは、ただ裸体の女性の死体が川を流れていくのを見届けることだった。しかし私は、そこで何かを思い立ち、反対側の川岸に行く必要があると思った。

 

すると、私の横には、小中高時代の親友(YU)がいて、一緒に向こう岸に行こうと述べてくれた。早速私たちは川を渡ることにした。

 

先ほどまでは単なる小川だったのだが、川が中規模の大きさになっており、流れは急であり、しかも比較的深い。だが、川の上に頭を出している石を伝っていけば、向こう岸に行けると私たちは考えた。

 

まずは私が行けるところまで石を伝って進んでいくと、そこから先は石がなく、手詰まりの状態に陥った。そこからは川の中に入っていくしかないのかと思って川を見ると、「あっ、ティラピア(イズミダイという別名を持つ淡水魚)だ!」と私は叫んだ。

 

すると友人は、「本当だ!」と言いながら、何も気にすることなしに、川の中に入っていき、あっさりと反対側の岸にたどり着いてしまった。そして、「ちょっとこの先を見てくるね」と言って、岸の上に広がっている崖を登って行った。

 

私は川の上に一人残されてしまい、立ち往生していた。私の頭の中では、ティラピアは人間にも噛みついてくる危険な魚であると思っていたのだが、それはティラピアではなく、「ピラニア(アマゾン川などに生息する肉食の淡水魚)」であって、私は思い込みによる恐怖を感じていたのであった。

 

すると突然、私の眼の前に、巨大な鹿の化け物が現れた。それは見るからに凶暴そうであり、突然私に襲いかかってきた。私は岩陰に隠れ、なんとかその化け物に気づかれずにやり過ごすことができた。

 

とはいえ、再びあの化け物が戻ってきては困ると思ったので、川にティラピアがいようが、ピラニアがいようが関係なく、私も川に足をつけ、一気に向こう岸に渡っていこうと思った。すると、先ほどの鹿の化け物が川に足を踏み込んだおかげか、水の量が減っており、私は川に足をつけることなく、石の頭を踏んでいく形で向こう岸に行けた。

 

すると、親友が崖の上から私を呼ぶ声が聞こえてきたので、私もそちらにすぐに向かうことにした。崖を登りきる最後の箇所は自分だけの力では難しかったので、友人が手を貸してくれ、そのおかげもあって無事に崖を登りきることができた。

 

そこにはなんと、ドラゴンクエストのダンジョンのようなものがまた広がっていた。とはいえ、そこは教会の地下のような場所であり、それほど広大なダンジョンではなかった。

 

その場所はとても薄暗く、私たちは松明を灯しながら進んでいった。すると、モンスターたちの声が聞こえ始めた。

 

モンスターA:「何か匂わないか?」

 

モンスターB:「ん?何だ?」

 

モンスターA:「どこからか人間の匂いがしないか?」

 

二匹のモンスターがそのようなやり取りをしている声が聞こえてきた。親友と私は、モンスターたちにバレてはいけないと思いながらも、彼らの嗅覚の鋭さは厄介であり、実際に戦って倒すしか方法はないと思われた。

 

だが、彼らがどれだけ強いのか、そしてそもそも自分たちがどれだけ強いのかわからず、私は試しに火の呪文を使って、その場に火事を起こし、まずはモンスターの姿を確認することにした。すると駆けつけてきた二体のモンスターの片方は、手に小さな鍋を持っており、悠長にもスープかなんかを作っている最中のようだった。

 

彼らの姿を見た瞬間に、「弱そうだ」と思い、私たちは彼らと戦うまでもないと思って、モンスターたちと遭遇しないようにダンジョンを抜け出して行った。無事にダンジョンを抜けると、そこには人間が住む町が広がっていた。

 

そこは高級住宅街のようであり、道は綺麗に整備され、道の横には南国の植物が植えられていた。友人と私はなぜかそこで一台の高級車に乗っており、窓を開けながら住宅街の中を走って行った。

 

すると、一軒のレストランを見つけ、そこで昼食を摂ろうということになった。厳密には、昼食を摂るというよりも、そのレストランの中がどのような雰囲気なのかを確かめたかったのである。

 

レストランに入ってみると、会計をする場所の棚に、ココナッツオイルに浸されたイワシが売られていた。すると食事を済ませた一人の日系アメリカ人が、「これは美味しわよ。うちの冷蔵庫には常にストックがあるんだから」と、私に向かって述べた。

 

その商品は珍しく思われたが、どこかでそれを目にしたことがあるように思った。親友と私は、せっかくなので、レストランの雰囲気を確認するだけではなく、何か一品注文してみようと思った。

 

席に案内され、メニュー表を眺めると、私の目にとまったのは「tsunahiki(綱引き)」という名の寿司であった。親友と私は、それがどのような寿司なのかわからず大変興味を持った。

 

メニューはなぜか日本円で表示されており、それは一貫2400円ほどする。私はその寿司をお互いに二貫注文してみようと持ちかけたが、友人は「リスクヘッジのために、どちらかが二貫注文し、一つずつ分け、もう一品は別のものにしよう」と述べた。

 

友人のその指摘を受けて、確かにそれは証券投資論における基本的な考え方であり、ポートフォリオを組むことは大切かもしれない、と笑いながら考えていた。フローニンゲン:2019/4/22(月)07:26

 

No.1883: Rhythm in the Pleasant Evening

 

I felt fulfillment today, too. 

 

I’ll end today’s music composition. I look forward to tomorrow’s practice.  Groningen, 17:09, Tuesday, 4/23/2019

 

4214. 涅槃に至る仮眠中の体験

 

時刻は午後の二時半を迎えた。今日も晴天が広がっており、この上なく良い天気だ。

 

つい今しがた仮眠を取り終え、今はハーブティーが完成するのを待っている最中である。ハーブティーが出来上がるのを待っている間に、先ほどの仮眠中の体験を書き留めておきたい。

 

今日も印象に残るうっすらとしたビジョンを見ていた。特に印象に残っているものを真っ先に挙げるとするならば、太陽の降り注ぐ校舎のすぐそばを私は歩いていて、これから何かしらの授業に参加するようだった。

 

今から授業が始まろうとしているにもかかわらず、私は焦る様子は全くなく、むしろ授業に出るよりも、校舎の陽だまりで日向ぼっこをしていたいと思った。靴箱のある場所から中庭を見ると、そこに見知らぬヒッピー風の外国人がいて、私はその人物に関心を持った。

 

ちょっとその男性に話しかけてみるかと思った私はおもむろにその人に近づいていくと、その男性は私を一瞥し、「ここに座りたまえ」とでも言いたげな表情を浮かべていた。私はそのメッセージを察し、彼に声をかけることなく、彼のそばの陽だまりに腰掛けた。

 

地べたに腰掛けると、彼と同じように座禅を組み、呼吸を穏やかにし、呼吸を整えた。すると突然、私の意識は一気に深まり、意識がどんどんと拡張していき、涅槃の状態に至った。

 

するとビジョン中の意識が涅槃の状態になっていたのみならず、その意識を眺めている意識も涅槃の状態になり、二重の涅槃状態に自分が包まれていた。まずはそうした体験が印象に残っている。

 

涅槃に向かっていく瞬間の身体意識は、なんとも言えない安堵感と幸福感に包まれており、身体がふわっと軽くなるような感覚があったのを覚えている。また、呼吸が極度に深まる絶対的な地点というのも知覚していた。

 

ちょうど昨日あたりに、知人のブログを読んでいた時に、呼吸に関して興味深い記述を見かけた。その方のブログに書かれていたように、「息」というのは「自」と「心」という漢字が組み合わさったものであり、呼吸とはすなわち自らの心を反映したものに他ならないのだ。

 

そうした特性を持つ呼吸を真に深めていったとき、自己の意識が極度に深まるというのも非常に納得がいくことである。

 

もう一つ印象に残っているビジョンの中で、私は見知らぬ家の浴室にいた。厳密には、三歳ぐらいの娘と一緒にお風呂に入っていた。

 

娘と遊びながらお風呂に入っていると、突然娘の表情が変わり、どうやらお風呂の中でおもらしをしてしまったようだ。それは大便の方だったため、私は急いで対処しようとし始めた。

 

なぜだか湯船の上には布団が敷かれており、布団が汚物で汚れないように、まずは布団を浴槽から出し、そこから掃除を始めようと思った。娘は幼いながらも申し訳なく感じているのか、少しばかりベソをかいている。

 

私は娘に「気にすることはない」と言葉をかけながら慰め、その間に作業を進めていこうとした。すると、妻らしき人物が浴室に現れ、掃除を手伝ってくれることになった。

 

布団を湯船から上げて、娘の体をもう一度洗うことが自分の役割となり、湯船の掃除は妻らしき人物が行うことになった。そのようなビジョンを見ていた。

 

仮眠中のビジョンというのはやはり興味深く、一つ一つのシンボルには様々な意味がありそうだ。その他にもより断片的なビジョンを見ていたのだが、それらについては忘れてしまっている。フローニンゲン:2019/4/22(月)14:41

 

4215. 夏のような午後の雑記

 

今、ウォルター・ピストンの“Counterpoint (1947)”の再読を終えた。本書を通じて、対位法に関してまた新たな観点をいくつも得た。

 

対位法一つを取ってみても、それは非常に奥深く、さらなる学習と実践を積み重ねていかなければ、対位法の理解が深まっていかないだろうし、それを実際の作曲実践で思うように活用できないだろう。今後も精進が必要となる。

 

今後の学習では、曲における垂直構造を司るハーモニーの学習と、水平構造を司るメロディーの学習により焦点を当てていく。曲に垂直・水平の構造があるというのは、まさに人間の発達と同様であり、曲は垂直にも水平にも発達していく特性を持っている。

 

時刻は午後三時を迎え、今の気温はなんと25度と、フローニンゲンの夏の気温である。燦然と輝く太陽の光が地上に降り注いでおり、それでいて時の流れはまろやかだ。

 

今日はオランダの祝日ということもあってか、いつもの月曜日よりも平穏な感じがする。

 

早朝の日記では、排水管の詰まりと身体の消化器官の詰まりの話題について書いていた。この二ヶ月の間に、三日間の断食と七日間の断食を行い、食生活を根本的に見直したことにより、身体の排水管としての役割を果たす消化器官が随分と綺麗になったように感じる。

 

どこか巨大かつ透き通った一本のエネルギーが身体を貫いている感じがある。おそらく実際に消化器官が綺麗になり、本来の機能を十分発揮できるようになったがゆえに、こうした身体感覚が生まれ、心身の状態が極めて良好になったのだと思われる。

 

物理的次元の身体と身体意識の繋がり、そしてそれらと精神との繋がりに改めて驚かされる。

 

先ほど仮眠中のビジョンについて書き留めていたが、昨日のビジョンについて思い返してみると、日本と米国での生活のみならず、オランダでの生活で得られた様々な体験が自分の内側で混ざり合い始めていることに気づく。

 

自分の無意識の領域においてそのようなことがゆっくりと進行しており、これは時の流れに晒し、緩やかに統合を図っていくことが求められるだろう。

 

いつも自分に言い聞かせていることだが、そのプロセスを焦ってはならない。発達上における統合化は兎にも角にもゆっくりと進めていく。

 

今日はこれから、過去の日記を少しばかり編集し、夕方に一度作曲実践をしたい。その際には、スクリャービンに範を求めたいと思う。

 

今日は早朝からいつものように、非常に集中して自分の取り組みに打ち込むことができている。集中力を削いでしまうメールの確認や、その他の煩わしいことには極力関与しないようにしていることがその主たる要因だろう。

 

メールの返信に関しては、もちろん仕事上の例外はあるが、基本的には夕食後から八時までをめどに返信作業に当たる。八時までに返信できなかったものは、翌日以降に回し、返信の方法は先入先出法を採用する。

 

今後も基本的にそのようにメールと付き合うことによって、早朝から夕食までの時間を自分のライフワークに思う存分充てたいと思う。フローニンゲン:2019/4/22(月)15:27

 

4月22日(月)に生まれた曲たち

Op.1069 空中王宮の境界線

Op.1070 新緑の息吹

Op.1071 日蘭の心

Op.1072 しめやかな時

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過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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