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4185-4193:フローニンゲンからの便り 2019年4月19日(金)

April 21, 2019

タイトル一覧

4185. 七日間の断食を終えて

4186. フローニンゲンという町で生きて

4187. 七日間の断食明けの夢

4188. 意思と美と共に

4189. ポルトガル人の作曲家への関心:今朝方の夢の続き

4190. 夢に劣らないほどに鮮明な仮眠中のビジョン

4191. 心身及び意識の浄化とビジョン

4192. 生命の大いなる恵みへの感謝の念

4193. 天からの恵みとしての食事:欧米での七年間の生活を振り返って

 

4185. 七日間の断食を終えて

 

昨日の夕方に七日間の断食を終えて、一夜が明けた。今朝は三時過ぎに起床し、断食中と変わらずに心身の調子が良い。むしろ、断食を終えて、新たな心身を獲得したことによる爽快さがあると言った方が正しいかもしれない。

 

昨日は昼過ぎに買い物に出かけ、夕方から梅流しを食べた。前回初めて三日間の断食をし、梅流しを食べた際には、一気にデトックスをするかのように宿便がすぐに何度も出たのだが、今回は予想に反して、そのようなことが起こらなかった。

 

ひょっとすると、七日間の断食の途中ですでに宿便が大量に出ることがあり、今回は期間が長かったために、昨日梅流しを食べた後に何も起こらなかったのかもしれない。いずれにせよ、昨日断食を終えたことによって、今日からは新たな世界が始まるような感覚にある。

 

私たちは毎晩生まれ変わっていることを考えると、毎日新たな世界を体験しながら生きていると言えるのだが、断食をしてみると、心身の感覚が大きく変わるためか、新たな世界を生きるという感覚が増すのかもしれない。

 

来週末からはバルセロナとリスボンに旅行に出かけるため、今日からそこまでの期間は回復期として、食べ物には特に気をつけて過ごそうと思う。とはいえ、一日一食生活を始めてからは特に食べ物には気をつけるようになっており、オーガニックの果物と野菜を中心にし、それに合わせて有機豆腐を食べることを今日から再開させることになるだろう。

 

今日は市場が確実に開いている日なので、正午過ぎに散歩がてら市場に行き、まずは果物・野菜屋で目当ての食べ物を購入したい。今日は必ずしいたけを購入したい。というのも、今日もまた天気が本当に良いらしく、しいたけを天日干ししたいからだ。

 

ここ最近は、緑黄色野菜の王様と呼ばれるケールをあまり見かけることがなく残念であり、店の人に聞くと、どうやら旬を過ぎてしまったようで、なかなか売りに出されないようになってしまったようだ。ケールの旬は、秋から冬にかけてとのことであり、ここからはもうあまり良いケールを入手できないのだろうか。

 

今日もまたケールがあるかをチェックしてみよう。なければ、先日購入し、驚くほどの栄養素を持っていた水菜を購入しようと思う。

 

果物と野菜を十分に購入した後、その店のほど近くに出ているナッツ専門の出店に行く。そこでは、アーモンドとくるみを150gずつ購入し、今日からはそれらを野菜サラダと和えることにする。

 

街の市場には、以前まで私が好んで食べていたチーズを専門に扱う店が何軒かあるのだが、牛乳・チーズ・ヨーグルトといった乳製品は、日本の歴史を遡ると、基本的には日本人の身体(特に腸)に合わない食べ物であることがわかり、魚以外の肉類と同様に、これからも控えていく。

 

この三年間、オランダの名産品であるチーズとヨーグルトを毎日摂取していたのだが、結局これが自分の腸内環境をあまり良いものにしていなかったことに気づき、最初購入を止めたときには違和感があったが、むしろそれ以降、調子が良くなっている。

 

チーズやヨーグルトは発酵食品であり、腸に良いということが盛んに宣伝されているが、海藻を消化する菌を腸内に持たない外国人が多いのと同様に、チーズやヨーグルトを消化する菌を日本人は腸内にあまり持っていないのではないかと思われ、私にとってはそれらの食品は身体に良い影響を及ぼしていなかったことが観察を通じてわかったのである。

 

先日読んだ “Prof. Arnold Ehret's Mucusless Diet Healing System: Annotated, Revised, and Edited by Prof. Spira (2014)”と“Prof. Arnold Ehret's Rational Fasting for Physical, Mental and Spiritual Rejuvenation: Introduced and Edited by Prof. Spira (2014)”の中で言及されていたのだが、乳製品は腸内に好ましくないスライムを形成しやすいことには驚かされた。

 

読了後、色々と調べていると、アメリカ人の女性が断食後に緑色の気持ちの悪いスライムを宿便として出し、それを紹介している動画を見たときには、そうしたスライムが腸内に形成されることに驚かされた。このようなスライムが形成されてしまえば、第二の脳と呼ばれる腸が健全に働かず、脳の機能および“gut feeling”と呼ばれる直感が働かなくなるのも無理はないと思う。

 

チーズやヨーグルトをこれから全く食べないかというとそうではなく、自分から購入することは一切ないが、一年間に数回、外食した際にそれらの食材が使われていたら食べるぐらいに留める。チーズやヨーグルトに代わる発酵食品などいくらでもあり、私にとっては味噌が最善のものだ。

 

今この瞬間も、起床直後の一杯の味噌汁を堪能している。フローニンゲン:2019/4/19(金)04:28

 

No.1870: Morning Comfort

 

Now it is 8AM on Saturday. 

 

This time period makes me feel that the world is being embraced by just comfort. Groningen, 08:02, Saturday, 4/20/2019

 

4186. フローニンゲンという町で生きて

 

時刻は早朝の四時半を迎えた。今朝もまた、とても綺麗な満月が空に浮かんでいる。

 

それを眺めながら、先ほどは起床直後の習慣であるヨガの実践を行っていた。月からエネルギーをもらいながら、身体を少しずつ目覚めさせていくことはとても心地良かった。

 

今朝は私の方が小鳥たちよりも早く起きたようであり、今ようやく一羽目の早起きな小鳥が鳴き声を上げ始めた。つい数日前までは五時ぐらいから小鳥が鳴き声を上げ始めていたことを考えると、随分と早くから鳴くようになったのだと驚かされる。

 

もちろん、これは嬉しい驚きだ。こうした驚きを実感できるのは早起きをしているからだろう。

 

今日はなにやらオランダの祝日らしく、それは公式のものではないそうだが、今日の街の中心部は活気付きそうである。基本的に私は人混みを避けて生活をしているが、今日は街の中心部の市場に買い物に出かけたいため、中心部の活気を味わってみるのも悪くないだろう。

 

昨日、散歩の道をいつもとは変えてぶらぶらと歩いていると、一軒のお洒落な雑貨屋を見つけたことを昨日の日記に書き留めていたように思う。まだ通ったことのない道を歩きながら、私はフローニンゲンという街の良さを新たに発見したような感覚に陥っていた。

 

そして、私は純粋にこの街を愛していることがわかったのである。この街の落ち着いた生活と住みやすさには心底感謝しており、もうあまり他の場所に住みたくなくなってしまうほどである。

 

もちろん、以前の日記で書き留めたように、人は人生の成熟過程において、世界のある場所から呼ばれるという現象が起こり、住環境を変えていくことはほぼ必然かと思われるが、とにかく後一年はフローニンゲンに残れることになって幸いである。

 

来年の今頃もまだフローニンゲンにいることができるというのは嬉しい限りである。来年の夏からは、今のところはデン・ハーグに引っ越すことを考えているが、それもどうなるかはその時になってみなければわからないことである。

 

とにかく今言えるのは、私はここから五年間ぐらいはオランダの外で生活をしないだろうということだ。フローニンゲンという北オランダで四年間過ごした後に、南オランダと言ってもいいデン・ハーグで生活を始めることは、また何かを私にもたらすだろう。

 

満月がちょうど書斎の窓からまっすぐのところに見える。今この瞬間の書斎には、スクリャービンの力強くも美しい協奏曲が流れており、どこか満月の見える朝に合う。

 

今日から少し、スクリャービンとドビュッシーの楽譜を中心に観賞的分析をしてみようと思っている。スクリャービンに関しては、ぜひともモスクワにある彼の博物館を訪れたいと思う。

 

その思いが昨日も強くなり、モスクワについて少しばかり調べていた。モスクワに旅行をするのであれば、それは日本で言えば八月のお盆の時期にしようかと思っている。

 

今年は一ヶ月に一回、あるいは一ヶ月半に一回ほどのペースで旅行をしようと思っており、仮にデン・ハーグに引っ越せば、アムステルダム空港へのアクセスがより良くなるため、来年仮にデン・ハーグに引っ越せば、そこからはさらに旅行がしやすくなるだろう。そんな期待感に満ちた朝である。フローニンゲン:2019/4/19(金)04:47

 

No.1871: A Small Shrine of Spring

 

A gentle atmosphere of spring is creating a small shrine. Groningen, 11:18, Saturday, 4/20/2019

 

4187. 七日間の断食明けの夢

 

今、時刻はゆっくりと午前五時に向かっている。断食を終えた夜に見た夢について、まだそれを振り返っていなかったので、覚えている範囲のことを書き留めておきたい。

 

フロイトが指摘するように、夢について振り返ることは自分の無意識を知る最良の道であるから、いつものように夢を振り返って行くことにする。

 

夢の中で私は、実際に通っていた中学校の体育館の中でバスケの練習をしていた。そこにはなぜか、2000年代に活躍した元ブラジル人の日本人に帰化したサッカー選手がいて、その方を交えてバスケの練習をしていたのである。

 

その方と私は幾分年齢が離れているのだが、その場においては同学年のような感覚があり、言葉も接し方も友人に対するものと変わらないような形でその方に話しかけていた。この夢の中でもやはり、私は中学時代の絶頂期のようにはシュートが決まらず、もどかしさを感じていることが何度かあった。

 

一学年上の副キャプテンを務めていた先輩と、少しばかり趣向を変えたシュート練習をしていた際にも、自分のシュートが思っているほどに決まらないことにもどかしさを感じていたのを覚えている。

 

次の夢の場面では、私は野球グラウンドにいた。そこでソフトボールの遊び程度のゲームをこれからすることになっていた。どうやらこのグラウンドは日本ではなく、アメリカかどこかにあるらしかった。

 

ピッチャーは、どこかの会社でマネージャー勤めていそうな中年のアメリカ人であった。彼は太っているわけではなかったが、比較的体格はいい方だと思う。

 

そのゲームに私は一番バッターで登場した。私は本来右打ちなのだが、なぜかそのゲームでは最初の数打席を左打ちから入った。

 

ピッチャーがストライクゾーンに入る球を全く投げてこないないので、私は自分の左打ちがいかほどのものなのかがわからない状態が続いた。右のバッターボックスに立てば少しはストライクゾーンに入る球が来るだろうかと思い、私は右打ちに変えてみた。

 

すると、ストライクゾーンには入っていないが、なんとか打てそうな球が来たのでバットを振ると、ヒット性の当たりが出た。そのように思ったが、それはファールとなり、次の球がボールだったので、結局私はフォアボールで出塁することになった。

 

ソフトボールでは盗塁することができないため、私はファーストベースに足をしっかりとつけて、次のバッターの登場を待っていた。すると、そこには前回のロシアワールドカップで大活躍をした選手が現れた。

 

その選手の専門はサッカーだが、どうやら野球もできるのかと思ったが、バッティングはあまり得意ではないらしく、一球見逃した後に、なぜだか私が待っている一塁にやってきて、私に笑顔で話しかけてきた。すると、代走をしたいということだったので、私はその選手と代り、一塁から離れた。

 

そこで夢の場面が変わった。次の夢の場面では、私は駅のプラットホームにいた。

 

プラットホームにはすでに列車が到着していたが、発車する様子は一向にない。プラットホームの上では、私を含め、中学時代の部活のメンバーがほぼ全員揃っており、そこには一学年下、二学年下の後輩も多くいた。

 

そこで私たちは整列をし、列車に乗る何らかの集団の応援をしていた。列車の中には何かの代表選手がいるようであったが、彼らが何者なのかは覚えていない。

 

私はプラットホーム上で応援する一人だったのだが、ふと横を見ると、小中高時代の女性の友人(KF)がそこに立っていて、「加藤も本当はあっち側の人間だったのにね」と一言述べた。それに対して私は、「怪我をしてからは、なかなか本調子を取り戻すのは難しいよ」と述べた。

 

そのようなやり取りをした後、列車のドアが静かに閉まり、列車はゆっくりと東へ向かっていった。フローニンゲン:2019/4/19(金)05:16

 

No.1872: In Nameless Days

 

The world is opening anew and unveiling afresh. Groningen, 13:41, Saturday, 4/20/2019

 

4188. 意思と美と共に

 

時刻は午前五時半に近づきつつある。この時間帯も、満月がくっきりと見える。その凜とした佇まいには、不思議な恍惚感を引き起こす何かがある。

 

この分だと、あと数時間は満月を拝むことができそうだ。今日もまた、日記の執筆、作曲実践、読書に十分な時間を充てていきたい。

 

真に自分の肥やしになってくれるような書物だけを読みながら、自分の言葉と感覚を育んでいき、それを日記や曲の形にしていく。最近気づくのは、それらの創造行為は、自分のためでもなく、誰かのためでもなく、ある意味無我の状態で行っているということだ。

 

そうした実践が結果として、自己及び他者の何かに資するものになっていくのではないかと思えてくる。とにかくこれからも水の如く淡々と、日記の執筆と作曲実践を現在のように進めていこうと思っている。

 

「感覚の中になかったものは全て、悟性の中にはない」と述べた中世のある学僧の言葉が印象に残っている。最近私は、その意味が経験として徐々に掴めてきているように思う。

 

特に欧州で生活を始めてからは、その意味が体験と紐づく形で把握されるようになってきている。もちろん、感覚だけに頼り、感覚を棚上げするような浅薄な態度で生きたくはないが、それでも私たちのほぼ全ての活動の出発地点には感覚があるように思える。

 

そうした感覚をいかに育み、生まれた感覚をいかに掴んでいくか。そしてさらには、時にそうした感覚を手放し、そこからまた新たな質を持った感覚にいかに向かっていくか。そうしたことは自己を深めていく際の要になるだろう。

 

七日間の断食の後半では、シュタイナーの書籍やハイデガーの書籍を含め、随分と多くの書籍を読むことができた。そうした集中的な読書の後にふと読みたくなるのが、日本語で書かれた日記であり、昨日は森有正先生の日記を読んでいた。

 

その中で、「美しいと感じるものは、その人にとっていつもはじめにくるものであって、その中にその人の進むべき道が先取りされている」という趣旨の言葉が私を捕まえた。ここでもやはり、私たちの出発点が感覚にあるということが示唆されているように思う。

 

しかもその感覚は、美しさを見出すという感覚だ。よくよく振り返ってみると、自分の人生における重要な意思決定というのは、美しさを基準にしてなされていたのではないかと思った。

 

ここで言う美しさというのは、あえて形而上学的な表現で言えば、やはり魂の喜びと結びつくようなものだと言っていいように思う。自分の魂が喜んでいる時には、そこに自分なりに見出した美しさがある。

 

これは自分が何らかの取り組みを選択する時でもそうであるし、どこかの国に旅行に行く際にも、そして生活拠点を変える際にも、ありとあらゆる自分の意思的な選択の中に見出すことができる現象だ。人生は、意思と美と共にある。そんなことを思う。

 

この世界に満ち溢れているまだ見ぬ美を見出すために、今日もまた自分の取り組みを自分のペースで進めていく。その先に、新しい感覚が生まれ、その感覚が新たな出発点となって、そこからまた私は新しい美をこの世界に見出すだろう。フローニンゲン:2019/4/19(金)05:36

 

4189. ポルトガル人の作曲家への関心:今朝方の夢の続き

 

呼吸を忘れてしまいそうなほどに穏やかな朝が広がっている。時刻は午前六時半を迎え、起床してから三時間ほどが過ぎた。

 

つい先ほどまで満月が空に見えていたが、今はもう朝日が昇り、満月は見えなくなった。それにしてもここ二日間は美しい満月を眺めることができており、とても嬉しく思う。

 

仮に月に生命がいなくとも、月そのものが生命であると思わせてくれるほどの輝きであった。

 

つい先ほど、ハイドンに範を求めて作曲実践をし、一曲ほど曲を作った。改めて、ハイドンの音楽の魅力を実感する。

 

そこにある魅力がいかようなものなのかについては、今後も自らの感覚を頼りにして探究を続け、自分なりの言葉を見出したい。また、それ以上に行いたいのは、ハイドンの魅力を自分の曲として表現することである。

 

私はこのようにして、優れた作曲家の魅力を自分の書法を通じて曲として形にしていければと思う。短い一遍の詩を詠むような曲を作っていきたい。

 

ハイドンの楽譜は、来週末からのバルセロナ・リスボン旅行に持参しようと思う。毎回旅行の際にはどの作曲家の楽譜を持っていくかは嬉しい悩みであるが、今回はハイドンが良さそうに思える。

 

今手元にはスペインの作曲家の楽譜が一冊ほどあるが、それは少々重たいので、それを持っていくことはないだろう。そこでふと、ポルトガル人の偉大な作曲家には誰がいるのかが気になった。

 

調べてみると、ルネサンス時代から現代に至るまで、各時代には優れた作曲家がいるようだが、どの作曲家もあまり名前を聞いたことがない。今回せっかくポルトガルに足を運ぶのであるから、今後はポルトガルの作曲家にも関心を持ってみようと思う。

 

ここ最近は、調性のある曲の中に教会旋法を使うことが多くなっているため、教会音楽が盛んであった時期のポルトガル人作曲家に注目をしてみるのも良いかもしれない。

 

それにしても、早朝に漂う至福さに溶け出してしまいそうだ。空はますます青くなっていき、早朝の爽やかさを醸し出している。

 

起床直後は寒くて窓を開けられなかったが、つい先ほど窓を開け、今、新鮮な空気を部屋に取り入れている。そうした中で、今朝方の夢の続きをふと思い出した。

 

夢の中で私は、小さな診療室のような場所の中にいた。私は別に具合が悪いわけではなかったが、そこにいるスポーツドクターと自分の身体の調子を確認するために私はそこにいた。

 

ドクターと少しばかり会話をしていると、とびきり明るい声を発しながら部屋に入ってくる人物の姿があった。見ると、元サッカー日本代表のストライカーで、ムードメーカーでもあった往年の名選手がそこにいた。

 

その選手は一度現役を引退したが、今は再び現役に戻り、もう50歳を過ぎている。その選手が私の横に置いてあったストレッチマシーンをいきなり使い始め、とんでもなく柔軟な身体を披露した。

 

その選手は絶えず冗談を交えながら、とても陽気にストレッチを続け、その場にいたスポーツドクターと私は少し唖然としながらも、その選手の陽気さから元気を与えてもらっているような感覚になった。そのような夢の場面があったのを覚えている。

 

夢の中でその選手が見せた体の柔らかさは尋常ではなく、開脚をした際にはバレリーナのようなしなやかさを持っていたことを今でも驚く。フローニンゲン:2019/4/19(金)06:58

 

4190. 夢に劣らないほどに鮮明な仮眠中のビジョン

 

今朝は三時過ぎに起床したこともあり、先ほど仮眠を取って、つい今しがた仮眠から目覚めた。仮眠からいよいよ目覚めてくる瞬間を迎える直前に、私は直感的に、仮眠の中で知覚されている事柄が夢にも劣らないか、あるいは夢以上に強烈な印象を残すことに気づいた。

 

先ほど25分間ほどの仮眠の中で知覚されていたことは実に多岐にわたり、夢と同様に脈絡はないのだが、知覚されたものを覚えている範囲で書き留めておきたい。

 

仮眠中のビジョンの一つ目として現れたのは、得体の知れない幾何学模様であった。それは突然現れ、微妙な振動をしながら徐々に形を変えていき、夢の世界の扉を開くかのように、そこからは夢のようなビジョンが展開され始めた。

 

最初に何を見ていたのかは定かではないが、私は小中学校時代に過ごしていた社宅と、今住んでいるオランダの街が融合したような場所にいた。社宅近辺を歩いている時、近くに社宅があるのがわかったが、果たしてここが日本なのかオランダなのか全く区別ができなくなってしまい、しかも今自分はどこの国に住んでいるのかもわからなくなってしまった。

 

現実世界の今日と同じように辺りには太陽の光が燦然と降り注いでいた。この団地には何棟もの社宅が建っていたが、私が住んでいた当時から、誰も住んでいない棟もあった。

 

団地の国道側には鬱蒼とした森のような木々が植えられていて、私は比較的人が住んでいる棟の近くにある入り口から、敷地内に入っていった。最初のビジョンはそのような内容だった。

 

次のビジョンは、その社宅と目と鼻の先にある中学校のグラウンドとして現れた。私はグラウンドで、友人三、四人とサッカーテニスをしていた。

 

グラウンドに足でコートの線を引き、そこからサッカーテニスを始めた。すると、友人の一人(KM)がじゃんけんに負けて、一番ランクの低いところからゲームを始めなければいけないことを嘆いていたが、彼は比較的この遊びが得意なので、私は何も問題ないだろうと思っていた。

 

しばらくそのゲームに興じていると、小中高時代の友人であり、高校のサッカー部ではキーパーを務めていた友人(HY)が、キーパーの練習をしたいから、私にキッカーを務めてくれとお願いをしてきた。私は何にも増して、一見単調に思えるシュート練習が好きであり、彼の申し出を喜んで引き受けた。

 

友人と私はスパイクに履き替え、いざ練習を始めた。ボールを一球一球蹴るごとに、自分の足の甲にはなんとも言えない快楽的感覚が残り、サッカーボールを蹴る快感が足の甲から脳へと伝わって来る。私はあまりにも恍惚的にボールを蹴っていたためか、自分の右足のスパイクが壊れていることになかなか気がつかなかった。

 

そして、校舎の方をふと眺めると、そこからは全学年の多くの生徒たちが私たちの練習風景を熱心に見ていることに気づいたのである。その光景を見たとき、私はサッカーの日本代表選手の一人であることに気づき、そういえば今夜から代表の試合のための合宿が始まることを思い出した。

 

出発の時間までもう少しあるから、友人と引き続き練習をしたいと思っていたところ、左足のスパイクも壊れており、結局私は二足とも新しいものに取り替える必要があった。すると友人が、「はい、これ」と言って、新品のスパイクを私の方に放り投げてくれた。

 

私は靴下がグラウンドの土で汚れないように注意し、念のため靴下の汚れを払ってから新しいスパイクに履き替えた。そこから私は、重厚なシュートを友人に向かって蹴り始めたが、実は私は手加減をしてシュートを打っていた。

 

ビジョンはそこからも動いていき、ヨーロッパのどこか風光明媚な街に私はいた。季節は夏のようであり、常夏の雰囲気が辺りを包んでいた。

 

しかしだからと言って汗をかくような暑さでもなく、とても爽やかな気候だった。街全体が、湖面に照らされた光のようにきらめいていたのを覚えている。

 

最後に見たビジョンは、私が幼少時代に(大学一年生の頃にも)やっていたドラゴンクエストのゲームのダンジョンが、現実世界にそのまま再現されたような場所にいた。周りにはレンガ造りのブロックが積み上げられており、足元の近くには宝箱があった。

 

私はこのダンジョンの中で冒険をしている一人のキャラクターのようであり、なぜだか途轍もない力を持っていた。そこで私は、高校時代に影の薄かった友人と遭遇した。

 

彼はそのダンジョン内における敵であり、私の後ろには、背後霊のように、「はぐれメタル」というキャラクターが仲間として私を支えてくれていた。そのはぐれメタルは、尋常ではない素早さを持っており、誰よりも早くアクションが行えた。

 

はぐれメタルは、敵として登場した友人を凍らせる呪文を使い、友人は見事に凍ったが、友人は私への攻撃の一環なのか、私の下腹部に手を当て、何か力を込めた。その瞬間、私はあと数秒で目覚ましのゴルトベルク変奏曲が聞こえてくると思い、実際にその数秒後にバッハのゴルトベルク変奏曲が高らかと鳴り始めた。

 

ビジョンから目覚めてみると、下腹部にどっしりとした重厚なものを感じている自分がいた。フローニンゲン:2019/4/19(金)12:37

 

4191. 心身及び意識の浄化とビジョン

 

つい今しがた、先ほど仮眠中に見ていた一連のビジョンを書き留めた。書き終えて見て気がつくのは、やはりどのビジョンも夢に劣らないほどに啓示的であるということだった。

 

実際には、あと一つか二つほどビジョンがあったように思うが、それはもうビジョンを生み出す根源的な世界の中に引き返してしまっている。ビジョンも寄せては返す波のようなものであり、立ち現れたビジョンは泡沫のように、それは消えてまた元の意識という名の大海に帰っていく。

 

人間の意識とは本当に不思議なものである。様々な記憶の合成と、記憶の合成だけでは片付けられない何かが相互作用をして、夢やビジョンを作り上げていく。

 

一日一食生活、そして断食を始めたことによって、心身が浄化されただけではなく、意識そのものが浄化され始めているのではないかと思う。それがこうも鮮明な夢やビジョンを私に見させているのではないかと思うのだ。

 

逆に言えば、こうした鮮明な夢やビジョンは、心身を浄化し、意識をクリアなものにしていけば、誰しもが見えるものなのではないかと思う。

 

今、意識を「クリア」にすると書いたが、アメリカの思想家のケン・ウィルバーが意識の最も高度な段階を「クリアー・ライト」と命名していることをふと思い出した——厳密には、この名称の元になっている意識の発達モデルはシュリ・オーロビンドのものだが。

 

意識がますます明晰なものになり、それに伴って、夢やビジョンが鮮明化していくというのは、何か抽象的な物語ではなく、今の私にとっては個人的な体験を伴う真実味のあるものとして理解され始めている。

 

確かに断食は昨日に終えたが、今日からもまだ回復期が続き、今後も常に食に対して細心の注意を払いながら心身の浄化と健全化を図っていこうとしているため、夢やビジョンはますます鮮明なものになっていくのではないかと思う。

 

夢についてはこれまでも継続的に日記を書いていたが、ビジョンについてはあまり日記を書いていなかったように思うため、今後はビジョンを見る都度、それを書き留めていきたいと思う。昨日と今日と、ビジョンの奥深さには本当に驚かされている。

 

今日はこれから、街の中心部の市場に行き、買い物をしたい。散歩がてら歩くコースは昨日と同じものにし、同じ道を歩きながらも新たな発見をしたい。

 

まさに人生において、同じ道を歩いているようでいて、そこには絶えず新たなものが広がっており、そこから新たな気づきや発見を私たちが得ることができるように、今日の散歩からも新たな何かを汲み取っていく。

 

今日の買い物で購入するものはすでに決まっており、しいたけ、リンゴ、イチゴ(あるいはイチゴに代わる美味しそうな果物)、トマト、さつまいも、玉ねぎ、ブロッコリー、ケール(緑黄色野菜の王様は今日置かれているだろうか)、水菜、人参である。その他にも美味しそうな野菜があれば、適宜購入したい。

 

その後、オーガニックのナッツ専門店に行き——ナッツを取り扱っている店はその他にもあるが、それらの店のナッツはオーガニックではない——、アーモンドとくるみをそれぞれ150gずつ購入する。それらを購入すれば今日の買い物はおしまいであり、あとは市場からゆっくりと自宅に戻ってこようと思う。

 

今日は本当に素晴らしい天気であるから、散歩するのも気持ち良さそうだ。フローニンゲン:2019/4/19(金)12:55

 

4192. 生命の大いなる恵みへの感謝の念

 

時刻は午後の三時に近づいている。今日は本当に良い天気だ。つい先ほど、街の中心部の市場に足を運んできたのだが、中心部の人混みは尋常ではなかった。

 

フローニンゲンは、アムステルダムなどのオランダの主要都市に比べて小さいのだが、今日はオランダの祝日であったからか、中心部は大量の人でごった返していた。とはいえ、今日の陽気な天気も相まって、無数の人たちから発せられるエネルギーはとても活力に満ちており、むしろ肯定的な感情を私にもたらした。

 

カフェやレストランの外で太陽の光を浴びながら食事を楽しむ人たちの表情は幸福感に満ちており、そうした姿を見ているこちらも幸福感を味わっていた。

 

市場に到着すると、真っ先に果物・野菜専門の出店に向かった。そこで目当ての野菜を全て購入し、店員の方に話を聞いてみると、やはり昨日の木曜日はこの市場に来ていないということであり、フローニンゲンの市場に来ているのは、火曜日・金曜日・土曜日の三日間とのことであった。

 

これは他の出店にも当てはまることであるため、これらの曜日はしっかりと覚えておこうと思う。十分な量の果物と野菜を購入した後、オーガニックナッツを専門に扱っている出店で、ローストされたアーモンドとくるみを購入した。

 

前回は、生でそれらのナッツを購入し、生のままそれらを食べたのだが、生のままでナッツ類を食べると、ナッツが外敵から身を守るための特殊な分泌物質を身体に取り入れてしまうことになるため、ナッツは基本的に生では食べないほうがいいということを知った。そのため、今日はローストされたものを購入した。

 

購入したナッツは、今日の野菜サラダに和えて食べる。玄米味噌とナッツを和えた新鮮な野菜で作ったサラダを食べられることは、今から本当に楽しみであり、食後のデザートとして食べる、茹でたサツマイモの甘さを想像するだけで、よだれが出てきてしまいそうだ。

 

買い物から帰ってきた私は、時刻はまだ二時過ぎであったが、居ても立っても居られなくなり、購入したイチゴとリンゴを食べることにした。購入したオーガニックのイチゴを食べた時、生命の大いなる恵みを実感し、それを享受して生きていることの爆発的歓喜を味わった。

 

これは大げさでもなんでもなく、本当にそのようにしか表現できない類の体験であった。七日間、実質上は八日に近く固形物を何も食べなかった私は、昨日に梅流しを食べたものの、固形物を固形物として食べるのは先ほどのイチゴが最初であり、その味に大きな感動を受けたのである。

 

イチゴの次に食べたリンゴもまた美味であり、溢れんばかりの果汁は身体全体を潤していった。

 

断食を実践したことによって得られる効果やその意義については、これまでの日記で書き留めていたように思うが、断食はそれらの効果や意義を超えて、何よりも生命をいただくということへの最大限の感謝の念を私たちに抱かせ、生命をいただきながら私たちは日々生きているのだというある種当たり前のことをもう一度深く実感させてくれることを促す。

 

そしてそれは、生命とつながりながら生きていることへの喜びの感情もまた呼び起こしてくれるものなのだ。フローニンゲン:2019/4/19(金)14:59

 

4193. 天からの恵みとしての食事:欧米での七年間の生活を振り返って

 

たった今、天からの恵みとしての夕食をいただいた。それは、本当に天からの恵みであり、生命をいただくことの有り難さを強く実感させてくれるものだった。

 

これまでの人生において、美味しいと思えるものを数多く口にしてきたが、真に天および食材となった生命に感謝の念を深く捧げるような食事はこれまでほとんどなかったのではないかと思う。本日の夕食は、記憶にある限りの夕食の中で、最大限に天と生命に感謝の念を捧げるものだった。

 

最初の一口目から最後の一口目まで感謝の念が途切れず、感謝という念に包まれたままで行う「マインドフルネス食実践(mindfulness eating)」を行っているかのようであった。

 

梅流しを除き、七日間の断食を終えて最初に食べた今日の夕食の味、およびそこで感じた天と生命の恵みをこれからも忘れないようにしたい。

 

今日はオランダの祝日ということもあってか、いつも以上に至福さの優しい流れがフローニンゲンの街を包んでいた。そしてそれは、自分を包んでもいた。

 

そうした流れを感じながら、自分の内側に自分の時が流れていることも強く実感していた。

 

今日も私はいつもと同じように、自分の関心に沿った読書、日記の執筆、作曲実践、さらには現在依頼を受けている原稿の執筆を行っていた。日々がとても充実した行為の連続で成り立っており、それらの行為の一つ一つには絶えず自分なりの意味と意義があり、そうした意味と意義は、行為の継続とともに新たなものとして開示されていく。

 

私たちの行為は、私たちの存在を追うのだから、今その瞬間に行っている取り組みにこれからも専心していこう。

 

春の陽気を感じさせてくれた今日、欧米でのこれまでの七年間を大きな観点で振り返っていた。この七年間、母国を離れた場所で生活を営むことによって、日本での生活を通じて構築された諸々のものを随分と揮発させることができたように思う。

 

もちろん完全ではないが、自己を制限する様々な事柄が揮発され、それによって純化した自己が姿を現しつつある。この揮発と純化のプロセスは、今後も欧州での生活を緩やかに通じて行われていくであろう。

 

要諦は、この揮発と純化のプロセスによって現れてくるものが、日本人としての自己の本質であるとか、自分の中にある欧米的な何かとかでは全くなく、自己を自己たらしめるものだということである。

 

揮発と純化の末に見えてきたものは、結局自己だったのだ。だがそれは、紛れもなく新たな自己であり、これまでの自己とは一線を画している。

 

あえて発達理論の観点から言えば、揮発と純化というのは、それぞれ差異化と統合化という言葉を当てることができるかもしれないが、揮発と差異化、純化と統合化の間には、微妙な感覚的差異があるようにも思える。

 

それがいかようなものであり、自らの言葉でどのように説明できるのかは、今後の自己の成熟を待たなければならないだろう。

 

とにかくこのプロセスを焦らずに進めていくこと。欧州でのこれからの長い生活においては、そうした意識を絶えず念頭に置いて日々を生きる。フローニンゲン:2019/4/19(金)19:31

 

4月19日(金)に生まれた曲たち

Op.1060 満月草

Op.1061 至福さの優しい流れ

Op.1062 祝日の小躍り

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