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4178-4184:フローニンゲンからの便り 2019年4月18日(木)

April 20, 2019

タイトル一覧

4178. 満月の見える断食七日目の朝

4179. 限界効用の最大値を迎えたと思われる断食七日目

4180. 断食七日目の朝の夢

4181. 悪しき習慣と己の人生を見つめさせてくれる断食

4182. シュタイナーの色彩論から:精神や魂の影の色・満たされた光と消えゆくもの

4183. 一つ一つの音をつなぐもの:創造行為に内包される完全性と不完全性

4184. 春の陽気に包まれて:仮眠中の三つのビジョン

 

4178. 満月の見える断食七日目の朝

 

昨夜は九時過ぎに就寝し、今朝は四時半に目覚めた。

 

今、とても美しい満月が書斎の窓の外に見える。その輪郭はとてもはっきりしている。

 

いや、輪郭だけではなく、月の表面のクレーターまでもが見えるようであり、月の表情がしっかりとわかる。

 

闇夜に浮かぶ満月を眺めながら、小鳥たちの鳴き声を聞いている。今朝は小鳥たちの起床も早く、私とほぼ同時のタイミングに目覚めたようであり、ここ数日間よりも鳴き声が早く聞こえ始めた。

 

ひょっとすると、これは今日からの天気の変化にあるかもしれないという仮説を立てた。そして実際に天気予報を調べてみると、今日からのフローニンゲンはなんと、最高気温が20度を超え始める。

 

他の地域において、この時期に20度を超えるのは全くおかしなことではないが、フローニンゲンにとっては珍しいことである。幸いにも、来週金曜日の旅行の日までずっと暖かく、晴れの日が続く。

 

調べてみると、今日から旅行の日までは、旅先のバルセロナやリスボンよりも気温が暖かい。おそらくこれは今週だけのことだと思うが、来週末から訪れるバルセロナやリスボンの気温を先取りする形で、どのような服装で外に出かければいいのかを検証する良い機会になるだろうと思われる。

 

もちろん、バルセロナにせよ、リスボンにせよ、その街固有の地理的環境によって、同じような気温であっても体感温度が異なることが考えられるため、単純に温度計の気温を信じることはできないが、いずれにせよ、今日から春の陽気さをフローニンゲンで感じ、来週末からの旅行の際の衣服をどのようなものにするのかを決めていきたい。

 

今、早朝の味噌汁を一杯飲んでいる。起床してすぐに飲む八丁味噌で作った味噌汁には、いつも感銘を受ける。今日は断食七日目であり、感覚がさらに鋭敏になっているためか、味噌汁を眺めていると、味噌汁の無数の酵母が生きているかのような視覚イメージが現れた。

 

実際に、無数の酵母は味噌汁の中で生きているのだが、それがありありと視覚的に理解できるような感覚があった。質の良い酵母が体内に取り込まれ、腸を健全なものにしてくれることをイメージすると、どことなく幸福感が滲み出す。

 

「第二の脳」である腸、そしてシュタイナー曰く、音や色、さらには超越的なものとの共鳴をもたらす腸がますます健康なものになっていくのを感じる。やはり、人間としての全ての活動の根幹には身体があり、その身体を健全なものにするための食が何よりも大切なのだと改めて実感する。

 

そこで私はふと、例えば子育てに先立って親にとって必要な知識は、兎にも角にも食に関する知識なのだと思わされた。発達心理学の知識などは二の次であり、子供たちの健全な発達を育んでいくためには、彼らの活動の土台となる身体を健全に育む食に関する正しい知識を親たちが持っておく必要があるだろう。

 

だが残念にも、現代の親は料理をしない人も増えており、食に関する知識が極度に欠落している人が多いように思う。おそらく、そうした親の知識量は、小学生か幼稚園生と同等ぐらいのものなのではないかと危惧する。

 

子供への食育のみならず、親への食育というのは、この現代社会においてはその重要性がますます増しているように思える。フローニンゲン:2019/4/18(木)05:26

 

No.1867: Moonwort Bulb

 

I could see the full moon this morning, too. 

 

Even if there is no life on the moon, it is a life itself. Groningen, 06:16, Friday, 4/19/2019

 

4179. 限界効用の最大値を迎えたと思われる断食七日目

 

昨夜は夜の九時に寝て、今朝は四時半の起床となり、良質な睡眠が取れたためか、今朝の心身の状態はすこぶる良い。気がつけば、今日からは断食七日目となる。

 

この七日間、固形物を一切摂っていないことを一瞬驚くが、そうした一瞬の驚きが去ってしまうと、何か全くもって普通のことに思えてしまうから不思議だ。断食を七日間行うと、そのような感覚が芽生えるらしい。

 

この感覚についてもう少し説明すると、一般的に食事というのは、毎日固形物として何かしら食べないといけないと思われていがちだが、そうした社会通念のようなものを実際に検証してみたところ、むしろ固形物を摂らないで生きていくこともまた、一つの生き方としてありうるということが見えてくる。

 

仮にそれが自分の身体に合致したものであれば、そうした生き方を採用していくことの方が当たり前だという感覚が芽生えるのもおかしなことではない。数年前に読んだ書籍の中には、固形物を何十年も食べない人、あるいは水だけで生き続けている人、はたまた水も飲まず、太陽エネルギーやプラーナだけで何十年も生きている人がいることを知った。

 

彼らの身体機能や腸内細菌はかなり特殊のようであるからそうした生き方ができるのだと思われ、同様の生き方を多くの人たちができるとは思われないが、そうした人たちがいることは確かであり、今の私はそうした人たちがいても何ら不思議ではないと思うし、彼らの生き方に納得ができる。

 

ただしここでは、私は彼らの生き方に共感しているわけではなく、自分が不食になることはないだろうと思われる——今のところは。浮世離れするのではなく、人間らしい生活を少しばかり残しておきたいという思いが自分の中にあるのだろう。

 

断食七日目の朝に思うのは、どうやら今回の断食においては、このタイミングで断食に伴う限界効用が最大化されたのではないかということだ。断食三日目を迎えたあたりから頭が冴え始め、その感覚が昨日までずっと継続し、今もそれが続いているが、今日のそれは、そうした感覚が常態化している感じであり、身体に染み付いている感じがするのである。

 

そうしたことに加え、身体上の諸々の変化を観察していても、断食に伴う限界効用が最大化されているという実感があるため、昨日の計画を変更して、初期の計画であったように、本日をもって断食を終えようと思う。

 

そのため、今日は午後三時前あたりに街の中心部の市場に行って買い物をし、帰宅後から梅流しを調理したい。梅流しの作り方に関しては、過去の日記をもう一度読み返しておく。

 

昆布で出汁を取り、その後、大根を煮詰めていく。その際に、今日は大根を前回以上に多く入れようと思う。

 

前回は、2Lの梅流しを一回で食べきることなどできないと最初に思ったのだが、結局あっさりと完食してしまった。その時の大根の量よりも気持ち今回は多くする。

 

梅流しをすることによって、断食を締めくくるにふさわしい身体の大掃除が行われ、腸がさらに生き生きしてくるだろう。七日ぶりの、いや最後に固形物を食べたのは八日前だから、八日ぶりの固形物として梅流しを食べた時の感動はひとしおであろう。フローニンゲン:2019/4/18(木)05:47

 

No.1868: A Gentle Flow of Blissfulness

 

It is 9AM now. 

 

I’m being embraced by a gentle flow of blissfulness. Groningen, 09:19, Friday, 4/19/2019

 

4180. 断食七日目の朝の夢

 

太陽から光の恵みを受けたまん丸の満月が、徐々に西の空の方向に沈んでいく姿が見える。それにしても、早朝の満月とはこのように美しいものだったのかと、改めて感銘を受ける。

 

夜に見える満月と朝に満月に見える満月は、表情がまるっきり異なり、受ける印象が全く異なる。

 

二種類の小鳥たちが、今合唱を奏でている。その音楽に耳を傾けながら、今朝方の夢について振り返っておきたい。

 

夢の中で私は、幼少時代を過ごしていた田舎町の国道を自転車でゆっくりと走っていた。そこにいたのは私だけではなく、何人かの友人もいたのだが、全員がそれぞれのペースで自転車を漕いでいた。

 

列の先頭にいたのは私であり、私もまた自分のペースでゆっくりと自転車を漕いでいたのだが、途中から突然自転車が前に進まなくなってしまった。何が原因でそうなってしまったのか考えてみたときに、別に私のエネルギーが切れてしまったわけではなく、自転車の方に原因があるように思えた。

 

とはいえ、私は原因の解明と問題の解決をすることに時間と労力を使おうとせず、そのままの状態でさらにゆっくりと自転車を漕いでった。すると、先ほどまでは私のはるか後方にいた一人の親友(HO)が私に追いついてきた。

 

そしてさらにもう一人、別の友人(SN)も私に追いついてきた。だが、そのもう一人の友人は私に声をかけてから、すぐに横の方の道に入っていき、彼の姿は見えなくなった。

 

私の横に並んだ親友は、私としばらく会話をした後に、「少し先に行くね」と述べて、私よりも気持ち早いペースで自転車をこぎ始めた。彼との間隔は急激に広がっていくわけではなく、不思議なことに、cm単位ぐらいで徐々に広がっていく感覚があった。

 

私は前に誰がいても、後ろに誰がいても、後ろから誰かに追いつかれ、追い抜かされても、自分のペースで自転車をこぎ続けることが大切なように思われた。いや、そうした姿こそが自分の生き方であるから、そのように自転車をこぐことは全く自然な行為であり、私は自らの行為の中に没頭していたように思う。

 

親友との距離が広がり、右手の山を眺めた時、その山の頂上にある小さな神社が見えた。その神社が見えた時、夢の場面が変わった。

 

次の夢の場面では、私は学校の保健室のような場所にいた。そこは通常の保健室よりも広いように思えた。

 

私はそこで視力検査を受けることになっており、列に並んで待っていた。私の前には見知らぬ外国人の男性が一人、後ろには友人が一人立っていた。

 

私は彼らと特に言葉を交わすことなく、静かに列に並んでいた。いよいよ私の番がやってきた時、検査を担当する男性の医者が、「それでは三人いらしてください」と前後の二人と私をまとめて呼んだ。

 

視力検査を三人で同時に行うことは初めてであったため、少し不思議に思えたが、特に気にすることもなく、私は検査台の前に立った。すると、検査の機械も少し変わっており、通常であれば、表示されるマークの欠けた場所を示すことが求められるはずだが、その検査にはそうしたマークがなく、機械の中にある丸印が光り、どこが光ったかを示すことが求められていた。

 

「これは視力を測るものなのだろうか?」と少し疑問に思ったが、隣の二人が何の疑いもなしに光る位置を一生懸命に捉えようとしている姿を脇に見て、とりあえず私も目の前の検査に集中しようとした。

 

すると、私はいつもの癖で、片方の目を隠す道具を使えば目を閉じる必要はないのに目を閉じてしまい、反対側の目で検査をする際には、少し視界がぼやけてしまった。ぼやけた目をこすり、いざ反対側の目で検査をしようと思った時に目が覚めた。フローニンゲン:2019/4/18(木)06:24

 

No.1869: A Little Dance on a National Holiday

 

Today is a national holiday in the Netherlands. 

 

When I visited the center of the city in the afternoon, people looked happy as if they would do a little dance on the spot. Groningen, 16:00, Friday, 4/19/2019

 

4181. 悪しき習慣と己の人生を見つめさせてくれる断食

 

日々が毎日新たな生き生きとしたものとして知覚されること。それはもはや何ら不思議なことではない。

 

だが、そうしたことに慣れてしまったということではなく、それは日々、この世界が実際に新たなものとして自分の眼の前に立ち現れてくるという真実の実相を見つめているということを表しているように思う。

 

気がつけば、時刻は午前六時半を迎えた。今はもう満月は見えず、朝日もすっかり昇っている。

 

そして、小鳥たちの鳴き声がまだ外の世界に広がっていて、それは世界を優しく包んでいる。そうなのだが、この世界の中に小鳥の鳴き声があるのではなく、この世界が小鳥の鳴き声の中にあるのだ。

 

それに気がつかなかったこれまでの自分はどれだけ愚かなのだろうか。この世界が、小鳥の鳴き声の中に優しく抱擁されている。私もまた、小鳥の鳴き声に抱擁されている。

 

この絶対的な安心感。自分よりも小さな小鳥が生み出す、自分を遥かに超えた優しい音に包まれている時、究極的なくつろぎがある。

 

このくつろぎと安心感は、何か死の先取りであるように思えなくもなく、即身成仏的な感覚だと言えなくもない。

 

今日はこれから作曲実践と読書に打ち込んでいく。午後には街の中心部の市場に散歩がてら出かけ、新鮮な果物と野菜、そしてナッツ類を購入する。

 

食材選びに関しては、自分の身体に何が合うのかということが随分と見えてきた。また、人間をいともたやすくガラクタに変えてしまう食品が何かということは、五感的にすぐに把握できるようになっている。

 

今日で七日間の断食を終えるが、それは厳密な意味での断食の終わりを意味しておらず、七日間固形物を摂らなかったのであれば、回復期としての七日間の食事にも気をつける必要があり、今回は14日間の断食実践であると捉えた方がいい。

 

もちろん、より巨視的に見れば、断食中の過ごし方やあり方などは、今後の日常生活の中に取り入れていくべきものが多々あるため、一生涯断食的な生き方を続けていくことが理想にはなるのだろう。

 

断食について学習する前の私、そして実際にそれを行う前の私は、断食とは何か苦行的なものだと思っていたが、それは単なる思い込みであり、一切苦行的なものではないことがわかった。ただし、断食中において苦を感じることはあるだろうが、それは何の表れかというと、それまでの自分の生き方の根本的な過ちが顕在化したものだと言えるだろう。

 

食や運動を含めた生活習慣を含め、人生というものをいかに捉え、いかなる思想と在り方に基づいて生きてきたかが問われるのが断食であり、断食中に苦痛を感じたのであれば、それはそれまでの食生活や生き方が根本的にどこかおかしかったことを示しているのだと思われる。

 

つまり、断食中の苦痛というのは、自分のこれまでの人生が如実に反映されたものなのだと言えるだろう。そして、そうした苦痛を感じるというのは、自分の人生を見つめ直し、種々の悪しき習慣を断ち切っていく最良の事柄であるとも言える。

 

良い習慣を習慣化することは人生を大きく変えてくれるが、一方で悪い習慣が習慣化されてしまうというのは同じく人生を大きく変えてしまう。また、習慣というのはその本質に、主体である自己と同化する性質を持っており、私たちは自分がどのような習慣を持っているのかということを正しく把握することができないという特性を持っている。

 

これまで私はできるだけ自分の悪しき習慣を見つめるようにしてきたつもりであるが、断食と出会ったことによって、これまで見落としていた種々の悪習に気づくことができたのは幸いであった。

 

また、断食を通じて、そうした個人的な悪習はその人に起因するものである一方、そうした習慣が社会の思想やシステムによってどのように生み出されているのかも理解するようになった。それは断食を通じて得られた大きな学びであった。

 

今、腹が鳴る小さな音が聞こえた。例えば、ここでも社会的に構築された馬鹿な習慣に浸り続けていれば、何かを食べようとするだろう。

 

断食をしてみればわかるが、腹が鳴ることによってすぐに食べ物に手を伸ばすというのは、この社会が巧妙に作り上げた反射的行為であり、そうした反射的行為が自分の習慣になってしまっているということなのだ。

 

今日で七日間の断食を終えるが、今後も私は、自らの習慣を見直し、生き方とあり方そのものを見直し続けるために断食の実践を行っていくだろう。フローニンゲン:2019/4/18(木)07:02

 

4182. シュタイナーの色彩論から:精神や魂の影の色・満たされた光と消えゆくもの

 

時刻は午前九時半を迎えた。今日は午後に暖かくなるようなのだが、今はまだ足元から冷える。そのため、室内のヒーターは相変わらずつけっぱなしにしている。

 

今日から、シュタイナーが色について解説している“Colour (1992)”を再び読み始めている。気がつけば、これで三読目である。

 

確かに今回が三読目なのだが、シュタイナーの色彩論からは本当に多くの洞察を得ている。早朝より目を見開かされ続けているような状態だ。

 

日々の作曲実践と作った曲によって喚起されるものを絵にしておくという実践のどちらにも、色彩というのは重要なテーマとして存在しいている。上記の書籍を半分ほど読み返した時点で、ここまで得られたものの中からいくつか印象に残っていることを書き留めておく。

 

まず一つには、シュタイナーは、精神や魂の影は黒色ではなく、白色だと述べている点が興味深い。一方、生命のない精神や魂の影は黒色だと述べている。

 

その意味することを知的に理解することは難しく、シュタイナーが指摘するように、そうした事柄は感覚的に掴んでいくことが重要になる。さて、精神や魂の影が白色だというのはどういうことなのだろうか。そうした投げかけをなされたことを強く覚えている。

 

色というのは不思議なもので、それは科学的な観点から様々に議論できるが、色というのは他の現象と同様に、内面的(主観的)かつ外面的(客観的)な両側面を持つがゆえに、科学の力だけに頼っていては、色の本質などわかりようがない。科学の力を最大限活用してわかる色の本質は、外面的側面における本質だけだ。

 

色の内面的本質を掴もうと思ったら、科学だけに依存するのは愚かであり、霊学的な観点を必要とする。その点において、シュタイナーの思想を今後も参考にしていこうと思う。

 

世界があまりにも静かであり、優しい光が世界に溶け出している。今日は風もなく、本当に穏やかだ。そして、辺りは太陽の光に包まれている。

 

時間の穏やかさと優しい光に包まれることは、生きることそのものであり、同時に死ぬことそのものに他ならないのかもしれない。日々が充実感と幸福感に満ち溢れているのは、決して毎日を休日のように過ごしているからではなく、生と死の双方が内包された時間の穏やかさと光の中に存在し続けているからなのかもしれない。

 

シュタイナーは、思考というのは光の中にあり、その光は消えゆくもので満たされていると述べている。私はその指摘を受けて、だからこそ一つの思考の中に美が宿り得るのだと思った。

 

これは美だけではなく、感覚もそうである。満たされた光と消えゆくもので生み出された美が絶えず私たちのそばにある。そして、私たち自身の存在もまた満たされた光であり、消えゆくものなのであるから、やはり私たちの存在自身は美しいものだと言えないだろうか。

 

私が毎日、日記や作曲を通して表現しようとしていることは、満たされた光と消えゆくもので生み出された美を具現化することであり、それを記録することなのだろう。この世界が美しいのは、消えゆくものが輝いているからだったのだ。

 

星の輝きは、星が爆発して生涯を閉じる時に生まれるものだというのは有名な話である。光を見出すというのは、そこに死を見出すことなのだろう。

 

また、消えゆくものを眺め、闇を見るというのは、シュタイナーが述べるように、未来を見出すことなのかもしれない。明け方、まだ太陽が昇らぬ時に、すでにその闇の世界の中に太陽を見出しているように。フローニンゲン:2019/4/18(木)09:49

 

4183. 一つ一つの音をつなぐもの:創造行為に内包される完全性と不完全性

 

今日はこれから作曲実践をし、再び読書を行いたい。すでに早朝に一曲ほど作り、それにてルモワンヌの練習曲50曲を全て参考にしたことになる。

 

ここからは再び、ハイドンやラモーに範を求めて今後の早朝の作曲実践を行う予定である。当面は、午後の作曲実践においてはスクリャービンやラヴェルに範を求めようと思う。

 

つい先ほどシュタイナーの色彩論に関する書籍を読み終えた。改めてその内容を想起していると、一つの音は、それが現れた時に美しさを生み出すというよりも、消えゆく瞬間に美しさを顕現させるのではないかと思った。

 

一つ一つの音が生まれる瞬間、そして消える瞬間を大切にしながら今後の作曲実践を行っていきたい。

 

また、今朝方に友人の日記を読んでいると、大変興味深いことが書かれていた。友人の日記の中では、書道における「気脈」という言葉が取り上げられていた。

 

書道における気脈とは、実際にはつながっていない線や点の間にある気持ちの繋がりのことを指すらしい。そうした説明を受けて、気脈を通すというのは、作曲上においても極めて重要だと思わされた。

 

一つ一つの音と音の間に気を通していくように曲を作っていきたい。今の自分はまだまだそのような境地に至っていないのは知っている。

 

だが、そこに向けてゆっくりと歩んでいきたいという思い、そしてもうそこへ向かって歩き出している自分がいることを知っている。

 

音と音の間に気脈を通してこそ、初めてその音に生命が宿ると言えるかもしれない。一つ一つの音に自らの生命の息吹を吹き込み、音と音の間にも生命の息吹を吹き込んでいく。そのようにして生み出された音は自己そのものであり、それは他者とつながり、交流していくものなのだろう。

 

午前中にふと、私の人生を大きく変えてくれた実践は、日記の執筆、作曲、断食及び一日一食という食実践だということについて考えていた。今はそれら三つをそれぞれ取り上げることはしないが、作曲においては、完全に納得のいく曲など一生生まれないのかもしれないということを先ほど思った。

 

完全に納得する曲を作れないということが、つまり絶えず不完全性が存在していることこそが創造行為の本質かもしれない。より厳密には、不完全なのだが完全であり、完全なのだが不完全な作品をその瞬間に生み出すという、ある種二つの対極的なものを抱えた作品を生み出していくことが、創造行為の本質であって、そこに創造行為の醍醐味があると言えるかもしれない。

 

晩年のピカソが述べていた言葉のいくつかはこの点と関係しているように思える。

 

これらから生み出す曲は、それはそれとして完全であり、同時に不完全でもある。そこからまた次の作品に向かっていくことが、完全性と不完全性を超越した何かに向かっていくことなのだろう。フローニンゲン:2019/4/18(木)10:44

 

4184. 春の陽気に包まれて:仮眠中の三つのビジョン

 

時刻は午後二時半を迎えた。今日は本当に春の陽気が漂っており、つい今しがた散歩を兼ねた買い物から帰ってきた。

 

こういう日は散歩コースを自然と変えたくさせる力が働いているのか、普段通らない道を通って街の中心部に向かったところ、途中でお洒落な雑貨店がひっそりと営まれていることに気づいた。

 

この三年間、その店の存在を認知しておらず、試しに店内に入ってみた。ちょうど、来週末から始まるバルセロナ・リスボン旅行の際に、オイルプリングをするためにココナッツオイルを持っていく必要があり、小さな容器が欲しいと思っていた。

 

仮に良い品があればこの店でそれ用の容器を購入しようと思って店に入った。幸いにも、旅行用にふさわしい小さな容器があり、この容器であれば、最大二週間分のココナッツオイルを入れることができるのではないかと思う。

 

店を出て、陽だまりの中を市場に向かって歩くと、先週の木曜日と同じく、そこはもぬけの殻だった。石畳の上を歩く人たちと、多くのハトが何か餌を食べている光景だけがそこに広がっていた。

 

それをもって私は、市場は日曜日と月曜日のみならず、木曜日も休みなのだと知った。ちょうど今日は、断食を終えるための梅流しの具材である大根だけが必要であり、それは市場からほど近いオーガニック食品専門店に売られていることを知っていたために、市場が開かれていないことはさほど問題ではなかった。

 

明日も今日と同じぐらい天気が良いようなので、市場には明日訪れようと思う。その時に念のため、何曜日に市場に来ているのかを店の人に尋ねてみようと思う。

 

今日はこれから梅流しを作り、断食を終える。ちょうど今、昆布出汁を取っている最中である。

 

前回は、昆布出汁の中に大根を入れ、それと梅干しを食べる形で梅流しを行ったが、今日は玄米味噌を入れてみようと思う。大根がグツグツと煮えてくるときのあの香り、そして完成した後に鍋の蓋を開けた時の香りを思い出すと、今から本当に楽しみだ。

 

梅流しを作りながら、今日の残りの時間はゆっくりと過ごしたいと思う。特に、活字からは離れ、作曲実践をしたり、画集を眺めるように楽譜を眺めるようなことを行いたい。

 

特に、楽譜を画集のように眺めることは、今後も息抜きとして是非行いたいものだ。この七日間断食をしている最中は、集中力が高まっていたためか、活字を読むことが多く、ここあたりでひと休憩必要であり、それは断食を終える今日がふさわしいように思える。

 

先ほどまで夢見心地の中を散歩していると、散歩に出かける前に仮眠を取っていた際に、幾つかのビジョンを見ていたことを思い出した。私は、夢や仮眠中のビジョンから気づきや発見を得ることが多く、今日のビジョンもどのような意味が内包されているのか定かではないが、それを書き留めておく。

 

最初のビジョンの中で私は、ニューヨークかどこかの大都市の街中を歩いていた。そこはあまり綺麗な街並みではなく、そこら中でタバコの臭いや車の排気ガスが漂っているような場所だった。

 

ある小さな売店の前を通りかかろうとすると、外国人の清掃員がその店の前にいて、私に何か話しかけてきた。彼が何を言っているのか定かではなく、よくよく見ると、彼は私に話しかけていたのではなく、イヤホンをして別の誰かと話しているようだった。

 

次のビジョンの中で私は、シンガポールのあるマンションの階段にいた。それは巨大な螺旋階段であり、緑色に塗られた階段の手すりが印象的であり、階段は永遠と上にも下にも続いていた。

 

私は階段を下に降りて行っている最中であり、いつになったら地上階に着くのか途中で疑問に思った。そこで私は、途中から面倒になって、螺旋階段の真ん中の空間に身を投げ出し、飛び降りていく形で下に向かおうと思った。

 

すると、先ほどまでは一切住民の姿が見えなかったのだが、突然ある部屋の扉が開き、飛び降りることを思い留まらせようとする中国系シンガポールの男性が現れた。だが時すでに遅く、私は螺旋階段の真ん中の空間に身を投げ入れた。

 

私は一気に下まで降りていけるかと思ったのだが、そうではなく、体が雲に浮かぶかのように、ゆっくりと下に降りっていった。

 

最後のビジョンの中で私は、流暢な日本語を話すメガネをかけた優しそうなドイツ人の女性の美術教授と話をしていた。彼女は私にある芸術家の話を日本語でしてくれた。

 

話の最後に、「この時代の芸術に興味を持ってくれましたでしょうか?」と私に日本語で尋ねたように聞こえたのだが、少し聞き取りづらかったので、私は思わず「えっ?」と聞き返したところで、目覚ましのバッハのゴルトベルク変奏曲が鳴り始めた。フローニンゲン:2019/4/18(木)14:26

 

4月18日(木)に生まれた曲たち

Op.1057 早朝の満月

Op.1058 輝きの中で

Op.1059 再生のための儀式

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