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4149-4156:フローニンゲンからの便り 2019年4月14日(日)


タイトル一覧

4149. 断食三日目の朝の心身の状態

4150. 断食による眼力の高まり

4151. 本棚と書籍に関する夢

4152. 絶えず生起する音楽的なもの:再読したい書籍たち

4153. 今朝方の夢の続き

4154. 監訳書のレビューの着実な進行とこれからの生活拠点

4155. 音の海と仮眠中のビジョン

4156. アルコールフリーのオーガニックワインとの出会い

4149. 断食三日目の朝の心身の状態

今はまだ午前五時を迎える前である。今朝は小鳥よりも早く目覚め、四時半前に起床した。

実際に今もまだ小鳥の鳴き声は聞こえておらず、彼らはまだ夢の世界の中にいるようだ。今、早朝の一杯の味噌汁を飲んでいる。

有機八丁味噌を白湯二杯に溶かした飲み物は、天然の酵母ドリンクであり、その濃厚な味わいに毎朝感銘を受けると共に、一日の活動を推進させていくのにふさわしいエネルギーを与えてくれることに感謝の念を持つ。

今日は断食の三日目を迎えた。予想していた通り、心身の状態がすごぶる良い。

初日の夜には少し疲弊感を覚えたが、昨日の夜はそうした疲労感はなく、今朝に至っては極めて体調が良いのを実感する。何よりも、起床直後に洗面台で自分の顔を見たとき、一瞬別人のように思えたことが印象に残っている。

自分の場合は、断食は二日目を過ぎてから肌への好影響が見え始め、三日目を迎える頃には皮膚のターンオーバーが健全なものになり、肌の透明感を感じる。

以前行った断食は三日間であり、今日が終われば、まだ体験したことのない領域に踏み込んでいくが、当初の予定通り、五日以上の断食を行おうと思う。予定としては、18日の夜に断食を終える。

そうすれば、今回は七日間の断食となる。最初は、今週の最後のオンラインミーティングが終わる17日の夜に断食を終えようと思っていたが、せっかくなので六日ではなく、七日間の断食を行ってみてどのような変化があるのかを確かめてみたい。

その一日の差がいかような変化を心身にもたらすのかに関心があるのである。変化に関する臨界点のようなものがあるのか、つまり限界効用のように、ある日数まで断食を進めると、それ以降はそれほど変化が生まれないのかを確認する意味でも、とりあえず今回は七日間の断食をしてみようと思う。

18日の夜に梅流しを作るため、17日の夕方前に街の中心部の市場に行き、必要な具材、およびそこから一週間分の果物と野菜を購入したい。ちょうど断食を終えた一週間後にバルセロナとリスボン旅行が始まり、断食七日、回復期間七日の望ましいスケジュールで旅行に臨むことができる。

断食をすることによってこれだけ心身の状態が良いのであるから、断食を旅行中に行うというのも一つの手だと思った。旅行中に全く何も食べないというのも一つの手であり、旅行中に時折一日ほど胃を休めるというのも手だと思う。

私は旅行中によく歩くのだが、そのための活動エネルギーをブドウ糖によって生み出すのではなく、やはりケトン体によって生み出す方が望ましいように思う。ただし注意しなければならないのは、数日間程度、ないしは一週間か十日程度の断食であれば問題ないが、それよりも長い三週間や一ヶ月ほどの断食をしながら旅先で歩き回るのは危険なように思う。

というのも、一例として、そうした長期の断食を行ったマハトマ・ガンジーが、断食をしながら(あるいは断食直後だったかもしれない)常人ではありえない距離を歩いたところ、それが災いして足を悪くしてしまった事例を知っているからである。

以降ガンジーは、断食中は適度なウォーキングに留め、激しい運動をしないことの大切さを知ったという話を聞いたことがある。そうしたことを踏まえると、ガンジーほどの距離を歩いたり、激しい運動を旅先でするわけではないが、念のため、長期の断食をしながら旅行するのは控えたい。

それに何より、旅先の土地で育まれる果物や野菜を食べたいという思いがあるため、旅先では一食ほど口にするということを行いたいという考えがある。今回の旅行においても、夕食だけは食べようと思う(もちろん身体が食事を求め、食べたければの話である)。フローニンゲン:2019/4/14(日)05:18

No.1855: The Feeling of the Fourth Day of Fasting

The fourth day of fasting began.

The condition of my body and mind is very well.

I’ll continue fasting for three more days. Groningen, 08:48, Monday, 4/15/2019

4150. 断食による眼力の高まり

早朝の5:15あたりに小鳥が鳴き始めた。どうやら彼らはそのくらいの時間に起床し、一日の活動を始めるらしい。

ひょっとすると、起床してから舌磨きをして、水を飲んでヨガの実践をし、一杯の味噌汁を飲んでから一日の活動を始める私のように、小鳥たちももう少し早く起きていて、そこから眠い目を擦った後に鳴き声を上げ始めるのかもしれない。

そのあたりの小鳥たちの朝の目覚めの儀式については彼らに直接聞いてみるしかない。

今この瞬間に鳴り響いている小鳥たちの歌声は、とても透き通っている。真っ暗な闇の世界にその歌声は反響し、どこまでも遠くへ響いていくような内在的な力を持っている。

こうした鳴き声を聞きながら朝のひと時を過ごせるということ。それが何よりも幸せだ。

先ほど、起床直後の自分の顔を見たときの肌の変化について言及していたように思う。それ以外にも気づいたのは、瞳孔の開き具合が異なり、文字通り、目の色が違うというものだった。

正直なところ、目の輝き、ないしは目の色が昨日とは異なったものになっていることには驚かされた。端的に言えば、眼光が鋭くなり、すべてを見透かしてしまうような目の力があった。

「眼が見開かれる」あるいは「眼力の高まり」とでも形容できるような変化が目に表れていたのである。私は自分の目を見たとき、極めて高い集中力を発揮する人たちに共通する目と同じ類のものをそこに見出した。

見方を変えれば、恐ろしいほどの集中力を発揮する異常者の目の色と同じように思えたのである。今、「異常者」という言葉の代わりに「病人」という言葉を使おうかと一瞬迷ったが、そうした極めて高い集中力を発揮する人たちは病人というよりも——現代医学に見受けられがちな、人をボックス化する傾向に従えば「病人」とみなされるかもしれないが——、それは単に常人と異なる個性を発揮しているという観点から、「異常者」という言葉を当てた。

たいていの場合、私はこの言葉を否定的なものではなく、大変肯定的なものとして受け止めている。

今日の自分の目は、自己の内側と世界を見通す新たな眼を携えている。こうしたことがもたらされたのは、断食以外に要因はない。

多くの宗教的・神秘的な伝統において、断食を一つの不可欠な実践とする意味が、体験を通じて理解出来る。私はもはや高次元の意識体験など求めておらず、今回の断食も心身の純粋な要求に従っただけである。

もしかすると、そこには魂の要求もあったのかもしれない。いずれにせよ、私が持つこの自我が断食を行おうと思ったわけではなく、最初に断食を決断させ、そこに導いたのは、身体や自分の中の深い部分なのだと思う。

今日は四時半前に起床したため、今日も十分な活動を行うことができるだろう。早朝に作曲実践を行い、その後に読書をするのではなく、今日は真っ先に監訳書のレビューを行おうと思う。

本文全体は七章に及んでおり、当初は昨日の段階で三章までレビューできれば良いかと思っていたが、結局第四章までレビューすることができた。第七章は比較的短いことを考慮すると、残りの三つの章は今日中にレビューが終わるだろう。

午後からは、街の中心部のオーガニック食品店に足を運び、そこで玄米味噌、アカシアはちみつ、カカオニブ(カカオ豆をくだいてフレーク状にしたもの)を購入したい。とにかく今日も極めて充実した一日になるであろうことが、もう直感的にわかってしまう。フローニンゲン:2019/4/14(日)05:36

No.1856: Cold Water into the Soul

Today is also fine and a peaceful day.

I’ll resume reading “The Inner Nature of Music and the Experience of Tone (1983)” written by Rudolf Steiner. Groningen, 12:49, Monday, 4/15/2019

4151. 本棚と書籍に関する夢

一昨日と昨日は、なんと雪が降った。そのことについては日記に書き留めていたように思う。

今朝方起床してみると、通りに止まっている車の上に白い霜のようなものが降りており、昨夜も寒かったのだと思う。早朝の五時半を迎えた現在の気温は1度であり、そんな寒さの中を小鳥たちは物ともせずに鳴き声を上げている。

今日までは気温が低いが、明日からは少し暖かくなる。小鳥たちのためにもそれは良いことだ。

いつものように、今朝方の夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、小さな一室の中にいた。

その部屋には黒板が置かれており、また小中学校時代の友人が何人かいた。そのうちの一人(AF)が黒板の前に立ち、理科の天体の分野に関する説明を始めた。

それは私に向けての説明ではなく、他の友人に向けたのものだった。しばらく彼が説明をした後、彼は部屋から出て行ってしまい、部屋には私を含めて四名ほどの人間が残った。

私は黒板の下の地べたに座っており、おもむろに立ち上がって、何かの問題に対して説明するかのような素振りを見せながら、ちょうど私の近くに座っていた親友の一人(HS)の似顔絵をふざけながら黒板の左下に描いた。

するとその親友は笑みを浮かべながら、「何描いとるん!」と言いながら黒板消しを持ってきて、素早くその似顔絵を消し始めた。私は彼の横に立っていて、彼が急いで自分の似顔絵を消すところをケラケラと笑いながら見ていた。

すると、なぜだかその部屋の右隅に、私の本棚があった。学校の勉強に関する参考書だけではなく、何冊か漫画のようなものが入っていた。

学年で一番背が高かった友人(YK)が立ち上がり、私の本棚におもむろに近づいて、一冊の本を手にとって読み始めた。するとそれに続く形で、野球部の友人(RS)も本棚の方に近寄り、私に一言述べた。

友人:「本棚には本当に必要な本だけ置くべきやね」

:「うん、自分もそう思う」

友人:「それと、そもそも本棚なんていらんよ。大事な本は全て地べたの上に積み重ねて、そこから取り出すようにしたほうがええよ」

友人はそのようなことを述べた。彼の話を聞いている最中、自分は妙に納得することがあった。

というのも、確かに今の自分の本棚にはもう読まないであろう書籍が混じっていたのと、地べたの上に書籍を積み重ねるというのも悪くない考えだと思ったからである。そのようなことを考えていると、夢の場面が変わった。

この夢に関しては、いくつか思い当たる節がある。一つは、もう随分と前から、フローニンゲンの現在の書斎の全ての本棚からは本が溢れかえり、ソファーはもはや座ることができないぐらいに、その上に書籍が積まれており、一つの食卓も同様であり、さらには椅子の上やテレビ台の上にも書籍や論文が積み重なっている。

そうしたことから、今度日本に一時帰国する際には、少なくとも一つの大きなスーツケースには全て、必要ではない書籍や論文を詰めて持ち帰ろうと考えていたのである。それらはもうあまり読まないであろうが、いつかまた読む価値のあるものでもあるため、実家に持ち帰ろうと考えている。

そのようなことを前々から考えていたことが、今朝方の夢の中に現れたのかもしれない。フローニンゲン:2019/4/14(日)05:55

No.1857: A Rest of the Soul

It is time for my soul to relax.

The color and shape varies depending on the situation. Groningen, 17:01, Monday, 4/15/2019

4152. 絶えず生起する音楽的なもの:再読したい書籍たち

昨日は監訳書のレビューに多くの時間を充てていたこと、さらには教会旋法に関する書籍を最初から最後まで再読したことに伴い、一曲しか曲を作ることができなかった。それは普段の私からすると非常に少ない量なのだが、それでも一曲作ったことは大切なことだったように思う。

とにかく継続して形を生み出すことが重要であり、旅先であっても、どれほど時間がないように思えても——時間がないなどというのはありえない言い訳なのだが——、必ず一日に一曲は作るようにしたい。

なぜなら、人生のある一日の自分の内側には、常に音楽的なものが生起しており、しかもそれはその日に固有のものだからである。自分の内側から立ち現れる音楽的な何かを絶えず形として外側に表現すること。それはこれからも一日たりとも怠りたくないことである。

日記と同様に、日記と同じように、あるいは詩を詠むかのように作曲をしていくこと。それをこの人生の最後の日まで続けていく。

何かに到達しようとか、どこかに向かおうとかいうのではなく、形を生み出し続けようとする衝動と意思だけが自分の内側にある。

今日は少なくとも二、三曲ほど作り、監訳書のレビューが済んで時間があれば、幾つかの書籍を再読していきたい。今のところ、バルトークの作曲書法を解説した“Bela Bartok: An Analysis of His Music (2000)”、シュタイナーが執筆した音楽関係の書籍“The Inner Nature of Music and the Experience of Tone (1983)”と“Music: Mystery, Art and the Human Being (2016)”さらには、シュタイナーが色について詳細に分析した“Colour (1992)”も音色の研究のために再読したい。

その他にも、シュタイナーの思想をもとに書かれた音楽関係の書籍“Expanding Tonal Awareness: A Musical Exploration of the Evolution of Consciousness (2014)”と“Human Hearing and the Reality of Music(2013)”の再読も近日中から行っていきたい。

これらの書籍のうちどれかは、バルセロナ・リスボン旅行の際に持って行ってもいいかもしれない。再読したい書籍を列挙してみると、やはり今の私は、純粋な音楽理論の観点から作曲上の知識を獲得したいという強い思いと、神秘哲学・霊性の科学の観点からも音楽を探究し、それを作曲に活かしていきたいのだという思いを見て取ることができる。

そこで注目をしているのは、やはりルドルフ・シュタイナーの思想である。今年は結局、スイスのドルナッハにある精神科学自由大学に行くことはしなかったが、近い将来にそこに所属し、シュタイナーの思想を音楽の観点から探究している自分がいるかもしれないと思う。

また、仮に米国西海岸のソフィア大学の博士課程に進学するのであれば、そこでは死と霊性に関する研究をするか、シュタイナーの思想をもとにして、音楽と霊性、あるいはより具体的に音色と霊性のような研究に取り組み始めるかもしれない。

それらは今のところの予定であり、当面は学術機関には所属しないと決めているため、仮にそれらが実現されたとしても、今から四、五年後、あるいはさらに後のことになるだろう。そのようなことを夜が明け始めた日曜日の朝に想う。フローニンゲン:2019/4/14(日)06:13

4153. 今朝方の夢の続き

時刻は午前六時半に近づきつつある。この日記を書き留めたら早朝の作曲実践を行い、その流れで監訳書のレビューを行いたい。

先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、まだ別の夢を見ていたことを思い出した。夢の中で私は、あるレストランの中にいた。

店内はとても明るく、照明の明るさのみならず、外も明るく晴れ渡っているかのようであった。ちょうど昼時なのだが、レストランは幸いにも混んでおらず、私は三人の友人とランチを楽しもうとしていた。

三人のうち二人は男友達であり、もう一人は女友達であった。彼らは皆、小中学校を共にした友人である。

ランチのメニュー表を見ながら、何を食べようかと考えていたところ、男友達の一人(TK)が寿司を注文しようとしていた。私はそれをなかなかいいチョイスだと思い、私も寿司を食べようかと思ったが、もう少しメニューを吟味して、別のものを食べようかとも考えた。

結局私は、スープ付きのランチセットを注文した。全員注文し終えた後、そこからは全員で雑談を始めた。

すると、先ほど寿司を注文した友人が「しまった!」と述べた。彼に話を聞いてみると、この店では寿司を自分で取りに行く必要があり、それが面倒だとのことであった。

私は、それは大したことではないと思っていたのだが、彼はそれを面倒なことだとみなしているようであった。彼はそのような文句を言いながらも、実際に寿司を食べ始めると、その味に満足し、いつの間にか不満など何もなく、寿司を食べ続けていた。

楽しい会話を楽しみながらランチを摂り、食後に一服していると、そこに今ままでいなかった友人が現れた。彼は私に連絡先を教えて欲しいと述べた。

すでに彼の携帯には私のアドレスが登録されているはずなのだが、もう一度連絡先を教えて欲しいとのことだった。私は逆に彼のアドレスを再度聞き、彼にメッセージを送る形で、彼に私のアドレスを登録してもらおうと思った。

彼はアドレスを私に伝え、私はその場で彼宛てにメールを送信しようとした。ところが、私は久しぶりに携帯からメッセージを送ったため、件名のない絵文字一つのメッセージを彼に送ってしまった。

それを受け取った彼は笑ったが、それで大丈夫とのことであった。とはいえ私は彼に謝り、携帯を通じてメッセージを送るのは三ヶ月ぶりであること、そもそも携帯から日本語の文字を打つことはできないことを伝えた。

それに対して彼は驚いたが、一応納得の表情を浮かべていた。そこで夢から覚めた。

断食中の今、レストランで食事をする夢を見るのは不思議なことだが、納得いくことでもある。ただし、一日一食生活を始め、これまで常に夕食しか食べていなかったのであるから、ランチではなくディナーに関する夢が出てくることの方が自然と言えば自然であるが、ランチにまつわる過去の記憶や思い出などがあるのだろう。

また、無意識の様々な要素と関係して、ランチでなければならない必然性のようなものがそこにあったのかもしれない。

夢の後半で携帯からメッセージを送る場面があったが、よくよく振り返ってみると、私が最後に携帯でメッセージを送ったのはいつだったか覚えていない。少なくともこの一年間は、誰にも携帯を通じてメッセージを送っていないように思う。

夢の中で述べていた「三ヶ月」というのはかなり短い期間であり、現実世界においては一年以上誰にもメールのみならず、テキストメッセージも送っていない。夢の中で正しい事柄を挙げるとするならば、確かに現実世界の私の携帯は日本語でメッセージを打つことができない。

もともとはそれが可能であったのだが、携帯を通じてメールやメッセージを送ることほど馬鹿げたことはないと思ったため、日本語入力を司るソフトを削除したのを覚えている。そのため、日本人の友人に仮に何か連絡をするときには、英語で連絡をすることになっている(友人の英語力に応じて英語の時もあれば、わかりにくいがローマ字入力をすることになる。例:“Ryokai” “Arigato” “Mo Ekinitsuita?”など)。フローニンゲン:2019/4/14(日)06:42

4154. 監訳書のレビューの着実な進行とこれからの生活拠点

時刻は午前10時半を迎えた。今日のフローニンゲンは、一点の雲もなく、快晴が広がっている。

早朝より小鳥の鳴き声が静かな日曜日の世界にこだましている。今日は四時半に起床したこともあり、これまでのところ充実した活動が行えている。

具体的には、早朝に一曲ほど作り、ウィルバーの書籍のレビューの山場である第5章と第6章のレビューをつい先ほど終えた。残すは分量が最も少ない第7章だけとなり、これは正午過ぎにレビューをしようと思う。

断食のおかげもあり、非常に集中力高くレビューができたことを嬉しく思う。編集者の方からは10日ほどレビューの時間をもらっていたが、一字一句丁寧に原稿を読み返してみても、一日半でレビューを終えることができた。

しかもこの一日半には、「はじめに」の修正や監訳者プロフィールの修正が含まれている。今日はこれから、「解説」の部分に追加の執筆をしようと思う。

昨日も少々手直しをしていたのだが、先ほどレビューをしながら、「インテグラル理論を活用する際に大切なこと」というトピックで一つ解説の文章を入れておくことが親切のように思われた。今からその文章を執筆し、その後休憩がてら作曲実践を行い、再びレビューに戻って最後の第7章のレビューを完成させる。

レビューの合間合間に休憩を挟むことがあり、その時書斎の窓辺に近寄って、自宅の前の木々に止まっている小鳥たちの姿をぼんやりと眺めていた。彼らの姿は大変愛らしく、とても愛しかった。

こうした平穏な環境で毎日を生きられることに心底感謝の念を持った。仮に来年デン・ハーグに引っ越したとしても、今と同じような環境の中で生活をしたい。

幸いにも、デン・ハーグも非常に落ち着いた街であるから、自分の生活スタイルに合致した住環境を見つけることは十分に可能であろう。とにかく今年まではフローニンゲンで生活をし、来年からはデン・ハーグで生活を始めたいと思う。

そのようなことを考えていると、突如、今後はスイスのドルナッハやひょっとするとアメリカの西海岸で数年ほど生活をすることがあったとしても、北欧のフィンランドやノルウェーで生活をするかもしれないということを思った。

街から離れ、フィンランドやノルウェーの自然に近い場所で暮らすかもしれない。そんな将来像がぼんやりと浮かんできた。

夏には沈まぬ太陽を眺め、秋から春にかけての期間はオーロラを見て過ごす。そんな生活を送っている自分がいるかもしれない。

人生とは本当に不思議なものであり、自らの成熟に応じて、求める生活環境が変わり、これまで一切見えていなかった世界に目を向ける中で、その時の自分にふさわしい環境が見えてくる。今の私にとってはオランダ、とりわけフローニンゲンが最良の場所だが、今後の生活環境は自らの歩み応じて変化するであろう。

現段階において、将来の自分が日本で生活をしているイメージはやはり生まれてこない。日本で生きるという意識はなく、この地球上で生きるという意識が強くある。

ここからはひょっとすると、この宇宙で生きるという段階に至るのだろうか。そのためにはおそらく、地球の外で生きるという直接体験が必要なように思う。

もちろん、そうした体験がなくても、宇宙で生きているという感覚が得られるのだろうが、私は直接体験の伴った感覚を大切にしたい。自分の直接体験の中にこそ、自らの固有性が宿るのだから。フローニンゲン:2019/4/14(日)10:39

4155. 音の海と仮眠中のビジョン

時刻は午後の六時を迎えた。今、沈みゆく太陽の西日が書斎に燦然と降り注いでいる。その陽射しがとても強かったので、今、カーテンを閉めた。

今日は計画通りに、ウィルバーの監訳書のレビューを終えることができた。全部で七章、最初から最後まで一言一句丁寧に読み返していった。

このレビューの作業に並行して、注として付け加えた方が良さそうなものを追加し、タイトル案に関してもアイデアを出した。さらに、冒頭の「はじめに」、巻末の「解説」及び監訳者プロフィールについても新たなものにしていった。

こうして無事に今日中に初校に対する作業が終わってホッとしている。ここから再校が出来上がり、それに対してもレビューをする必要があるが、初校に対するレビューよりも作業時間は短いだろう。

レビューの仕事と日記の執筆に加えて、今日は三曲ほど曲を作ることができた。午後に、シュタイナーが執筆した“The Inner Nature of Music and the Experience of Tone (1983)”を再読していると、シュタイナーが睡眠と音楽に関して興味深いことを指摘していた。

私たちは深い眠りの意識にある時、「音の海」にいるとシュタイナーは述べている。これは偶然ながら、日本を代表する作曲家である武満徹が「音の河」と述べていたものと非常に近しいものがあるのではないかと思う。

本書に関しては、最初の章を再読し終えたばかりだが、今回は一言一句丁寧に読み返しているためか、発見の連続である。シュタイナーの音楽思想に関しては、これから数日間、ないしは数週間をかけてゆっくりと探究を深めていく。

私たちが深い眠りの意識にある時に音の海に浸かっているのであれば、そこから夢の世界に移行した際にも、音の海の影響が何かしらあるはずである。そういえば、これまで書き留めた夢の中には、何回か音の大伽藍に包まれる夢を見ていたことがある。

それらの夢はひょっとすると、音の海が夢の世界に流れ込んできたことを表していたのかもしれない。そうであれば、ここから私は是非とも、夢の中に流れ込んできた音の海の一滴でもいいので、それを曲の形にしたい。

そしてあわよくば、今後は音の海そのものに飛び込んでいき、そこでの経験を曲の形にしていきたいと強く思う。

人間の無意識の世界、夢の世界、高次元の意識の世界、音の世界等々、それらのつながりは本当に興味深く、観察と探究が尽きることはない。

今日は午後に仮眠を取る前に、いつもより五分ほど長く仮眠を取ることにした。その背景には、断食の最中はとりわけ、仮眠中にビジョンを見やすいため、五分間さらに仮眠時間を延ばすことによって、ビジョンをより長く見られるのではないかと思ったからである。

この仮説は全くもって正しかった——今日に限っての話かもしれないが。五分間ほど仮眠時間を長くしたことによって、ビジョンの持続時間が長くなり、ほぼ最後まで仮眠中のビジョンを見届けることができた。

ビジョンの中で立ち現れていたのは、視点が外国の綺麗な街並みをゆっくりと動いているものだった。赤い自転車や美しい造りの橋が見えたのを覚えている。

視点の動きは歩くぐらいのスピードであり、その動きに合わせて街の様々な風景を捉えることができたのである。その街に訪れたことはないが、とても落ち着いた街であり、それでいてモダンさもあった。

明日もまだ断食は続くため、今日と同様に五分ほど仮眠時間を長くしてみようと思う。フローニンゲン:2019/4/14(日)18:29

4156. アルコールフリーのオーガニックワインとの出会い

断食三日目がゆっくりと終わりに向かっている。早朝の日記にも書き留めたが、断食三日目の心身の状態は極めて良好だった。

非常に高い集中力を持って諸々の活動に従事することができた。ただし、午後に街の中心部のオーガニック食品店に散歩がてら歩いて向かっている際に、それほど早歩きができず、ゆっくり歩く必要があると直感的に感じた。

また、往復で40分ほどの散歩が限界であり、それ以上歩くと身体に負担がかかるように思われた。断食中は激しい運動は控える必要があり、ゆったりとした散歩に留めるのが良いということが言われているが、まさにその通りである。

オーガニック食品店に訪れた時、先日調べものをしていた時に偶然発見した、アルコールフリーのオーガニックワインがあるかどうかを確かめてみた。すると、1種類ほどそれが置かれていることに驚き、嬉しくなった。

私は普段は自分の肝臓のことを考えて、一切アルコールを飲まない。ただし、アルコールフリーのオーガニックワインというのは一回試してみたいと思っていたのである。

その店に置かれていたのは、「OPIA オーガニック ノンアルコール」のシャルドネである。このワインは、ノンアルコールワインでは世界で初めてオーガニック認定されたという画期的な商品らしい。

通常、ノンアルコールワインは、ブドウを発酵させた後にアルコールを飛ばす「脱アルコール」製法で造られるが、この製法では味わいと風味が弱まってしまうという難点があったそうである。この問題を見直し、通常のワインと同じ工程をたどりながら、発酵が進まないギリギリの温度で管理し、発酵させないことによって、ワイン本来の味と風味が残るように造り上げたのがこのワインであるという説明があった。

ノンアルコールのワインというのは、ただのブドウジュースではないか?と言われてしまいそうだが、両者の違いは酵母が生きているかどうかにある。ジュースは果汁をタンクに入れ、高温殺菌処理によってブドウ酵母を死滅させ、発酵を防止する。そのため、この製法で完成したブドウジュースには生きた酵母はいない。

また、こうして造られたジュースは、時間の経過とともに酸化しやすくなるため、二酸化イオウ等の酸化防止剤を添加し、酸化を遅らせるように作られている。さらに開封後は品質も劣化しやすく、冷蔵保存していても味は早く落ちてしまう。

一方、ワインのなかにあるブドウ果汁は、酵母が生きている点に特徴がある。そのため、逆に時間経過とともにより熟成した味わいになっていくのである。こうした違いがあることを本日知った。

また、料理とのマリアージュが楽しめるという点もワインの魅力である。普段食べている野菜サラダや刺身などは、白ワインとの相性が良いだろう。

だが、アルコールを口に入れたくない私はこれまでワインを飲むことをしなかった。しかし本日、ノンアルコールのシャルドネを見つけたため、次回この店を訪れた際に、このワインを購入してみようと思う。

このシリーズは、本来赤ワインもあるようだが、私が普段食べている料理との相性、さらには白ワインの効能の方が自分の身体が欲しているものに近いため、シャルドネの方を時折飲んでいこうと思う。

白ワインの効能は、例えば、白ワインに含まれる有機酸が腸内を綺麗にしてくれるというものがある。有機酸とは、オレイン酸、リノール酸、リノレン酸、クエン酸、アミノ酸などのことであり、これらの酸が腸内環境を整えて、便通を良くしてくれる。

有機酸には腸内のpHを下げ、弱酸性に保つ効果もあるらしく、これによって悪玉菌だけを殺菌し、善玉菌を腸内に残すことができる。「第二の脳」と呼ばれる腸を整えるために、白ワインは一役買ってくれるのである。

ただし繰り返しになるが、通常の白ワインを飲むと腸が整ったとしても、肝臓に負担を与えてしまうため、私は基本的にはもうアルコールを口にしない。

白ワインのその他の効能は、確かに赤ワインの方がポリフェノール含有量は多いが、白ワインのポリフェノールは赤ワインのポリフェノールより分子量が小さく、吸収されやすい特徴がある。さらには、白ワインには、カルシウムとマグネシウムの二大ミネラルが含まれている点も特徴である。

一週間の断食を終え、回復期を終えた時にノンアルコールのシャルドネを飲んでみたいと思う。フローニンゲン:2019/4/14(日)18:49

4月14日(日)の曲一覧

Op.1045 断食小僧

Op.1046 纏う感覚

Op.1047 魂太鼓

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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