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4131-4139:フローニンゲンからの便り 2019年4月11日(木)


タイトル一覧

4131. 意思を超えた世界の流れの中で

4132. 明日からの断食に向けて:フリスビーに関する夢

4133. 音楽教室での出来事に関する夢

4134. シャドーのさらに深くのシャドー

4135. 今朝方の夢の断片

4136. この世界と畏怖

4137. 確かにあった対話の中で:凝縮と弛緩

4138. 何を取り入れるかではなく何も取り入れないことの大切さ

4139. 書くことは開くこと

4131. 意思を超えた世界の流れの中で

今日もまた、自分の意思を超えた力によって新たな一日がやってきた。一日が始まり、そして終わり、そこから再び新たな一日がやってくること。それはある人間が生まれ、そして死に、そこからまた新たな人間がこの世界に生まれてくる大きな流れと同じようにも見える。

このように私たちは、自らの意思が到底及ばない世界の中で毎日生きているのだろう。新しい一日が再びやってきたということそのものが奇跡的なことのように思えてくる。

昨日は四時半過ぎに起床したが、今朝は六時過ぎの起床となった。今朝の目覚めは極めて良好であり、一度も目を覚ますことなく良質な睡眠が取れていたように思う。

起床してすぐに水を一杯飲み、今は昨日購入した有機八丁味噌を白湯に溶かしたものをゆっくり飲んでいる。早朝に飲む一杯の味噌汁は大変美味く、その栄養が体に染み渡るかのようである。

これからも、朝に一杯の味噌汁を飲むことを継続させていこうと思う。具なしの味噌汁の後に午前中飲むものは、白湯にケンプパウダーとココナッツオイルを溶かしたもの、その後、白湯にカカオパウダーを溶かしたものを飲む。

ココアを飲むときに、昨日はココナッツオイルを混ぜたが、午前中にココアを飲むときは、ココナッツオイルの代わりに蜂蜜を混ぜるようにしてみようと思う。午後にもう一杯ココアを飲むときがあれば、そのときにココナッツオイルを入れるようにする。

今日もまた、自らの取り組みに専心する一日になるだろう。その気概を後押しするかのように、小鳥が早朝の歌を歌っている。この歌を聴くことができれば、どこまでも自分の取り組みを前に進めていけるような気がする。

自らの取り組みを自分にできる限り深めていくことは、喧騒も煩わしい人間関係もない場所で自らの取り組みに邁進することができる環境を与えられた自分が果たすべき事柄なのだと思う。

今日は午前中に一件、午後に一件オンラインミーティングがある。どちらも内容は異なるものなのだが、双方に楽しみがある。それらは共に、自分にとって新しい試みであるから、そこからまた様々な気づきや発見がもたらされることだろう。

そうしたオンラインミーティングに並行して、今日も作曲実践と作曲理論の学習を進めていく。後者に関して言えば、昨日から“A Concise Explanation of the Church Modes (2018)”という教会旋法に関する理論書を再読し始めた。

今日はその続きを読み、教会旋法に関する理解を深めていく。この再読に際しては、一言一句読むようにしているし、巻末の具体例を実際に譜面上で再現しながら音を出すことを行っている。手を動かし、心を動かしながら行う読書によって、書物に書かれている知見を血肉化していく。

昨日ふと思ったが、曲作りというのは、ある意味諸々の選択の連続であるから、選択肢を広げることは重要である。それを可能にするのは、やはり作曲に関する知識と経験なのだろう。

とりわけ、知識については今後も積極的に獲得していきたい。過去の偉大な作曲家の曲を譜例を記載しながら分析した専門書は可能な限り全て入手し、それらを読み込み、さらに今後は音楽理論に関する専門ジャーナルも購読しようと思っている。

今後はこれまで以上に、とにかく自分の関心に赴くままに探究と実践を進めていく。そうした環境と機会が与えられていることに感謝をし、自らの役割を積極的に引き受けていく。フローニンゲン:2019/4/11(木)07:14

No.1847: Forget‐me‐not

Perhaps, each one of my journals and pieces of music might be like a a forget-me-not. Groningen, 17:30, Thursday, 4/11/2019

4132. 明日からの断食に向けて:フリスビーに関する夢

相変わらず湯たんぽを使って寝る日々が続いている。今日の最高気温は9度、最低気温は0度とのことである。明日は両者ともに1度ほど下がり、最低気温はマイナスとなる。

四月の第二週を終えようとしているフローニンゲンの気候はこのように寒い。

明日から五日間ほど固形物を一切摂らない断食を行う予定でおり、幸いにも断食の終了を祝福するかのように、来週の水曜日からは気温が上がる。もちろん、それも一過性の現象に過ぎないとわかっているが、温かさを感じられることは有り難い。

今回の五日間ないしは六日間ほどの断食は、特に気をつけるべきことはないと思う。というのも、これまで断食に関する書籍を数冊読み、関連情報はできる限り得て、そして実際に先日三日間ほど断食を行うという経験を積んだからである。

もちろんこの機会に、作曲理論や哲学に関する書籍を読むことに並行して、これまで読んだ断食に関する三冊の書籍を再読するというのもいいだろう。このようにして、読書と実際の体験を通じて、断食に関する理解をさらに深めていく。

何事においてもそうであるが、自ら体験を積むということは、対象に対する理解を深める最良の手段である。その点を肝に銘じておきたいと思う。

おそらく、今回の断食によって、また心身の変化を垣間見ることになるであろうから、それをつぶさに記録しておきたいと思う。

それではいつものように、今朝方の夢について振り返っておきたい。今日もまた印象に残る夢を見ていた。

夢の中で私は、実際に通っていた小学校か中学校の体育館の中にいた。ただし、どうやら体育館が改修されているらしく、中はとても広くなっていた。また、天井の高さもかなり高くなっていた。

体育館の中には、およそ100人ほどの同じ学年の生徒たちがいて、皆地べたに座って何かをしていた。私は立ってその辺りをウロウロし、彼らが何をしているのかを見てみると、どうやらお手製のフリスビーを作っているようだった。

それに気づいた時、私の右手にもフリスビーがあった。私たちは、自分の手作りのフリスビーで何かを競い合うことをこれから行うようだった。体育館の中には、不思議と先生らしき人物は誰一人としていなかった。

こういう状況の時、私は最も安心感を感じられ、好きなことを好き放題やろうという気持ちが生まれるから不思議である。先生が監視していないことに伴う解放感からか、皆活き活きとしてフリスビー作りに熱中しているようだった。その様子を見ながら、教師の存在意義とは何なんだろうかとつくづく考えた。

相変わらず私は辺りをぶらぶらしていると、遠くの方から「できた!!」という声が聞こえた。声の方を見ると、友人の一人(SS)がフリスビーを完成させたらしい。

そこで彼は試しに、フリスビーを天井に向かって高く投げ、それがブーメランのように自分に戻ってきたところを見事にキャッチした。その光景を見たとき、私は二つのことにとっさに気づいた。

一つは、完成したフリスビーを用いて行われることは、フリスビーをどこまで遠くに飛ばせるかを競い、しかもそれがブーメランのように戻ってきたときにきちんとキャッチできるかを競うことである。遠くに飛ばせた距離によって、賞金が出されることがわかった。

二つ目に気づいたのは、フリスビーを横に投げるのではなく、あえて上に投げた方が自分の手元に戻ってくるときにキャッチしやすいということであった。この二つに気づいた時、それを近くにいた友人に伝えると、一つ目のルールは違うと言われた。

確かに、賞金が出ることは確かだが、自分が投げたフリスビーを自分でキャッチすることは許容されていないとのことであった。それを聞いた時、私は誰かがルールを書き換えたのだと察知した。

私は自分のアイデアに基づけば、この大会で優勝し、小学生や中学生にとっては大金であろう50万円か100万円を入手できると確信していた。だが現行のルールでは、自分のアイデアを実行することは難しそうだったので、そのアイデアを保留し、さらに新しいアイデアを得ることを考えながら、先ほどフリスビーを飛ばしていた友人のところに行って、彼と話をしようと思った。フローニンゲン:2019/4/11(木)07:36

No.1848: A Joyful March in the Early Morning

It seems to me that I can hear a joyful sound of a march in the early morning.

The sound makes me feel delighted. Groningen, 07:01, Friday, 4/12/2019

4133. 音楽教室での出来事に関する夢

神々しい朝日が赤レンガの家々に照らされ、赤レンガの家々はその光を反射して、光を私に届けてくれている。その点において、赤レンガの家々は、見事に恩恵を享受しながらも、それをこの世界に共有するという立派なことを行っているのだと思う。

太陽もひょっとすると、光を他者に届けるという奉仕に勤しんでいるだけではなく、広大な宇宙から何かを受け取っているのかもしれない。それでは、私はどうだろうか。

世界が私にもたらす恩恵に浴することしか行っていないのではないかという積極的な反省が起こる。いったい自分は、この世界に何を共有しているのだろうか。

太陽のように、あの赤レンガの家々たちのように生きられないのであれば、人間として生きる資格はなく、そのような人生に価値はない。その点を忘れないようにする。

日々は、広大な宇宙から恩恵を受けながら光を他者に届ける太陽のように、その太陽の光を受けて光をこの世界に反射させる赤レンガのように生きなければならない。それは人間として生きることの責務である。早朝の平穏な景色はそれを私に教えてくれる。

先ほど、今朝方の夢の一つ目について振り返っていたように思う。実はもう一つ夢を見ていたため、それについても書き留めておく。

夢の中で私は、実際に通っていた中学校の音楽室にいた。そこでは音楽の授業が行われようとしていた。

まず最初に、なぜだか高校になって知り合ったサッカー部の友人(TN)が先生に呼ばれ、教室の前に立ち、指揮者の役割を果たすことになった。そして、私を含めたその他の生徒たちは合唱をし始めた。

しばらく歌を歌った後、生徒各自は、ピアノの課題曲を練習することになった。一人一人の机の上にはキーボードがあり、各人練習に勤しみ始めた。

そんな中、私一人だけ、キーボードの操作が全くわからず、「ド」の音がどこにあるのか皆目見当がつかなかったし、楽譜の読み方も全くわからなかった。そのため、私は練習している振りをし、その時間を潰すことにした。

しばらくすると、先生がグランドピアノの前に座り、演奏を始め、私たちはそれに合わせて手元のキーボードを演奏することになった。周りの生徒はキーボードをきちんと操作し、ちゃんと音を出している。

一方私は、もう完全に投げやりになっており、いや投げやりを通り越していたため、そもそもキーボードの電源を入れておらず、電源コードも差していないような状況で、心を込めて演奏している振りを楽しんでいた。

不思議なことに、横に座っていた女性友達(KE)は、私が見事にキーボードを演奏していると錯覚しているようだった。私はそれが面白く、演奏のパフォーマンスをより激しくし、本当に演奏をしている雰囲気をさらに強めようとした。

先生が曲を弾き終えると、再び生徒一人一人に練習する時間が与えられた。私は教室の右列の一番後ろに座っており、先生はピアノの椅子から立ち上がると、まずは右列の方からゆっくりと徘徊し始めた。

私は相変わらず、電源コードを差さないまま、音の出ないキーボードをいじっている振りをしていた。すると、先生が私の横にやってきて、数秒ほどは私の演奏の振りに騙されていたようだが、「加藤君、音が出ていないじゃない」と述べた。

私はそこでもごまかそうとしていたのだが、もうごまかしきれないと思い、仕方なくキーボードの電源を入れた。私は相変わらず、ドの音がどこにあるのかわからなかったし、楽譜の読み方もわからないままだったので、みんなが比較的簡単に引いている練習曲の出だしの三つの音をゆっくり出していくだけで精一杯であった。

先生:「あんなに練習時間があったのに、一体何やってたの」

先生は呆れ顔を浮かべながら、そのように述べた。私は特に言い訳をするつもりはなく、ドの音がどこにあるのかわからないこと、そして楽譜が全く読めないことを伝えた。

すると先生は、「そんなこともっと早く言ってもらわないと困るじゃない。それは基礎の基礎よ」と激しい口調で述べた。すると、先生は何かを思い出したようにまた一言付け加えた。

先生:「あっ。そうならば、以前のあれは嘘だったのね。ギリシャ語が読めるという話は」

:「嘘じゃありませんよ」

先生:「いや、あれは絶対嘘よ。あなたにギリシャ語なんて読めるはずはないわ。音楽に関してこんな状態なんだから」

:「いえ、あれは嘘ではなく、最近流行りのゲームの中にギリシャ語が出てくるので、その知識を使って、以前クラスの中でギリシャ語について説明をしただけです」

先生:「い〜や、そんなことは考えられないわ。絶対嘘よ」

私は先生に言われるまで覚えていなかったが、以前クラスの中で、ギリシャ語に関する問題が浮上し、先生もそれがわからなかったようであり、偶然私はギリシャ語の知識を持っていたので、クラスの中で紹介することがあったのだ。その知識に誤りはなく、その出来事に嘘はなかった。

すると先生は、私の右手を強引に取り、「ピアノはこうやって弾くのよ」と激しく教え始めた。私はその瞬間、頭に血が上り、心の中で「お前のような教師がいるから、生徒は音楽が嫌いになるんだ。音楽教師の役割は、生徒に音楽を嫌いになってもらうことなのか」と思った。

それを口に出して伝えようかどうか考えるだけの冷静さはかろうじてあり、冷静さを失っていれば、間違いなくそっくりそのままそれをその教師に伝えたであろう。私はそうした暴言を吐く代わりに、先生の手を払い、逆に先生の右手をキーボードの鍵盤の上に置き、「これがベートーヴェンの喜びの歌の出だしですよ」と言いながら、自分の拳をハンマーのようにして、思いっきり先生の手の甲を何度も叩きつけた。

すると、キーボードからけたたましい音が何度も鳴らされ、教室中にそれが響き渡り、周りの生徒たちの目はこちらに釘付けになった。その瞬間、私はこれはとても良い機会だと思い、先生の手の甲を完全に骨折させるために、「喜びの歌の終わりは確かこんな音でしたよね」と言いながら、自分の拳をハンマーのように再度思いっきり振り落とした。

すると、先生の手の甲は完全に骨折したようであり、先生は悲鳴を上げていた。そこで私は席をスッと立ち、周りの生徒に対して笑顔を振りまいて、教室から静かに出て行った。フローニンゲン:2019/4/11(木)08:06

No.1849: A Spirit of Cacao Beans

I feel like as if I encountered a spirit of cacao beans.

Skipping a series of logical chains, I’d like to invest money on a company dealing with organic cacao beans. Groningen, 08:56, Friday, 4/12/2019

4134. シャドーのさらに深くのシャドー

時刻は午前八時を迎えた。たった今、換気を終え、寝室と書斎の窓を閉めた。この時間帯は、自転車に乗って通勤や通学に向かう人たちの姿を多く見かけ、彼らは一様に暖かい格好をしている。

つい先ほど、今朝方の夢について振り返っていたように思う。音楽室でのあの出来事に関して、もう少し細かな情景描写を思い出した。

一つは、私が使っていた楽譜上とキーボードの鍵盤上には数字が書かれていて、楽譜上の数字を追って行けば一応演奏できるような仕組みになっていたことだ。だが、それでも私にとってキーボードの演奏は難しかったのを覚えている。

そしてもう一つは、先生が“clean-up”という英単語の意味について、私が以前嘘を教えたのではないかと言いがかりをつけてきたことである。それに対して私は、嘘など教えておらず、実際にその単語がよく使われる具体例を挙げて、再度先生に説明をした。そのような場面があったのを覚えている。

それにしても、この夢は、自分のシャドーを見事に浮き彫りにしているように思う。まだその根源まではわからないのだが、私は教師に対して不信感が絶えずあるようであり、教師を無能な存在だと絶えず見なす傾向があるようだ。

これは現実世界の今この瞬間にもまだ持っている傾向だ。教師への不信感、および高名な大学教授を含め、教師全般は無能であるという考え方が、自分の内側の何から生まれているのかを引き続き探究していく必要がある。

しかし、これまた無学のセラピストが陥るような発想として代表的な、「シャドーは全て治癒しなければならない」という馬鹿げた発想は持たないようにする。私には、このシャドーは現実世界における自分の活動の根源に該当するようなものであるように見えるため、その探究と取り扱いについては気をつける必要があるだろう。

先ほど書き留めた夢の中に出てきた自分について考えを巡らせていると、この問題が根本的に解決されることがあるとすれば、すなわちこのシャドーが、力量のないセラピストによって歪に解消されたかのように見える形ではなく、それが真に自己に包摂される形で健全な形で乗り越えられていくことがあるとすれば、それはあの夢に出てきた自分自身がそのシャドーに気づくことなのだと思う。

言い換えれば、今こうして日記を綴っている自分が、あれこれと夢の中の自分のシャドーについて考えていてもダメなのである。要するに、シャドーワークを真に行わなければならないのは、この現実世界の自分だけではなく、いやそれよりもむしろ、夢の中の自分がそれを行う必要があるのである。

これ以上言い代える必要はないと思うが、端的に言えば、夢に現れたシャドーとしての自分が、さらに一段深いシャドーに対して働きかけるためにシャドーワークを行う必要があるのである。シャドーがさらに深いシャドーと向き合うという試みについてのアイデアは、今朝方突如として現れたものである。

おそらくこれは、内面領域のさらに内面に向かっていくシャドーワークであり、セラピストの力を借りて行えるようなものでは決してないだろう。なぜなら、セラピストの力を借りて行う技法は全て、この現実世界の覚醒中の自己を媒介して、シャドーに働きかけるだけであり、私がここで指摘しているのは、シャドーそのものがさらに深いシャドーに働きかける実践のことだからだ。

今後は、夢の中の自分が、その自分が持っているさらに深いシャドーに気づく必要があるだろう。ここにシャドーの階層的構造を見つけることができると共に、シャドーワークに関する新たな道が見えてきた。フローニンゲン:2019/4/11(木)08:31

No.1850: A Borderline Between Dream and Poetry

The location of my activities might lie in the borderline between a dream world and that of poetry. Groningen, 11:35, Friday, 4/12/2019

4135. 今朝方の夢の断片

一日一食生活を始めてから、単純に活動に充てることのできる時間が増えただけではなく、どこか自分の内側から創造エネルギーのようなものが満ち溢れてくるような感覚がある。実際に、そうしたエネルギーを基にして、毎日執筆している日記の量がこれまでよりも多くなっているような気がするし、作曲に関しても毎日一定量の曲を作ることができている。

食生活の抜本的な改善を通じて、精神と魂の器としての身体を整え、活動エネルギーが満ち溢れてくるというのはとても自然なことなのかもしれない。

これから早朝の作曲実践を行おうと思ったところ、今朝方の夢の続きを思い出した。先ほど全てを書き留めていたと思ったのだが、まだ続きがあったのだ。それについても書き留め、今後の探究材料とする。

夢の中で私は、実際に通っていた中学校にいた。グラウンドの脇にある鉄棒の付近に私はいて、周りを見ると、何人かの男女の友人たちがいた。

私たちは皆、体操服を着ていて、どうやら体育の授業がちょうど終わった時間のようだった。私たちはクールダウンがてら軽くジョギングし、その鉄棒の周りでおしゃべりをしながら休憩を取っていた。

すると、話の輪の中に、小学校までを一緒に過ごし、中学校からは別の学校に転校してしまった女性友達(HK)がいた。彼女は私に微笑みかけ、何か一言二言述べ、私は自分が給食当番であることに気づいた。

すると、小中高時代を一緒に過ごした別の女性友達(YM)が、「ごめんけど、うちのカバン取ってきてくれん?」と述べた。私は給食当番であり、給食の準備が先であり、カバンなど取りに行けないと述べたが、彼女は自分のお腹を押さえながら、何かを私に伝えようとしていた。

その仕草を見て、私はあることを察知した。彼女のメッセージは、「お通じが来て、そのチャンスを逃したくない」というものであり、それを理解した時に、私は彼女の申し出を受けることにした。

ただし、給食を教室まで運び終わるまで待ってもらうことにした。そのような場面があったことを覚えている。

またこの夢の後に、起床直前に見た夢として、小中高時代の親友(HO)と会話をしていた夢を覚えている。夢の中の私は、彼が若くして亡くなったことを知っていた。それを知りながら、彼といろいろと談笑を楽しんでいた。

彼は、ヨーヨーの腕前がすごく、毎日どれくらい練習しているのかを私は尋ねてみた。すると、ここ最近は部活で忙しく、部活後はサッカー部のメンバーたちと夕食を食べに行くことが多いため、自宅に帰ってから練習する時間はほとんどなく、帰ったら寝るだけ、ということを述べていた。

私は彼の話に意識を集中させ続けていた。いや、彼の話というよりも、彼の存在に対して意識を集中させて続けていた。

なぜそのようなことをしていたのか定かではないように一瞬思えたが、夢の中の私は、彼とできるだけ多くの時間を過ごしたいと思っており、また何よりも、私が彼の話を真剣に聞くことが、自ら命を絶つという彼の将来の行動を踏みとどまらせることにつながりはしないかと考えていたからだった。

そのようなことを考えながら、夢の中の私は彼の話に耳を傾け続けていた。そこで目が覚めた。フローニンゲン:2019/4/11(木)08:50

4136. この世界と畏怖

小鳥の鳴き声に意識が向き、私はおもむろに書斎の席を立ち、窓際に向かった。窓の外を見ると、近所の工事に従事する名前の知らない作業員が休憩をしている姿が目に入った。

そして、スポーツウェアを着た中年男性が自転車をゆっくりこぎながら進んでいる姿を目にした。私は彼の名前もまた知らない。

自宅の前の庭には、薄ピンクの花をつけた木が植えられている。私は、その木の名前が何なのか知らない。

再び意識が小鳥の鳴き声に向かう。私は、その小鳥の名前を知らない。

まだが蕾が完全に花開かない木々が、優しいそよ風に揺られている。私は、そのそよ風の名前を知らない。

この世界には、名前の知らない存在者で満ち溢れている。そのことは、私になぜだか絶対的な安心感をもたらした。

この世界が魑魅魍魎で満ち溢れているのは知っている。現実世界、とりわけ人間が作り上げた世界というのは地獄絵図であることを知っている。

しかしそれとは違う極に、絶対的な安心感をもたらすリアリティの層が存在していることを知る。先ほど、そして今も継続して触れている層は、リアリティのそうした側面なのだろう。

この世界はひょっとすると、地獄性も天国性も超えたものなのではないかと思われてくる。リアルである以上にリアルに、この世界は地獄であると感じることもあれば、天国であると感じることもある。

だが、その感覚をさらに先に進めて、より巨視的な観点からこの世界を一息に眺めてみると、この世界はどうやら地獄でも天国でもないことが見えてくる。この世界は、自らにしてその世界自身を超越している。そんな考えがふと脳裏をよぎった。

一体自分は毎日この異国の地で何をして、どこに向かっているのかわからない。日々行っている個別具体的な事柄を挙げることはもちろん可能であり、現在進行している自分の取り組みや協働プロジェクトが向かう先はおぼろげながらに見えているものがあることは確かだ。

そうしたことではなく、自分がこの地で何かに従事していることのより真相的な意味、そしてそれが何につながっていく道の上にあるのかは、全く見えていないと言うことができる。

今、小さく美しい鳴き声を上げた小鳥は、一人で生まれ、一人で死んでいく。それは私という一人の人間の人生にもそっくりそのまま当てはまる。

一人でいること、ないし独りでいることの尊さが見えてくる。もしかすると私は、独りの道の上を歩き、そして独りに帰るのかもしれない。

独りとして生まれ、独りに帰るということに、人間が生きることの真相的な意味を見出すことができるかもしれない。今私が感じている絶対的な安心感というのは、真に独りである各々の存在者たちの独り性(孤独性)に共鳴をしていることから生まれた感覚だと言えそうだ。

ある一人の人間の一生における一つの瞬間が、絶えず始まり、絶えず終わっていることに驚くとともに、瞬間というのはそもそも始まった瞬間に終わり、終わった瞬間に始まるものであることを考えると、それには本当に始まりも終わりもないことがわかる。その事実は、ただただ私に畏怖を引き起こす。フローニンゲン:2019/4/11(木)11:33

4137. 確かにあった対話の中で:凝縮と弛緩

時刻は午後五時に近づいている。この瞬間のフローニンゲンの上空には、幾筋もの雲が存在していて、強い西日を適度に遮っている。そうしたおかげもあり、いつもはこの時間帯は書斎のカーテンを閉めているのだが、今日はカーテンを開けたままでいることができている。

今から一時間ほど前に、友人かつコーチの方との交換セッションを終えた。セッションが終わった後の余韻を味わうために、あえて文章を書くことから離れて、少しくつろいでいた。

今、改めて今日のセッションについて振り返っている。そこでどのようなことが話されたのかということ以上に、そうした場があったということ、そうした瞬間があったことの方が大事なように思える。

今回、交換セッションをしようと持ちかけたのは私の方であって、その背景には、対話を欲する自己がいたのだと思う。欧州で過ごしてきたこの三年間を振り返ると、私は自力での実践、あえて言えば自己を凝縮させるような実践を積み重ねてきたのだと思う。

それはそれで、自己を深めていくためには不可欠なものなのだが、人間の発達とは不思議なものであり、それだけでは成しえない。端的には、自力のみならず、他力が必要であり、凝縮のみならず、弛緩が必要なのである。

そのように考えてみると、これまでの三年間というのは、自分にとって徹底的に自己凝縮を課す期間だったのだと思う。おそらくそうした蓄積が臨界点に達し、突如として他力ないしは弛緩が必要だということに気づいたのだと思う。

人間の発達は、内側から開いていくプロセスとして喩えられるが、まさに凝縮した実が緩まって外側に開いていくかのように人間の発達も実現されていく。今回の交換セッションというのは、そうした機会になるのではないかと思う。

今日のセッションで自分が話した事柄をここではあえて細かく書き留めることをしない。そうしなくても、今後の日記の節々の中で、今日話した内容や得られた気づきが滲み出てくるであろう。

自分が話したこと、そして得られた気づきを時の発酵過程の中に投げ込むことが重要なのである。時の発酵過程の中に投げ込まれた気づきは熟成され、それが新たな気づきや発見として姿を表すだろう。

そうしたことが実現された時、新たな自分がそこにいると述べることができる。

この四年間の自分を振り返ってみると、他者との対話を通じて自己を開示していくということ、そして探求していくということをほとんど行っていなかった。それには諸々の理由があり、あえてそうしたことをしていなかったと言えるのだが、今はごく少数の信頼できる人とだけ、少しずつそうした対話をしている。

それを継続させていくとき、私は以前から述べているように、「人間は究極的に独りであるが、同時に究極的に独りではない」という境地に至れるように思うのだ。その道はすでにうっすらと見え始めており、その感覚は日増しに強くなる。

今日私はそのようなことを感じながら、フローニンゲンという北欧に近い街で一人の人間として確かに生きていた。フローニンゲン:2019/4/11(木)17:13

4138. 何を取り入れるかではなく何も取り入れないことの大切さ

本日をもって、手元にある食材を全て使い切った。それはすなわち、明日からの断食の実践の始まりを意味する。

今日は、ミニトマトをいつも食べているリンゴのような果物代わりに10粒ほど食べ、玄米味噌を溶かした白湯にニンニク2つをスライスしたものを入れ、それに合わせて刻んだ生姜を乗せた豆腐を食べた。今日の夕食はそれのみである。

明日からは少なくとも五日間ほどの断食を実践する。もちろん、それは固定したものではなく、断食の経過に応じた心身の状態を見ながら、日にちを短くすることもあるかもしれないし、逆に長くすることもあるだろう。

今のところ、予定としては五日かもう一日、二日長くなることを想定している。ただし、七日を超えての断食は今回は行わないし、今後も一週間以上の断食を行うつもりはあまりない。その理由についてはまた今後言及する機会もあるだろう。

断食の最中は、いつもと変わらずに探究・創造活動に従事しながら、同時に複数の協働プロジェクトに関する仕事を行なっていく。キャリアコンサルタントのテキストに関する文章の執筆、ウィルバーの監訳書のレビュー(編集者の方に半ば冗談交じりで、初校のレビューの最中は断食をしてそれに臨むと伝えていたが、本当にそれが実現しそうである)、その他には具体的な実務作業を伴う仕事がいくつかある。

断食中だからといって何か特別なことをするわけではなく、自分に与えられた役割を担っていくだけであり、断食をすることもまた一つの役割なのだとここ最近は思う。

先日の断食をして気づいたことは、何も取り入れないことの重要性である。これは時代の流れと大きく逆行しているよに思える。

というのも、現代人の多くは、食べ物のみならず、知識や情報を含め、何かを一生懸命に取り入れようとすることに躍起になっているからだ。彼らは、何かを取り入れることの良さを盲信しており、あるいは何かを取り入れることが良いことだと信じ込ませられている傾向が見える。

その結果、自己肥大や病理を含め、様々な問題が顕在化しているのが現代社会の一つの側面ではないかと思う。何かを取り入れることに躍起になる自分を冷静になって眺め、何も取り入れないことを一度選択してみるのはどうだろうか。

それは身体の次元においては食べ物が該当し、精神的な次元においては情報がわかりやすい例として該当するだろう。随分と昔の日記の中で、情報のデトックスに関して言及していたことがあったのを覚えているが、まさにその論点に近い。

世間では読書家なる者が尊敬の眼差しで見られる傾向にあるが、見方を変えれば、彼らが仮に自らがどのような情報をどれだけ取り入れているのかに自覚的でなければ、それは単なる情報肥満な人間なのではないかと思う。

喩えて言えば、朝昼晩と小難しい書籍を一生懸命読んでいるような人は、朝昼晩と重たいステーキを食べる過食者なのだと思う。どういった質の食事をどれだけ食べるのかが重要なのと同じことが情報においても当てはまるということを知っておくことは、とりわけ現代社会のように玉石混交の情報で渦巻く世界の中で生きていくためには重要なことのように思える。

メールを四六時中確認してしまうというのは、食品添加物まみれのスナック菓子を絶えず口に突っ込んでいるような状態であり、SNSを絶えずオンラインにしているのはメール以上にタチが悪く、ゴミを絶えず口に突っ込んでいる状態に喩えられるのではないかと思う。

何かを取り入れることに躍起になるその衝動に自覚的になり、そうした衝動がどのような仕組みの元に発生しているのかを冷静に見極め、あえて何も取り入れないという時間(日々)を過ごしてみるというのは、この現代社会においてとても重要なことのように思える。フローニンゲン:2019/4/11(木)18:48

4139. 書くことは開くこと

今、夕食後の楽しみであるルイボスティーに一口つけた。今日の午後に、知人の方と対話をしている際に、少しばかりお茶の話になり、そういえば今飲んでいる二種類のお茶を分類してみると、今この瞬間に飲んでいるルイボスティーはどことなく白ワインのような色合いを帯びており、午後に飲むゴールデンフルーツは赤ワインのピノ・ノワールのような色合いのように思える。

色彩的な違いが味の違いと関係しているというのは大変興味深く、しかもそれが身体や心に影響を及ぼす違いにもつながるというのは面白いことである。古代ギリシャの哲学者は、この世界が何によって成り立っているのかを盛んに議論していたが、そういえば誰一人として、「この世界は色で成り立っている」と述べた者がいなかったことは興味深い。

一方で、仏教の言葉で「色即是空・空即是色」という言葉があるが、ここでは「色」という漢字が用いられていることは注目に値することだと思う。色という観点からこの世界を眺めてみるということを引き続き行っていく。

ここ最近は一日一食生活によって時間が生まれたためか、そしてそれによって自分の感覚が変容したためか、日記を執筆する量が少しばかり多くなっているような気がする。私は毎日、日記を書かないといけないというような脅迫感を感じたことは一度もなく、いつも言葉の方が自分を呼ぶのである。

私は言葉に呼ばれ、それを文章の形にしているだけに過ぎない。そうした観点において、私は自分の言葉の媒介者に過ぎないのではないかとさえ思える。

自分の言葉は、この世界と自己及び他者をつなぐものであり、それをさらにつないでいるのがこの肉体を持った自分なのだと思う。今このようにして書いている日記も、何か書かなければならないという衝迫的なものに後押しされて生まれてきたものではなく、ごく自然と言葉が流れるように生み出された結果として形になったものである。

その延長で、夕方に書くことについて少しばかり考えていた。書くこと、特に文章が一度完結の瞬間を迎えるというのは、どのような文章においても起こることであり、それがない文章は存在しない。

つまり、書き始めた文章は、必ずどこかの地点で終わりを迎えるということだ。その観点において、文章を書くことは一見すると、その始まりから閉じることに向かっているように見えるかもしれない。

だが私はふと、書くことは閉じることではなく、むしろ開くことなのではないかと思ったのである。確かに、いかなる文章も句点が置かれ、そこで終わりを迎え、それはその文章における帰結であったとしても、実はそれは自己をさらに開いていく始まりに思えてくるのである。

これは、始まりと終わりが同一のものであるという論点ともつながってくると思うが、私たちは文章を書きながらにして閉じる方向に向かっているというよりも、自己をさらに開いていく方向に向かっているのではないかと思われる。そのため、日記をなぜ書いているのかと問われれば、もしかすると今の私は、自己を開くためと答えるかもしれない。

一杯のルイボスティーの香りが空間に開かれたことを受けて、そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2019/4/11(木)19:02

4月11日(木)の曲一覧

Op.1038 無邪気な天気

Op.1039 果てしなく続くリアリティ

Op.1040 忘れな草

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