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4009-4012:フローニンゲンからの便り 2019年3月21日(木)


タイトル一覧

4009. 今朝方の夢

4010. 詩と音楽:原初的な自己を開示する作曲

4011. 静寂と自由:コーヒーと電子レンジについて

4012. フラクタルとしての創造物:啐啄同時的な人生

4009. 今朝方の夢

時刻は午前八時を迎えた。今日は風も穏やかで、曇り空ではあるが、とても平穏な一日である。

今日は気温が少し上がるとはいえ、まだ寒さを感じる。明日だけ例外的に最高気温が17度に達するため、フローニンゲン郊外の楽譜屋に散歩がてら足を運んでみたいと思う。その際には、オランダの作曲家の楽譜がないかを探してみようと思う。

ここ最近は夢の世界が少しおとなしい。今朝方も二つの夢を見ていたことは確かだが、それほど記憶に残っていない。

とはいえ、覚えている範囲のことを書き出すことを通じて、細部を思い出すことがあるかもしれない。夢の中で私は、見慣れないビルの中にいた。

ビルの中には明かりが灯されているのだが、少々薄暗い。ビルの中の大きなスペースを歩いていると、前方に、高校時代のクラスメートの二人の女性の姿を見つけた。

彼女たちに話しかけてみると、何やらクイズの問題を解いているようであった。二人は私に、ある問題の解答を教えて欲しいとお願いしてきた。

どのような問題か聞いてみたところ、即答するには難しい問題だった。最初の夢に関して覚えているのはそのぐらいである。

この夢について書き出していると、私はクイズに関する夢を見ることが時折あることに気づいた。私たちの人生は謎であり、パズルでもあるという特徴から、このような夢を見るのだろうか。クイズというシンボルが持つ意味について少し調べてみたいと思う。

今朝方の二つ目の夢についても振り返っておく。夢の中で私は、語学に関する質問を友人から受けていた。

その友人が誰であったかは覚えていないのだが、質問に関する言語はオランダ語とドイツ語だった。友人は、そのうちの一つの言語を選んで何かに回答しようとしているようであり、二つの言語のうちどちらを選んだほうがいいのかを私に相談してきたのである。

私はその友人の語学力についてわからず、彼がどちらの言語のほうが得意なのか不明であったため、回答は難しかった。そのため、自分であればどちらの言語を選ぶかを答え、私はオランダ語を選択してその質問事項に回答した。

二つ目の夢で覚えているのはそのぐらいである。この夢が興味深いのは、大学時代に第二外国語で選択したドイツ語ではなく、自分がオランダ語を選択したことだ。

これはオランダ語の方がドイツ語よりも得意という意味よりも、オランダ語をこれからしっかりと学んでいこうという意思の芽生えかもしれない。実際に、ドイツ語にせよオランダ語にせよ、片言しか話すことができない。

いや、ドイツ語に関しては、簡単な挨拶と自分の名前を言うことぐらいしかできないように思う。一方、オランダ語に関しては、それよりも幾分ましな程度であって、三年間オランダで生活をしているが、スーパーの店員や列車の車掌との簡単なやり取りを除いて、少しでも込み入った会話は全て英語で済ませてしまっていたため、私のオランダ語力は低いままである。

とはいえ、ここからオランダ永住権を取得するためには、オランダ語の試験を受ける必要があり、先日その問題を少し眺めてみたところ、TOEFLのように、リーディング、リスニング、スピーキング、ライティングの四つのセクションがあった。

TOEFLとの違いを挙げれば、TOEFLは学術的な英語力を試す試験である一方、永住権取得に関するオランダ語のテストは、日常的なオランダ語、さらにはビジネス用の簡単なオランダ語を試すような試験であり、どちらかというとTOEICのような試験に思えた。

また、永住権取得に向けた試験には、オランダの歴史や現代社会に関する簡単な試験もあるため、永住権を取得するためにはオランダ語とオランダ社会についてしっかりと勉強することが求められる。オランダ語を本格的に学ぶ重い腰が上がらないが、起業家ビザを五年ごとに更新するのではなく、仮に永住権を取得しようと思ったのであれば、オランダ語の学習に力を入れる必要がある。フローニンゲン:2019/3/21(木)08:35

No.1781: Waves of A Rose

Since today will be sunny from now, I’ll go to a music sheet store in Groningen.

This is what I want to say at this moment. Groningen, 10:36, Friday, 3/22/2019

4010. 詩と音楽:原初的な自己を開示する作曲

不思議だ。今日の空は決して青空ではなく、空一面が薄い雲で覆われているのに、この空を深く眺めてみると、それが透き通った空であるかのように見えるのだ。

もちろん、ここで述べている「透き通った空」というのは青空を指しているわけでは決してなく、それは空が本来持っている本質的な何かだと表現していいかもしれない。

また、透き通った空というのは、空が透けて向こう側が見えるなどということとは無関係である。空全体と溶け合う感覚をもたらしてくれるのが目の前に広がっている空である。

今日もゆっくりと読書をしたり、作曲をしたりしようと思う。特に今日は、作曲においては様々な実験をしたい。

実験をしたいアイデアが無数にあり、そのうちのいくつかを試してみる。これは今日試すものではないが、以前より芽生えていたアイデアとして、ルーミー、マラルメ、リルケなどの詩を読み、それによって喚起された心象イメージを曲にしてみたいというものがある。

もちろん、モネ、ルドン、ターナーなどの絵によって喚起されるものを曲として表現したいという気持ちは以前よりあったが、絵画はすでに視覚的イメージを強く伴うものであるため、あえて視覚的なイメージではなく、心象イメージのみが伴う詩をもとにして曲を作ってみたいと思うのである。

上記の詩人以外にも、意識の発達理論に造詣の深い人にとって馴染み深いシュリ・オーロビンドが残した一連の詩作をもとに曲を作ってみるのも良いかもしれない。その際にはおそらく、調性の枠組みを超えた曲が生まれそうな予感がする。

結局私は、先日パリに旅行に出かけた時、市内の楽譜専門店でメシアンの楽譜を見つけたが、それらを購入することはなかった。とはいえ、メシアンの作曲技法には依然として関心を持ち続けており、昨日は書斎のソファの上に積み重ねられた書籍の中から、メシアンが執筆した“The Technique of My Musical Language (1956)”を取り出し、書斎の机の上に置いていた。

今日から本書を少しずつ参考にして、メシアンの作曲技法を自分の作曲に取り入れていきたいと思う。おそらく詩をもとに曲を作る際に、メシアンの作曲技法がカギを握るような気がしている。

今から正午にかけて二曲ほど実験的な曲を作り、午後からはモーツァルトの曲を参考にしながら自己と戯れる。モーツァルトの曲を参考にしている時は不思議にも、自己の内側の何かと戯れているような感覚がする。

ここ最近の日記にも書き留めていたように、一つ一つの曲は、その瞬間の自己の心象風景を赤裸々に映し出す。自己を丸裸にし、原初的な自己の姿と向き合うことに関して、作曲は非常に優れているように思う。

そこにあるのは、視覚的に捉えられるような何かでも、言葉でもなく、ただ音があるだけだ。自己が音として、そして音の世界として立ち現れてくるのを見つめることができる。

音楽を通して自分自身を深く知ることが可能になりうるというのは、この点と関係がありそうだ。フローニンゲン:2019/3/21(木)10:32

4011. 静寂と自由:コーヒーと電子レンジについて

早朝と変わらず、空は薄い雲で覆われている。そよ風がフローニンゲンの街を吹き抜けており、それはそっくりそのまま自分の心の世界の中でも吹いているかのようだ。

ベートーヴェンはかつて、「静寂と自由は最大の財宝である」と述べた。フローニンゲンのこうした静けさ、そして、欧州での生活を通じて得られた自分なりの自由というのは、自らの人生を生きていく上での最大の財宝になった。

しかもこの財宝は、確かに自分にとっての静けさと自由が元になっているものなのだが、どこか公共財としての性質を持ち合わせているようにも思える。静けさと自由の中で日々営む一つ一つの活動が、この社会と絶えず密接に関係しているという点がそのようなことを思わせる。

数日前より、コーヒーを飲むことを止めてみた。それが今も続いている。

コーヒーを止めようと思ったのは、一日一食の生活を始めたことと関係している。コーヒーには優れた効能があるのだが、一日一食の食生活を送る場合、日中は絶えず空腹の状態になっている。

そうした状態でコーヒーを飲むことは胃を荒らしてしまうことにつながってしまう。食後にコーヒーを飲むことは、消化を助けてくれるとのことだが、夜にコーヒーを飲むことは精神を覚醒させてしまい、安眠を妨げてしまうため、夕食しか摂らない私にとって、コーヒーはやはり良い飲み物ではなくなった。

不思議なことに、これまで毎日数杯ほど飲んでいたコーヒーをいきなり止めることは何ら苦ではなかった。一日一食の食生活を送る際には、コーヒーのみならず、カフェインの多い紅茶や緑茶も胃液を過剰に分泌させてしまうそうなので避ける必要がある。ハーブティーなら問題ないとのことなので、これまで飲んでいたようにハーブティーは引き続き飲んでいこうと思う。

昨夜の夕食では、野菜をたくさん食べたことは良かったものの、若干食べ過ぎの感があった。仮に全粒粉のパスタを食べる際には、昨日の半分でいいように思える。今夜も野菜を多めに摂るが、二日に一回のパスタを食べることはしない。

野菜を食べる際には、それをレンジで蒸すようにしているが、レンジを使う際の基本的なことを忘れていた。野菜をレンジで温める際に、皿に入れたものをそのままレンジにかけていたが、それだと水分が蒸発してしまい、さらにはレンジの中に臭いが残ってしまう。

そこで今日からは、サランラップを軽くかけて温めたいと思う。こうすることによって、野菜の水分が無駄に蒸発せず、皿の中で蒸す働きを高めてくれるようだ。

また、今の自宅のレンジには回転台が付いており、そうしたレンジの場合、食べ物をレンジの真ん中に置いてしまっては意味がなく、台の端に乗せることによって、満遍なく温めることが可能とのことである。こうした事柄はどれも基本的な知識だと思うが、それらも一つ一つ体験を通じて学んでいく必要があると実感している。フローニンゲン:2019/3/21(木)12:59

4012. フラクタルとしての創造物:啐啄同時的な人生

つい先ほど、数日前にイギリスの書店に注文していた、断食に関する三冊の書籍が到着した。これから早速、“Prof. Arnold Ehret's Rational Fasting for Physical, Mental and Spiritual Rejuvenation: Introduced and Edited by Prof. Spira (2014)”から読み進めていこうと思う。

ちょうど今週末あたりに二日間ぐらいの短い断食を行おうと思っていたため、ここから数日間かけて三冊の書籍全てに目を通し、断食に関する正しい知識をできるだけ獲得したいと思う。

気がつかないうちに日記の数が4000を超え、作った曲に関しても1000に届きそうな状態にある。こうした数に至るまで毎日継続して文章を書き、曲を作ってきたことに対して、何か特別な感情を抱いたわけではなく、むしろこれからも水の如く淡々と日記と曲を書き続けていこうという気持ちになった。

最初の日記から今に至るまでの日記が一つの日記であり、最初に作った曲から今日まで作ってきた曲が一つの曲である。そしてそれらの中から一つの日記や曲を取り出したとしても、そこに自分の人生が滲み出ている。

これまでの全ての日記と曲の総体は、自分が歩んできた人生に他ならず、そこから一つの日記や一つの曲を取り出してみたとしても、そこに自分の人生を見て取ることができる。まさに創造物というのは、ある人間の人生のフラクタルに他ならないのだろう。

すっかり闇に包まれた外の世界を眺めながら、そのようなことを思う。

明日は天気が良く、春日和のようであるから、街の郊外にある楽譜屋に足を運んでみてもいいかもしれない。ここ二日間はあまり天気が良くなく、散歩する気分になれなかったので、明日は午後にでも、散歩を兼ねて楽譜屋に訪れてみよう。

店員に、オランダの作曲家の楽譜がないかを聞き、その他にも掘り出し物の楽譜があれば、それらを購入したい。やはり私にとって、楽譜こそが最良の学習教材であり、同時に師でもあるのだ。

今日の夕食は、昨日の夕食が少々食べ過ぎてしまったこともあって、見事に量を調節することができた。腹七分ぐらいで収まった感覚があり、これくらいがちょうど良い。

おそらくこれくらいの食事量であれば、消化にも負担にならず、今夜の睡眠の質はさらに高まるのではないかと期待する。

私が一日一食生活を始めることになった背後にあるものとして、この人生が啐啄同時の連続であるという特徴を挙げることができるかもしれない。「啐啄同時」というのは本来、禅の言葉であり、機が熟して悟りを開こうとしている弟子に対して、師がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くことを指す。

これと似た様なことが、人との出会い、一冊の書物との出会い、一つの場所との出会い、そして今回のように、一日一食といった出来事との出会いにおいて絶えず起こっている。しかもそれらは、それ以外のタイミングでは受け取ることのできなかった最適な時期に起こる。

そうしたことから私は、この人生が啐啄同時の連続なのではないかと思ったのである。そうであれば、仮に明日楽譜屋に足を運んだ時には、啐啄同時的な出会いが待っているかもしれない。

そんな期待を持ちながら、今日をゆっくりと終えていきたい。フローニンゲン:2019/3/21(木)20:29

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