タイトル一覧
4003. 今朝方の夢:思想書としての福永武彦氏の小説について
4004. 創造活動と内面涵養
4005. 昨日の市場での体験と夕食を振り返って
4006. 現代人が陥っている過食と過体験
4007. 作曲の持つ新たな意味
4008. 本日の夕食から得られた気づき
4003. 今朝方の夢:思想書としての福永武彦氏の小説について
小鳥の鳴き声が早朝のフローニンゲンにこだましている。今朝のフローニンゲン上空には薄い雲がかかっており、朝日を拝むことはできない。ただしその雲は雨雲のような色をしておらず、雨が降る心配はなさそうだ。
今天気予報を確認すると、ここから少しずつ暖かくなっていくかと思っていたのだが、どうやら三月いっぱいは、最高気温が10度前後、最低気温が5度前後の日が続くらしい。昨夜は試しに湯たんぽなしで寝てみたが、やはりまだそれが必要だと感じた。
小鳥たちの鳴き声に耳を預けてみると、どこか再び夢の世界の中に戻っていきそうな感じがする。今朝方も夢を見ており、夢から覚めた瞬間には、それが大きな意味を持つものであったと覚えていた。
だが今は、夢の記憶が随分と薄れてしまっている。覚えているのは、小中高時代の友人が出てくるわけでもなく、サッカーやバスケなどのスポーツをしているわけでもなかったということだ。その他に挙げるとするならば、断食の効果について、見知らぬ人に英語で説明をしていたことを覚えている。
夢の中の私は、まだ断食についての知識を豊富に持っていないため、とりあえず今ある知識を紹介し、それと同時に自分の体験に関する話を共有した。最初その人は、断食に関して懐疑的であったが、徐々に関心を示し、その実践をしてみるとのことであった。
断食というのも一つの実践であり、正しい知識を持つことは当然必要ながらも、知識の習得だけを行っていては全く意味がなく、それは実践をしてこそ価値を持つものだ。また、実践をしてみなければわからない個人的な気づきや発見というものもある。こうしたことは、断食のみならず、ありとあらゆる実践領域に当てはまることだろう。
今朝方の夢についてはあまり思い出すことができず残念ではあるが、日中再び思い出すことがあれば、その時に書き留めておこうと思う。
ここ数日間は、日記の執筆や作曲実践に並行して、和書を読むことが多い。昨日は、『福永武彦全集第10巻』を読み、『武満徹・音楽創造への旅』を読み始めた。
前者に関しては、ちょうど友人が福永氏の『死の島』という小説を読んだとのことであり、それに影響を受けて、私も読んでみようと思った。やはり私は一字一句小説を読むことができず、深く作品を味わうことはできていないのだが、小説の節々に登場する登場人物の言葉には随分と考えさせられることがあった。
人間の意識に関する話、芸術に関する話、死に関する話等々、今の私の関心事項に合致する主題が物語に散りばめられており、考えを深めていくきっかけを与えてくれたように思う。
福永氏の小説は、確かに物語形式ではあるが、それは一つの思想書であると言ってもいいかもしれない。そうしたこともあり、邪道だとは思うが、一字一句物語の情景描写を辿っていくのではなく、自分の関心テーマに合致した主題を取り上げている登場人物の発言のみを丁寧に追いながら、自らの考えを深めようとしている。
もちろん、登場人物の発言は、物語の文脈によって初めて意味を持つものであるから、前後の文脈を辿ったりすることはある。また本来、その一つの発言は、物語全体との文脈とも関係していることがあり、やはり私の読み方は邪道であるが、小説を読むことが難しい私にとってはこのように読み進めていくしかない。
今日は、『死の島』の続きが収められた『福永武彦全集第10巻』を読み進めていく。フローニンゲン:2019/3/20(水)08:05
No.1776: Return to Winter
Recent days have been cold, which feels as if it returned to winter.
Yet, tomorrow will be warm. Groningen, 20:46, Wednesday, 3/20/2019
4004. 創造活動と内面涵養
今朝は午前七時に起床し、昨日に引き続き、十分な睡眠を取った。断食によって睡眠時間が短くなるというのは、おそらく夜も何も食べない場合であって、私のように一日一食を夜に食べている場合においてはそれほど睡眠時間は減らないのではないかと思う。
起床直後の心身の状態はとても良く、一日の活動に向けてエネルギーが十分に補填されている感覚があった。
今日はこれから、いつものように早朝の作曲実践をしたい。その際には、アンリ・ルモワンヌに範を求める。
昨日、福永武彦氏の小説『死の島』を読んでいた際に、登場人物がシベリウスの音楽について論じている箇所があり、私はそれを大変興味深く読んでいた。それに触発されて、すぐさま私はシベリウスの音楽をかけ始め、夕方の作曲実践の際には、シベリウスの曲に範を求めた。
今もまだ書斎の中にはシベリウスの音楽が鳴り渡っており、今日は一日中シベリウスの音楽を聴こうと思う。また、午後には、昨日と同様に、シベリウスの曲を参考にしながら一曲ほど曲を作る。
早朝の作曲実践を終えたら、正午過ぎに行われるオンラインミーティングに向けた準備を行いたい。具体的には、そのミーティングで取り上げられる資料を丁寧に読み、いくつかコメントを挿入してミーティングに備えたい。
今日はその一件しかミーティングがないため、残りの時間は自分の探究活動と創造活動に充てることができる。ここ最近はまた、音楽理論や作曲理論の学習から少し離れており、音楽理論の学習はかろうじてトイレにいるときだけ行っている。
作曲実践における技術を高めていく際に、私はとにかく実践を積み重ねるような意識が無意識的に働いており、それは決して悪いことではないだろう。過去の偉大な作曲家が残した楽譜ほどの学習教材は他にないであろうし、そうした楽譜を参考にしながら曲を作り続けていく過程の中で自らの技術を高めていくことは、むしろ望ましいあり方のように見える。
とはいえ、そうした楽譜から汲み取る意味の総量を増やし、そこから自分の作曲実践に活かしていくようにするためには、理論的な観点を獲得しておくことに越したことはない。そうした意味からも、毎日少しずつ理論的な学習を進めていこうと思う。これは何度も自分に言い聞かせておく必要のあることである。
作曲実践を継続していて面白いのは、作曲技術は確かに理論を学ぶことによってより豊かになるし、実践を通じて豊かなものになっていくのだが、理論書や実践だけではなく、芸術に関する思想に触れること、さらには人間に関する思想に触れることによっても深まっていくことである。
音楽のみならず、創造に関するいかなる領域でもそうだと思うが、作り手の内面の深さというものが技術として外側に表出するのだろう。あるいは、創造物の深みとして現れると述べていいかもしれない。
そうしたことを考えると、確かに私はここ最近、作曲に関する理論書からは離れていたが、やはり毎日思想書に触れていたことから、内面を涵養し、創造物に深みを持たせていくという観点においては、それは正しいあり方なのかもしれない。
とにかく食べ物と同様に、自分が摂取したいと思うものを摂取するようにし、理論書も思想書も無理をして読む必要はないのである。自分が必要とするものを必要とするだけ取り入れること。それだけを意識したい。フローニンゲン:2019/3/20(水)08:21
No.1777: The Immanence of Our Emotions
Our emotions dynamically vary, which is intrinsic.
The nature can be regarded as unstable, but at the same time as stable. Groningen, 09:19, Thursday, 3/21/2019
4005. 昨日の市場での体験と夕食を振り返って
小鳥が朝の散歩を楽しんでいるかのようだ。散歩を楽しむ小鳥の鳴き声を聞きながら、先ほど早朝の作曲実践を終えた。
ここから少しばかり協働プロジェクト関係の仕事をし、その後再び作曲実践を行いたい。
早朝の日記の中で、福永武彦氏の小説について触れていたように思う。福永氏の小説は、思想書のように奥深く、豊かな気づきを与えてくれる。
こうした小説であれば、それを小説としてというよりも、一つの思想書として読んでいきたいという思いが強くなる。世の中には、思想書に値しない小説がたくさん存在している。そうした小説については読まないようにする。
今、冷蔵庫や食器棚の中には食べ物が残っていて、それを食べきったら、一度二日間の断食を実践してみたいと思う。そうれにしても昨日は、街の中心部の市場に行って大正解であった。
実際の生産者と会話をし、彼らから直接食べ物を購入することの喜びを味わった。それは他者と共に、そしてこの世界と共に生きているという実感をもたらす喜びであった。
長らくスーパーなどで食べ物を購入していたことによって、こうした喜びをすっかり忘れていた。経済の発達史を遡ってみれば、もともとは物々交換が存在しており、そこから貨幣経済が生まれていったのだ。
確かに昨日私が食べ物を得るために貨幣(実際には電子マネー)で支払いをしたが、そうだとしても、生産者と話をしながら食べ物を購入することに独特の喜びがあったことを忘れてはなるまい。今後はスーパーで食べ物を購入するのを極力控え、食べ物は市場で購入するようにし、生活必需品のみスーパーで購入するようにしたい。
それにしても昨日は、待ちに待った夕食を食べた時の感動が大きかった。久しぶりにマグロの新鮮な刺身を食べれたこと、美味しい海藻を食べれたことが、そうした感動を引き起こした。
今夜は、しょうゆ漬けにしているマグロの残りを食べ、オーガニック野菜をふんだんに使ったパスタを作る。昨日は玉ねぎを購入していたにもかかわらず、それを食べるのを忘れてしまったため、今夜はそれを食べたい。
昨日の夕食について振り返ってみると、マグロの美味、野菜の美味を実感し、改めて味には美しさがあるということを知った。私の書斎には、美学関連の書籍がいくつかあるが、それが対象にしているのは基本的に芸術のみであり、食に関する美学がないのは不思議でならない。ひょっとすると、食に関する美学というのも存在しているかもしれず、それについては今後も関心を持っておこうと思う。
日本でアスパラガスが食べられるようになったのは、歴史を遡ると、それはオランダとの貿易に起源があるようだ。江戸時代にオランダからやってきたアスパラガスは、最初は食用ではなく、観賞用だったらしい。明治時代以降から食用として食べられるようになってきたとのことである。
昨日市場で購入したのは、パープル・アスパラガスである。鮮度が良いものは生でも美味しく食べられるとのことであり、早速夕食の時に生で食べてみると、とても美味しかった。
今日も茹でることをせず、パープル・アスパラガスを生で数本ほど食べようと思う。フローニンゲン:2019/3/20(水)09:54
No.1778: A Gentle Breeze in the Showa Period (1926-1989)
A gentle breeze of the Showa period was blowing in my heart. Groningen, 11:06, Thursday, 3/21/2019
4006. 現代人が陥っている過食と過体験
時間がゆっくりと流れている。時刻は午前十時半を迎えた。
日々の生活において、確かにこなすべきことを計画的に取り組むこともあるが、私はその日のその瞬間に取り組みたいと思ったことに取り組むようにしている。仕事上、様々な依頼を受けるが、それらを一旦メモ用紙に書き出しておき、基本的にその日のその瞬間に最も取り組みたいことに取り掛かるようにしている。
端的には、そこには一切の強制力はなく、自らの意思で物事に取り組んでいくという非常にシンプルなあり方がある。日記の執筆や作曲に関してもそうである。
日記を書きたいと思った時に書き、曲を作りたいと思った時に曲を作る。食べ物を食べるのと同じで、その瞬間の自分が最も欲していることに従事することが、充実感と幸福感の呼び水になっているように思う。
先ほどふと、人生における一つ一つの出来事は、それが肯定的なものであれ、否定的なものであれ、必ず何かしらの気づきを私たちにもたらすものであり、そうした点において、かけがえのないものなのだということについて改めて考えていた。
そもそも、一つ一つの出来事は、肯定的・否定的という区別さえ超越したものであり、それに気づけた瞬間に、その出来事が持つ真意に気づくことができるのではないかと思う。
三月も終わりに近づいてきているが、今月はパリ旅行を含め、日々の生活の中で様々な出来事に遭遇した。そのたびごとに、そうした一つ一つの体験が自分にとっての貴重な学びの場となり、そこで得られた学びを仕事を通じて他者に共有しているように感じる。
目覚めの時と同様に、小鳥の鳴き声が聞こえて来る。今日は平日の水曜日だが、辺りはとても静かで落ち着いている。こうした生活環境を提供してくれるフローニンゲンから自分が離れられないのも納得がいく。
とにかく落ち着いた生活を営む。都会の喧騒にまみれ、心身を無駄に疲弊させてはならない。そうした生活をこれからも避けていく。
一つ一つの体験と向き合い、それを咀嚼し、消化していくためには、しかるべき時間のゆとりが必要なのだと思う。現代社会は、体験の咀嚼と消化に時間を与えることが極めて少ないのではないだろうか。
次から次へと新しい体験を私たちに流し込んでくる様子は、食べ物を絶えず私たちに消費させるように仕向けてくる流れと似ている。現代人は、過食であるのみならず、過体験なのかもしれない。
体験が未消化のまま自己の内側に溜まっていき、それが自己の内面の成育を阻んでいる姿を見て取ることができる。一つの体験には、無限に与するだけの意味が内包されているのだから、次から次へと体験を求めようとするのは愚かな行為ではないだろうか。
現代人は、そうした愚かさに気づけないほどに体験を与えられて過ぎているのかもしれない。過食と過体験が、現代人をより一層人間ではないものに変えていく。フローニンゲン:2019/3/20(水)10:44
No.1779: Sotaku-doji
I realized that my life is a continuous process of sotaku-doji whose meaning is the following.
“Imagine a chicken and her egg. When the chick is about to hatch it makes a scratching noise inside the shell. Hearing it, the mother chicken comes along and gently taps on the outside of the shell, aiding the chick to step out into the world.” An excerpt from zen teachings. Groningen, 14:32, Thursday, 3/21/2019
4007. 作曲の持つ新たな意味
時刻は午後の五時に近づきつつある。今日は午前中と午後に少しばかり雨が降った。それは雨が降ったと言えないほどに微量であったが、窓ガラスに付着している雨滴は確かに雨の存在を告げていた。
午前中とつい先ほどまで、『武満徹・音楽創造への旅』を読み進めていた。本書を最初から改めて読み進めていると、実に多くの気づきと励ましを得た。
本書は800ページ近い分量を持っているため、今夜のみならず、明日からもしばらく読み続けていくことになるだろう。
本書を読みながら、時に自分が作っている曲は、自らの原始的な心象風景を表しているのではないかと思うことがある。どの曲も、それが絶えずこれまでにない音楽世界を内包しているものであるために驚きがあるのだが、そうした驚きからさらに一歩自己観察を深めてみると、曲が自己の真相的かつ深層的な部分を開示していることに気づくのである。
そうなってくると、作曲とは結局のところ、自分との真相的かつ深層的な出会いを促す行為なのかもしれないということが見えてくる。自己を対象にして文章を書いていく際にも同様の現象が見られるが、自己というものがそもそも言葉にならないものを多分に含んでいるがゆえに、言葉でそうした出会いを実現させようとするのは限界がある。
そうした限界を超えていく形で、そして言葉を紡ぎ出して文章を書いていくことに補完する形で作曲というものがあるのだと思うに至った。
今日もこれから、一曲作ろうと思う。曲を作る過程の中で、そして作った曲を通じて、これまで見えていなかった自分に出会いたい。
自己を理解するということ、いや自己を理解することを通じて人間存在を理解することを目的として作曲を行ってもいいのではないかと思う。真相的かつ深層的な自己開示及び自己邂逅と、それを通じた人間理解のために作曲を行っていく。
自己及び他者の治癒と変容というのは、そうした作曲実践の過程の中に見られる副産物程度のものに過ぎないのかもしれない。
今日は世界が灰色がかって見える。上空を覆う薄い雲がそう思わせているのかもしれない。どうやら明日も曇りのようだ。
環境によって自己の内面世界が影響を受けることは確かだが、今の自分の内側の世界は灰色ではない。もう少し別の色がかかっている。そうしたことをある意味丸裸に表現するのが音楽なのかもしれない。
上述の書籍を読んでいると、偶然ながら、神保町にある音楽専門の古書店である古賀書店さんに武満徹が若い頃によく通っていたことを知った。これは本当に偶然であり、そこに何の意味があるのかはまだわからない。
だが、私がこの秋に日本に一時帰国した際に、その古書店だけに立ち寄ろうとしていたことは偶然では済まされない何かがありそうだ。その古書店に武満徹の楽譜が置いてあれば、ぜひそれを購入したいと思う。フローニンゲン:2019/3/20(水)17:04
No.1780: A Doze
I’m sometimes in a mysterious doze. Groningen, 17:12, Thursday, 3/21/2019
4008. 本日の夕食から得られた気づき
つい先ほど夕食を摂り終えた。一日一食の食生活を始めてから、夕食の時間をこれまでよりも早め、だいたい六時半頃から夕食を食べ始めるようになった。そのため必然的に、入浴の時間を早め、夕食を作り出す時間も早くなった。
今日の夕食を通じて得られた気づきとしては、しょうゆ漬けにしたマグロは、昨日と同様に美味であったことから、この保存の仕方で問題ないことである。昨日と同じ鮮度でマグロの刺身を食べれたのは幸福であった。
マグロはメチル水銀濃度が比較的高いそうなので、食べ過ぎにならないように、次回食べるのは来週にする。今日は、昨日購入したのだが昨夜食べ忘れていた玉ねぎを食べてみることにした。
玉ねぎには水溶性の栄養が豊富に含まれているため、切る前も後も水で洗わずに、それをレンジで茹でた。小さめの玉ねぎを一個、パプリカ、カリフラワー、ブロッコリー、人参、ニンニク、オリーブの実、アスパラガスを用いたパスタを作ってみたところ、野菜をふんだんに使ったためか、最後にはほぼ満腹の状態になってしまった。
今日はマグロと海藻の他に、豆腐の残りを3分の1ほど食べたため、かなりの量の夕食になってしまった。最後の方は少し苦しいぐらいになってしまったのだが、食後20分経ってみると、やはり野菜は消化が良いのか、もう苦しさはない。
とはいえ、今日は少し食べ過ぎてしまったことは間違いなく、明日からはもう少し量を考えようと思う。食と真剣に向き合い始めてまだ日が浅いのであるから、こうした試行錯誤はあって当然だ。
おそらく今日は、豊富な野菜以上に、マグロ、豆腐、パスタの組み合わせがお腹を膨らましていたのだろう。パスタを食べる時は、魚と豆腐を食べることは控えようと思う。
それともう一つ、今日は小さな玉ねぎを一つ食べる形となったが、これは食べ過ぎかもしれないと思われた。調べてみると、一日一個であれば問題ないとのことであったが、4分の1程度の量が推奨されていた。
私は一日に一食しか食べないのであるから、そこで一個食べるのはやはり食べ過ぎであり、明日以降は4分の1程度、あるいは玉ねぎの大きさから判断して、半分にとどめるようにする。
明日は、白身魚、カリフラワー、サツマイモ、アボカド、バナナ、リンゴを食べる程度にしようかと思う。明日は、ブロッコリー、アスパラガス、玉ねぎはお休みにして、軽めの夕食にしようと思う。
食に関して最後にもう一つ書き留めておくと、季節が夏を迎えるまで、バナナは控えてもいいかもしれないと思った。というのも、もともと南国に産地のあるバナナは体を冷やす働きがあることを思い出したからである。
この事実を忘れて、私は冬でもバナナを食べていたが、バナナに含まれるカリウムを摂取するのであれば、リンゴやマグロにもそれは豊富に含まれているため、バナナをしばらく食べるのをやめてみようと思う。
もちろん、バナナは栄養豊富な果物であり、これまで好んで食べてきた食べ物であり、体を冷やすということが直ちに悪いことではないことは言うまでもない。暑い季節にバナナを食べることは有効であり、仮に寒い季節であっても、体を温める食べ物と組み合わせて食べることによって、体を冷ます効果を相殺することができるだろう。
いずれにせよ、今の自分の身体の声に耳を澄ませてみると、バナナを食べる必要はさほどないように思われたため、ここからしばらくはバナナを食べることを控えてみようと思う。おそらく、季節の進行に合わせて摂取する果物を変えていくのが賢明なのではないかと思う。ただし、リンゴだけは年中食べ続けようと思う。フローニンゲン:2019/3/20(水)19:58