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3978-3984:フローニンゲンからの便り 2019年3月16日(土)


タイトル一覧

3978. 今年の旅行計画

3979. くつろぎと濾過

3980. 即興演劇と心身が他者に乗り移る夢

3981. 合掌の意味と力:今朝方の夢の断片

3982. 試作品からの創造的連鎖

3983. 旅先での食事を通じた生命との出会い

3984. アリス=紗良・オットさんのコンサートに参加して

3978. 今年の旅行計画

繊細だがどこか芯のある小鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえて来る。今朝のフローニンゲンの空は、薄い雨雲で覆われており、朝方まで雨が降っていたことを示すかのように、書斎の窓ガラスは雨で濡れている。

今は雨が降っていないのだが、午前中から夜にかけて雨が降るらしい。今日は、ピアニストのアリス=紗良・オットさんのコンサートがフローニンゲンで行われる。

先日、近くの河川敷のサイクリングロードを散歩した帰りに、近所の車道の脇に、このコンサートの宣伝看板が立てられており、この機会にと思ってコンサートに参加することにした。本当にこの人生には、偶然なる各種の出会いというものが存在しており、それは来るべき時に来るのだと思う。

それは、こちらが望む望まぬにかかわらず、自分の意図を超えた力によって運ばれてくるような何かであるとすら思える。そうした縁があり、今夜コンサートに参加することになった。

開演が20:15とのことであり、会場がどこかはすでに知っているので、コンサートの開始20分前ぐらいに到着すればいいだろう。19:55をめどに会場に到着するためには、19:25あたりに自宅を出発する必要がある。

幸いにも、その時間までには雨が上がるようなので、食後の腹ごなしも兼ねて、歩いてコンサートホールに向かいたい。

日記を書き進めていると、今、ちょうど雨が降ってきた。とても静かな雨だ。今日は風がほとんどないので、それがこうした静けさを助長している。

昨日の日記で書き留めたように、今年はさらにもう一年フローニンゲンに留まることにした。それに伴い、二ヶ月に一度、ないしは一ヶ月半に一度、どこか違う国や地域に旅行に出かけたいと思う。

前回の旅行は二週間前のパリ旅行であり、次回は五月にグルジア、七月にロシア、九月にギリシャ、十月半ばに日本、年末年始にはマルタ島(マルタ共和国)、マヨルカ島(スペイン)、シチリア島(イタリア)のいずれかを訪れようかと計画している。

これらの多くの地域は前々から気になっていた場所であり、ぜひ訪れてみたいという思いが今でも強い。グルジアに関しては、フローニンゲン大学で友達となったラーナが案内をしてくれるとのことであり、ロシアに関しては、作曲家の博物館を訪れるためにモスクワに行こうと思う。

ギリシャに関しては、前々から訪れようと思っていたが、なかなかタイミングが合わず、夏の暑い時期を避けて、春か秋に行こうかと考えていた。今回タイミングが合えば、九月にギリシャに足を運んでみたい。

十月半ばには、二年ぶりに日本に一時帰国しようかと考えている。その際には、東京に数日間ほど滞在し、神保町の古書店を巡る。そこからは仕事の都合上、大阪に数日滞在するかもしれず、そのあとは実家の山口県でゆっくりしたい。

年末年始に関しては、今年のオランダの新年の祝い方があまりにも騒々しかったので、街で花火と爆竹が鳴り始める時期を避けるかのように、上記三つの国の島のどこかに行きたいと思う。

マルタ島以外は、オランダ人の友人たちからそれらの島の良さを聞いているため、念のため、その時期のそれらの島の気候を見て、そこに行くかどうかの判断をしたいと思う。フローニンゲンの落ち着いた生活拠点がせっかくあるため、今年はここを拠点にしながら、様々な場所に旅行に出かけたいと思う。フローニンゲン:2019/3/16(土)07:37

No.1763: A Small Piece of Pleasant Poetry

I feel as if I could hear a pleasant sound of a small piece of poetry. Groningen, 11:48, Sunday, 3/17/2019

3979. くつろぎと濾過

少し雨が降り始め、それはしとしとと地上に降り注いでいる。

今日から週末を迎えるが、不思議なことに、鳥たちも平日よりもゆったりとした気分で動いているように思える。それは鳥たちを見る私の気持ちの投影がもたらしているものなのだろうか。

自分の心がくつろげば、この世界はくつろいでいるように見えるのだろうか。自然界に関して言えば、そのくつろぎは増すだろう。

自然界はおそらくもともとくつろぎで満ちているのだが、それを忙しなく生きている人間が見ると、本質的なそのくつろぎに気づくことはできない。それでは自然界以外についてはどうだろうか。

ある側面に関しては、自らの心がくつろいでいれば、この社会に隠れているくつろぎが顔を覗かせるかもしれない。一方で、この社会は根本的にくつろぎを忘れてしまった世界であるから、その点においては、この社会にくつろぎを見出すことは難しいとも言えるかもしれない。

そのようなことを考えながら、静かに降り注ぐ雨をぼんやりと眺めていた。

先ほど、今年一年間の大まかな旅行計画を書き留めていた。それらの全てをそのまま実現させていくかは定かではないが、とりあえずの計画として念頭に置いておく。

昨夜、この秋に日本に一時帰国する際に、神保町の古書店を巡りたいという思いが突如芽生えた。特に、クラシック音楽関係の古書店がないかと探していたところ、古賀書店さんという、クラシック音楽の愛好家が通う老舗の店を見つけた。

希少な楽譜のみならず、音楽理論や作曲家の自伝など、非常に豊富な書籍を揃えているらしい。前回日本に帰国した際は、母方の叔父と一緒に、すみだ北斎美術館を訪れたのだが、その時は体調が優れず、十分に作品や資料を観賞することができなかった。そうしたこともあり、今回もまた足を運んでもいいかもしれないと思っている。

もしその他に都内で芸術関係のイベントがあれば、そちらに足を運んでも良いかもしれない。それらの詳細については、また日が近づいてきたら決めようと思う。

今日はこれから早朝の作曲実践を行う。昨日に引き続き、まずはアンリ・ルモワンヌに範を求めて一曲作りたい。

その後、休憩がてら読書をして、午前中にはさらに一曲ほど曲を作る。その時には、ラヴェルに範を求めようと思う。

ここ最近は、ルモワンヌ、ラヴェル、スクリャービンの三名の曲を参考にすることが多い。というよりも、基本的にこの三名の曲しか参考にしていない。

今は彼らに集中的に範を求める時期なのかもしれない。一方で、昨日か一昨日の日記で書き留めたように、再びバッハの曲を参考にしたいという思いが芽生え始めている。

バッハの曲は非常に不思議であり、ある時期に何日か連続して範を求めたら、そこからしばらく離れ、再び戻ってくるということが起こる。そこには周期性のようなものがあり、こうした周期性がいかような要因によって生まれているのかは注目に価する。

様々な作曲家の音楽世界ないしは音楽宇宙を渡り歩きながら、それらを自分の中で一度混ぜこぜにし、技術も感覚も含めて、そこから濾過されて生まれたものが自分なりの作曲語法なのかもしれない。もしかしたら現在も、絶えず濾過が起きているのかもしれないが、今はとにかく様々な作曲家の曲を参考にして曲を作っていくことに集中したい。フローニンゲン:2019/3/16(土)07:58

No.1764: A Walk of Scattered Clouds

It is approaching 4PM. The weather became fine. I’ll go for a walk and go shopping shortly.

3980. 即興演劇と心身が他者に乗り移る夢

そういえば、今朝はまだ夢についての振り返りを行っていなかった。夢は自己の深層心理を映し出す貴重な存在であり、思わぬ気づきと発見をもたらしてくれるものなのだから、覚えている範囲のことを常に書き留めておきたい。

夢の中で私は、地下トンネルのような場所にいた。私の横には、体格の大きい元日本代表のサッカー選手(ポジションはボランチ)と中高生ぐらいの男の子がいた。私は二人とはそれまで面識はなかったのだが、トンネル内を一緒に歩いていく過程で打ち解け、随分と仲が良くなった。

この地下トンネルの中は薄暗く、ところどころに明かりが灯されているぐらいであった。遠くの方に土でできた階段のような段差が見えた。

その段差の横には明かりが十分に灯されており、私たちは出口が近いと確信するようになった。すると、私の横にいた元日本代表のサッカー選手が突然足を止め、「ちょっと待って。まだ行くタイミングではない」と述べた。

私は一瞬なんのことかわからず、その意味を聞こうと思った瞬間に、その人は続けて「今だ!行こう!」と勢いよく言葉を発し、横にいた中高生ぐらいの男の子と一緒に上に駆け上がっていった。

私は彼らの後ろ姿を見た瞬間、このトンネルの上には、演劇用のステージがあることに気づいた。それに気づいたが、それ以上詮索してもしょうがないと思い、私も勢いよく二人の後を追う形で土の段差を駆け上がった。

すると、そこは案の定、演劇のステージであり、実際に劇が行なわれている最中だった。私たち三人は何食わぬ顔で劇に参加することになり、私以外の二人は台本を持っていたのではないかと思われるぐらいに、劇中のセリフと振る舞いをよく理解しており、自分の役目を果たすと、ステージの横に消えていった。

私は自分のセリフも振る舞いも、何一つ理解してなかったため、ステージ上で呆然と立ち尽くしていた。なぜだか、ステージの近くに座っている観客(彼らは皆外国人)たちと目が合い、徐々に彼らの顔が険しくなっていくように思えた。

そこで私は即興的に劇に加わろうと思い、ステージ上の役者の話を理解し、それに対して何か返答しようと思った。しかし、即興的に劇を演じるのは難しく、私は小さな声で、一つの英単語を発していた。

何と私が言ったのかは覚えていないが、劇の進行を止めないようにすることだけを心がけての行為だった。すると、それに対して、ステージの近くに座っていた中年の外国人女性が怪訝な顔を浮かべ、何か文句を言い始めた。

これはまずいと私は思い、すっとステージ横に消え去ることを決意したが、なぜか体が硬直しており、その場から全く身動きができなかった。私は目を閉じ、自分の存在感を可能な限り消そうと試みた。

そして、私に当てられているスポットライトが消え、真っ暗になることを願った。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、私は欧州の名門サッカーチームが所有するスタジアムのグラウンドの上にいた。何やらこれから重要な試合が始まるとのことであり、私はその試合の観戦を楽しみにしていた。

ところが、試合を観戦するのではなく、私もその試合に参加することになっていることにふと気づいたのである。それに気づいた瞬間に、私は自らのアイデンティティを抜け出し、元スペイン代表のエースストライカー(現在Jリーグのチームに所属)と一体化し、彼としてその試合に参加することになった。

そのためか、私はスペイン語を全て理解することが可能になっており、試合中になされるスペイン語でのコミュニケーションがとても楽に感じられた。私のポジションはフォワードであり、ウィングには元フランス代表の小柄ながらも力強いドリブルが持ち味の選手がいて、彼とはフランス語でコミュニケーションを図っていた。

そこでもまた奇妙なことが起こり、彼がボールを持った瞬間に、私は彼となってプレーをすることができた。私はその選手になったまま、左サイドから内側にカットインし、右足でシュートをするフェイントをしてから、その選手の利き足である左足で強烈なシュートを放った。

それがゴールに入ったかは定かではなく、次の瞬間には、左サイドを駆け上がり、先ほどまで自分としてプレーしていたスペイン人のフォワードにクロスを上げた。その瞬間に、私の意思と身体感覚は再びそのフォワードの選手の中に移り、ヘディングをした。

そのような場面が続いた後、私はそのフォワードの選手の中に入ったまま、現在も第一線で活躍するポルトガルのエースストライカーと一緒にゴール前で写真を撮影した。フローニンゲン:2019/3/16(土)08:22

No.1765: The Enigmatic Weather

Today’s weather was unstable and enigmatic.

So our life may be. Groningen, 17:51, Sunday, 3/17/2019

3981. 合掌の意味と力:今朝方の夢の断片

時刻は午前11時を迎えた。土曜日がゆっくりと進行している。

今、自分がこうした自然描写をあえて書き留めていることについて改めて考えていた。自然描写から文章を書き始めたり、途中にそうした描写を無意識的に挿入しているのは、環境から自己へ、自己から環境へと流れるように移行していくことを促すためなのかもしれない。

別の表現で言えば、自己と環境を縦横無尽に行き来することによって、行き来するという感覚を生み出す境界線を溶解させ、自己と環境を一つに織り成していこうとする意識が深層意識内で生じているのかもしれない。

とかく人は文章を書く際に、外面的な記述で終始してしまったり、逆に内面的な記述だけで終始してしまいがちだが、このリアリティにはそもそも内面と外面が存在しており、それらは相互作用しているのだから、そうした二つの領域で生起する現象を自分の言葉として記述していくことには上述のような意味があるのだと思う。

昨夜就寝前に、手をあわせること、手をつなぐこと、握手することについて考えていた。人間の手には不思議な力が宿っており、「手かざし」というヒーリング技法にあるように、私たちの手からは特殊なエネルギーが出ているようだ——あるいは、人がエネルギーを最も発することができるのは手だと言い換えることができるかもしれない。

食事をする前に、私は必ず合掌をし、「いただきます」と述べてから食事をするようにしている。食後に関しても全く同じであり、合掌後、「ごちそうさま」と述べから食事を終えるようにしている。

その際に、合掌という手と手をあわせる動作が改めて興味深く、それは生命としての食べ物への感謝の念を捧げるだけではなく、実は手と手を合わせることによって、自ら自身と深く繋がることを促しているように思えるのである。

そういえば、精神を統一させる修行の中にも、合掌の動作が見られることがあり、祈りの際にも手を合わせる動作が見られる。そのようなことを考えてみると、合掌というのは、自己自身と深く繋がることを促すのみならず、自己を取り巻く世界や自己を超えた存在と繋がることも促しているのではないかと思えてくる。ここからしばらくは、手を合わせるという動作の意味と力に関心を持ってみようと思う。

起床してから四時間ぐらい時間が経つが、今朝方の夢について、まだ書き留めていなかった事柄を少し思い出した。夢の中で、小学校五年生の時にお世話になっていた女性の先生が現れた。

私の周りには、すでに成人した当時のクラスメートが何人かいて、彼らは先生の下の名前を忘れているようであり、私は彼らに先生の下の名前をそっと教えてあげた。私たちが先生と再会するのは、五年生以来のことであったから、もう20年ほどの年月が経っている。

しかし先生は、私たちが高校生の頃、高校の文化祭に顔を出したことがあるという話をしてくれた。その際に、私は文化祭で出し物をしていたのだが、もっとまともな出し物をすればよかたっと少し思った。

そのような夢の場面があったことを思い出す。また、今朝方の夢には、穏やかな海が登場する場面があった。

砂浜で自分が何をしていたのか、そして誰とそこにいたのかは記憶に残っていない。ただし、砂浜を駆け抜けてく心地よい風の感覚が、まだ頬に残っているかのようだ。フローニンゲン:2019/3/16(土)11:24

3982. 試作品からの創造的連鎖

時刻は正午に近づいている。相変わらず小雨が降り続けており、今日の夜までに止むのかどうか、少しばかり疑いの念を持ってしまうほどだ。

仮に今夜のコンサートに行く際に雨が降っていたとしても、それもまた一興として雨の中のフローニンゲンの街を散歩したいと思う。これから、ラヴェルに範を求めて一曲ほど曲を作る。

先ほど、シュタイナーが音楽について言及している文章に出会い、大きな感銘を受けた。シュタイナーは、「今日存在する音楽作品は、未来の無限に意味深い音楽的創造行為のための試作なのである」という言葉を残している。

これはまさに、私自身が絶えず過去の偉大な作曲家に範を求めて曲を作っていることの意味を明確に語ってくれたものだと実感した。

今書斎に鳴り響いているラヴェルの曲もそうであり、これから参考にする彼の曲もそうだ。全ては、未来に開かれた試作品であって、そこから自分なりの新たな意味を付与する形で新たな作品を生み出していくという気持ちを新たにした。そして、そのように生み出された作品は、言わずもがな、それもまた試作品であり、次なる試作品を生み出す土壌となる。

欧州での生活の四年目が始まるまであと数か月ほどあるが、三年目から四年目の移行期にあるここ最近においては、自分の中で感覚変容が突然生じたような気がしている。それは毎日執筆している日記の中の言葉の変化として現れているだろうし、毎日作る曲の中にもそれとして滲み出しているように思う。

人間の脳も心も存在も、それらは等しく、この広大な宇宙そのものであり、宇宙に絶えず生じている変化を受信するものなのだとふと思った。それらは、絶え間なく千変万化する宇宙と交感し、今というこの瞬間の真実を知覚する。

その瞬間に生まれる言葉や音は、そうした真実の現れなのだ。窓ガラスにぶつかる雨音と、書斎に鳴り響くラヴェルのピアノ曲がそのようなことを教えてくれる。

ここからは、なおいっそうのこと、深く観ること、深く聴くことを大切にしたい。それは芸術作品を鑑賞する場面のみならず、他者との交流の際にも意識したい事柄である。

他者の物理的身体とエネルギー体を深く観ること、他者の話を深く聴くこと。そうしたことを心がけていく大切さを今改めて感じている。

もちろん、観ること・聴くことのみならず、他の感覚器官を通じた全ての行動において深さを大切にしていく。自分の内側で何かが深まっていくというのは、普段からのそうした心がけと実践の積み重ねによって実現されていくのだろう。フローニンゲン:2019/3/16(土)11:56

3983. 旅先での食事を通じた生命との出会い

時刻は午後の五時に近づきつつある。今日も一日があっという間に過ぎ去っていった感覚がする。

一日一食の生活により、日中の活動に使える時間が随分と増えたが、それでも時が経つのが早く感じられる。

今日はそろそろ入浴し、早めに夕食を摂りたい。というのも、今夜はアリス=紗良・オットさんのコンサートがあるからだ。

夕食を摂って少し休憩したら、自宅を出発し、街のコンサートホールに足を運びたい。幸いにも雨は止んだようなので、歩いてコンサートホールの向かうことができる。

午後にふと、人間の発達とは、確かに自己を拡張させていく側面がありながらも、同時に種々の事柄を閉じていくことにもつながるのかもしれない、ということについて考えていた。発達とは、何らかの可能性を開くことであるのと同時に、それが開かれることによって閉じられるものがあるということを忘れてはならないように思う。

これまでの自分の発達を冷静に振り返ってみれば、何が開かれ、何が閉じられたのかを理解することができるだろう。仮に閉じられたものについて理解することができなければ、それは発達の一側面しか見ていないことを示しており、もしかすると、発達万能主義的なものの見方に陥っていると言えるかもしれない。

発達とは、自己を内側から開くのと同時に、閉じていくプロセスでもあるということ。そこに何かしらの喪失感を覚え、それによってまた自分の内側から新たなものを開いていくプロセスであるということを再度認識しておきたい。

昨日の夕食に、オーガニック野菜を各種レンジを使って軽く茹でてみたところ、非常に美味しかった。今自分の身体が発している声に耳を傾けてみると、カリフラワー、ピーマン、サツマイモをこれまでの野菜に追加して食べたいと欲していることがわかる。

カリフラワーについてまず調べてみると、ビタミンCの含有量はキャベツの約2倍であり、なんとミカンやイチゴよりも多いそうだ。ビタミンCは、ビタミンEと組み合わせると抗酸化作用を高める効果が期待できそうであり、ナッツ類と合わせて食べると良いらしい。

ちょうど昨日、行きつけのチーズ屋でナッツ類を購入したので、カリフラワーと組み合わせて食べてみようと思う。また、カリフラワーには、カリウムも豊富に含まれていることも追記しておく。

これまでは出来合いのサラダを購入して毎日それを食べていたが、これからは自分で選んだ野菜を茹でて食べることにしたい。

今朝方に、今年の旅の大まかな計画を立てていた。これから旅をする際には、旅行の最中も一日一食を心がけようと思っており、そうであれば、夕食はなおさらしっかりとしたものを食べたい。

旅先の地元の良いレストランで、その土地固有の料理を食べることを心がける。「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」という食養運動のスローガンである「身土不二(しんどふじ)」の考え方を大切にする。

その土地で育った食べ物をもとにして作られた料理を食べることで、その土地そのものと食を通じて出会うことが可能になるのではないかと思う。旅行とは、単に自分の目や耳で様々な事柄を見聞きするだけではなく、旅先の地域に固有な料理を食べることによって、食を通じてその土地を理解していくことも一つの醍醐味として挙げることができるだろう。

旅先での見聞情報のみならず、その土地で育まれた食べ物をいただくことによって、その土地固有の生命との出会いを大切にしたい。フローニンゲン:2019/3/16(土)17:03

3984. アリス=紗良・オットさんのコンサートに参加して

つい先ほど、コンサートを終えて自宅に戻ってきた。いつもはすでに就寝している時間だが、今日はコンサートがあったため、この時間まで起きている。

せっかくなので、今日のコンサートについて備忘録を書き留めておきたい。

夕食を摂ってしばらくしてから自宅を出発した時、あまりの風の強さに少々驚いた。フローニンゲンは未だ冬の寒さであるが、春一番のような強風が街を吹き抜けていた。

自宅からコンサート会場までは、歩いて25分ほどの距離であり、予定よりも早く出発したこともあり、余裕を持って会場に到着した。会場に到着してすぐに係員にEチケットを見せて、ホールに入った。

するとそこでプログラムを配っているオランダ人女性に声をかけられ、オランダ語で書かれたプログラムをもらった。そのプログラムの表紙は、今日のコンサートでラヴェルの協奏曲を演奏したアリス=紗良・オットさんの写真が掲載されており、その女性は写真を指差しながら、「あなたは日本人のようですが彼女の知り合いですか?」と尋ねられた。まさか知り合いではないため、笑いながら違いますと答えておいた。

プログラムを受け取った後、演奏が始まる少し前まで、ホールのソファに腰掛け、オランダ語で書かれたプログラムを眺めていた。今日のコンサートについて私は誤解していたようであり、どうやらオットさんのピアノ演奏だけがあるわけではなく、むしろドビュッシーの前奏曲とベルリオーズの幻想交響曲の演奏時間の方が長かった。

二人の作曲家の交響曲を間近で聴くことは今回が初めてであり、ドビュッシーに関してはピアノの独奏曲しか聴いてこなかったため、色々と新鮮な発見があった。

プログラムの前半の最後に、オットさんが登場し、ラヴェルの協奏曲が演奏された。以前の日記で書き留めていたように、私がオットさんを知ったのは、今から二年ほど前にノルウェーのベルゲンに滞在していた時のことだ。

ベルゲンで生活をしていたノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグの博物館を訪れ、そこから宿泊先のホテルに戻った時に、グリーグの曲について色々と調べていた時にオットさんのアルバム“Wonderland”を見つけたのがきっかけである。

今回フローニンゲンでオットさんの演奏を聴けたことは幸運であった。やはりこの時間帯になると眠くなってきてしまったので、今日の演奏会の具体的な感想については明日に書き留めておきたいと思う。

最後に一つだけ書き留めておくならば、コンサートの休憩時間にトイレに向かおうとしていると、偶然にも、二年前にお世話になっていた論文アドバイザーのサスキア・クネン教授に出会った。本当に偶然の遭遇であり、先生の後ろ姿が見えたため、私は思わず声をかけ、久しぶりの再会をお互いに喜んだ。

先生に尋ねてみると、先生は年に四、五回はこのコンサート会場で音楽を鑑賞しているようだ。私は年に一、二回来るか来ないかであるため、そうした頻度の少なさにもかかわわらず、先生と再会して少しばかり話ができたことは思わぬ喜びであった。

コンサートの最中に考えていたこと、感じていたことは多岐にわたっており、今から就寝することによって、それらが濾過され、明日に濾過されたものを書き留めておきたい。フローニンゲン:2019/3/16(土)23:38

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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