タイトル一覧
3962. 一日一食後の目覚め:今朝方の夢
3963. 最良な学びをもたらす不都合な現実:今朝方の夢の続き
3964. 心身魂を治癒する音楽に向けて
3965. 何が正しい知識なのか
3966. 雨音より
3967. 静寂さと平穏さ:欧州での生活が教えてくれた大切なこと
3968. 鋭敏な感覚:科学論文の投稿依頼
3969. 人生を変えてくれた三つの実践
3970. 日常何気なく使っている商品への疑問
3962. 一日一食後の目覚め:今朝方の夢
時刻は午前七時半を迎えた。昨日と同様に、今朝も小雨が降っている。昨日よりも風は弱いようだが、今日は夕方まで雨となるようだ。
今朝、目覚めた瞬間に、自分の身体がいつもより軽いことに気づいた。普段も目覚めは良い方だが、それ以上に今朝の目覚めは良かった。これはもしかしたら、一日一食しか食べないことによって、普段よりも胃腸が休まっていたことと関係しているかもしれない。
睡眠というのは、基本的にはその日一日の心身の疲労を回復させるものであることを考えると、身体の次元で言えば、一日一食にすることにより、消化に使うエネルギーが落ち、その分疲労が身体に溜まりにくくなっていたのかもしれない。
そうしたことと関係してか、一日一食を習慣化させると、睡眠時間が自ずと減り、それでいて良質な睡眠を取ることができるようになってくるらしいので、今後はそうした変化が自分に起こるかを確かめてみたいと思う。
近々、前の食事から次の食事まで24時間空けるだけではなく、48時間空けることも試してみたいと思う。今週末か来週末あたりにでも早速それを実践し、どのような効果があるのかを確かめてみる予定だ。
心身の調子の良さを実感しながら、今朝方の夢についてまずは振り返っておきたい。夢の中で私は、見慣れぬ沼地にいた。厳密には、そこはダムのようであり、ダムの水が溜まっている部分が沼地に見えたのである。
私はそこにバス釣りに来ていた。誰か連れがいたわけではなく、私はそこに一人でやってきて、ゆっくりと釣りを楽しもうと思っていた。
ダムの傾斜を降りていくと、一本の小道のように砂地が続いており、その先には数人が立てるほどの丸くなった砂地があった。私はそこで釣りをしようと思い、そちらの方に向かっていくと、先客が一名いた。
私よりも幾分年齢が上の男性が、釣り用のウェアを着て、なにやらボートを運んでいた。私はその人に挨拶をし、「岸からではなく、ボートで釣りをされるのですか?」と尋ねた。
するとその男性は親切そうな笑顔を浮かべ、「そうです。今からボートに乗って行こうかと」と答えた。実は私は、岸からよりもボートからの方が釣れるような気がしており、その方からボートに乗る誘いを受けることを期待していた。
しかし私がそれをあえて明示しなかったので、その方はボートの準備ができると、さっさとボートに乗って沖の方に行ってしまった。その場に一人残された私は仕方なく、岸から釣りをすることにした。
しかし、なぜだかそのダムの水が満ちてきて、みるみるうちに足場が無くなってきたのである。その勢いはかなり早く、もたもたしていると足場が無くなってしまうと思った。
そこで私は、まだ来たばかりであったが、一旦その場を離れ、やってきた小道を引き返すことにした。その間にもみるみる足場は無くなっていき、危うく、長靴の中に水が浸水しそうなほどであった。
なんとか無事に陸まで引き返すと、私は念のため、ダムの上のところまで戻ることにした。そこまで戻った時に、小中学校時代の女性の友人が二人いて、そのうちの一人とはあまり話をしたことはないのだが、彼女が「ここのダムの水は満ち引きをするから気をつけないとね」と私に述べた。私はまさにそうだと思い、うなずきながら返答した。
結局一匹もバスが釣れなかったことは残念だったが、満ちてきた水に巻き込まれなくて良かったと私は思った。そこで私はふと、自分の携帯を確認してみると、小中学校時代の親友(HS)から不在着信があることに気づいた。
彼に折り返し電話をしてみたところ繋がらず、そのため私は、別の親友(SI)に電話をし、今からランチを食べ、その後に釣りでもしないかと連絡をした。フローニンゲン:2019/3/14(木)07:58
No.1756: Active Twins
It seems to me that active twins always exist in myself.
They consist of two opposing polarities——though they are like close friends——, and they give me vital energy. Groningen, 21:27, Thursday, 3/14/2019
3963. 最良な学びをもたらす不都合な現実:今朝方の夢の続き
人生というのは本当に不思議なもので、絶えず何かしらのメッセージを私たちに投げかけている。そうしたメッセージに気付けるかどうかは私たち次第だが、仮にそれらに気付けなかったとしても、それもまた一つの運命なのかもしれない。
先日のパリ旅行においては、まさに過食に対する問題意識を喚起させてくれるメッセージを受け取った。これまでの私は一日に三食食べる過食であり——朝食は果物だけであったが——、その愚行に気づかせてくれたのがパリで受け取ったメッセージであった。
あの時の私は、タイ料理屋で多くの白米を食べ、それによって自分の脳と身体が重くなる感覚があった。それそのものは決して望まない事柄なのだが、私たちは望まない現実から多くのことを教えられるのではないかと思う。
現実世界は不都合なことが多いかもしれず、決して望むようなことばかりが起きるわけではないかもしれないが、私たちは逆にそうした事柄から非常に貴重な気づきと学びを得ることができるのである。そうなってくると、私たちを真に深めてくれるのは、自分が望まない現実なのかもしれないと思えてくる。
とにかく、パリでのあの体験が元に、私は食について見直し、一日三食食べるという愚行を改めようと思ったのである。正直なところ、先日のパリ旅行においては、楽しみにしていたラヴェル博物館とドビュッシー博物館の双方が閉まっており、中に入ることができず、国立ピカソ美術館にしても、そこで展示されている作品から何か喚起されるものがあったかというとそうではない。
一つ大変満足したことがあったとすれば、パリ市内の二つの楽譜専門店で、今の自分が求める楽譜を18冊ほど購入できたことだろうか。満足したことはそれぐらいしかないのだが、最大の学びは上述の通り、過食に関する事柄であり、それを学ぶために私はわざわざパリに足を運んだのかもしれない。人生にはこうした巡り合わせが起こるのだということを改めて実感する。
窓にポツポツと打ち付ける雨を眺めながら、今朝方の夢の続きについて振り返っておきたい。夢の中で私は、コンサルティング会社に勤めていた時代のオフィスの中にいた。
私は自分の席に近い方ではなく、父のように慕っていたシニアマネージャーのいる席の近くにあるコピー機でコピーを取ろうとしていた。するとそこで、事務所内で一番地位の高い方が、その方の個室から、他部門の女性マネージャーを呼ぶ声が聞こえた。
女性マネージャーはすぐに席を立ち、その方の個室に向かっていった。部屋の扉が半開きになっていたため、コピー機近くに立っていた私には、二人の会話が全て聞こえていた。
何か叱責するような内容ではなく、その女性マネージャーの昇進に関する話のようであった。その女性マネージャーは大変仕事ができるのだが、他の部署の地位のある人が彼女の学歴に関して指摘をしているという話がそこでなされていた。
それを話しているその方は、学歴と昇進は関係ないのだから、そのようなことに耳を傾けることなく、これまでどおりに働いて欲しい、と述べていた。話の一部始終を聞き終えたところで、私は我に返り、自分の席に戻ろうとした。
すると、同じ大学出身の背の高い気さくなマネージャーが笑顔で私に声をかけてきた。
マネージャー:「加藤君、こんなところで何してるの?」
私:「あっ、今ちょうどコピーをしていたところなんです」
マネージャー:「手に持っているそれは?」
私:「あぁ、これですか。これは面白そうな広告ですよ」
マネージャーに指摘されるまで、私は自分の手に一枚の広告の紙切れを持っていることに気づかなかった。それが何の広告かわからなかったが、私はマネージャーとそのようなやり取りをした後に自分の席に戻った。
自分の席に戻ると、私は簿記の分厚いテキストを開き、これから簿記の勉強をしようと思った。そこで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2019/3/14(木)08:21
No.1757: An Energy Wave
I’m invigorated by life energy.
I look forward to today’s activities very much. Groningen, 08:32, Friday, 3/15/2019
3964. 心身魂を治癒する音楽に向けて
つい先ほど一日分のコーヒーを作り終えた。昨夜、就寝に向かっている最中に、いくつかアイデアが芽生え、それを枕元のメモ用紙に書き留めいたのだが、部屋が真っ暗な状態でメモ用紙に文章を書きつけていたためか、うまく文字が書かれていないものがあった。
最初の方の文章は、シャーペンの芯が出ておらず、白いメモ用紙に文字が刻まれた跡だけが残っており、それについて解読をすることは難しい。なんとか解読を試みてみると、それはここからしばらくの間は、一日一食や二日間の断食を組み合わせることによって、自分の内側に溜め込まれた毒素を排出していくことの大切さについて書かれていた。そして、今後は毒素をできるだけ溜め込まないようにしていくことについても書き留められていた。
もう一つは、ヘラクレイトスの「万物は流転する」という言葉にあるように、自分自身の関心テーマも流転するのが自然であり、今の自分の関心は再びヒーリングに向かっている、ということが書き留められていた。
確かに、そのメモにあるように、今の私は食や音楽を通じたヒーリングに関心を持っている。それは、心身の癒しのみならず、魂の癒しも含まれたものである。
この現代社会は、心身魂を害する有形無形の毒物でまみれており、それらを削減していく試みのみならず、すでに毒物で犯されてしまった人たちへの治癒を考えるというのは自然なことのように思える。
昨夜夕食を摂っている最中に、米国のエリート大学の不正入学のスキャンダルに関するCNNのニュースを見ていたことについては、昨日の日記に書き留めていたように思う。実はその後に、特集番組として、中国の著名な若手ピアニストであるラン・ランが取り上げられていた。
ニュースキャスターの女性とピアノを前にして一対一で対談を行う内容になっており、その内容は非常に面白く、二人のやりとりに釘付けになっていた。ニュースキャスターからのある質問を受けてラン・ランは、一つ一つの曲の背後にはストーリーがあり、そのストーリーと自分が共鳴しながら演奏をしていると述べていた。
また、一つ一つの曲は固有の感覚を喚起する力があり、自分の気分や感情に合わせて曲を選び、演奏していくことが大切だとも述べていた。その回答を受けて、ニュースキャスターが「ピアニストはシャーマンのようですね」と笑いながら述べていた。
それに付け加えるならば、そもそも曲を作る作曲家にはシャーマン的な力が備わっており、何かしらの感覚を喚起させるような曲を作ることが彼らの仕事の一つなのだと思う。あるいは、作曲家だけがシャーマン的なのではなく、そもそも曲というものが特定の感覚や感情を引き起こす力を内包しているのであるから、曲そのものもシャーマン的であると言えなくもないだろう。
そして、そうした特性を持つ曲を演奏するピアニストは、作曲家が曲に込めた呪術力に寄り添いながら、特定の感覚や感情を聞き手に喚起する演奏を行っていくのである。そのような構図が見て取れた。
そもそもシャーマニズムにおいては、高次元の世界や存在と繋がりながら、癒しをもたらすことも大きな目的の一つであり、ニュースキャスターが最後に述べた「音楽は良薬ですね」という言葉は的を得ているように思う。
もちろん、音楽が良薬になりうるということは、それは劇薬にも毒薬にもなりうるということであり、その点には気をつけなければならないが、この特集番組を通じて、心身魂を治癒する可能性を持つ音楽について探究をしてみたいという思いが強まった。
いや、それを単に探究するのではなく、実際にそうした曲を作っていきたいという思いを強く持った。そのような出来事が昨夜にあったことを書き留めておく。フローニンゲン:2019/3/14(木)08:46
No.1758: A Pleasant Wind
Although a strong wind is blowing outside, a pleasant one is blowing inside of me. Groningen, 12:46, Friday, 3/15/2019
3965. 何が正しい知識なのか
時刻は午前十時を迎えた。冷たそうな雨がしとしとと地上に降り注いでいる。そうした雨をぼんやりと眺めていると、なんとも言えない感慨が自分の身体に染み渡る。
つい先ほど、一羽の鳥が、書斎の窓の前を横切っていった。そして今、小鳥が家の庭の木に止まって鳴き声を上げている。
素朴な疑問なのだが、鳥たちは雨を浴びても風邪を引かないのだろうか。風邪のような病にかかるのは人間だけなのだろうか。
医学的な知識に乏しいため、正確なことはわからないが、おそらく雨に当たることそのものが風邪を引き起こすのではなく、雨によって体温が下げられ、身体の機能や免疫力などが低下することによって風邪が引き起こされるのではないかと思う。
そのようなことを考えてみると、本来雨は自然現象の一つであり、動物にとってはどうってことのない現象だと思うのだが、雨に当たって身体の機能が低下してしまうほどに、現代人の身体は弱体化していると言えなくもない。
この世の中において、何が正しい知識なのかは見えづらく、正直なところ、私も現代社会に存在する知識領域の多さと知識量の多さに圧倒され、何が正しいのか判断がつかなくなるようなことがある。だが、頭でそうしたことを判断するのではなく、自分の身体や直感に従って判断することは、こうした玉石混交の知識に埋め尽くされた現代社会を生きる上では非常に大切なことのように思う。
現代社会においては誤った知識が拡張の一途を辿っており、そして最悪にも、マスメディアやSNSなどを通じてそうした誤った知識が拡散される世の中にあって、自分の身体や直感に純粋に従って判断をしていくことの大切さは増す一方であるように思う。ただし、身体や直感を司る原始的な感覚そのものが、現代人の中にはもう絶望的なまでに希薄であり、そうした感覚を用いて判断することが困難になっているのかもしれない。
昨日から食について多くのことを書いているが、人間にとって、いや生命全般にとって、食べ物は生死を分ける重要なものであり、現代人は食生活から弱体化し、着実に死に向かう方向に進んでいるように思えてくる。
そもそも私が最初に食に対して強く関心を持ち始めたのは、ジョン・エフ・ケネディ大学に留学していた時のことであり、ホリスティック健康学科に所属している友人からは、心身に好影響及び悪影響を及ぼす食べ物について色々と教えてもらったことが懐かしい。ただし、当時友人から教えてもらった知識は部分的であるため、これからは自ら率先して食について学びを深めていこうと思う。
正しい知識を持たず、誤った実践をしているというのは、何も食事のみならず、教育実践や企業活動においても当てはまる事柄だろう。人間は一生涯発達する生き物であるのと同時に、一生涯過ちを犯し続ける生き物でもある。
とはいえ、自分の身体や直感の声に耳を傾けてみれば、何が正しい実践であるのかの分別は大抵つくと思うのだが、現代社会の問題は、そうした声に耳を傾けられないほどに人間が弱体化していることと、そのように仕向けていく風潮と仕組みが蔓延していることだと言えるかもしれない。引き続き、自らの心身を用いて実験を継続していき、そこで得られた発見事項や気づきを日記として書き留めておきたい。フローニンゲン:2019/3/14(木)10:12
No.1759: A Train of Early Spring
It stopped raining in the afternoon and became sunny.
I enjoyed a walk in the evening. Groningen, 16:01, Friday, 3/15/2019
3966. 雨音より
外に降り注ぐ雨音と、書斎の中で鳴り響いているモーツァルトのピアノソナタ。果たして、そのどちらがより美しいのだろうか。
この問いは愚問だったかもしれない。それら二つの音には、間違いなく異なる美が顕現している。それらを比較するのではなく、それら双方の美を味わえばいいのだ。
そんなシンプルな気づきをもたらしてくれたのが冒頭の愚問であり、そうした気づきをもたらしてくれたがゆえに、それは愚問ではなく「賢問」だったと言えるかもしれない。
やはりこの世界には、愚問などないのではないかと思えてくる。いかなる問いも、必ず新たな事柄を私たちに開示してくれる。そのようなことを思う。
モーツァルトのピアノソナタを聞いていると、確かにそれを以前聞いた時と今の自分を比較することによって、諸々の変化を感じ取ることは理論上不可能ではない。だが往々にしてそれは難しい。
一方で、雨の音というのはその瞬間に意識を集中させて聞いてみると、そこに自然の変化を感じ取ることは比較的容易であり、雨音に耳を傾けている自分自身の内側の変化を捉えることも比較的容易なのかもしれないと思えてくる。
自然音が持つ固有の不規則性と規則性に意識を集中してみると、いろいろなことを感じさせてくれ、いろいろなことを教えてくれる。
一日一食生活を始めてみると、やたらに自分の内側から言葉が流れ出てくることにまず驚く。それと合わせて、創造活動に従事する意思もより強くなり、作曲実践にも良い影響を与えているように思う。
今朝は早速一曲作り、またしばらくしたらもう一曲作る。昨日からふと試してみようと思ったのは、その日に二曲ほど作ったら、それらの曲にアレンジを加えることによって別の曲を作っていくということだ。
一つの曲を起点にすれば、おそらく無限に曲を作っていくことも不可能ではないだろう。ある意味変奏曲を作るような感覚で、次から次に全く新しい曲を作るのではなく、あえて一つか二つの曲にアレンジを加える形で別の曲を作っていくという試みをしてみたい。
その過程の中で、メロディーやハーモニーに修正を加えたりすることによって、メロディーやハーモニーに関する技術も高まっていくだろう。ある意味、元になった曲に対して添削していくような感覚で、自分の曲を客体化させながら、それに工夫を施すことを通じて作曲技術を高めていくということをしてみたい。
これはもしかすると、プルースト的な創造行為だと言えるかもしれない。プルーストが絶えず自分の文章に対して修正を施しながら、それを通じて次々と言葉を生み出していったように、自分で生み出した音を起点にして、それを変容させることを通じて無限増殖させていく。
もちろん、無限に増殖させることが目的なのではなく、その過程の中で絶えず新たな気づきと発見を得て、自らの作曲技術を高めていくことが目的となる。
おそらく曲をアレンジするというのも特殊な技術の一つであり、それはメロディーやハーモニーに工夫を施すだけではなく、テンポや調性を変えることであったり、構造をシンプルにしたり、複雑にしたりといった、様々な方法が考えられる。とりあえずは、できる限りのアレンジをする試みを試してみたいと思う。
また、一見すると全く異なる二つの曲を、いかに自然な形で一つの曲にできるのかということも試してみたい。もしかしたら、それを実現させるためには形式の考え方を採用するといいのかもしれない。
例えば、今書斎の中で流れているモーツァルトのピアノソナタは、文字通りソナタ形式を採用しており、その形式内においては楽章ごとに随分と異なる印象を与える音楽が展開されている。
それでいて、一曲全体として自然な形でまとまっていることを見てみると、形式を学ぶことが上述の点に有益かと思う。仮に本日二つの曲を一つにまとめることを試すのであれば、形式の観点を念頭に置いておきたい。あとは調性をいかに工夫するか、前後の調の距離なども工夫すべき箇所だろう。フローニンゲン:2019/3/14(木)10:40
3967. 静寂さと平穏さ:欧州での生活が教えてくれた大切なこと
書斎の窓ガラスに付着する雨粒の数ほど、あるいは天から降ってくる雨粒の数ほど言葉を生み出しているような感覚が自分の中にある。たった今、一つの日記にピリオドを打ったところなのに、もう次の日記を書き始めている。
この感覚は、先日に長時間に渡って座禅瞑想をした時の感覚に似ていると言えるかもしれない。人生が絶えず連続したやり直しで構成されているというあの感覚にどこか似ている。
自分の人生に与えられた一つの小さな役割は、自己及び取り巻く世界に関して絶えず文章を書くことなのだと思う。それに加えて、音楽を創造していくこともまた一つの役割だと言える。
そう考えてみると、今このようにして絶えず徒然なるままに文章を書き綴っている自分のあり方は、自分に与えられた役割を忠実に全うしていると見えなくもない。今から数年前の自分であれば、自分の天命が日記を書くことであり、曲を作ることであるというのは信じられないことだっただろう。
だが今は、日記を綴り、曲を作りながら自己を深め、この社会と繋がりながら諸々の実践をしていくことが自分の天命であると疑うことはない。天命に従って生きていく日々は、充実感や幸福感に満ち溢れているというよりも、より静的な平穏さで満ちている。
天命に忠実になって日々を生きることによって得られる真の充実感や幸福感というのは、華美な音楽のような音ではなく、そよ風のような小さな音のように静かなものなのかもしれない。静寂と平穏というのは、天命に則った人生を歩んでいる際にもたらされる恵みなのだろう。
今日も一日一食の生活が続いている。これまでの食生活は、確かに一日三回食事を摂るという広義の過食であったが、これまでも小食を心がけていたためか、昨日から突如として一日一食に切り替えても何の問題もなかった。
むしろ、こうした食生活を、私の身体及び魂が心底欲していたのだということがわかる。だから何の抵抗感もなしに一日一食の生活を始めることができたのだろう。
私は決して、食事をする時間が惜しいとか、食事の時間を削ってでも打ち込みたいことに打ち込むというような生活を送ることを良しとしていない。そうした修行僧的な生活ではなく、自分の身体と魂が真に欲することに忠実になりながら、ゆとりのある生活を送ることを第一としている。
欧州での生活を始めて一年目に気づかされたのは、自分が真に欲している時間の流れがどのような性質を持つものであるか、というものだった。日本で生活をしている時のように、標準化された時間の中をあくせく生きるのではなく、自分の内的時間に従って生きることの大切さを改めて実感し、そうした生き方を実現させてくれたのが欧州での一年目の生活だった。
これを実現させたことにより、自分の内面が豊かになり、ゆっくりと内面が成熟の方向に向かっているように思う。私たちの発達は、時間と切っても切れない関係になっており、とりわけ健全な発達を実現させていくためには、個人個人に異なる内的時間を大切にする必要がある。
だが現代社会は愚かにも、個人の内的時間をないがしろにし、多様な時間を標準化し、それに金銭的価値を付与する形で様々なことを回していこうとしている。こうした状態が続く限り、個人も社会も真の豊かさを享受することはできないだろう。
欧州での生活を始めて気づかされた二つ目の事柄は、まさに先日のパリ旅行を通じてもたらされた食への意識である。これまでの30年強の人生において、自分の時間の多くを食べ物の消化活動に使っていたのかと思うと愕然とする。
食べ物を消化するために身体が疲弊し、それを回復させるために睡眠時間を当てていたかという思うと、自分は一体何をやっていたのかと思わされる。この点の責任の所在を親や学校に押し付けることは賢明ではない。
なぜなら、彼らもまた、この現代社会の被害者だからだ。残念ながら、こうした真の智慧と呼ばれるべきものは、自ら気づき、自ら獲得していくより仕方ないのかもしれないと思う。おそらくは、そうした智慧に気づき、智慧を獲得した人が他者にそれを共有することが何よりも望ましい流れかと思う。
今回私が食に関して極めて重要な教えを授かったのは何かの縁であり、運命でもあったのだろう。確かに私はもう30年以上も生きてしまっているが、そうした教えを授かったのは決して遅くなく、私の人生においてはこのタイミング以外にありえなかったのだと思う。
外に降る雨が、どこか気づきの雨に見えてくる。欧州での生活をこれからも続けていくことによって、私は想像しえぬ気づきを何度も得ることになるだろう。
人生は絶え間ない気づきと発見で常に満たされているのだ。フローニンゲン:2019/3/14(木)11:04
3968. 鋭敏な感覚:科学論文の投稿依頼
つい今しがた仮眠を取り終えた。一日一食の生活を始めてから、昼食の消化のために眠たくなることは一切ないのだが、脳を少し休息させる意味もあり、仮眠を取ることは続けている。午前中に読書を多く行った日などは、仮眠を取り、情報を整理することは有益だろうと思われる。
先ほど窓を開けて換気を行ったところ、外の空気があまりにも冷たいことに驚いた。完全に冬に逆戻りしてしまったかのような寒さである。それに加えて、今は雨が降り続けており、見るからにしてそれは冷たそうだ。
不思議なことに一日一食にしてみると、活動力が低下するのとは全く逆に、エネルギーがみなぎるような感覚がする。空腹であることは、生命の根源的な感覚を呼び覚ましているかのようだ。
確かにこうした状態であれば、自分にとって必要な情報を鋭く深く捉えることが可能になるというのも納得がいく。それにしても、一日一食にすると、ここまで感覚が鋭敏になり、集中力が上がるのかと正直かなり驚かされている。
人間の身体というのは本当に謎だらけであり、やはり途轍もない潜在能力を持っているのだとわかる。
先ほど仮眠を取っている時に、本日二回目の腹が鳴る音がした。昨日に調べていたことを再度思い出してみると、一回目に腹が鳴った時には、成長ホルモンが分泌され、二回目に腹が鳴った時には、若返り遺伝子と呼ばれるサーチュイン遺伝子が活性化するとのことであった。
さらに三回目に腹が鳴ると、全身の血管を修復する役割を果たすアディボネクチンと呼ばれるものが分泌されるとのことであった。サーチュイン遺伝子にせよ、アディボネクチンにせよ、名前が覚えにくいので、繰り返し書き留めておく必要がある。
午前中に一回目の腹が鳴った音と先ほどの音を聞き比べてみても、まだその違いがわからない。観察を始めてまだ二日目なので、その違いがわからなくて自然だと思うが、ここから観察を続けていき、そこに差を見出すことができたらと思う。
さらには、そうした音の質的差異に気づきの意識を与えるのみならず、身体感覚にも意識を与えたい。そもそも一回目と二回目、さらには三回目で分泌される物質が異なるとのことなので、それが何かしらの身体感覚の変化を生み出しても良いだろう。それが何なのかを自分なりに特定していく。
先ほどメールを確認したところ、教育学関係の米国のある論文ジャーナルの編集者から連絡が届けられていた。昨年の六月にロンドンで行われた国際学習科学学会に寄稿した短い論文について関心を持ってくれたとのことであり、それを基にした論文を出版しないかという依頼であった。
その依頼は大変有り難いのだが、もはや私は純粋な科学論文を執筆することに関心が全くなく、そのメールには返信をしないことにした。おそらく、このジャーナルの編集者は、あの学会に参加した多くの学者に対してメールを送っているのだと想像でき、本当に論文を出版したい人にその枠を与えればいいのだと思う。
今日はこれから、デン・ハーグの不動産屋に電話をしたい。目星の物件が見つかったのは良いものの、その物件についてウェブサイトを通じて問い合わせをしたのだが、一向に連絡が来る気配がない。
正式に契約を結ぶまでは身動きができないため、これから一本電話を入れたい。そこは新築のマンションであり、確認事項としては、バスタブの有無、洗濯機と乾燥機が共有ではなく、室内にあるかどうか、部屋の数と家賃、及びインターネットの速度について尋ねたいと思う。フローニンゲン:2019/3/14(木)14:32
3969. 人生を変えてくれた三つの実践
時刻は午後八時を迎えた。これから本日最後の作曲実践として、フランスの作曲家アンリ・ルモワンヌの曲を参考に曲を作りたい。
それにしても、今日は昨日に続き、精神が高揚したままに時間が過ぎていった。それは興奮というよりも、感覚が研ぎ澄まされ、高い集中力が発揮されているような状態を指す。
私はスマートドラッグを摂取したことはないが、おそらく状態としてはそうしたドラッグを摂取したのと同じような状態が維持されているのではないかと思う。大変興味深いのは、何かを摂取してこうした精神状態になっているのではなく、むしろ全く逆に、何も摂取しないことがそうした精神状態を生み出していることである。
言わずもがな、それは一日一食、最後の食事から次の食事まで24時間空けることによって、空腹状態を作ることがそうした精神状態を生み出す要因となっている。空腹状態を通じて得られる精神状態は、瞑想で得られる精神状態とはまた異なるのだと思うが、空腹状態を通じて得られる集中力は、瞑想によってもたらされるそれを凌駕しているように思われる。
今日も様々な活動に従事していたのだが——家探しに数時間は使っていた——、日記の執筆量は相変わらず多く、作曲に関しても非常に充実していた。
今日の夕食をもって主食が切れたため、明日は野菜と果物だけを食べるようにし、徐々に食料を冷蔵庫から減らしていき、日曜日と月曜日には二日間の断食をしてみたいと思う。仮説として持っていたように、断食によって胃腸が休まり、溜まっていた毒素が排出されることに伴って、肌の状態が目に見えて改善している。
これまでの手荒れは、外的なものというよりも、内側からのものであり、端的には一日三食食べることによってもたさられていた毒素の蓄積だったのだ——厳密には、過食によって引き起こされる胃腸の機能障害がもたらす毒素の排出不全。
たった今、奇妙なデジャブ体験をした。ここ数日間食についてあれこれと書き留めてきたが、既視感として生まれたのは、「断食を勧めるようなことは言わないでくれ」という、どこかの医者か誰かが私に話しかけてきたビジョンであった。
このビジョンは、夢の中で見たものだったのか定かではないが、私が食に関して文章を書いていると、他者が批判的なことを私に述べてきたビジョンを見たことがあることをたった今感じ取った。
午後にも改めて考えていたのだが、私の人生を大きく変えてくれた実践は三つある。毎日日記を執筆すること、毎日作曲をすること(それを絵として表現することも含む)、そして最後は瞑想ではなく、一日一食の食生活を始めたことだと言える。それら三つは、私の日々の生活をより豊かにしてくれ、活力あるものにしてくれている。
今日もまた雑多なことを考えていた。仮に一日に一食食べることが心身に良い影響を及ぼすことを主張したとしても、多くの人はその意見に聞く耳を持たないだろう。
その点において、上記のデジャブ体験の中に出てきた批判者は安心すればいいのである。一日一食食べることの便益をいくら説明したとしても、多くの人がそれを理解しないのは、消費経済に飼い慣らされてしまっていることと、自らの思考と感覚を持って物事を考えない奴隷教育の呪縛から脱却できていないことに大きな要因があるように思う。
そうしたことを思うとき、やはり大きなテコ入れをすべきなのは、現代経済と現代教育のように思えてくる。フローニンゲン:2019/3/14(木)20:31
3970. 日常何気なく使っている商品への疑問
普通、一日一食の食生活の際に、夕食を多めに摂れば、そこからは集中力が落ちそうなのだが、そうではないことが不思議だ。
私たちの胃腸は、固形物を消化する回数が一日一回であれば、効率良く消化吸収活動に従事することができ、その結果として消化に回るエネルギー消費量はそれほど多くないのかもしれない。
そういえば昨夜も、夕食を摂り終えてから日記を流れるようにしていくつか書いていたのを思い出す。今日はこれから作曲実践をしたいため、あと一つだけ日記を書いたら終わりにしたい。
現代人の大半は広義の過食症を患っており、様々な悪魔が彼らに微笑んでいるように知覚される出来事が昨日あった。
先ほどの日記の中で、消費経済と歪な教育によって埋め込まれた思い込みを解消することは難しいことを指摘していたように思う。現代はそもそも、自らの思考と感覚に忠実になって自分で物事を考えていく習慣を育む教育がほとんど行われていないばかりか、そもそも大多数の成人は継続学習(生涯教育)を自らに施していないのだから、状況はかなり絶望的である。
そうした成人は、子供に対してではなく、自分に対して教育放棄をした人間だと言えるかもしれない。
消費経済に飼い慣らされてしまっていることと、奴隷教育しか受けておらず、継続的な学習を自らに課していないことに加えて、認識の枠組みの質(広義の意識の発達段階)の問題も関係してくるから事態はさらにやっかいだ。
先ほどふと、認識の枠組み(意識の発達段階)の質が異なるというのは、宗教観が異なるぐらいに世界認識の方法が異なるということを改めて思った。その点を考慮に入れると、消費経済に飼い慣らされている有り様を見つめ直すように訴えても、継続学習を自らを課すように訴えても、過食を控えるように訴えても、全く伝わらない人が出てきてしまうのは当然とはいえ、非常に残念なことである。
夕食前に入浴をしている最中に、ふと、洗顔やシャンプーなるものの使用価値と存在意義について考えていた。これらの物質は、ひょっとすると、消費経済の負の産物ではないかと思ったのである。
端的には、そもそも洗顔やシャンプーは、本当に必要なのかという問いから始まり、ひょっとすると、顔や頭皮の細胞を弱体化させることにつながっているのではかという問いが生まれた。
もちろん、多くの商品は、「科学的に効果が実証された」というお決まりの言葉で包み込まれているが、その真実の効果はいかほどなのだろかと疑いの目が生まれてきた。
ある臨床実験において、特定の効果が出たからといって、それが実験室を離れ、全ての人間にその効果が当てはまるとは限らない。また、人間の身体の複雑性を考慮すると、一つの正の効果が出たことによって、逆に他の側面においては負の効果が検出されることも考えられる。
商品を売るという観点上、マーケティングに都合の良い実験結果しか世に公表しないというのは容易に想像できる。
洗顔やシャンプー以外にも、普段何気なく使っているものとしては、化粧水や乳液なども、もしかしたら顔にあまり良い影響を与えないのではないかと思えてくる。一応今後も使おうと思うのは、良質な日焼け止めクリームぐらいであり、化粧水関係は、今使っているものを使い切ったらいったん使用をやめてみて、どのような変化が生まれるかを検証してみるのも良いだろう。
また、シャンプーに関しても、同様のことを実験してみたいと思う。私は使っていないが、世の多くの男性が使っているであろう育毛剤というのも、もしかすると大半の育毛剤は「除毛剤」として機能してしまっているという皮肉な状態を想像できる。フローニンゲン:2019/3/14(木)20:49