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3952-3961:フローニンゲンからの便り 2019年3月13日(水)


タイトル一覧

3952. 今朝方の夢とこれからの食生活

3953. 身体エネルギーに働きかける音楽

3954. 過食の問題

3955. 食を通じて弱体化していく現代人

3956. 一日一食の効果

3957. パリでの体験が教えてくれた大切なこと

3958. 断食と思考の冴え:食に関しても洗脳されている現代人

3959. 一日断食後の身体上・認知上・味覚上の変化

3960. カカオポリフェノールと生命としての食べ物の奥深さ

3961. CNNのニュースより

3952. 今朝方の夢とこれからの食生活

今朝はゆっくりと七時前に起床した。早朝より小雨が降っており、雨の中を自転車で通勤や通学に向かう人たちの姿が見える。

引き続き、今日から土曜日の昼まであいにくの天気であるが、そこから数日間は晴れとなるようだ。おそらくそこからゆっくりと春らしさを感じられるようになってくるのではないかと期待する。

ただし、過去の日記を読み返してみると、五月末までマフラーや手袋をしていたこともあったので、春がやってくるとはいえ、気温が暖かくなるのは随分と先のようである。

今日もいつもの通り、まずは今朝方の夢について振り返ることから一日を始めたい。夢の中で私は、立派なサッカースタジアムの観客席にいた。

どうやら、今からワールドカップの試合が始まるようであり、グラウンドには日本代表とヨーロッパの強豪国の代表が整列をしていた。いざ試合が始まってみて気づいたのは、前回のワールドカップで中心的な役割を担っていた選手が、なぜだか代表にデビューした時ぐらいの若さを持っていたことだった。

顔も髪型も体型も、何から何まで代表デビューを飾った時と同じように見えた。相手の強豪国がどこの国か定かではないが、体格が非常に大きかったことから察するに、オランダかベルギーだと思う。

日本は前半開始早々に一点を入れ、その後立て続けに二点目を入れた。二点目を入れた時、ゴールキーパーも含めて、チーム全員が一つのパフォーマンスをした。

彼らは喜びを爆発させるのではなく、チームメンバーの一人の妹が若くして亡くなり、彼女を供養するようなパフォーマンスをした。具体的には、実際に彼女の遺体を棺に入れ、それを全員でセンターサークルから自陣のゴール前まで運ぶことを行っていた。

私は最初、その光景を異様だと思ったが、そのパフォーマンスを行っているメンバー全員の表情が真剣であり、どこか異様さを超えて、それをグラウンドで行うことが正しいように思えてきた。

この奇妙なパフォーマンスを相手選手たちは静かに眺めていた。ただし彼らは、すぐにキックオフを始められるように、一人一人が自分のポジションについており、各自が自分のポジションからこのパフォーマンスを眺めていた。

試合再開後、そこから試合がどのように展開して行ったのか定かではなく、結局日本は二点差をひっくり返されて、逆転負けを喫した。そこで夢の場面が変わった。

今朝方は、その他にも夢を見ていたように思う。ただし、もうそれを思い出すことはできない。

今朝方の夢が象徴していることはなんだろうか。日本代表の選手が行ったパフォーマンスは、今から考えてもやはり不思議なものであった。

棺に入れられた女性の顔は白く、表情はとても穏やかであった。ゴールキーパーの選手が、遺体の女性の頭側の棺を持っていたのを覚えている。

ゴールキーパーのユニフォームは、幾分オレンジ色だったように思う。試合の内容云々よりも、このパフォーマンスがとても印象的であり、それらのシンボルの意味についてはゆっくりと考えを巡らせてみようと思う。

今日は少し風が強く、夜まで一日中雨のようであるから、今日は散歩に行くことが難しそうだ。その代わりに、室内でヨガを行おうと思う。

昨夜、断食の実践について日記を書き留めていたように思う。確かに昼食用のサラダは冷蔵庫にあるが、それを普段の夕食と一緒に摂ることにし、今日から朝食の果物を夕食に回し、夕食をこれまでよりも一時間ほど早い時間から食べようと思う。

普段私は、十時に就寝しているのだが、夕食は七時からであり、もう少し消化の時間を取ってから寝た方がいいかもしれないとふと思った。そういえば、私が企業に勤めていた時は、たいてい六時前には夕食を取り終え、そこから再び仕事をしていたように思う。

今日から食生活の内容面のみならず、どの時間帯に食べるかを見直していきたいと思う。フローニンゲン:2019/3/13(水)07:48

No.1754: Spring Drizzle

It is drizzling right now, which looks cold.

Spring drizzle creates an indescribable feeling that permeates my body. Groningen, 09:49, Thursday, 3/14/2019

3953. 身体エネルギーに働きかける音楽

起床直後、一日分のお茶を入れている時に、英語において意識という単語は単数系を取らないが、自我という単語はどうだったのかについて考えていた。

仮に自我が複数形を取らないとなれば、非常に面白いと思っていたのだが、調べてみると、基本的には不可算名詞であるが、複数形を取ることも可能であることがわかった。意識が複数形を取らないというのは、私たちの意識というのは実は一つであり、単にその現れ方が一人一人異なるという説明になるのだろうか。

知性というのはまさに、私たちの意識が、その個人が具体的に置かれたコンテクストの中で涵養・発揮するものであり、知性は複数形を持つ(自我と同様に、基本的には不可算名詞だが、個別具体的な知性を指す場合には複数形を取りうる)。

自我が複数形を取りうるというのは、それもまた、知性と同様に、意識の個別具体的な現れだからなのだろうか。人間は、意識としては共通のものを持っていながらも、その現れとしての知性と自我が多様であるというのは興味深い。そのようなことを考えていると、一日分のお茶が出来上がった。

昨日は、ヒーリングについて少しばかり考えていた。久しぶりに身体心理学の専門書を本棚から引っ張り出し、それを読み返していた。

その書籍は、“Somatic Psychology: Body, Mind and Meaning (2004)”というタイトルであり、私がジョン・エフ・ケネディ大学に留学していた際の身体心理学のコースで課題図書になっていたものだ。本書を読み返しながら、未消化の食べ物が身体に影響を与えるのと同じように、未消化の感情も心身に大きな影響を与えることについて考えていた。

私たちは日常、様々な感情を覚えるが、それらをうまく表現できなかったり、それらとの向き合い方がうまくいかなければ、そうした感情は未消化なものになってしまい、心身のエネルギーを詰まらせていく。そこから負の循環が始まり、心身の変調につながってしまうのだと思う。

昨日再び身体心理学を含め、エネルギーワークに感心を持ち、関連書籍を読み進めていこうと思う。音楽は魂の薬の一つになるのではないかという考えのもと、様々な階層を持つ身体エネルギーに働きかけていく曲を作るためにはどうすればいいのかを考えていく。

そのためには、音楽理論の知識を超えて、身体心理学やエネルギーワーク、さらには人間の意識についてより深く知っていく必要がある。エネルギーとしての身体は、振動体としての性質を持っており、音はそもそも振動する波なのだから、エネルギーとしての身体の周波数を掴み、その周波数に合わせた音を生み出していけば、様々な階層の身体エネルギーに働きかけをすることは不可能ではないのではないかと思う。

改めて人間の微細な身体エネルギーの特質と構造について知るために、下記の書籍を近々購入してみようと思う。

1. “Vibrational Medicine: The #1 Handbook of Subtle-Energy Therapies (2001)”

2. “A Practical Guide to Vibrational Medicine: Energy Healing and Spiritual Transformation (2001)”

3. “The Subtle Body Practice Manual: A Comprehensive Guide to Energy Healing (2013)”

4. “The Subtle Body: An Encyclopedia of Your Energetic Anatomy (2014)”

5. “Energy Medicine: The Scientific Basis (2015)”

6. “The Scientific Basis of Integrative Health (2017)”

フローニンゲン:2019/3/13(水)08:08

No.1755: The Strait for Farewell

Starting a new eating habit of one meal per day makes my senses very keen. Groningen, 13:39, Thursday, 3/14/2019

3954. 過食の問題

先ほどの日記で書き留めていた参考図書については、引っ越しを済ませてから購入をしようと思う。ただし、私は決して身体心理学やセラピーの専門家になろうとしているわけではなく、それらの書籍は、自分を含めた人間の心身並びに魂の治癒と変容をもたらす曲作りに活かすために読んでいくようにする。

書籍を通じて得られた何気ない一つの観点が、作曲上思わぬ力を発揮することが多々あることを考えてみると、治癒と変容をもたらす曲を作っていくに際しては、身体心理学やセラピーに関する書籍は有益な観点をもたらしてくれるだろう。

それに加えて、エネルギーとして身体やエネルギー場に関する書籍も読み進めていこうと思う。また、以前の日記に書き留めていたように、音楽というのは時間と空間と密接に関係したものであるため、とりわけ時間に関しては哲学的な探究を進めていこうと思う。

このように、人間の発達と治癒、そして音楽を起点として、探究の輪を広げていこうと思う。私が学術機関に属していないのは、こうした探究を自分の望むやり方、そして自分の望むペースで進めていくためなのではないかと最近思うようになっている。自らの関心に基づいた探究をこれからも継続させていき、ちょうど今から行う作曲実践のように、実践活動も絶えず継続させていこうと思う。

先週の日曜日に断食と合わせて長時間座禅を行ったことについては、すでに書き留めていたように思う。おそらく断食の効果として、肌の状態が良くなり、手荒れがよりいっそう回復の方向に向かっている。

手荒れというのも、ある一つの身体症状であり、そこから意味を丁寧に汲み取っていくことが大切なのだが、これまでの私はそうしたことを真剣に行っていなかったように思う。その表面的な症状だけを見て、単純にクリームを塗ったり、手袋をして洗い物をしたり、食べ物を変えたりといったことしか行っていなかった。

良質なクリームを塗り、手に刺激が当たらないようにしたが、それらが根本的な治癒に至らなかったことを受けて、物理的な身体を超えて、他の次元の身体に働きかけることが大切だという気づきを得た。もちろん、どのような食事を摂るかということは、肌の状態に重要な影響を与える。

ここ最近、食生活を見直し、それによって手荒れが改善してきていることも確かだ。ここからは、何をどれだけ食べるのかということを見直し、さらには断食の実践を通じて、胃腸をここで一度健全な状態に戻したいと思う。

またそれに合わせて、複数の身体エネルギーに働きかけていくエネルギーワークの実践もここから真剣に行っていこうと思う。今回の一件は、身体の症状から意味を汲み取る大切さ、及びそうした症状に対して、物理的身体のみならず、他の次元の身体に働きかけることの大切さを教えてくれたように思う。

それに合わせて、いかに現代人が過食に飼い慣らされているか、そして目に見える現象にしか焦点を当てないように飼い慣らされているかについては危機感を改めて持つことになった。「一日三食しっかり食べないといけない」という神話は、食品産業を含めて、「一日三食しっかり食べてもらわないと金儲けできない」という人たちが生み出したものなのかもしれない。

人間を巧妙に弱体化させていくための、過食を促す思想と仕組みがこの現代社会において見事に出来上がっているように思えてならない。そもそも、食べ過ぎて意識が朦朧としたり、眠くなるというのがおかしなことだと気づけば、過食がもたらす心身への悪影響にはすぐに気づくと思うのだが、そうした気づきが生まれないほどに事態は深刻のようだ。

この世界は、治癒と変容をもたらすことが不可能に思えるほどに病理が深刻化している。フローニンゲン:2019/3/13(水)08:34

3955. 食を通じて弱体化していく現代人

時刻は午後四時半を迎えた。今、フローニンゲンの街には冷たい雨が降り注いでいる。

昼頃は晴れ間が顔をのぞかせる瞬間があったが、今日は一日を通じて天気が悪く、今は風の伴う雨が地上に降りつけている。そのような光景の中に、どこか味わいを感じる。

実は、今日はまだ何も固形物を食べておらず、昨日から頭にあった断食について実験をしてみようと思った。一日中断食をするのではなく、一日一食、夕食だけ食べるということをまずは行い、身体が徐々に慣れてきたら、一週間に一度、一日何も食べない日を設けて、胃腸を休め、機能を回復させたいと思う。

実際のところ、最後に固形物を食べたのは昨夜であるから、実質上は一日断食しているのと同じ状態である。だが驚いたことに、これまでのところ、ほとんど空腹感を覚えずに夜を迎えようとしている。

おそらくそれほど空腹感を覚えていないのは、これまでの私はそもそも小食であり、腹八分、ないしはそれ以下に抑えた食生活をここ何年も営んでいたからだろう。また、朝食に関しては、そもそも果物しか摂っておらず、昼は大きいサラダを摂ることがオランダでの三年間の食生活となっており、そもそも過食とは縁のない生活を送っていた。

昨夜と今日の午後にあれこれ断食について調べてみると、ますますその実践が興味深く、今の自分の生活スタイルに適した実践であるように思えてきたのである。まずは、しばらくの間、夕食しか食べないようにしたい。

色々と調べてみると、体を飢餓状態にすることで、抗老化遺伝子と呼ばれるサーチュイン遺伝子を目覚めさせ、体の細胞を若返らせることができるようだ。あえて個別具体的な人名を出さないが、芸能人やアスリートの中には、一日一食の食事をしている人が何人も存在しており、彼らは軒並み若々しく見える。その理由の一つには、一日一回の食事を通じてあえて飢餓状態を作り、上述の抗老化遺伝子を生み出していることに一つの要因がありそうだ。

あれこれと調べていると、満腹にしたネズミと腹五分ほどのネズミに放射能を浴びせてみたところ、前者のネズミは100%ガンになり、後者のネズミはほとんどガンにならなかったという実験結果を見つけた。この実験結果は大変興味深く、正直なところ、現代人の病気の多くは、過食(しかも毒まみれの食べ物を多く摂りすぎること)に由来しているのではないかと以前から思っており、その考えを裏付けるような実験結果である。

もちろん、ネズミに対する実験結果がすぐさま人間にも当てはまるかはわからないが、過食をすることは心身に悪影響を及ぼすことは間違いないように思える。ここで過食というのは、単なる食べ過ぎというよりも、そもそも一日三食食べることも過食として私は認識し始めている。

どうやら江戸時代までは一日二食だったそうだ。三食になったのはここ最近とのことである。

食べ物の種類のみならず、食べる頻度まで変化してしまったことの背景にある理由については、今後も調べていきたいと思う。もっとも単純な理由としては、人々に三食たくさん食べてもらうことによって、経済を潤わすという理由が考えられるだろうが、仮にそうした理由から過食を人々に促しているのであれば、それは相当に罪なことだと思う。

過食により、人々の消化器官は休息の時間が得られず、それらが弱り、まずは身体が蝕まれていく。身体の弱体化によって精神までもが蝕まれていく。

現代人は、ありとあらゆる観点から弱体化させられているように思うが、毎日何気なく食べている食を通じて心身が蝕まれている事実はもっと真剣に向き合うべきことだと思う。フローニンゲン:2019/3/13(水)16:42

3956. 一日一食の効果

今この瞬間の自分を眺めてみると、どこか精神が高揚しているように思う。そうした状態を生み出している要因として、間違いなく、今日は何も食べていないことを挙げることができるだろう。

「しっかりと食事をする」というのは正しい側面もあり、誤った側面もあるから厄介であり、現代人は金融並びに学習に関して正しい知識を持てていないだけではなく、食に関してもことごとく無知なのだと思う。

私自身も、それらの領域に関してはまだまだ学んでいる最中だが、自分自身と現代人の無知さは、悪意ある何者かの働きかけによって生み出されたものなのではないかと思ってしまう。私たち人間はそもそも永遠に無知であり、同時に社会からの何かしらの働きかけによって、大切な知識が隠蔽されているという二重の無知性を持って生きていかなくてはならないのだと思う。

前者に関してはもうそれを受け入れるしかないが、隠蔽されている知識を自助努力によって獲得することは可能であり、現代社会で生存していくためにはそれを行わなければならないところまで、この現代社会は歪んでいる。

少し話を戻すと、栄養のある食事をすることは大切なのだが、私たちは胃腸を休めぬまま、一日三食という食事を摂りがちであるという点に問題があるように思う。言い換えると、絶えず胃腸が消化活動を続けているような状態の中で日々生きている人が多過ぎであり、エネルギーが消化活動に絶えず向かっているのであるから、その他の活動にエネルギーが避けずにいるのは無理もないだろう。

食事を摂ることによって、意識が朦朧として眠くなった経験をしたことは誰しもあるだろう。それは多分に、身体が食べ物の消化運動にエネルギーを使っているからだと思う。

時刻が午後五時に迫ってきており、最後に食べ物を食べてから、ちょうど丸一日が経った。今日一日の自分を観察していて思うのは、まずは精神活動面においては、冒頭の高揚状態のように、非常に高い集中力を発揮していたように思う。

その背景には、上述の通り、消化運動にエネルギーを一切使っていなかったことが挙げられるだろう。私は別にライフハッカーではないが、これまで食事に使っていた時間を他の活動に充てることができるというのは嬉しく、特に読書や作曲実践に時間を当てることができるというのは大きな喜びである。そして、それらの活動に従事している際に、絶えず集中力が高い状態を保てているというのは、本当に望ましいことである。

先週の日曜日に、ひょんなことから一日ほど断食をすることになり、その効果を何気なく実感し、そこから色々と断食について調べてみることによって、この実践をより深く知り、今後も継続して行っていきたいと思うようになっている。

繰り返しになるが、一日の食事の回数を減らし、胃腸を休める時間をきちんと確保することが重要なのであって、おそらく食べる総量に関しては僅かに減るぐらいだと思う。実際に今日の夜は、普段朝食べている果物、普段昼に食べているサラダ、そしてサーモンを一緒に食べようと思っている。

調べてみてわかった興味深い事実として、私たちは前の食事から八時間以上胃腸を休めない場合、食べ物の栄養の吸収がうまく行われないということである。一日三食食事をする場合には、各食事を八時間空けることなどできないだろう。

そうした点を考えると、一日に夕食だけを食べることによって、これまで朝と昼に食べていながらも、うまく吸収されなかった栄養が適切に吸収されるようになるのではないかと思っている。

今の自宅には、血液を採取する器具もなく、それを分析する器具もなく、栄養の吸収効果を測定しようがないが、身体の表面に現れる微細な変化や、精神に及ぼす効果から逆算する形で、栄養の吸収効果の輪郭を明らかにしてみたいと思う。フローニンゲン:2019/3/13(水)17:01

3957. パリでの体験が教えてくれた大切なこと

窓にぶつかる雨を眺めながら、欧州での三年間の生活を通じて、これまで長らく疑問に思っていたことが一つ解決したように思う。それは自分の身体的な変化に関することであり、今日これまで書き留めていた食に関するものである。

この三年間、欧州の各地に旅行することを時々行っており、先日はパリに旅行をしていた。毎回の旅行の最中は、足を運んでみたい場所でゆっくりと時間を過ごすために、食事を抜いたりすることが多い。

確かに以前であれば、午前中から一日中歩く場合には、朝食をしっかり摂ることがあったが、その場合にはほぼ間違いなく昼食を摂らず、夕食はごく軽めに食べるようにしていた。そうした旅を送る中で、旅行中の自分の肌が、なぜだか普段よりも状態が良く感じていた。それは端的には手荒れの改善として現れていた。

数日前に一日ほど食べ物を摂らなかったことにより、胃腸が休まり、これまで見えない形で溜まっていた毒素が体外に排出されたのか、手荒れが嘘のように改善している。その効果は今日もまだ残っている。

私たちは日常生活を送る中で、見えない形で、さらには加工食品などを通じて、知らず知らずのうちに毒素を体内に取り入れており、三食食べてしまうことによって胃腸が毒素をきちんと排出することができなくなってしまっているように思う。肌が荒れてしまうというのも、体内に毒素を溜め込んでしまっていることが一つの大きな要因だろう。

先日のパリ旅行の初日に、タイ料理屋で白米を食べ過ぎてしまった後、その問題について日記を書き留めていたことが記憶に新しい。おそらく、あの体験をしたことには大きな意味があり、これまでの自分の食生活を根本から見直すきっかけにつながったように思う。

引き続き、栄養のある食べ物を摂っていくが、一日一食の生活を続けていこうと思う。今日それを実践してみたが、これまでの生活においてもそもそも量を食べていなかったため、これほどまでに速やかに一日一食の生活に移行できるとは思っていなかった。

パリで体験したあの出来事は、新たな食生活に従事させてくれる貴重なきっかけとなり、食と身体ならびに精神の関係について考察をしていく大きなきっかけを与えてくれた。

多くの人は、「一日三食取らなければならない」という思い込みを通じて生かされており、そうした思い込みの問題をこれから検証していきたいと思う。そして昨日の日記にも書き留めたいたように、食にまつわる各国の興味深い諺や過去の偉人が残した言葉について検証したい。

繰り返すと、アメリカには「全ての薬の中で一番良いのは休息と断食である」という諺があり、ドイツには「断食で治らない病気は医者でも治せない」という諺があり、フランスには「断食はメスを使わない手術である」という諺があり、我が国においては、「腹八分目に医者いらず」という諺がある。

また、ソクラテスは「断食は哲学の門である」という言葉を残し、キリストは「病気は祈りと断食で治しなさい」という言葉を残している。こうした諺や言葉の背景として、腸は第二の脳と呼ばれているように、断食によって腸に休息が与えられ、腸本来の機能が取り戻されることによって、病気が治ることが起こるのだと思われる。

先ほど、本日三回目のお腹が鳴る音が聞こえた。不思議と、お腹が鳴っても空腹感はない。

一昔前であれば、お腹が鳴ると、空腹感を覚えることがあったが、もしかすると、それは自分の思い込みによって生まれていた感覚だったのかもしれない。確かに、お腹が鳴るというのは、胃腸が空の状態を示していると思うのだが、そこからすぐに何かを食べなければならないと思ってしまうのは、社会的に構築された思い込みであり、そうした思い込みが空腹感を引き起こしていたのだと思う。

お腹が鳴る現象は、空腹を示しているのは確かだろうが、それが即空腹感を引き起こし、何か食べなければならないと思ってしまうののは、多分に反射的な事柄だと思われる。

先ほどの日記で書き留めたように、空腹の状態を作り出すことにより、長寿遺伝子と呼ばれるサーチュイン遺伝子が活性化し、傷ついた遺伝子を修復してくれる。いろいろ調べてみると、最初にお腹が鳴った時には、成長ホルモンが分泌され、二度目には若返り遺伝子と呼ばれるサーチュイン遺伝子が目覚め、三度目には全身の血管を修復する役割を果たすアディボネクチンと呼ばれるものが分泌されるらしい。

さすがに細かな観察であるが、本日三回鳴ったお腹の音の質的差異を確認するところまでは至っていない。仮に分泌される物質が違うのであれば、お腹が鳴る音の中に質的差異を見出すことができても良いように思う。

仮にそうした差異に気がつくことができれば、それを作曲実践に活かせないかを考えてみたい。フローニンゲン:2019/3/13(水)17:28

3958. 断食と思考の冴え:食に関しても洗脳されている現代人

降り続ける雨を眺めながら、なぜだか私はまた日記を書いている。一日断食をすることによって、ここまで集中力が高まるのかと正直驚いている。

おそらく、本日思考を研ぎ澄ませる形で読書を行うことができていたのも、作曲実践を行うことができていたのも、断食による効果だと思われる。その他に考えられることがあるとすれば、数日前に行った長時間の座禅瞑想により、脳が生まれ変わり、これまで活性化していなかった部位の活性化がもたらされたことが挙げられるが、その効果が今日まで持続しているとは考え難い。

あの日の体験は、特殊な意識状態がもたらす脳の特殊な機能的変化だと思われるため、本日集中力を高く維持することができていたのは、昨日から今日にかけての断食によるところが大きいだろう。

一日一食にしたことにより、普段よりも一時間ほど早めに夕食を取り、就寝前に消化活動を十分落ち着かせておきたいと思う。今日から一日一食の生活を送ろうと思うが、一日一回の食事なのだから、質の良いものを食べるようにしたい。

食事の回数が少ない分、食べるものを意識的に選択し、味わって食べるようにする。これまでも私は基本的に加工食品を避け、ファーストフードやコンビニの飯(残念ながらそれらは人が食べるための飯とは言えない)は何年も食べておらず、オーガニックなものを食べるようにしていた。

これからもそのスタンスは変えず、より吟味した食事を摂るようにしたい。おそらく一日一食にした場合、味覚の変化が起こっており、その一回の食事を美味しく食べることができるのではないかと期待している。

また、今後日中にスーパーに買い物に行く際には空腹の状態であるから、自分の身体に必要なものが何かが直感的にわかってくるようになるのではないかと思う。味覚、さらには嗅覚などを含め、空腹状態を意図的に作ることによって、感覚がいかように変化するのかも観察の余地が多分にあり、それを観察するのは楽しみだ。

今日の夕食では、バナナとリンゴ、さらにはアボカド半分を果物として摂り、大きめのサラダとサーモンを食べる。明日も果物に関しては同じか、そこにグレープフルーツを加えることにし、サラダの種類を変えて、サーモンの代わりにパスタを食べる。

動物性たんぱく質は魚を主に摂ることにし、一週間に一、二回ぐらい鶏肉を食べようと思う。豚や牛は極力控え、人と会って食事に行く時(そうした機会は年に一、二度だが)ぐらいに食べるようにしたい。

そういえば、今から二年前の年末に、日本に一時帰国した際に、私は数年ぶりに体調を崩し、吐き気と下痢に襲われたことがあった。それは飛行機による移動の疲れと、フライト中の睡眠不足が重なり、また日本の寒さやもしかしたら何かしらのウィルスが身体に入り込むことによって生じた症状だったのだと思う。

日本に到着した次の日は何ともなく、朝食を美味しく食べることができたのだが、その次の日の朝に突然異変を感じた。端的には、肉類を見ると吐き気がし、実際に一口豚肉を食べてみた瞬間に、危うく嘔吐しそうになったのを覚えている。

そこから私は、普段何気なく食べている肉類というのは、もしかしたら身体にあまり良い影響を及ぼさないのではないかと思ったのである。もちろん、たんぱく質を取ることは身体維持の観点から非常に大切なのだが、良質なタンパク質というのは何も豚や牛から取らなくても、いくらでも他の方法がある。

一つは魚であり、その他には植物性のたんぱく質を取るという方法もある。栄養に関して私は専門家ではないので不確かな知識もあるだろうが、ここ最近注目している地中海料理にはあまり豚肉や牛肉が使われておらず、地中海料理を食べている人たちが長寿の傾向にあることは、豚肉や牛肉を食べすぎることの問題を暗に示しているように思う。

現代人は、種々のマーケティングによって、豚肉と牛肉なしでは生きられなくなっていると思うのだが、それらを食べ過ぎていることの問題を、自分の身体の声に耳を傾けながら検証していく必要があるように思うのは私だけではないだろう。

二年前のあの日、豚肉や牛肉を見るだけで吐き気を催した自分がいたのは、おそらくそれらの食べ物が根本的には自分にとっての異物であり、それらを毎日食べるというのは、異物を毎日自分の身体に取り入れるということを意味しているように思う。フローニンゲン:2019/3/13(水)17:50

3959. 一日断食後の身体上・認知上・味覚上の変化

結果として一日断食することになり、先ほど夕食を食べてみたときに、いくつか興味深いことに気づいた。まず一つは、一回の食事がここまで美味しくなるのかという驚きがあった。

まず最初に、朝食に食べるオーガニックバナナを一本食べてみたところ、バナナの甘さが際立ち、それはかなりの衝撃であった。次にオーガニックセロリ、茹でたオーガニックブロッコリーを食べてみたところ、野菜本来が持つ甘みというものを改めて味わった。

逆に言えば、これまでの私の味覚は、そうしたことに気づけないほどに毒されていたと言える。それはある意味で味覚障害のようなものであり、それは一日三食食べるという過食——これまでの私の朝食は果物だけだったが、それでも食事の回数の観点からすれば過食に分類されるだろう——からもたらされたように思われる。

そうなると、現代人のほとんどは、味覚障害に陥っているのではないかと思う。おそらく断食や一日一食を通じて感覚を研ぎ澄ませていけば、加工食品や化学調味料がふんだんに使われた食べ物を口にした瞬間、その味のおかしさに気づき、それを外に吐き出すことができるのではないかと思う。

まさに生物が、何か食べてはならないものを食べた時に、それを体外に吐き出すのと同じ行動である。だが繰り返しになるが、現代人はそうした感覚が極度に麻痺しているため、異物を取り入れていることに気づかず、それを食べ物として食べ続けるような状態に陥っているのだろう。

知らず知らずにそれが習慣と化し、現代人の感覚はますますおかしくなっていき、弱体化していく。現代は心の病を数多く抱えているが、心身のつながりを考えると、現代はそうした心の病を助長するような食べ物で溢れていると言えるかもしれない。

一日断食をし、今日は夕食だけを食べることにしたが、明日からもこれを続けていきたい。一回の食事がここまで美味しく感じられ、食べ物をひとくちひとくち口に運ぶたびに、その食べ物の豊かな味が広がることには驚かされた。

また不思議なことに、今日の夕食だけで、いつも朝食に食べている果物と昼食に摂っている大きめのサラダを食べ、そこに夕食としてのサーモンを食べたのだが、それでも腹八分の感覚で留まっているいるのは興味深い。

一日の食事を一回で済ませる形となったが、一回の量としても満腹感を感じさせないほどであり、ちょうど良い量であったように思う。ただし、今日の夕食は、賞味期限が切れそうな穀物パンを合わせて二枚ほど食べたために80%の量となったが、明日以降からはパンを食べることはやめて、70%から75%ぐらいの量を食べることにしたい。

これまで昼食と夕食の間に食べていたナッツ類は夕食に食べることにし、これまではそれに合わせてカカオポリフェノール86%チョコレートを食べていたが、いくら糖分の少ない高カカオポリフェノールのものとはいえ、ナッツ類やブルーベリーを食べれば、ポリフェノールをチョコレートから摂る必要はほとんどないように思える。

ただしカカオにしか含まれないポリフェノール成分があるかもしれないので、もう少し調べてみようと思う。いずれにせよ、カカオポリフェノールが70%に近いものはもう食べられないほど甘く感じられてしまうので、仮にチョコレートを食べるのであれば、カカオポリフェノール86%のものか99%のものにしようと思う。

一日一食生活を始めてみた初日に、身体上の変化、認知上の変化、味覚上の変化などがすぐに見られたことは驚きであった。明日もまた同様の実践をしてみて、新たな発見事項を得たいと思う。

そして何より、この食生活を続けていくことによって、中長期的な変化を時系列的に把握していきたいと思う。時系列データ分析というのは、発達や変化を扱う研究の基本であることをもう一度思い出そうと思う。フローニンゲン:2019/3/13(水)19:57

3960. カカオポリフェノールと生命としての食べ物の奥深さ

時刻は午後の八時を迎えた。相変わらず小雨が降り続け、雨滴が窓ガラスにぶつかっている。

今日はやたらと食について日記を書き留めているように思う。先ほど改めて調べてみたところ、私が毎日少量食べているダークチョコレートのポリフェノールは、ポリフェノール含有量において、リンゴ、赤ワイン、コーヒーを大きく突き放していることがわかった。

摂取量100gを比較すると、ダークチョコレートの次にポリフェノールを多く含むリンゴと比べると、その量の差は四倍ほどだ。また、ダークチョコレートに含まれるカカオの効果を調べ、それらの情報を見る限りにおいては、毎日少量のチョコレートを食べることは継続してもいいかもしれない。

その際には、カカオポリフェノール86%以上のものを午前中と午後に少しばかり食べるようにしたい。今日も午後にチョコレートを食べたのだが、それは固形物を取るというよりも、口に入れて溶けたものを呑み込んでいるため、どちらかというとココアのような飲み物と同じであり、胃腸への負担はほとんどないと思われる。

私が普段通っているスーパーには、カカオポリフェノール86%のオーガニックチョコレートの板チョコが140円ほどで売られており、72%のものが120円ほどで売られているが、後者に関しては売れ行きが芳しくないことに対して前々から関心を持っていた。

そもそも昨年までは、それらのオーガニックチョコレートの置く位置が悪く、そもそも売り上げは大してなかったように思う。以前よりも手に取りやすい位置に置かれたことによって、特に86%の方のチョコレートの売れ行きは目覚ましく、時々一つも置かれていないことがあるぐらいだ。

一方そうした日においても、72%の方は随分と売れ残っている。おそらく20円の価格差であれば、いくら倹約好きのオランダ人といえども——これはオランダ人自らが認めている特徴である——、そうした価格差よりも、ポリフェノールの含有量の方に目が行き、86%の方に自然と手が伸びるのかもしれない。

カカオについてもう少し調べてみると、それには様々な効能があることが改めてわかり、古代メキシコでは、「神の食べもの」として重宝されていたようだ。明日からもカカオポリフェノールの多いチョコレートは少量食べていこうと思う。

またここ最近、食の組み合わせの驚くべき力について関心を持っている。全く同じ栄養を食べ物からではなく、サプリメントを摂取して得ようとした場合、食べ物から直接得た場合とは違う働きをすることがあるというのは驚くべきことである。

もう少し丁寧に述べると、あるサプリメントから摂取した栄養は、他のサプリメントや食事から得られた栄養素と相互作用しにくい特性があるらしいのだ。ひるがえって食事の場合においては、食べ物同士が複雑な相互作用を及ぼし合い、栄養素が複雑かつ有機的な組み合わせをし、決してサプリメントでは得られない栄養を得ることがあるらしい。

科学的に見れば、食事の栄養などサプリメントで代替できるように思われるかもしれないが、実際には食べ物というのはそもそも生命であり、サプリメントは人工物であるがゆえに、サプリメントは生命の複雑な働きを真似ることはできないことを私たちに教えてくれる。

食や栄養の専門家ですら、まだ食べ物間の複雑な相互作用と栄養の有機的な結びつきについては謎が多く残っているらしい。それほどまでに、生命としての食物は奥が深いようなのだ。

これからも生命としての食べ物の謎や、食べ物の組み合わせがもたらす思わぬ効果については、自らの体験を通じて、さらには情報があればそうしたものを調べながら理解を深めたい。フローニンゲン:2019/3/13(水)20:30

3961. CNNのニュースより

辺りは闇に包まれ、一日がゆっくりと終わりに向かっている。今から一時間ほど前、一日ほどの短い断食を終えた私は、美味しく夕食を味わっていた。その時に、少しばかりCNNのニュースを見ていた。

最近のニュースでは、依然としてシリアの問題が報じられ、数日前からはイギリスのEU離脱についてよく報じられている。先日、かかりつけの美容師のメルヴィンに、オランダ人、ないしは大陸ヨーロッパの人から見て、イギリスという国はどのように見えているのかについて尋ねてみた。

私はメルヴィンの回答を聞く前に、なんとなく彼の回答がわかっていた。その背景には、ある出来事がある。

私が今から四年前に東京に一年ほど滞在していた時、母校まで走っていける距離だったので、学部時代に大変興味深く授業を聞かせていただいていた大月康弘教授の『ヨーロッパ時空の交差点』という書籍の出版を記念した講演会に参加したことがある。

先生のご専門は東ローマ帝国史やヨーロッパ経済史であり、ヨーロッパの歴史や経済に関して造詣が深く、その時の講演会も非常に多くの発見を得させていただいた。

参加申し込みの際に、事前に先生に質問をすることができ、私はご著書の中で掲載されていた辻先生ご夫妻(辻邦生先生と辻佐保先生)の写真について何気なく質問をしてみた。すると大月先生は、講演会の最後に私の質問を取り上げてくださった。

「このような質問が来るとは思ってもいませんでしたが」という前置きを笑いながら述べてくださり、その後に私の質問にご回答いただいたことを懐かしく覚えている。私は経済学部に所属していたわけではなく、先生のゼミ生でもないのだが、先生の経済史の授業を絶えず一番前、空いていれば教壇の真下で受講していたこともあり、講演会後にご挨拶に伺った。

その時はちょうど私がオランダに行くことが決まっていたので、その旨を先生に伝えると、そこから話はイギリスの話題に軽く触れ、ヨーロッパ研究者の中では、イギリスはヨーロッパではないと見なされていることがほとんどのようだということを知った。

長くなったが、そうした話を大月先生から四年前に聞いていたこともあり、メルヴィンの回答は予想ができていた。やはりメルヴィンも、「イギリスは決してヨーロッパではない」と明確に述べていた。

それは歴史的にもそうとのことであった。そのようなイギリスがEUから離脱するかどうかについては、政治経済的な意味でも引き続き関心を持っておきたいと思う。

そうしたニュースの後に、今度は米国のエリート大学の入学選抜に関する大きなスキャンダルについてのニュースが取り上げられていた。端的には、有名なCEOや有名な芸能人が大金をはたいて子供を大学に入学させていることが、いくつかのエリート大学で明らかになったというニュースであった。

そこで非難されていたのは大金を受け取った大学の入学審査官たちであった。そこで興味深かったのは、ジョージワシントン大学、スタンフォード大学、UCLA、テキサス大学、イェール大学などの名前が読み上げられながらも、おそらくハーバード大学やMITのことを指すであろう東海岸の両大学だけ具体的に名前が読み上げられることがなかったことだ。そこに私は、政治的な何かがあるのではないかと勘ぐってしまった。

ニュースを聞いていると、結局、この問題の表面的なことしか扱われておらず、そもそもエリート大学に子供を是が非でも通わせようとする歪んだ精神構造を生み出している米国の文化と仕組みこそを問うべきだと思うのだが、アメリカのニュース番組であるCNNにとっては、そうした自国の文化的風潮と仕組みは盲点になってしまっているのだろう。

ドイツ人の友人に話を聞いてみると、ドイツの大学入学もかなり多くの問題を抱えているようであり、そうなってくると、未だに科挙のようなことを行っている中国や、相も変わらず徴兵制度的な選抜試験を行っている日本、そしてそれらの国と大差のない歪んだ選抜試験と異常な授業料を課している米国の姿を見ると、軒並みGDPが高い国は、教育においては問題が山積みであることが見えてくる。

そのスキャンダルのニュースに関して、以前ハーバード大学のプレジデントを務め、オバマ政権の何かしらの大臣を務めた人とニュースキャスターの対談を聞いていた。そのハーバード大学の元学長の受け答えは、ニュースキャスターの話をほとんど聞いておらず、相手に話す機会を与えないような喋り方をしているのがまず気になった。

そして、その元学長の話す内容が大変お粗末であり、爆笑ないしは苦笑が誘発されてしまった。断食をしたこともあって、夕食の味が極めて美味しく感じられたこと以外にも、他の感覚も鋭敏になっており、思わぬことに対しても大きな笑いを得ることができるようになってしまったのかもしれない。

その元学長の姿はどこか、飼いならされたラットのように見えた。フローニンゲン:2019/3/13(水)21:04

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