top of page

3939-3942:フローニンゲンからの便り 2019年3月10日(日)


タイトル一覧

3940. 今朝方の夢

3941. お湯の沸騰に関する興味深い現象

3942. 生命の連鎖としての創造

3940. 今朝方の夢

どんよりとした雨雲が空を覆っている。そうした空の濁りとは対照的に、小鳥たちが清澄な鳴き声を上げている。

ここ最近は季節の変わり目であり、新たな季節に向けての準備なのか、睡眠時間が長くなる傾向にある。就寝時間は十時と同じであるにもかかわらず、ここ数日間は七時前に起きるような日が続いている。

夜中に目覚めることもなく、このように十分な睡眠が取れていることは何ら問題ではない。ただし、そうした睡眠時間の拡張を何が生み出しているのかについては、季節の移り変わりに向けた準備以外に何かあるかもしれず、引き続きそれが何かを探ってみたいと思う。

まずはいつものように、今朝方の夢について振り返りたい。夢の中で私は、アメリカのどこかの都市を歩いていた。

街を歩きながら、落ち着ける家を探しているようだった。だがしばらくすると、私はヨーロッパに戻りたくなってしまった。そのような思いを抱いた瞬間に、私の体は日本にあった。

久しぶりに日本の大地を歩く時、なぜだか寂寥感に囚われてしまい、自分はまだ日本に戻ることはできないという強い思いに襲われた。再び欧州の地で生活をしようと思った瞬間に夢の場面が変わった。

ちょうど今、上空の雨雲から雨が降り始めた。今日は一日中雨とのことである。特に昼前から雨が激しくなるようであり、そこからは雨は止むことなく降り続けるようだ。

明日以降の天気予報を確認してみると、来週一週間はなんと全て雨マークである。もちろん、一日中雨が降るわけではないことがオランダの天気の特徴だが、一日も晴れマークがないというのは少々残念だ。

そうした状況にあるのであれば、その状況そのものを何の判断もなしに受け入れ、雨を味わい、そして楽しむ姿勢を持ちたいと思う。こうしたことを続けていけば、いつか雨を味わおうとせずとも味わうことができ、楽しもうとせずとも楽しめる日がやってくるだろう。

今朝方の夢についてもう少し振り返りをしておきたい。次の夢の場面では、私は地元の街にいた。そこは街というよりも村に近い印象だが、そこで私は二人の友人(KF & HY)と再会した。

小中学校時代の親友であった一人の友人が、私にある紙を見せた。実はその時私は昼寝をしており、昼寝から目覚めた瞬間に、彼は私にその紙を差し出したのである。

見ると、それは不動産に関する広告であり、何やら彼は、59,800,000円の一軒家の投資物件(年利6.9%)を購入し、資産を運用したいとのことであった。その広告を見る限りにおいては、物件はまともであり、利回りに関しても高すぎず、低すぎずといったところだろうと思った。

彼に私は、自分が思った比較的肯定的な意見を伝えた。すると、彼は微笑み、その物件に投資する方針を固めたようだった。

なぜか彼は私の手を取り、散歩に行こうと持ちかけた。散歩に出かけ、少し起伏のある山道を下っている時に、通りに咲く大量の桜を目にした。

私はその時思わずその場に立ち止まり、桜の美しさに大いに感動した。「日本の桜は本当に素晴らしいよね」という言葉が自然と私の口から漏れた。

友人はそれに対して何も言わず、ただ笑みを浮かべたまま桜を見ていた。フローニンゲン:2019/3/10(日)07:43

No.1746: A Rainy Day

It is raining very hard with strong winds.

Even if the weather is unstable, I’ll continue to devote myself to my lifework. Groningen, 14:44, Monday, 3/11/2019

3941. お湯の沸騰に関する興味深い現象

時刻は午前八時を迎えようとしている。先ほど突然降り始めた雨は止み、今はまた静かな雰囲気が辺りを包んでいる。

今日は日曜日ということもあって、なお一層静かである。デン・ハーグに引っ越した後においても、こうした静かな環境で生活を営んでいこうと思う。

ただし、一つだけ生活のあり方を変えるとすれば、それは時折外で人と会って話をすることだろう。昨日に友人と直接会って話をすることによって、改めて人間というのは他者と交流する生き物なのだということを実感した。

会話を通じて、脳そのものが活性化されるのみならず、存在自体に新たな生命が吹き込まれるかのような感覚があり、心身の活性化及び健全化をもたらしてくれるのが人との会話であることを改めて実感した。

先日不動産屋に送ったメールに対してまだ返信がなく、月曜日の昼までに返信がなければ、午後にまたメールを送っておきたいと思う。

つい今しがた、本日のコーヒーが出来上がった。ふと、昨日の友人の話を思い出した。その友人の方はお茶をやっており、一つ興味深い話をしてくれた。

瞬間湯沸かし器などを使って時間をかけずに沸騰させたお湯は冷めやすく、時間をかけて沸かしたお湯は冷めにくいという面白い現象があるらしい。また、そのようにして沸かされたお湯でお茶を作った時、お茶が体に浸透し、体を温める効果まで異なるということも話してくれた。

一見すると、ひとたび100℃に達したお湯であればどちらも変わりなく、冷め方が異なるというのは考えられそうにない。この現象に対して物理学はどのような説明をするのかとても関心がある。

この現象の面白いところは、お湯を沸騰させるまでのプロセスの中に何か重要なものが潜んでいるかもしれないということである。端的には、沸騰させるまでにどれだけ時間をかけるかが大切であり、それはどこか人間の発達過程における時間のかけ方の話とも繋がってくるように思う。

時間をかけずにある形となったものと、時間をかけた場合のそれが全く同じであったとしても、どのような時間をどれだけかけたということが、実は目には見えない差異をもたらし得るということは非常に大切な教えのように思える。

上記のお湯の例においては、時間をかけずに瞬時に沸騰させた場合と、時間をかけて沸騰させた場合においては、どのようなことがお湯の中で起きているのだろうか。私は物理学の専門家ではないのでよくわからないが、瞬時に沸騰させた場合においては、水分子が大きく破壊されてしまい、それがお湯の冷めやすさを助長しているのだろうか。

一方で、ゆっくりと沸騰させていく場合においては、水分子が沸騰に向けた準備を緩やかに進めていき、分子が破壊される程度が緩和されていき、その結果、沸騰したお湯が冷めにくくなるのだろうか。

そういえば、人間の身体においても、熱すぎるお湯に一瞬入るよりも、適度な温度のお湯にゆっくりと浸かった方が湯冷めしないという話を聞いたことがある。その話もこれと関係しているように思える。

いずれにせよ、この話は、人間発達や創造活動において、どのような時間をどのようにかけていくかの大切さを改めて考えさせてくれるものであった。フローニンゲン:2019/3/10(日)08:18

No.1747: A Sweet Rainbow

When I went to a supermarket in the evening, I saw a beautiful rainbow.

My eyes were fixed on it. Groningen, 19:55, Monday, 3/11/2019

3942. 生命の連鎖としての創造

今日はこれから、ラヴェルに範を求めて作曲実践を行いたい。緩やかに着実に、作曲技術を高めていき、それに応じて自己を育んでいく。

兎にも角にも技術と作り手そのものの内面を深めていくことが大切だ。それらを深めていく過程を通じて、徐々に自分らしさの滲み出る曲、そして自分の内側の感覚を巧く表現する曲が生まれ始めてくるだろう。

昨日、友人とカフェで話をしている最中に、作曲における初手及び最終手とはなんであり、それはどのように生まれるものなのかについて話題となった。このテーマは以前からぼんやりと考えていたものであり、そもそも私がその方に、生け花における初手とはどこにあり、それはどのように選ばれるのかについて質問をしていた。

これまで自分が最初の音符をいかように決めているのかについて振り返ってみたときに、一つは音楽理論に基づく決め方と、直感的な決め方の二種類があり、時と場合によって、それら二つの混ざり度合いが異なるような印象を持つ。

音楽理論に基づいて初手を決める場合においては、調の選択が先にあり、ひとたび調が決まると、そこから初手の選択肢が狭まり、そこから初手を選ぶようなことが多い。ただし、そうした初手が生まれるのは、この場合においては調の選択が先に来ているのであるから、そもそも調がいかように選択されるかというのが初手なのかもしれない。

これについては、もうその時の気分や直感によるものとしか言いようがない。言い換えると、一つの曲を作ろうと思い立ち、今から作る曲と向き合おうとする自分の内側の何かが調及び初手を選択させるのだと思う。

句点のない文章は存在しないように、曲においても必ず終わりがある。どのように曲を終わらせるかに関しても、初手の選択と話は似ているかもしれない。

ただし、異なる点があるとすれば、曲の終わり方は、生まれた曲の生命の流れに沿うということが大切な点であるように思う。もう少しこの点について説明をすると、曲を作っている最中に興味深いことは、その曲を作っている最中に、その曲の持つ生命の長さが突如として知覚され、ある意味、適切な寿命というのが見えることである。

それ以上短くすると、極度に短い命として全体として何か不完全な曲が生まれ、それ以上長くすると、不必要に延命された曲として間延びしたような曲になってしまう。

それでは、そもそも曲の生命の持続時間はいかように決定されるのだろうか。その点についてはまだよくわからない。

だが、私自身が常に短い曲を作っている、あるいは詩のような短い曲を作ろうとしていることから考えると、作り手の感覚と対応するものがあるように思えてくる。

おそらくこれは音楽の創造のみならず、絵画などの他の創造においても当てはまることだろうが、創造物には固有の命があり、創造物の発展過程とは、命の発展過程に他ならない。さらには、一つの曲を形にし、ある地点で曲を終えるというのは、その曲の完成を意味しながらも、同時に未完成を意味しているように思えることがたびたびある。

言い換えるとそれは、一つの曲が持つ生命が、次の曲という新たな生命に命のバトンを渡しているようなイメージである。

一つの生命の終わりは、実は次の生命の始まりであること。創造物には固有の命があり、その命は次の創造物へと受け継がれ、命の連鎖が見られること。

作曲を始めて一年ほどの時間が経ち、今そのようなことが見え始めている。フローニンゲン:2019/3/10(日)08:40

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page